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流浪の墓守

作者: 塩谷小匙


 英雄たちが死ぬとき、残るのは名ばかりではない。その体内を巡る生命が途絶えたとしても、英雄が成した偉業は消えることなく人に語り継がれるが、その亡骸の中にはその強さの証が鋼鉄の硬さと宝玉の輝きとを持って留まり続けるのだ。


 それを手にしたものは、英雄の力を我が物とすることができた。


 そして、それは同時に脅威でもあった。


 ゆえに、国を導くものたちは英雄たちがその命の終わりを迎えると、その亡骸を丁重に葬り、番人を置いた。



 すなわち、墓守である。



 1



「ちょっと! いつまで寝てるんだい!」


 ウォルターはけたたましくドアを叩く音で目を覚ました。頭はぼうっとしてうまく働かないが、訪問者が今にもドアを破壊しそうだったため、何とか身体を起こした。修理にまで手が回っていない小屋はあちこちガタが来ており、これ以上修理しなければならない箇所を増やしたくはない。


 閂を外して扉を開けると、目を丸くした老婆が一歩後ろに退いた。それから、眉をひそめてウォルターを上から下まで眺めまわした。仕事を終えて帰宅し、倒れ込むようにベッドに横になってそのまま寝入ってしまったため、ウォルターは仕事着のままだった。


「またそんな薄汚い恰好を……」


 ぶつぶつと呟く老婆に彼はとりあえず朝の挨拶をする。


「おはようございます、ギューデンさん……。あの、何か御用ですか」


 ガブリエラ・ギューデンは深い皺の刻まれた口元を引き結び、喉元に手を当てた。


「用がなけりゃこんなところ来るもんか。ほら」


 ギューデン夫人は腕に下げていたバスケットをウォルターに突き出した。受け取る際手が触れると、彼女は目に見えて苛立ち肩に羽織ったショールで神経質に手を拭う。


「それで、例のもんは?」


 口を聞くのも忌々しそうに彼女は尋ねた。


「いつものところに」


「じゃあ、あとでレオナルトに取りに来させるからね。ねこばばしたら承知しないよ」


「……しません」


 灰色がかった白髪をひっつめた老婆はふんと鼻を鳴らし、「なんであたしがこんなことを……」とまたぶつぶつ言いながら帰っていった。紺色の着古したワンピースの背中が小さくなっていくのを見送り、ウォルターは頭を振って踵を返す。寝入ってから一時間と立たないうちの訪問は夜通し働いた身体には堪える。


 東から姿を現わした朝日が、ヴィーヒェルの町並みを照らし、人々に新たな一日の到来を告げる。鋭く天に伸びる教会の屋根が日の光にその身を光らせている。


 ウォルターは振り返り、手を翳しながらその光景を眺めた。もう何年もこうして彼は朝の来た町を、このヘルドの丘から見下ろしてきた。こうしてここで働き始めてから、彼は一度も町に降りてはいない。


 じり、と皮膚の焦げる痛みが走り、彼は足音を立てて室内に戻った。そこには静かに彼を迎える暗闇がある。もう何年も彼は暗闇に親しんで暮らしてきた。日の光は彼が幼いころから彼にとって毒と変わらない。その光は彼の皮膚を焼き、まるで火傷のように爛れさせた。小屋には外側からも内側からも窓に板を打ち付けて、彼は陽光から己を守る箱を作り、日中はそこで過ごすことにしている。用いる灯りと言えば、小さなろうそくひとつきりであった。


 彼はろうそくを灯すと、ギューデン夫人の寄こしたバスケットの中身をひとつずつ取り出してテーブルに並べた。干からびたパンがふたつ、干し肉が少し、それから青い小さなりんごがふたつ。ウォルターは町へ降りることができないため、彼女が数日に一度食糧を運んでくる。大柄な成人男性である彼にとって到底足りる量ではないが、一度もう少しもらえないかと頼んだところ、彼女は一週間やってこなかったので、どれだけ少なかろうと、粗末なものであろうと、彼は何も言わずに受け取る。足りない分は自分で賄う他ないのである。


 幸い、昨日は鳥を仕留めたのでこれを食べることにして、彼はもうひと眠りしようと仕事着を脱ぐ。フードのついた丈の長いコートに何年も着続けてあちこちを繕ったシャツ、土埃と泥で汚れたズボンをバスケットの隣に適当に積み重ね、履き古したブーツはその足元に据えた。それから、顔を覆うマスクを取り払った。さっきの襲来と言っても良い訪問の際は、仕事着で助かったとウォルターは溜息を吐いた。これが無ければ、また顔面にひどい火傷を増やしていたはずだ。


 固い寝台に身体を横たえると、すぐに瞼が重みを増す。眠りの気配はひそやかに忍び寄る。


 ウォルター・ヘイワードは、長い年月をこのヘルドの丘にあるヴィーヒェル集合墓地で過ごしてきた。


 彼は、墓守である。昼間の太陽が西に傾き、沈み始めると彼は目を覚ます。仕事着を身に着け、顔を覆う布製のマスクを被って、墓地の敷地内に建てられた小屋から仕事に出ていく。彼は石を拾い、バケツに汲んだ水で汚れた墓石を磨く。もう何年も人の訪れていない墓の主のために祈り、仕事中の相棒である円匙(シャベル)で新たな墓穴を掘る。


 東のペルル川から、町の北にあるジーベルの森から、夜がそっとその帳を下ろし始め、町の住民たちはそれぞれ眠りにつく。ヴィーヒェル共同墓地もすっかり夜の中に沈んでしまい、束の間の静寂を引き裂く獣の鳴き声が遠く高く響き渡る。


 墓の手入れをすっかり済ませたウォルターの本当の役割は、ここからはじまるのだ。



 2



 サムは足音を立てずに夜のヴィーヒェルの町を歩き、西のヘルドの丘に辿り着いた。気配を殺し、物陰から物陰へと身体を滑り込ませる技は、三年前に硬貨の入った袋とともに盗賊団に引き渡されてから身に着けたものだ。


 夜鼠(ナットマフス)は、町から町へと渡り歩いて盗みを働く盗賊団だ。貴族の家に誰にも気づかれずに入り込み、家財をごっそりいただくこともあれば、行商人の荷馬車を襲うこともある。しかし、一番金になるのは、「墓荒し」だった。


 人が死ぬと、その体内に命石(ジーレン)ができる。それは、その人物が持つ力と比例し、古の英雄や勇者たちの命石の力は国を容易く動かすほどだ。


 この周辺の国での信仰において、命石は魂と同等のものとされる。魂は眠りについたあともその亡骸に留まり続け、肉体が朽ちるそのときまでに俗世での穢れを落とし、神々の住まう天の国に招かれるのである。ゆえに、死体を切り開いて命石を取り出す行為は、死者の眠りを脅かし、天の国への道を閉ざすことを意味する絶対的な禁忌だった。


