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 …………好き?

 弟が、姉を。性愛の対象として?




“「好き」とはどういう意味だ?”


“そのまんまの意味だよ”



 どうやって勤務を終え、帰ってきたのかも定かでなく、気がつけば新島有紗の渡した名刺を手に、鷹宮はベッドに身を投げていた。



(アール)コーポレーション、営業担当……」


 彼女は営業なのか。新島有紗の潔癖そうな印象から、鷹宮は意外の感に打たれた。それはざっと調べた限り中堅の医療機器メーカーで、新島姉弟の住む家から電車で30分ほどの距離だった。


“きみの姉さんはそのことを知っているのか? きみたちは血の繋がった姉弟なんだろう?”


“れっきとした俺の実の姉ですよ、新島有紗は”


“まさか、きみらは…………”


“鷹宮さん、あんたが想像してるようなことはないよ。有紗は、弟の気持ちを知ってる。でも俺がなにも言わないから、あのひともなにも言わない”


“…………実の姉だろ? 正気か?”


“あんた、自分の顔を鏡でみて言ったらどうです? 俺よりも下種な表情してると思いますよ”


“実の姉を…………、どうして、どうやって――――”


“そんなの俺が訊きてぇよ”


“――――――”


“でも……、これは俺だけの気持ちだ。あんたには関係ないよ”



 鷹宮は病院で目にした新島有紗のようすを思い返した。葛藤の滲む疲れた横顔……なぜ。


「なんでっ……、そんな弟のそばにいるんだよ……!」


 鷹宮は呻いた。

 バスケットコートのなかを駆け、軽々とジャンプしシュートを放っていた新島泰暁の姿――かつての自分に重なる――。

 なぜ、なぜ離れないのだ。彼女も弟を、新島泰暁を好きなのか、姉弟の枠を越えて? そんなはずはない。そんなことは許されない。そんなことは――――許したくない…………。


 なにか果てのないものを見透すような眼差し、それはどれほど手を伸ばそうともけっして鷹宮には届かない廉潔ななにか。


 きみはなにを見ているんだ。なにを思っているんだ。


 たった二回会っただけで、職業上の権限をつかって、自分のしていることは倫理を逸脱している。新島有紗へのこの執着はなんだろう。

 弟に縛られているなら、その妄執の鎖を断ち切れ。そんな世界は()てろ。


 かつて知覚したことのない炎々とした情欲が新島有紗へ向かうのを感じた。愛ではないその炎で、あの女を嘗め尽くしてしまいたい…………。鷹宮は瞼を閉ざした。





 新島有紗は父親の部屋で、寝転んでぼんやりと天井を眺めていた。部屋は生前父が使っていたときのままでほとんど掃除もしていない。もとより整頓されていたし、物を動かしたりもあまりしたくはなかった。折りたたみの文机のうえに、最後に家族四人で干潟へ旅行したときの写真が飾られていた。

狭い和室に、掛け時計の硬い音が響く。

 鈍重な思考は、彼女を追懐の海に沈める。


 あれは、彼女が中学三年、弟は中学一年生のとき――、県の夏季大会の決勝戦に出場する泰暁を応援に行った。父は前日から風邪気味だったので、有紗ひとりで向かった。遅れて会場へ到着した彼女は、今まさに弟が試合の最中なことも忘れて弟にメールを打った。“南側2階C列に座ってる”

 怪我をした三年生の代わりに彼が急遽出場することになったらしく、やや落ち着かないようすではあったが順調に試合はすすんだ。彼女は弟が何年バスケットに勤しもうとも、それにまったく明るくなかったが、弟が生き生きと動き回るさまは彼女を和ませた。


 そして試合最終の第4ピリオドが終わったが、両者同点のため、どちらかが多く得点するまで試合続行となった。

 相手チームの選手がファウルとなり、弟がフリースローを打つことになった。決まればそのまま勝つという場面だったかに思う。

 審判からボールを受け取って5秒以内にシュートをしなければならない――そのときに、弟は、姉をみつけて笑った。姉がどこにいるのか知らないはずの弟が。

 昨年亡くなった母が、“あなたたち、笑い方がそっくりね”とよく言っていたその表情で。


 初夏の日差しに、緑が溶けこんだような。爽やかな風がそこに広がるような。


 ふいに感じた痛み、優越、歯がゆさ、そして淡い苦しさ。

 なにかが遠くで壊れるような音。ネットに吸いこまれたボールと、歓声……。


「……泰暁」


 有紗は寝返りをうって身体を丸めた。

 なあに、姉さんという弟の声がした気がした。あのときは、ごめんねと有紗は零した。


 ……あのとき?


