季節の終わり
自習時間だというのに教室は騒がしい。飛び交う言葉はどれも勉強と無関係なものばかり。私もノートと教科書を開いてぼんやりしているだけ。そんな中、私の前の席に座っているハルは真面目に勉強していた。
窓から入り込む風がかみを乱す。夏の終わりを感じる冷たい風。これだから窓際の席にはなりたくなかった、と思いながら窓を閉めた。席替えして暫くの間は、ハルの後ろ姿を眺めることができると喜んでいたが、今ではその喜びも踏み躙られている。
「ねぇ、ハルくん、勉強教えてー」
反対側の席からわざわざアキがやって来た。近くの空いている椅子を引っ張って来て座る。
「いいよ」
「このページなんだけど……」
一瞬、アキはこちらに侮蔑の目を向けた。ウェーブの黒いセミロングヘアーにくりくりした目、小さな鼻にふっくらとした唇。制服を着れば花の女子高生という形容が誰よりもしっくりくる。
完璧なのは容姿だけでなく、彼女はいつも笑顔でとても親しみやすいし、甘え上手だ。恐らく彼女は人生五周目くらいだろう。だから器用に生きることができ、私のような人生初心者を見下す余裕があるに違いない。
「あぁ、ここはね――」
そのままアキは私の気持ちを踏み続ける。どこからか「あの二人、やっぱり付き合ってるのか」「季節カップルだな」という話し声が聞こえ、私は唇を噛み締めた。
それなら私だってナツキだよ! きっと、そう叫ぶことができたとしても、その意味を汲み取ってくれる人なんていない。
ノートに目をやっても二人が視界に映り込むので、机に顔を伏せる。今度は二人の声が聞こえるので、耳を塞いだ。二人が並んで歩くところを想像してしまい、息が詰まった。自分で負けを肯定してしまったのだ。悔しい。この二人が付き合っていれば、諦めることもできたはずなのに。
自習中に意味もなく寝たフリなんてするから、赤点を回避できないのだ。生きるのが下手くそな私は、この時間に何をしたらいいのか分からない。
***
放課後の教室。私は赤点の埋め合わせとして出された課題をやっていた。他に残っている生徒も、すぐに帰ってしまうだろう。外からは部活の掛け声と夕陽の橙色、何気ない日常の鮮やかな風景だ。対して、私が目を向けるべきものは白黒の紙。
優等生がいれば劣等生もいる。教科書を見ても理解できず、完全に手も頭も止まっていた。
「課題、手伝おうか?」
ハルが振り返ってそう言った。私は彼のそういう優しいことろが好きで、嫌いだ。
彼は私に微笑みかける。その時にできたえくぼが太陽のように眩しくて、思わず目を逸らした。
「うん……お願い」
ハルとは中学校からの友達で、関わっていく中で徐々に惹かれていった。とても気が利く人なのに、恋愛においては何処かのラノベ主人公みたいな鈍感っぷりだ。それより、私の点数がアキよりも低いことを知りながら、アキに勉強を教えていた。確かに、私は教えてほしいなんて一言も言っていないが、やるせない気持ちになる。恋は盲目だと言うが、それなら私のことを一切見ないでほしい。そうすれば、期待することもないし、より惹かれることもない。
彼の教える声は澄んでいて、差す指は薄く血管が浮き出ていて、褒める時の笑顔は春のように暖かい。
その帰り、家の方向が同じなので、途中まで一緒になった。アキに負けたくないという一心で、このチャンスをどう活かすか考え、思いついた作戦を実行することにした。
「寒いね」
そう言って手を擦りながらハーっと息を吹きかける。手先が冷えているアピールをして意識させようと考えたのだ。
「え? 今日そんなに寒くないでしょ」
肯定も共感も優しさも含んでいない言葉が無慈悲に胸を刺す。
「まぁ、寒いなら息かけない方がいい」
「え? どうして?」
「息に含まれる水分が冷えたら、余計に寒くなるんだよ」
「へぇ、そうなんだ。次から気をつけよ」
ハルの様子を横目に手を下ろした。しかし、ハルの手と触れることはなかった。
「ちょっと相談があるんだ。聞いてくれない?」
「もちろんいいよ」
「俺、アキのことが好きなんだ」
何となく分かっていた。じわじわと胸が締め付けられていく。それなのに私は、彼の隣を取り繕った笑顔で歩くことしかできない。
「それで、アキをデートに誘おうと思ってるんだけど、唐突すぎて引かれないかな? って思ってさ」
その鈍感さが嫌いだ。でも、それ以上に彼のことが好きだった。頼られて嬉しいし、苦しい。焦りや怒りを含む感情たちは行き場を失った。それにより、溢れ出た心の中の自分は気持ち悪い言葉の数々を抱えて灰色の街へ飛び込む。落ちる度に鈍い音が響き、透明な血溜まりができる。期待していた自分、可能性を信じていた自分、希望を持っていた自分、みんな死んで、たくさんの自分を失った自分だけが生き残った。
「大丈夫だよ。きっと上手くいく」
視界がぼやける。声が詰まる。血のにおい。コンクリートだらけの街に一つ、また一つとシミができる。
せめて、好きであることを伝えたかった。言いたかった。ただの足枷に成り下がったこの気持ちをどう外せばいいのか分からない。
足枷を辿るとハルに繋がった。彼の生半可な優しさが私の心を傷つけ、縛っているのだ。期待たちは、彼に殺されたといっても過言ではない。作って壊してのマッチポンプ、歩く残酷を許していいわけがない。
足枷を燃やすため、ハルを押して道路へ……。たくさんの車が走行しているため、タイミングを合わせれば殺せる。震える手は寒さのせいだと言い聞かせ、向こうからやって来る車に合わせて手を突き出し――
実現を目の前に、殺人はフィクションへ溶ける。手はハルの右腕を掴み、離そうとしなかった。
「ナツキ? どうかした?」
ハルは驚いた表情を浮かべ、私の顔を覗き込もうとする。私は反射的に袖で涙を拭い、笑顔を作った。彼の腕は太くて、暖かくて、離したくないが、それでは迷惑に思われてしまう。別れを告げなければ、と無理やり言葉を紡ぐ。
「その、頑張ってね」
そう言い残して、別れ道を曲がった。ハルへ背中を向けた瞬間、堰が切れたように涙が溢れる。ついでと言わんばかりに鼻水も出てきて、口元に力が入り、何もないところで転んだ。膝を擦りむき、じわじわと痛みが襲ってくる。向こうから歩いてきていた人達は悉く私を無視した。私は生きることだけでなく、歩くのも心配されるのも下手くそらしい。
ゆっくりと立ち上がり、バクバクする心臓を整えようと深呼吸した。すると、「息かけない方がいい」というハルの言葉を思い出した。秋はすぐそこだ。