魔滅の刃 ミナイの村編 其の壱拾九 < 蟲 人 >
ワールゥ、ビショウ、ニコは、人間に囚われていた魔物である。魔物同志を戦わせる闇組織の中で彼女たちは出会った。
ニコは主に見世物として、ワールゥは戦いに、そして人間に近いビショウは人間の玩具として虐げられた。屈辱と虐待の日々の中で、ワールゥとビショウは人間を憎み、ニコは人間を恐れた。
荷馬車で移動中の人間を狩っていたエイミーとゲラに助けられたのが、ゲラとの縁となった。
「人間を根絶やしにしてやる。」
そう言ったゲラに、ワールゥとビショウは臣従を誓った。ニコは自由になりたかったが、断れる雰囲気ではなかったし、エイミーは恐ろしい存在だった。やがてエイミーたちがロアの軍団に入ると、彼女たちも一緒に兵士となったのである。
ニコは虫人間(蟲人)である。
虫人間とは人型で蟲の姿をした魔物の事で獣人の一種と目されるが、獣人ほどの統一感は無い。蜂や蟻など虫人間の種族は社会を形成するので集団で発見されるし、一族の統一感はあるものの、他の昆虫に似た魔物は単独で行動するためバラバラの姿形をしていた。そしてトンボであるニコなどの虫人間の数はそう多くない。だから見世物として檻に繋がれたのである。
虫人間は人型をした虫と言ったが、そのフィジカルポテンシャルは多くの魔物の中でも飛び抜けて優れている。もし虫が人間と同じ大きさであったなら、その能力は人間のそれを遥かに凌駕するのはご存じだろう。
もしニコがゲラやワールゥのような性格であれば、エイミーの実力に匹敵していたかもしれない。
成り行きではあったが、ニコも表向きはエイミーに忠誠を誓っている。
エイミーの恐ろしさはただの魔物の強さではなかったから。残忍で凶暴。気に喰わぬ事があれば、人でも魔物でも一瞬で殺す。いや、嬲り殺しにする。まるで殺戮だけを愛しているかのようであった。
しかし、普段のゲラは快活で親しみやすく、3匹はそれなりに楽しい日々を過ごしていたと言えよう。
ただ、その中でニコだけはあまり人間を殺していない。主に偵察や索敵を行い、人を殺すことを避けた。なぜならニコには、エイミーやゲラ程の憎しみを持ってはいなかったのである。
それは彼女の幼生期の思い出があったからだ。
数十年もの昔の事だが、人里離れた小さな小屋に棲む親子の間で、ニコは愛玩動物のように育てられた。どういう経緯でそうなったのかはニコには分からない。ただ精神が発達し始めた頃には、人といるのが当たり前の事だったし、人を殺して食べるという事も彼女の意識の中には無かったのである。
それ故にニコには人間を深く憎む気持ちが湧いては来なかった。見世物として屈辱と虐待を受け、人間を憎む気持ちはあったものの、どこかで人間を信じる気持ちも残っていた。
彼女の特殊能力で、エイミーとゲラの手助けをし、人間を殺したこともある。それでも心のどこかに躊躇いが残っている自分に気が付いていた。
そして・・
出来れば、この人間は殺したくない。
そう思っていた。
エイミーの指示で殺さないのではなく、ニコ自身がそう思っていた。半死半生の状態でエイミーに渡せば結局は殺されるだろう。だがニコには迷いがあった。なんとか戦いを放棄して逃げてくれないかと願っていた。
それはエイミーに斃されたイーフリートとウンディーネを、この男が慈しんでいるのが何となく分かったからである。
それ故にワザとかすり傷程度になるように攻撃を留めている。
だが、この人間は引かなかった。
透明で見えない筈の自分の攻撃を受けても、恐れるどころか逃げずに立ち向かってくる。
ニコの羽根は鋼のように強靭で、切れ味も鋭い。鎧を切り裂くことは難しいが、関節を狙えば切り落とすことくらいは造作もない。
(やつに私の位置はつかめない。)
先ほどからのエストロの攻撃もいい線は行くが、空を切るだけだ。滑空を基本とするニコの飛び方はほぼ無音でもあるから、人間の聴覚では捉えようがない。
(腕1本くらいなら・・いいか・・。)
ニコは腹を決めると風を切り裂き、エストロの左腕を狙った。
エストロはじっと立っていた。
剣を構えていた両腕はぶらりと垂れ下がっている。
ぼんやりと虚空を見つめ、首をゆっくりと左右に振る。
ニコは何か嫌な予感がした。
しかし、透明になった自分の姿をとらえられる筈がない。その自負はある。
ワールゥのような細かい羽毛は持たないが、滑空で飛ぶ自分もほぼ無音。風を切る音が薄く聞こえるだけ。もちろん、ニコにもエストロは見えない。だが、触角の機能はエストロの位置をぼんやりとニコの脳内に送っている。
「絶対に大丈夫。」
ニコは不安を振り払うように、小さな声で呟いた。
それでもニコは念には念を入れ、エストロの視界に入らない角度からの攻撃を選んだ。
(腕一本だけとはいくまいが、仕方ない・・)
全体重を風に乗せて、もう少し! という時に、エストロの左腕が消えた。いや、正確には剣を掴んだ拳が肩に乗っている。
(な! なんだ!!)
剣のツバには剣が無かった。
それに気づいたと同時に、体が何か見えないものに包まれた。
「あ、網かっ!!」
霞網のような大きな網に包まれたニコはどさりと地面に落ちた。
羽で網を断ち切ろうとしたが、その網は細いくせにやけに丈夫でニコの羽根では断ち切れそうも無かった。
「やめておけ。魔鋼鉄にミスリルを混ぜた特別製の網だ。お前の羽根では切れないよ。」
姿を現したニコに、エストロはゆっくりと近づいた。
ニコはもがいたが、網は小さくすぼまり体の自由を奪ってゆく。
「どうして、分かった!」
「お前の攻撃には殺気が少ない。だから私も殺さずに捕らえた。」
「そうじゃない! 見えない私の居所が・・」
「私にはお前が見えていた。視界の中に居なければ、それは背後だろうと予想できる。あとはタイミングだけだ。」
エストロはニコの気配を掴むために、剣を構えず、自然体で周りの空気の流れと気配を読む事だけに全集中した。
右手のウルミーがクルクルと回って鋭いステッキのような形状へと変化する。
これなら網を潜ってニコを刺し殺すことが出来るだろう。
「くくく・・殺しな。殺しなよ。」
ニコはなぜかホッとしたような顔をした。
(リーゼ。私もそっちに行く事になりそうだ。そしたらお前は喜んでくれるかな。)
ずっと忘れていた飼い主の名前を突然思い出した。
エストロはウルミーの先端をニコの喉に向けた。
「お前の選択肢は二つだ。私の従魔になるか、このまま殺されるかだ。」
「自由にしてくれるって選択肢は無いのかな?」
「無い。」
エストロの目は冷たい光を帯びていた。
しかし、その瞳に殺したいという欲望は見えない。それでもニコが従魔になる事を拒否すれば、躊躇なく喉を貫くだろう。
ロアの軍団にいた魔物を従魔にする。
契約を結ぶ以上、エストロを裏切ることは出来なくなる。
しかし、ゲラたちを裏切る事も出来なかった。
ニコは数万もある複眼の全てで、瞳の深淵を覗いていた・・・。