 しかし、それが建前であることを誰もが知っている。亡骸がすっかり朽ちて、骨ばかりが棺の中に転がるようになっても、命石が輝きを失うことはない。


 野心を抱く地方領主にとって、英雄の命石は喉から手が出るほど欲しい。国を治める王たちにとっては他国から身を守り、あるいは他国を手中に収めるための切り札なのだ。ゆえに、大英雄たちの墓には国一番の猛者が守護者として選ばれる。


 サムのいる夜鼠は、各地を回って墓を暴き、なんの価値もない命石を掘り出し物と偽って売り払い、稀に存在する町の魔導士や領主に仕える騎士などの命石は自らの懐に収めてきた。


 丘は西に向かってなだらかに裾を広げ、夜の穏やかな風が草原を揺らした。整然と並ぶ墓石は様々で、精巧な彫刻の施されたものや、無機質な一枚板がどんと据えられただけのものもあった。よく手入れされた墓石たちの名前を視線だけで辿りながら、サムは歩を進める。


 彼女は三年前に盗賊団に売られた。暮らしていた村が魔獣に襲われ、人が減り、畑は荒らされて羊たちはほとんどが食い殺されてしまった。村を出るものもあったが、ほとんどはそのような金銭的な体力がなく、娘を娼館に売り、息子を出稼ぎに行かせ、年老いた両親は息子たちの負担になることを恐れて首を吊った。


 人は生まれると、天より等しく贈り物(ギフト)を賜る。恵まれた贈り物の持ち主は領主に騎士として取り立てられることもあれば、冒険者として世界中を回るものもある。


 サムの贈り物は、「鑑定」であった。目にしたものの価値を視ることができ、人間の価値でさえ手に取るように分かる。それを聞きつけた夜鼠の頭であるベモートが村に現れて、両親に硬貨の入った革袋を渡し、サムは彼の持ち物になった。


 もともと貧しい村の出身であるベモートは、貧しいものからは奪わなかった。金銭的に肥えた貴族や商人ばかりを襲い、弱った村に立ち寄ったときには快く手を貸してやった。夜鼠のメンバーたちはこの頭を慕い、サムのことも実の娘や妹のように可愛がってくれている。


「おめえにはまだ早えよ」


 野宿をした森の中でベモートは愛用のナイフを手入れしながらそう言った。サムが、次の仕事にも連れて行ってほしいと頼んだときだった。


「昨日は危うく取っ捕まるところだったんだぞ」


 町の住民から不当に税を取り立て、領主には規定通りの額しか納めず、残りを着服していた男の家を襲撃する際に、サムははじめて仕事に参加した。これまでは夜鼠のみなが奪ってきた品々の鑑定ばかりをしていたのだ。ナイフの扱いも、身のこなしもみなが教えてくれたが、実践は練習通りには行かなかった。


 危うく護衛のひとりに切りつけられかけたのを、ベモートが助けてくれた。


「次はちゃんとうまくやるから!」


 言い募るサムに、ベモートはぴしゃりと「だめだ」と言った。他のメンバーも焚火を囲み、酒を煽りながらサムにはまだ早かったよと笑った。


 次の目的地であるヴィーヒェルの町は、静かで穏やかな小さな町だという。そこの集合墓地での墓荒しが次の仕事だった。町の北の森で夜を過ごし、一日かけて周囲の様子を伺ってから決行することになっていた。


 サムは夜になり、みなが寝静まるとひとり起き出した。いつまでも子供扱いされるのにはうんざりしていた。早く一人前になってベモートをはじめ、夜鼠のみなに認められたかった。それに、現場に出向いてその場で鑑定ができれば効率よく価値のあるものだけを選び取ることができる。早く役に立つようになって、恩返しがしたかった。


 夜の森は不気味だが、サムはこの数年のほとんどを野宿で過ごしたためか、恐怖よりも親しみを覚えた。森の中には、眠りにつく動物たちのひそやかな気配が漂っており、夜に活動する動物の足音がかすかに聞こえる。人の暮らしの喧騒よりも、こちらの方がサムの耳には馴染んだ。


 森の中を西に向かい、なだらかな丘が彼女の目の前に現れた。


 暗闇に目を慣らすために灯りは付けずに来たので、月明かりが森から出たサムの目には眩しかった。彼女は辺りを伺いながら慎重に歩を進める。鑑定を行い、墓地には必ずいるその存在を探った。


 こういった小さな町の墓守は、英雄たちの墓を守る猛者たちとは違う。もちろん、町の中では腕が立つ方なのだろうが、ヴィーヒェルくらいの町の規模では大抵の場合ひとりだった。


 この間の仕事では何人もの護衛が雇われていたため不覚を取ったが、墓守ひとり相手なら渡り合える自信がサムにはあった。背後から襲って眠ってもらい、その間に悠々と鑑定で価値のある命石や副葬品を探すつもりだった。


 ヴィーヒェル集合墓地は、小さな町にしては規模が大きい。歴史のある町では広大な墓地を有するものだが、丘一面を埋め尽くす墓石の群れに、サムは違和感を覚えた。


 そのとき、背後から空を割く大きな咆哮が聞こえた。割れ鐘を叩くような潰れた声は、鳥の鳴き声にも似ている。サムが振り返ると、東の方から巨大な影が飛来するのが見えた。。


 空を覆うような翼に、長く伸びた首と尾。


「ワイバーン⁉」


 ワイバーンは魔獣の一種で、翼と同化した前足を持つ竜種だ。性格は非常に獰猛で、基本的には群れで狩りをする。冒険者ギルドでも、ワイバーンの盗伐任務は実績を積んだ高いランクの者だけが請け負うことができる。


 夜鼠のメンバーが顔を揃えていたとして叶う相手でない魔獣に、サムがひとりで立ち向かうことは不可能だ。墓石に身を隠そうとしたが、手遅れだった。


「なんでこっち来るの……⁉」


 まっすぐにサム目掛けて急降下してきた竜の羽ばたきが強風を巻き起こし、サムは足を掬われて転んだ。体制を立て直そうとすると左足首に痛みが走って膝をついてしまう。


「こんなときに!」


 不自然にひねった足首がずきんずきんと拍動するような痛みを発し、彼女は左足を引きずって隠れられそうな墓石を探した。だが、すぐに腹をワイバーンの足で鷲掴まれ、身体が宙に浮く。


 サムは、離れていく地面を眺めながらすべての感覚が遠のいていくのを感じた。両親はまだあの村にいるのだろうか。ベモートたちの言う通り、おとなしくしておけばよかった。こんな風に死ぬくらいなら、子供扱いされている方がずっとましだった。サムは目を閉じ、せめて一撃で殺してほしいと祈った。


「ギュァアッ」


 がくんと身体が揺れ、サムは瞼を開いた。身体が解放され、身体が地面に向け落下する。突然のことに受け身を取れそうになく、ぶつかる、と身を固くしたとき、彼女を受け止めたのは地面ではなく、土と草のにおいのする誰かの身体だった。