 ――うん。泰暁が高三のとき。県大会の決勝戦のとき。


 ……姉さん、やっぱりあの日試合観にきてたんだね。夢か幻じゃないかって思ってた。


 ――行ったよ、もちろん。でもね……。


 ――知ってる。俺がコートから姉さんを見つけたから……、見つけてしまったから、あのまま帰ったんだよね。


 ……うん。泰暁がわたしをみて笑って、それじゃいけないと思ったの。泰暁は、なんにも()()()()()なかったから、もうどうかして離れなきゃいけないって。


 ――俺、超能力でもあんのかな。なんでだか、姉さんのいるところはわかるんだ。


 ――笑いごとじゃないよ。


 ――うん、ごめん。でも、探さずにはいられなかったんだ。探して、その先にあなたがいたから……。


 ……泰暁が、すごくしあわせそうな顔で笑うから。わたし、苦しくなって……。


 ……うん。


 ――世界に、わたしと泰暁だけしかいないみたいに感じて、わたしはそれが嬉しくて、あなたがわたしを想ってくれていることがうれしかった……。


 ――うん。


 ……置いていって、ごめんね。



 泰暁が高校三年で県大会決勝戦に出場したとき、有紗も会場にいた。試合は白熱し、そして、彼はまた姉をみつけた。会場のどこに座っているか伝えもしていなかったのに。

 泰暁は有紗をみつけた。みつけて、彼女を見つめて、笑った。中学一年生のあの試合のときのように。いいやもっと、彼の想いを瞳にのせて。

 泣きたくなるようなまぶしさだった。弟の笑顔も、彼の有紗への想いも。本人がまだ気づきもしていないだろうに。

 有紗はその場から駆け出した。ふり返ったとき、歓声が会場を包むなかで、弟が途方に暮れたような顔でコートに佇んでいた。

 まるで、彼ひとりだけが世界から取り残されたように。



 …………事故で亡くなる少しまえにもね、お父さんに訊かれたことがあったんだ。“泰暁が、有紗(わたし)になにか言っていないか”って……。

 お父さん……なにか気づいてたのかな。でももう、()()は終わったんだよね。ほんと言うとね、ホッとしたんだ。わたし、ひどいよねぇ……。お父さん亡くなっちゃったのに。

 泰暁、ごめんね……。



 …………いいよ、自覚がなかった俺が悪かったんだ。……姉さん。姉さんがしたいように生きてよ。俺の気持ちは変えられないんだ。だからぜんぶ、あなたが望むようにしてくれていいから。




 寝入ってしまった姉の身体に、泰暁は毛布をかけてやった。

 姉の手をゆるく握って、彼は言った。


「姉さんにだけは誠実でいたかったんだ。でも、ちゃんと話したことはなかったよね。あなたは永い間、ずっと独りだったよね。ぜんぶ自分ひとりで決めて、だれにも相談せずに今日だって……」



 姉の疲労の滲む目の下を、泰暁は指の背でそっと撫でた。


 今朝、泰暁が起きたときには姉は身支度を終えていて、父の事故の事情聴取に行ってくると簡潔に告げた。一緒に行こうかと尋ねたものの、姉の空気はそれを拒否していた。警察署の場所は彼の卒業した県立高校のすぐ側だった。

 泰暁が高校一年と二年のとき、姉は文化祭に来てくれたが、高校三年のときは来なかった。バスケの県大会決勝戦をさかいに、彼女は泰暁からなるべく遠ざかっていた。今日も、北高校の近くを彼と通ることに、姉のなかで折り合いがつかなかったのだろう。

 それでも、泰暁は姉が心配で警察署の近くまで行き彼女を待っていた。鍵のかかっていないバスケットコートでボールをみつけ、遊ぶようにしている弟を目にして、姉へ笑顔を向けた弟をみて、彼女はなにを思ったのだろう。

 用があって急ぐからと言いおいた物寂しげな瞳。




「……姉さん。俺は姉さんを苦しめたね。姉さんが俺を置いていったんじゃない。姉さんがずっと独りだったんだよ」



 父の事故を知り、いよいよ危ないと医師から聞かされたときの姉の表情を、泰暁は衝撃をもって受けとめていた。


 青ざめた肌、著しい当惑、そして――安堵……。


 姉弟の秘密にも満たない秘密、泰暁ばかりが負うはずの業の露見を、姉は父から守ったのだ。その安堵ではなかったか。父が泰暁の想いについてなにも知らなかったとは思わないが、聡い姉が、父の憂色を――それを抱いていたとしたら――悟らないはずはなかった。


 高校受験をひかえていた姉は、第一志望だった県立高校をやめて女子高を受験した。進路を変更したと聞いたのは、泰暁が中学一年の秋だった。進学した大学も女子大で、二年間入寮の制約がある寮へ入った。一旦は実家へ戻ってきたものの、泰暁の大学一年のときのバスケ部員との喧嘩を境目に一人暮らしをはじめた。就職後も実家には帰らなかった。

 だがおよそ5年勤めた会社が合わなかったのか、私生活でなにかあったのか、姉は半年前に転職し実家へ戻ってきた。



 思慕したひとは、憧憬(しょうけい)そのものだった。

 耳が出るほどの短い髪も、二重瞼も、装飾を削ぎ落とした暗い色の服装も、彼女の纏う廉潔な影も。

“おかえり”と言ったとき、“ただいま、泰暁”と応えた爽涼(そうりょう)で、親愛のこもった笑顔も。


 泰暁はちいさく嘲笑した。


「あの鷹宮っていう警察官……、あなたのことを気にしてたよ。なんもわかってねぇくせに」


 父の訃報を聞いて青ざめながらも安堵の息を吐いた姉を、愕然としてみつめていた男。(みだ)りがましく渇望するかのようだった。あの男は、姉が恐れているものを知らない。そして、自分も――――、


「俺は、この炎のゆく先を知らない……。果てがあるなら、それを見てみたい」



 触れることが叶わないひと。姉へむかう切々とした炎。火影(ほかげ)として落ちる、深い諦め。

 ――――倫理の果てに。この炎は昇華するのか。





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