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 迂闊だった。自分がはじめにもった懸念は正しかった。

 父親の遺品が入った紙袋を畳に乱暴に放って、新島有紗はズルズルと座りこんだ。

 鷹宮警察官と公園で話したあとすぐ、彼女は警察署へ向かい理由をなんとか繕って父の遺品を引き取ってきた。


 もうあのひとには会えない……。

 鷹宮警察官の獰猛な眼差しを思い出して、有紗はちいさく(ふる)えた。


「泰暁……」


 ――姉さんがしたいように生きてよ。俺の気持ちは変えられないんだ。だからぜんぶ、あなたが望むようにしてくれていいから。


 あれは、あの言葉は夢ではなかったのか。

 予想はしていたはずなのに、赤の他人から弟の想いを聞かされた衝撃は、いまだ彼女を揺さぶっていた。

 知っていた。弟の気持ちなど、とうに知っていた。けれど、知ってどう向き合えというのだ? 弟はなにも言わない。言うはずもないだろう。そんな秘密にもならない秘密をどう明かせというのだ。

 有紗は頭を抱えた。と、乱暴に放った紙袋から一冊のパンフレットが飛び出しているのが目に入った。大手旅行代理店のロゴと「九州・有明海」の文字とがあった。

 有紗は反射的に、文机の上にある写真をみた。母が亡くなるまえ、有紗が中学二年、泰暁が小学六年のとき家族四人でめぐった福岡・佐賀・長崎・熊本に囲まれた干潟の海。写真は、熊本県の御輿来(おこしき)海岸の夕景を背に撮ったものだった。引き潮と夕陽が重なってみることができる日は、一年のうちでわずか十日ほどだという。その僥倖にめぐりあえた日だった。浅い海に広がる幻想的な砂紋。海が夕陽を映し、あたたかくしっとりとした色に染まる一面の景色。

“ふたり合わせて有明になるように――――”父の言葉だ。新島有紗、新島泰暁――二人の名前でひとつの言葉になる――有明(夜明け)

 有紗は息を呑んだ。父がこのパンフレットを持っていた意味を、ほぼ直感的に理解した。家族三人で、また有明海を旅行するつもりでいたのではないかと。そしてその意味は、その意味するところは――――。

 彼女は切羽詰まったようすで携帯電話を取り上げた。喉がカラカラに乾くような心地だった。彼は出張中だったがすぐに電話に出た。弟の声には驚きが混じっていた。『姉さん?』


 ――自分と弟は、こんなふうに通話をしたことがあっただろうか。彼にずっと距離を置いてきた自分は、彼に話しもしなかった。


「泰暁、泰暁は、自分の名前の由来を知ってる?」


 息が苦しくなって、有紗はまた写真をみつめた。


『……名前の由来?』


 呆けたような返事と、街の喧騒が聞こえてくる。


「お母さんが亡くなるまえ、みんなで旅行したの憶えてる? 九州の――」


『有明海だろ? 憶えてるけど、突然どうしたんだ?』


「夕陽を背に四人で写真を撮ったのも?」


『うん、憶えてる。……姉さん?』


 有紗はあふれた涙をとめることができなかった。



「泰暁……っ、ごめんね泰暁」


 視界が滲んでゆき、写真の夕陽が霞んだ。


『――――』


「ごめん……ごめんね。あなたは弟なのに、わたしはなんにも知ろうとしていなかった。あなたを置いていったのに、あなたに向き合おうとしなかった。泰暁がわたしを想ってくれていること、ほんとうはうれしかった。でもこれ以上なにができるの? これ以上先へなんか進めない。お父さんも亡くなって、もう失うものなんかないって思ってた。でも、泰暁と離れて生きていくことなんて――――」


 彼女は悟った。弟がずっと同じ場所から姉をみていたことに。彼女が離れていっても、帰ってくる場所はいつも変わらなかったことに。

 とまどった空気、それでも弟の体温を傍に感じるようだった。


『……姉さん、泣いてるの? なにかあった?』


 有紗は込みあげてくる嗚咽を必死に抑えた。


「鷹宮さんが……、鷹宮さんにさっき偶然会ったの。正気で泰暁の傍にいられるのかって聞いてきたよ。どうやってこれから生きていくつもりだって。わたし達は、とても普通じゃないように見えたって。わたしはろくに切り返せなくて――――」


 パタパタと涙が畳へ落ちた。影のように暗い、現実離れした世界へ絡めとられてしまいたいのか、掴んでいたと安心していた倫理の糸を自ら手放してしまっていたのか、有紗にはもうわからなかった。ただ、緑と日差しが溶けこんだような弟の笑顔がずっと彼女の心にあったことだけは動かしえない事実だった。

 弟は穏やかでとても優しい声で、彼女へ応えた。



『――――姉さん。俺は自分の気持ちを後悔したことなんてないよ。あなたが、有紗が俺の姉でよかった。姉さんの弟に生まれてきてよかった』


 有紗は言葉を失った。


『俺は卑怯なのを自覚してる。でももう隠すのはやめるよ……姉さん』


「泰暁――――」


『有紗。俺は有紗みたいに笑ってきただろう? 有紗と同じように笑えばもっとあなたに近くなれるんじゃないかって真似してたんだ。ずっとそうして笑ってきた』


 きみしかいない。俺には、ただ有紗だけだった。と弟は言った。


『“これ以上先”なんてなくていいよ。俺は姉さんを苦しめてきた。だから姉さんのしたいように生きてよ。あなたが離れても、俺のことを嫌っても、消えろと言われても、あなたが誰かを愛しても、あなたは誰のものにもならない。俺はそのことを忘れないから。姉さんは、姉さんだから』



 有紗は泣き伏した。






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