「そのまま丘の向こうに走れ」


 男の声が言う。サムを地面に下ろした男は視線をまっすぐに魔獣に向け、姿勢を低くした。その手には巨大な円匙が握られており、黒く輝く刃先は赤い液体で濡れていた。


 走り出そうとしたサムはつんのめり、思わず悪態をつく。


「走れないのか?」


 男は振り返りもせずに聞いた。


「足くじいたみたい……!」


「なら、そこの墓石の影にいろ。出てくるなよ」


 サムは男に言われた通りにした。墓石は一枚板だったが分厚く頑丈そうに見える。


 しかし、男はワイバーン相手にどうするつもりなのだろうか。高いランクの冒険者でさえ、命を落とすことがある魔獣だ。そもそも男は何者なのか。そこまで考えてはたとした。こんな時間に、こんな場所にひとりでいる人間など他にあり得ない。男はこの墓地の墓守なのだ。


「ねえ、ちょっと! どうするの、そいつワイバーンだよ。あなた墓守でしょ? 死んじゃうよ!」


 サムは墓石から顔を出して、男にそう叫んだが、その広い背中は振り返らなかった。


 ワイバーンは地面に降り立ち、狩りの闖入者をにらみつけている。その目玉は琥珀の色に輝き、瞬きをするたびに白い皮膜が眼球を覆っては引っ込んだ。鈍色の鱗は見るからに堅そうで、先ほど男が一撃を加えられただけでも奇跡だとサムは思った。


「これが、俺の仕事だ」


 男はそう言い、円匙を握る手に力を込めた。次の瞬間、人も魔獣も動いた。まっすぐに互いを目掛けて飛びかかる。ワイバーンは巨大な口を開け、男は円匙を振りかぶる。そのまま、男はワイバーンの頭に向けて円匙を振り下ろした。


「ギャッ」


 それだけだった。


 魔獣の身体から力が抜け落ち、尾がくたりと地面に垂れる。倒れ込んだ身体は重く、その振動はサムの方にまで伝わった。流れ出した血が草地を赤く染め上げる。


 男は振り返った。


 大柄で、丈の長いコートのフードを目深に被り、手袋に、ブーツにと一部の隙もなくその肌を隠している。顔さえも布製のマスクに覆われて、分かるのはサムを見つめるふたつの目玉だけだ。


 息をつく暇もなく、再び魔獣の咆哮が空を割いた。ワイバーンは一頭きりでいる方が珍しい。夜の中を飛来した二頭のワイバーンは、倒された仲間の上を旋回する。


 サムが何かを言う前に、男は駆け出した。その背中を追うように二頭のワイバーンがサムの頭上を行き過ぎる。それだけでも風圧がすさまじく、彼女は墓石に縋りついた。


 サムは自分の見ているものが信じられなかった。一介の墓守が二頭のワイバーンとやりあっている。翼の一撃を躱し、強烈な蹴りを避ける。興奮した魔獣のうちの一頭が大きく口を開け男に突進した。


「この、」


 円匙がワイバーンの横っ面をぶん殴る。巨大な翼竜の首がのけぞる。


「神聖な、」


 襲い掛かったもう一頭の下あごに男の拳が叩き込まれた。


「場所から、」


 二頭は視線を合わせ、ひと声鳴くと、前後から男目掛けて走り出した。挟み撃ちにするつもりらしい。サムが息を呑む。


「出ていけ」


 男の操る円匙がまるで竜巻のように回転し、ワイバーンの首を二頭ともまとめてはね飛ばした。ふたつの首はぼたりと地面に墜落し、遅れて頭を失った身体が倒れ込む。


 今度こそ、穏やかな夜の気配がその場に満ちた。


 男は円匙を振って血を払うと、サムの目の前に立った。


「お前は誰だ。この町の人間じゃないな」


 男の目が先ほどのワイバーンを見ているときと同じ色をしているのに気づいたサムは、とっさに「ぎょ、行商人なの!」と嘘をついた。


「夕方この町に着いたばっかりで、眠れなくて散歩してたんだ」


 男は答えなかったが、一度瞬きをすると殺気が消えていた。ごまかせたことに安堵し、サムは立ち上がろうとしたがうまく力が入らない。


 男が黙ってサムの手を引き、立たせてくれた。


「お礼を言ってなかったね。ありがとう。わたしはサマンサ。サムでいいよ」


 サムがそう言うと、男はぎょっとしたように目を丸くした。何かおかしなことでも言っただろうかと彼女が不安に思っていると、彼は小さく「ウォルター」と名乗った。


「それにしても、すごいね。ワイバーンを三頭も倒しちゃうなんて……。前は冒険者をしていたの?」


「いや。俺はずっとここにいる。それに、よくあることだ」


 今度はサムが目を丸くする番だった。


「よくある? ワイバーンが三頭も襲ってくるようなことが?」


「ああ。キメラも出るが」


「キッ……?」


 サムは言葉を失って目の前の男をまじまじと眺めた。キメラといえば、出会ったものは生きて帰ってこられないという魔獣だ。それを、男はまるで猫がよく出るというような言い方をする。


 ウォルターと名乗った男が背を向けると、サムは鑑定した。この男が何者なのか知りたかった。



【名前】ウォルター・ヘイワード

【年齢】29

【種族】人間

【職業】墓守

【レベル】999 ……



 レベルまで確認したところで、サムは言葉を失った。レベルとは、それぞれの経験に応じて上がる、いわば強さを数値化したものだ。これまでに確認されたレベルは零から最高でも千までである。


 本当に何者なの、とサムはワイバーンの死体を引きずっていこうとする男の背中を見つめた。足の捻挫のため歩けず、男に負ぶわれるはめになることを彼女はまだ知らなかった。



 3



 明け方、ウォルターは小屋に戻った。しかし今日は普段と違い、背中に小さな客がいる。サムと名乗った少女は、「もう大丈夫です」と何度も背中から自己申告してきたが、ブーツを脱がせた足はひどく腫れて、その申告が偽りであることは火を見るより明らかだった。


 ウォルターはサムを自身の使っている寝台に下ろし、待っているように言いつけて、ろうそくに火を灯した。それから、比較的新しくきれいな布を探す。残念ながらそんなものは無かったため、身体を拭くために使っている布の中で最も新しいものを選び取った。


 バケツに汲んできた水に浸し固く絞る。


 落ち着かない様子で小屋を見回していたサムにそれを手渡すと、またお礼を言われた。今度はウォルターが落ち着かなくなる番だった。長年働いてきて、お礼を述べられたことなど無いに等しい。それに、ギューデン夫人以外の人間と顔を合わせ、会話をするのも数年ぶりだ。


 墓参りに足しげく通う町民も、ウォルターの姿を見るとたちまち逃げ出す。町の子供に至っては石を投げてくる始末だ。そもそも、町民のやってくる昼間に活動することは、彼にとって毒を浴びる行為に他ならなかったため、余程のことがない限り小屋から出ず、日が沈むのを待つ。


 サムは腫れあがった足首に濡れた布をあてている。


「どこに泊ってるんだ?」


 ウォルターの質問に、少女は「え」と声を漏らした。


「ヤンカーの宿屋か?」


 ヴィーヒェルの町に宿屋はひとつしかない。町の情勢には疎いウォルターも、その宿がどれほど金に汚く、質の悪い部屋しかないかを主にギューデン夫人から聞き知っていた。ヴィーヒェルにやってくる行商人や冒険者たちは野宿をするか、町長の家に泊めてもらうのがほとんどだという。ギューデン夫人は町長の家に昔から仕えてきた女中頭ゆえに、ヤンカーの職務怠慢によって自身の仕事が増えることが我慢ならないのだった。


「あっ、ええと、そう! そこです」


 彼女は頷いて肯定し、少し躊躇ってから質問を口にした。


「ワイバーンがよく来るって言っていたけど、本当なの?」


「ああ、そうだが」


「あれって、すごく強い魔獣でしょう? そんなものがしょっちゅう来るなんて、ちょっと信じられなくて」


「そんなに珍しいものなのか?」


「そりゃあ、そうでしょ。冒険者ギルドだって、ワイバーンの討伐には人がなかなか集まらないから大変だって聞いたよ」


「そうなのか? 俺はもう何年も町に降りてないから、そういうことは知らない」


「何年も……? ずっとここにいるの?」


「そうだ」


 サムは言葉を失い、ごめんと小さく謝った。傷つけるようなことを言ったと思ったのかもしれない。ウォルターは、謝られた経験がもう何年もなく、視線を落とした彼女に何と言ったらいいのか分からなかった。慰められたのもはるか遠い昔のことで、そのやり方も覚えていない。


「何か食うか?」


「えっ? いや、大丈夫……」


 サムがそう答えた瞬間、その腹がくう、と小さく鳴いた。彼女は顔を赤らめて俯く。ウォルターはギューデン夫人の持ってきたバスケットからりんごをふたつ取り出し、ひとつを彼女に渡した。


「ありがとう……」


 また、お礼だ。言われ慣れていないことを言われると、どうにも尻がむず痒くて仕方なく、ウォルターは椅子を引き寄せてそこに腰を下ろした。マスクを脱ぎ、テーブルに放ってからりんごを齧った。サムもそれに倣う。


「その……嫌だったら言わなくてもいいんだけど……その顔、どうしたの? 魔獣たちにやられたの?」


 彼はしまったと思った。長いこと食事を摂るのもひとりだったせいか、自分の顔のことをすっかり失念していた。火傷跡だらけの顔は、見ていて気持ちのいいものではない。食事のときはなおさらだ。


「悪い、忘れていた。すぐにしまう」


「いやっ、いいの、気にしないで。っていうか、そうじゃないの。ただ心配だっただけ」


「心配?」


「怪我とか火傷は見慣れてるから大丈夫。でも、痛んだりしないかと思って」


 今日は、ウォルターにとって慣れていないことばかりだ。心配されるのは子供のとき以来だった。


「いや。痛みは、しない」


「そう」


 サムは微笑んで、りんごをまたひとくち食べた。おいしいね、と笑う顔は遠い日の陽光の温かさにも似て、しかしそれはウォルターを決して傷つけないものでもあった。


 ろうそくの小さな火だけがこの小屋の中の唯一の明かりだった。


「ずっと、ひとりなの?」


 サムが口の中のりんごを飲み込んでから聞いた。


「……そうだ。五年前に前任者が死んでから、ずっと」


 ウォルターはすでに芯だけになってしまったりんごを口に放り入れ、咀嚼し飲み下した。まずかろうと、腹に入れられるものは入れておく。


 五年の間、この部屋にひとりだった彼は目の前に現れたもうひとりに戸惑いながらも、何故か話したくなってしまった。町の誰一人くれなかったお礼も、謝罪も、心配も、この短時間ですべてくれたサムに聞いてほしかったのかもしれない。


「俺は、日の光が浴びられないんだ」


 彼はヴィーヒェルの東のはずれで生まれた。父は革細工の職人だったが早くに亡くなり、もう顔も覚えてはいない。母は父の店をひとりで切り盛りしながらウォルターを育てていたが、彼が四歳になったとき突然その病が彼を蝕んだ。


 外に出れば数分と立たずに皮膚が焼け爛れてしまう。町医者にも原因がわからず、火傷を繰り返すうちに髪も抜け落ちた。町の人々は呪いだと噂し、病がうつることを恐れ、店に客は来なくなり、それどころか彼と母親は誰からも無視された。やがてそれは石のつぶてになり、家の窓を割った。


 心労がたたって母親は倒れ、最後までウォルターの身を案じながら死んだ。行き場を失った彼は町民に引き立てられて、ヘルドの丘に連れて行かれた。そこで待っていたのは、前任の墓守だった。


 ヴィーヒェルの墓地にはワイバーンをはじめとする魔獣が毎日のようにやってくる。墓荒しはまだマシな方で、魔獣たちは墓石を破壊し、中の亡骸を食い荒らす。墓守はそんな魔獣たちから墓を守らなければならず、数年と持たずに次が選び出されるのだった。


 墓守として勤めるなら、母親を墓地に葬ってやると言われ、彼は頷くより他なかった。


 墓守の入れ替わりが激しいのもあり、墓守は身寄りのないものが選び出され強制的に役割につかされることもあったが、前任のアウグストは自ら志願してこの仕事についていた。


 彼は、ウォルターに魔獣との戦い方を一から叩き込んだ。そのころからギューデン夫人は小屋に食べ物を運んできたが、やはりその量は少なく、アウグストはウォルターに狩りの仕方も教えてくれた。彼はウォルターの病を恐れず、時に叱り、時に励ました。そして五年前、彼はキメラに殺された。その夜、ウォルターははじめてひとりで魔獣を倒した。


 残ったのはわずかな衣類などの日用品と彼の亡骸だけだった。


 ウォルターは墓を掘り、アウグストを葬った。それから、ひとりで小屋に帰った。


「……なにそれ」


 サムの声に、ウォルターは我に返る。少女は膝の上につくった握りこぶしを震わせて俯いている。彼は長々と話しすぎてしまったと後悔した。サムは顔を上げると怒った。彼に対してではなく。


「散々ひどいことしといて、なんなのこの町の奴ら! こんなに危険な仕事をウォルターにばかり押し付けて感謝のひとつもないなんてありえない!」


 サムは、ウォルターのために怒ってくれた。彼は、何年も仕方ないと諦めることしかできなかった自身が、確かに救われたのを感じた。救われたのだ。彼は火傷痕の残った顔で力なく笑った。


「俺はどの道、母とアウグストの眠るこの場所を離れることができない。お前がそうやって腹を立ててくれただけで、十分だ。……ありがとう」


 ギューデン夫人に向けて発してきたものとは違う、心の底からのお礼だった。サムは唇を引き結んだかと思うと、勢いよくりんごを齧り出した。


「なんか怒ったらおなか空いちゃった! これおいしいね!」


 サムの明るい声に、ウォルターは笑い、パンを取り出して、片割れを彼女に差し出す。乾ききったパンは固く、口の中の水分を容赦なく奪ったが、それでも数年ぶりに彼は満ち足りた。



 4



 サムが目覚めたのは昼過ぎだった。といっても、ウォルターの小屋の窓には板が打ち付けられているため、日差しはかけらも入っては来ない。暗がりの中で目を慣らしていると、男のかすかな寝息がサムの鼓膜を揺らした。


 ウォルターは自分の腕を枕にして床に横になっている。サムが彼の寝台を占有してしまったからだ。

 昨夜のことを思い返すと、サムは今でも腹が立つ。町の人間がこの墓守にしてきたことはあまりにも惨い。子供の母親を奪い、その亡骸を人質に、命の危険さえあるこの墓地に閉じ込めたのだ。墓地にやってくる魔獣たちはみな獰猛で危険なものであるにも関わらず、その魔獣から墓地を、果ては町を守っているウォルターに対して感謝のひとつもないという。わずかな食糧を寄こすだけだ。


 ウォルターは仕留めた魔獣をそのまま町民に引き渡しているという。ワイバーンなどの高ランクの魔獣ともなればその肉も、亡骸からとれる資材も高値で取引されるはずだ。しかし、仕留めた本人であるウォルターにその恩恵はない。それどころか、そういった恩恵の存在さえ知らされていない可能性の方が高い。


 昨夜ともに食事をしながら、ウォルターは数日おきに食糧を届けに来る老婆に案内を頼むからヤンカーの宿まで戻るようにと言った。いまだ腫れの引かない足では歩くこともままならないが、ギューデン夫人という人物が現れる前に彼女はここを離れなければならなかった。夜鼠のみなはすでに起き出しているころだ。彼女の姿が見えないことに気づけば心配するだろう。


 別れの挨拶をしたかったが、夜通し働いたウォルターを起こすのも気が引けて、彼女はそっと寝台を抜け出した。そのまま、なんとか足を引きずりながらも戸口まで辿り着き、閂を外そうとしたそのとき、けたたましくドアが叩かれた。


「ウォルター! いるんだろ!」


 しわがれた声が怒鳴る。


 突然の訪問者にサムがまごついていると、いつの間に起き出したのか背後に立っていたウォルターが代わりに閂を外し、戸を開けた。


 現れたのはひとりの老婆だ。老婆は不愉快を顔面にこれでもかと表している。


「おはようございますギューデンさん……。何かありましたか。昨日いらしたばかりでは……」


 ギューデン夫人は忌々しそうに鼻を鳴らし、挨拶を返しもしなかった。サムはこの老婆がギューデン夫人かと目の前の老婆を眺めた。


「なんだい、あの有様は! 墓石のひとつも直っていないじゃないか! 獲物もあんなところに置きっぱなしにして! いつになったらまともな仕事ができるんだい!」


 サムは眉間に皺を寄せた。魔獣と戦って、さらには墓石の修理まで一晩でこなせというのか。


 ウォルターが「昨夜は怪我人がいたので、そこまで手が回らず、すみません」と謝るが、ギューデン夫人はこつこつと靴の先で地面を叩く。


「怪我人? どこの誰だい。夜に墓場になんか行く馬鹿がどこにいる」


「彼女です。道に迷ったんです。最近このあたりにきた行商人のひとりだそうですが」


 ギューデン夫人の鋭い目がぎろりとサムを睨んだ。


「行商人?」


 まるで品定めをするように頭のてっぺんから足先まで眺めまわされる。サムはまずい、と思った。


「今は町に行商なんかきちゃいないよ。小さな町だからね、そういうことはちゃあんと耳に入るんだ。娼婦なんか連れ込んで……お前は本当にどうしようもないね!」


 ウォルターが、サムを見た。


 その瞬間、彼女は自分がしたことを思い知らされた。彼女はこれまで生きるために嘘をつくことが何度もあった。夜鼠の仲間たちも同様に嘘を重ね、盗みを働いて生きてきたのだ。それが当たり前になってからずいぶん経つ。


 あのとき、ウォルターに素直に正体を明かしていたらこうはなっていなかった。その場で殴り殺されたか、町民に引き渡されていたはずだ。身を守るためにはしようのないことだった。それでも、その嘘が、昨夜ありがとうと言って笑った彼を傷つけてしまった。


「どういうことだ……?」


 その声は、怒りより、悲しみの色の方が濃かった。


「ギューデンさん!」


 老婆にひとりの男が駆け寄ってくる。肩で息をしながら、男は町の方を指した。


「大変ですよ、冒険者ギルドから来たパーティが森に潜んでた盗賊団を捕まえたっていうんです」


「盗賊団?」


「あちこちの貴族とか行商人から金品奪ってたって話で……。被害にあった貴族から依頼が出てたそうですよ」


「そんな恐ろしいものがどうしたってこんなところに……」


 老婆が腕を抱き、身を震わせた。しかし、その目がサムを捉えると、みるみるうちに表情を変える。今にも噛みつきそうな凶暴な感情を露わにして、老婆は怒鳴った。


「お前、その一味だね! おかしいと思ったんだ。行商人なんて嘘ついて騙せると思ったのかい。この病気持ちのウスノロは騙せても、あたしの目はごまかせないよ!」


 サムが反論する前に、腕を引かれて広い背中の後ろに匿われた。


「違います。嘘をつきました。俺が買った女です」


 サムは自分の耳を疑った。目の前の背中はゆるぎなく、そこにある。老婆はウォルターのやや強まった語気にまごついたが、「嘘をつくんじゃないよ!」と声を荒げた。


「さてはおまえもグルだったんだね。盗賊を招き入れて墓を暴くつもりだったんだろう! 町で面倒見てやってたのに、とんだ恩知らずだ!」


「……恩だと?」


 すっと辺りの空気が冷えた。ウォルターの発する強い感情は、殺意以外の何物でもなかった。


「これまで一度も町に降りず、ここを守り続けてきた。言われた通りに。お前たちに対する恩などとっくに返した。……出ていけ」


「なっ、なんだって⁉」


「出ていけ。あのトカゲのように頭を潰されたくないならな」


 ウォルターが一歩踏み出すと、老婆も男も後ずさった。そのまま「ただじゃ済まさないからね!」と吐き捨てて、老婆と男は去っていった。


 残ったのは、ウォルターとサムだけだ。ウォルターが、閂に使っていた板を彼女に差し出す。意図の読めないサムは困惑して彼を見上げた。


「今のうちにお前は行け。お前だけでも町の外に出ろ。あいつらが何をするか分からない」


「ウォルターだって危ないよ……。いや、ウォルターが強いっていうのはよくわかってるけど、でも」


 彼は板切れを彼女に握らせた。杖の代わりにしろということだろうか。


「俺にはやらなければならないことがある。……俺は墓守だからな」


 サムには言いたい事が山ほどあった。だが、そのどれも喉の奥で絡めとられてうまく口にすることができない。そうしているうちに、ウォルターに背中を押される。


「……嘘ついててごめん。ありがとう」


 ようやっと発せられたのはそれだけだった。彼女の背後で、扉の閉まる音がした。



 5



 ウォルターは無心で円匙をふるった。土をかき分け、掘って、掘って、掘って、掘り下げる。頭の中ではぐるぐると様々な出来事が渦巻いている。


 日は高く、唯一外気に晒されている目元を焼く。フードを被って俯いているとはいえ、ひりつく薄い皮膚が痛みを発し、マスクの下で顔をしかめた。


 ギューデン夫人にあんな態度を取ったのは、はじめてだった。


 夫人の言う通り、サムは盗賊団の一員なのだろう。思えば、あんな夜中にひとりで墓地に行商人がいるわけがない。迷うにしても度を越えている。何より、盗賊団が捕まったと聞いたときのサムの表情は、家族を奪われそうになっている怯えた子供そのものだった。


 ウォルターは、墓荒しを憎んできた。見つけ次第頭を打ち砕き、墓穴に放り込んだ。彼女があそこで何をしようとしていたかは想像に難くないが、負ぶわれているときにいくらでもチャンスがあったにも関わらず、彼女は何もしなかった。サムはウォルターのために怒ってくれた。彼女との食事は、楽しかった。


 それでいい。それだけで、ウォルターには十分な理由だった。彼は己の信じたいものを信じる。そして信じたからには信じぬく。


 探し物を済ませると、彼は小屋に戻ろうとした。ぐずぐずしてはいられない。しかし、彼の歩みは止まった。


 煙だ。


 小屋の方から煙が上がっている。


 彼は駆け出した。手にした円匙が空を切る音が響く。


 小屋の周りには町民と、見慣れない旅姿の人間たちがいた。彼らは昼間だというのに松明を手にしている。それで何をしたかは目の前の光景を見れば嫌でも分かる。


 彼が長い時間を過ごした小屋は、炎に包まれ赤々と燃え上がっている。


「この恩知らず!」


 ウォルターをいち早く見つけたギューデン夫人が金切り声を上げる。誰も彼もが彼に向ける視線の鋭さは、幼いころからよく知っているものだ。嘲笑と侮蔑と、憎しみとをないまぜにした目。


「よくも俺たちをだましたな! さてはこれまでも命石をちょろまかしたんだろう!」


 口から唾を飛ばして喚くのは宿の主人のヤンカーだ。


「まあまあよしなさい」


 朗々とした声がして、歩み出てきたのは町長のフレデリック・ヴィーヒェルだった。頭頂部の禿げあがった人の好さそうな老爺だが、彼の目は町のものと同じ色をしていた。


「とんでもないことをしてくれたね」


 彼は言う。


「盗賊団の手引きをするなどと。早くに親を亡くし、病気のお前に仕事を与えて、みなで育ててきてあげましたのに。しかしまあ、こうなってはお前の居場所はこの町のどこにもありません。何、心配せずとも今後はこちらの方々がお前より立派に仕事をしてくださいますからね」


 フレデリックが指したのは、旅装の五人だった。大剣を背負った男、剣士、魔導士らしい青年に、身軽な装いの少女と、回復役だろうか、若い女だ。ウォルターは、この五人がギルドから来たという冒険者だろうと見当をつけた。


「ああ、あんたみたいな役立たずの裏切り者は、とっとと出て行っていいぜ」


 大剣を背負った男が蔑むように顎を上げて言った。他のメンバーも、それぞれうすい笑みを浮かべてウォルターを見ている。


「お前みたいな親不孝者を持った母親が哀れだよ」


 ウィルターは円匙の柄をきつく握りしめた。


 この男に、母の何が分かるというのだ。哀れだと思うなら、もっとはやく手を差し伸べてくれればウォルターの母は死なずに済んだ。


「……好きにすればいい。俺は出ていく」


 煮えくりかえる感情を己の中に押し留め、ウォルターはただそう行って歩み出した。町民たちが何か喚いたが、彼にはかけらも響かない。背後で、「あんな間抜けでも狩れる魔獣くらいしか出ませんから、あなたがたに守っていただけるならこのヴィーヒェルも安泰です」と笑うフレデリックの声がした。



 6



「あれ、何?」


 森の中を進み始めて数時間が経った。板に縋るようにして進んでいるために、まだ森を抜けるには至っていない。滴る汗を手のひらで拭い、ふと目線を上げると、木々の枝で遮られた空に黒い煙が上がっているのが見えた。墓地の方角だった。


 サムは血の気が引くのを感じた。あの老婆の恨みのこもった捨て台詞が耳のうちに蘇る。


 彼女は踵を返した。こんな足で自分ができることはない上、あのウォルターであれば小屋に火をつけられたくらいではびくともしないだろう。分かってはいるのに、それでも身体は勝手に動く。


 しかし、焦りからか足がもつれて転んでしまった。膝を擦り剥いたらしく、血が滲み、遅れて痛みがやってくる。


「お前はよく転ぶな」


 低い、錆を含んだ声がした。サムが顔を上げると、ウォルターがそこにいた。町には降りたことがないといっていた墓守が、荷物を背負って立っている。その手には愛用の円匙がある。彼は口をぱくぱくと魚のように開閉させることしかできないでいるサムの手を引いて、昨夜と同じように立たせてくれた。


「無事、なの?」


「ああ。俺は外に出ていたからな」


「でも煙が……」


「連中が小屋に火をつけたんだ。やりそうなことだな。だが、必要なものは事前に荷造りをして外に隠しておいた」


 よく見てみれば、ウォルターの羽織っているコートが汚れもほつれもない新品になっていた。彼女に視線に気づいた彼は、「アウグストの遺品だ」と教えてくれた。まるでウォルターのために仕立てられたかのように、その身体にしっくりと馴染んでいる。


「行こう」


 ウォルターがその腕でサムの身体を抱え上げた。


「えっ? どこへ?」


 サムが頓狂な声を上げる。


「町長の家だ。さっき、町民と出くわしたときに聞いた。そこに盗賊団を捕縛しているらしい。じき、奴らが戻ってくる」


「でも、わたしたちは、ウォルターの墓を荒しに来たんだよ……」


 彼女はウォルターの顔を見られずに視線を反らす。助けてもらう理由などない。


「荒らしたのか?」


「……してない」


「なら、それでいいだろう。起きてもいないことに腹を立てたりはしない。……大事な家族なんだろう?」


 サムはただ頷いた。それが答えだった。ウォルターはそれに頷き返し、駆け出した。サムの身体が背後に強烈な力で引っ張られる。あまりにも速すぎるのだ。景色が飛ぶように後ろへと流れていく。そういえば、この墓守はレベル999だったと思いながら、サムは全力でウォルターにしがみ付いた。



 7



 フレデリック・ヴィーヒェルの家は町の中心の広場の前にある。巨大な敷地内に庭園を備えた家には常に警備として彼の私兵が立つが、小さな町だ。大した武装もしていない。


「ちょっと!」


 ウォルターの腕の中でサムが何か叫んだが、風の音で掻き消えてしまい、彼の耳にはほとんど届かなかった。


「襲撃するにしたって正面から行くことある⁉」


 あるのだ。剣を向けられようと、それを砕いてしまえば何の問題もなかった。ウォルターの円匙の一振りで武器がただの金属片と化した警備兵は怯えた顔で膝をついた。無謀にも挑みかかってきたもう一人を柄で薙げば、その身体がうつくしい放物線を描いて地面に墜落する。


 騒ぎを聞きつけた町民が窓から広場を覗いている。


「こんな乱闘したら、もっと人が出てきちゃうよ!」


「問題ない」


 固く閉ざされた鉄製の門の前に立ったウォルターはサムを地面に下ろした。内側から閂のかけられたそれは、乗り越えるか内側から開けるかしなければ侵入は不可能だろうが、そんなものは無意味だ。ウォルター・ヘイワードにとっては。


 彼は円匙を両手で握り、振りかぶると、それを思いきり振り下ろした。金属と金属のぶつかり合う甲高い音が鳴り響き、火花が散った。鉄製の門はひしゃげ、その身体を折り曲げたかと思うと固定されていた金具ごと塀から引きはがされて館の方に飛んだ。轟音を立てて、館の玄関に激突した鉄門は見る影もなくなっていた。


「開いたぞ」


 ウォルターは茫然と立ち尽くすサムを再び抱え上げ、悠々と庭園へ侵入を果たした。整えられた植木も、花壇も破壊された玄関の瓦礫に押し潰されている。館から次々と現れた兵たちを片手の円匙でいなし、ウォルターはまっすぐ玄関に向かった。鉄門をぶつけられた玄関はただの穴となっていた。


 ウォルターは迷うことなくその中を突き進む。上等な絨毯を泥で汚れたブーツで踏みつけ、向かってくる兵を薙ぎ倒し、彼の後方には足を折られたもの、壁の絵画に叩きつけられたもの、恐怖に震えて身動き一つできないままに失神したものたちが積み上げられた。


 館を縦に走る廊下を抜けた中庭には、縄で縛り上げられた複数人の男の姿があった。傍らには見張り役の兵が二人いるきりだ。


「サム⁉」


 男たちのうちのひとりが声をあげる。それを皮切りに、背を向けて座らされている盗賊たちが辺りを見回した。


「どうして来た!」


「助けに来たんだよ、ベモート!」


 ベモートと呼ばれた男が歯を食いしばる。


「お前、ウォルターか⁉ 何しに来た、この裏切り者め! その女も盗賊の一味か⁉」


「帰れ、町を出ろ! ここにはまだ……」


 ズンッと地面が揺れる。


「泣かせるじゃあないか。なんて仲間想いなんだろうな。だが、運が悪かった」


 その巨体が一歩進むごとに地面に振動が走る。がちゃがちゃと身に着けた鎧を鳴らしながら、ひとりの大男が館から出てきた。


「そいつは冒険者たちの仲間だ! やめろ、サム、お前が叶う相手じゃない!」


 ウォルターは黙ってその大男に向き直った。にやにやと笑う顔には、これまでの苛烈な旅を物語る様々な傷がまるで勲章のように刻まれている。分厚く硬い鎧で一部の隙も無く武装し、その手には巨大なメイスがある。


「お前が厄介者の墓守か。死人のお守りが俺様の獲物に手を出すなんて、馬鹿なことをしたもんだ。俺は……」


「お前の話に欠片も興味はない」


 ウォルターはサムをそっと下ろした。目に見えて気分を害した様子の大男は、こめかみの血管を痙攣させ、メイスを地面に叩きつける。それだけで小規模の地震を思わせる衝撃が走り、土埃が舞った。地を割って沈み込んだメイスが引き上げられ、ぱらぱらと土くれが落ちた。


「人の話は素直に聞いておくもんだ、ぞっ!」


 大男が一歩前へ踏み出す。その勢いを利用してメイスを横に振りぬくが、そこにすでにウォルターはいなかった。


 大男の上に影が落ちる。


 跳び上がったウォルターは、渾身の力で円匙を振り下ろした。バガッと大きな音を立て、大男の鎧が砕け散る。大男は言葉ひとつ発することができないまま、仰向けに倒れた。


「ひっ」


 振り返ったウォルターの眼光に見据えられ、見張りの兵は後ずさる。もうひとりはすでに戦意を喪失していたが、血迷ったのか、その兵はサムに飛び掛かろうとした。人質を取れば勝機があると思ったのかもしれない。しかし、できなかった。彼が最後に見たのは、己の眼前に迫りくる円匙の切っ先だった。弾かれたようにもうひとりは逃げ出した。


「じき連中が戻ってくる。急ごう」


 サムが腰に隠し持っていたナイフでベモートたちの縄を切る間に、ウォルターは厩に向かった。フレデリック・ヴィークネル邸には四頭の馬が飼育されている。町長自慢の馬車もあったが、ごてごてと飾り立てられたそれは逃走には目立ちすぎた。であれば、それを剥がしてしまえば良い。そう思い至ったウォルターはさっそく行動に移した。


 客室部分の装飾を引きはがし、板をたたき割って、座席を取り去った。すっかり骨組みだけにしてしまうと、埃除けにされていた布を骨組みに被せた。パッと見は、行商用の荷馬車になった。


 そこへ、サムを連れた盗賊団たちがやってきた。ウォルターの行った改造の残骸を見ると彼らは一瞬言葉を失ったが、すぐに切り替えて馬を荷台に繋いでくれた。四頭とも繋ぐと不自然なので、二頭を繋ぎ、もう二頭はそれぞれに板を引いてもらうことにする。


「長いは無用だ! ずらかるぞ!」


 ベモートが声を張り上げ、馬たちが走り出す。破壊された門を出た馬車と二台の即席の馬ぞりは、土埃を立てながら町を東へと疾走する。


 ウォルターは、馬車の荷台から行き過ぎる町を眺めた。もう何年も目にすることのなかった町並みは、変わっていないようで、確かに何かが違っている。この町はもう、彼の住む場所ではない。母と暮らした小さな家は、すでに誰かの住まいになっており、怯え切った目が薄く開いた戸から彼らを見ていた。



 8



 ヴィーヒェルの町を出て数時間後、馬車は街道を逸れ、北側に連なるボールシャイト山に辿り着いた。荷台やそりはここで外し、山を越えなければならない。ベモートは山を越えて、隣国のヒラー王国へ向かうつもりだと言った。


 偵察に出ていたふたりが戻り、追手が来ていないことを告げると、しばしの休息を取ることになった。山の中とはいえ、日差しは枝葉を透かして降り注ぐ。サムはウォルターを見やったが、彼はことのほか平気そうに木に寄りかかり、どこか遠くを仰ぎ見ていた。


「なあ、あんた」


 ベモートがウォルターに歩み寄る。


「さっきはありがとうな。あのまま貴族に引き渡されてたら、どんな目にあったか知れねえ。恩に着る」


「いや……」


 ウォルターは手にした円匙の柄をきつく握り、親指でこすった。


「そうだ、あんたは命の恩人だ。ありがとうよ」


 緊張の糸が切れて座り込んでいた仲間たちも立ち上がって頭を下げた。ウォルターは目に見えて戸惑い、サムは思わず微笑んだ。


「……あんたが、こいつを守ってくれたんだろう。見張りが話してんのを聞いたんだ。感謝してもしきれない」


 ベモートはそう言ってサムに視線を向けた。そこに混じった厳しいものを感じ取れないほど、彼女は鈍くなかった。


「……勝手なことをしてごめんなさい。わたしのせいで……」


「あのな、あの冒険者たちはずっと俺たちを尾行してたんだ。俺たちが捕まったのはお前のせいじゃない。だが、お前は全体の行動を乱した。ひとりで勝手に行動することがどれだけ危険か分からなかったのか」


 サムは黙り込む。


「ひとりで出来ると思ったのか」


「……そうしたら、一人前だって、認めてもらえると思って」


「己の力量を見極められない人間が一人前なわけがないだろう。俺はお前はまだ仕事に出る段階じゃないと考えて、次の仕事から外れるように言ったんだ。自惚れるんじゃない」


「……はい」


「サマンサ。……お前を、連れて行くことはできない」


「ベモート、いくらなんでも……」


 息を呑んで成り行きを見守っていた団員たちがざわついた。そのうちのひとりが立ち上がる。しかし、ベモートが鋭い一瞥をくれると口を噤んだ。


「俺たちは、全員でひとつのグループだ。ひとりでも協調を乱せば、仲間全員を危険に晒すことになる。分かるな」


 サムは頷いた。一度でも過ちを犯せば、それは一生ついて回る。ベモートには団員を守る義務と責任があり、不穏分子を取り除くという彼の判断は間違っていない。彼女は、三年間ともに暮らした家族からの信頼を裏切ってしまった。


「何とかならないのか」


 静まり返った山の中で、声を発したのはウォルターだった。


「あんたには感謝しているが、これは俺たちの問題なんだ。サムに悪気がなかったのは俺だって分かってる。それでも割り切らなければならないときがある」


 言い募ろうとしたウォルターを、サムが遮った。


「大丈夫だよ、ウォルター。わたしは納得してる。わたしがベモートの立場でも同じことをする」


 ウォルターは、それ以上何も言わなかった。他の団員たちは気まずそうにそれぞれ腰を上げた。距離を引き離したとはいえ、町にはまだ馬がいる。これ以上、ここに留まっているわけにもいかない。日は傾いて、地平線から夕陽が世界を赤く染め上げている。夜が来る前にさらに距離を稼がなければならなかった。


「生きていく術はすべてお前に教えた。お前の贈り物があれば、食っていくには困らないだろう。……この三年は俺にとってかけがえのない贈り物だった」


 ベモートは、ウォルターへのお礼にと馬を一頭残してくれた。夜鼠の面々は、それぞれサムに別れの挨拶をして、振り返りながら手を振った。それに応えながら、サムはさらに北を目指す彼らを見送った。後ろ姿と、足音が完全に消え失せてしまうまで。残されたのは、ウォルターとサムだけだ。


「さーて、急に身軽になっちゃったな」


 彼女は大きく伸びをしたが、足に痛みが走ったので顔をしかめた。


「本当に良かったのか」


 ウォルターが信じられないといった風に首を振りながら尋ねる。サムはそれに笑みを浮かべて「いいよ」と答えた。


「ベモートはさ、わたしを盗賊にするつもりなんて、はじめから無かったんじゃないかな。立ち寄った村に残らないかなんて言われたこともあったし、仕事に連れて行きたがらなかったのも、今思うとね。まあ半人前なのもあったんだろうけど。……今回は助かったけど、次はないかもしれないから」


 サムは、ベモートという人間のことをよく知っている。知っているからこそ、分かってしまう。


 寂しさは確かにあれど、不思議と晴れやかだった。


「ウォルターは、これからどうするの?」


「俺か……。何も考えていなかった」


 そうだと思った、とサムが笑うと彼は馬の背中を撫でて小さく呟いた。


「そうか。俺はもう、どこにでも行けるのだな」


 サムは、地面に視線を落とし、足元の小石を軽く蹴った。左足は鈍く痛みを発しているが、この調子なら数日で治るだろう。閂の板の代わりを探さねばならない。唇を噛み、言葉を探す。


「あのさ、ごめんね……。お母さんたちのお墓、そのままにさせちゃった」


 ウォルターが自分を振り返ったのを感じ、彼女は顔を上げた。彼がマスクの下で微笑んでいる。


 ウォルターは木の根元に据えていた荷物から何かを取り出して、彼女の前に差し出した。それはふたつの美しい石だった。ひとつは夕暮れのような赤で、中心に炎のようなものが揺らめいている。もうひとつの深い碧色の石は海の水面そのものに見えた。


「荷物をまとめたあとで、これを取りに行ったんだ。……アウグストと、母だ」


 サムは驚き、ウォルターとその手の石を交互に見た。


 命石は、魂と同等のものとされる。


 彼は、師と母を救い出したのだ。


「よかった。本当に……良かった」


 何かが胸に込み上げて、彼女はウォルターに見られないように目元をこすって誤魔化した。


「お前のおかげだ」


 ウォルターが言った。


「お前がいなければ、俺は死ぬまであそこにいただろう。それが今は、どこにだって行ける」


 その声があまりにやさしく鼓膜を揺らした。サムはまっすぐに背を伸ばし、彼に向かって右手を差し出した。


「一緒に行かない?」


 彼が目を大きく見開く。


「ウォルターはあまり、他の町とかに詳しくないでしょ? わたし、結構あちこち行ったからそれなりに案内できるよ。どうかな」


 気恥ずかしくて顔を反らしてしまいそうになったが、堪えた。彼女はまっすぐウォルターに向かい、彼の返事を待った。空いた左手を強く握る。


 ウォルターはしばらく黙って立ち尽くしていたが、やがてサムに歩み寄った。それから、その右手で彼女の手を握った。力強い手だった。


「よろしく頼む」


 サムが指示を出し、ウォルターが荷台に積んできていた鞍を馬に着ける。足をうまく使えない彼女を先に乗せて、彼も馬に跨った。


「乗馬は経験あるの?」


「……子供のころに少しな」


 長年のブランクを思わせないほど、ウォルターは鮮やかに手綱を操った。太陽は一筋の光を残し、今にも沈もうとしていた。燃えるような地平線はどこまでも広がり、緩やかな弧を描いている。


 ふたりを乗せた馬は東へ向かって駆けていく。風の音が耳の傍を行き過ぎる。


 もうすぐ夜がやってくる世界の中で、ひとりの墓守と少女は今、旅に出た。



ふと思いついて勢いで書きなぐったものです。

他に長編も並行して書いておりますので、ひとまず短編という形での投稿と致しました。

評価が良ければ長編として、各地を転々としながら荒れた墓を守ったり魔獣をぶん殴ったり悪い領主をボコボコにする流浪の墓守となってからの話を書こうかと考えております。

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