魔滅の刃 ミナイの村編 其の壱拾弐 ― グラ・ネイズ ―
「クソッたれのバカヤロー!! お前なんか、死んじまえぇ!!」
オートミールの入ったスープ皿が頭に当たって体中に飛び散った。
ドレイクは湯気と火傷の痛みで少しだけ顔を歪めた。
「お前なんかに! お前なんかにぃい・・・あぁ・・ああああああああ!」
ベッドの上でさめざめとグラは泣き始めた。
アリアドネの毒を飲み始めて数日が経つ。
グラの目の下には浅黒い隈が現れ、頬が大きくくぼんでいた。髪は蓬髪となり、美しく艶のあった黒髪は見る影もない。体中がやせ細り、嫌な臭いの汗と汚物の臭いが部屋の中に漂っていた。
そう。
グラは憔悴しきっているのだ。
「どぉして・・どおしてぇぇえ・・・」
グラの瞳からの涙は枯れなかった。
「・・どうする? やめるか?」
ドレイクは蓋の付いたカップをゆっくりとグラの方へ差し出す。
グラは鬼のような形相でドレイクを睨みつけたが、ブルブルと震える両手でそのカップを掴んだ。
掴んだが、吐く。
吐いても吐いても胃液しか出ない。
それでも両手に持ったカップを落とすことは無かった。
震えながら蓋を取り、震える両手で口元へと持っていく。
息が荒い。
目が充血している。
体中がその中の液体を拒んだ。
だが・・
グラはそれを一気に飲み干した。猛烈な吐き気を催し、体中が拒んで、今飲んだ液体を体の外へと押し出そうとしている。
しかし、グラの強靭な意志だけが、それを許さなかった。
その液体が少しづつ体の中に取り込まれていくにつれ、全身に激痛が襲う。
体中が震え、薄い粘膜の壁が破れ、目と鼻から赤い血がしたたり落ちた。体が激しく痙攣し、体が捩れ、全身の筋肉が悲鳴を上げた。
「出て・・行けぇ・・出て行けぇえ!!」
地獄の底から聞こえてくるようなグラの咆哮に、ドレイクは振り返らずに部屋を出た。
部屋の外には怯えたようなツウがタオルを持って立っていた。ドレイクの顔にかかったオートミールを拭こうとツウは近づいたが、ドレイクはそれを拒んだ。
「俺はいい。それよりグラを頼む。」
「でも、火傷してます。治療をしなければ。」
「ありがとう。俺は彼女に何もしてやれない。君だけが頼りだ。だから、グラを頼む。」
ドレイクはそう言うと、家の外に出た。
冬だと言うのに気温は高く、まるで初夏のような陽気の中、畑では麦わら帽子を被ったH=クタークが草むしりをしていた。ドレイクはクタークの横を通り過ぎ、畑の側にある小川に入り、素っ裸になって体を洗い始めた。
「おやおや。凄い傷ですね。」
いつの間にか、小川の辺に麦わら帽子をかぶったクタークがいた。
ドレイクの傷はロアの軍団と戦う前には無かった傷だ。ほとんどはホークの治療で治っているが、深手の傷はまだ跡が残っていた。
「脇腹の傷が一番酷い。僕が治療してあげましょう。」
近づいたH=クタークの喉笛をドレイクが鷲掴みにした。
「ちょ・・ちょっと・・・苦・苦しい・・」
「グラは本当に大丈夫なんだろうな!」
「・・は、放しなさい。大・・・丈・・夫ですから・・」
ドレイクが力を緩めると、クタークは地面に膝をついた。
「ホントに、あなた。。ゼイゼイ。。何を・・ゼイゼイ・・するんですか。神様を殺す気ですか? ホントにもう、死ぬかと思いましたよ・・。ゼイゼイ。」
クタークの長い耳がしなだれていた。
「済まなかった・・。」
項垂れたドレイクに、クタークの手がそっと脇腹に触れた。熱いエネルギーのような物が、ドレイクの体の中に注ぎ込まれてくるのを感じる。
「まったく・・・彼女は本心で言ってるのではありませんよ。毒がそうさせているのです。気にしてはいけませんよ。」
「あんたは優しいな。」
「それだけが取り柄です。」
「・・あれは本心さ。」
「違います。誰でも苦しい時は自分本位になるものです。生きているのですから。」
「だからだ。グラは本心で俺をなじったんだ。」
「ですが・・」
「気にしちゃいねえよ。誰でもそうなる。俺でもそう言うさ。」
クタークの目が笑っている。
「この傷は”アシュタロトの憂鬱”ですね。」
「ああ。」
「よくあれを治療したものです。よほど良い医者が治療したと見えますね。」
「グラに治してもらった・・。」
「・・そうですか・・。」
兎はニッコリと笑った。
「ですが、わずかに残穢が残っているようですね。放っておいてもいずれ抜けるでしょうが・・僕がキレイにしてあげましょう。」
クタークがブツブツと何かを唱え始めると、脇腹に受けた傷がほんのりと熱を帯びて黒い液体が一筋の跡を残してしたたり落ちた。
「さあ、これで大丈夫ですよ。」
「すまない。貴方には本当によくしてもらっている。さっきの事は許してくれ。」
ドレイクは深く頭を下げた。
「な~に、愛するが故ですからね。」
「い、いや、ち、違う。」
「あれあれ、顔が赤くなってます。ねえ、シロ。」
いつの間にかクタークの足元に来ていたシロがニャーンと鳴いた。
********
「なーんだ。ここに居たのかい、僕の可愛いお姫様。」
「あ! お兄様!」
グラは10年上の兄、グリフィンに抱き着いた。
グリフィンはグラを高く抱き上げると、「ほ~ら、高い、高ーい。」とあやす。
「やだ、お兄様ったら、グラはもう子供じゃないもん!」
「あははは。済まない済まない。それで、姫君は何をしていたのかな?」
「薬草を摘んでましてよ、お兄様。」
「また魔法使いの真似事かい? お姫様には大釜の前でドロドロの薬を作るのは似合わないよ。」
グリフィンはあきれ顔で、それでも笑顔でグラの頭を撫でた。
「お坊ちゃま。サイリー様がお見えになりました。」
執事が花壇にいたグリフィンを見つけて呼びに来たらしい。
「ああ、今行くと伝えてくれ。」
「かしこまりました。」
執事が去ると、グリフィンは屈んでグラの額にキスをした。
「今日はサイリーと鹿狩りに行くんだ。私の姫君に、ご馳走を用意してあげるよ。」
「うん! 楽しみに待ってるわ。お兄様。」
グラは投げキッスを何度も繰り返して行くグリフィンに大きく手を振っていた。
「まったく、グリフィン坊ちゃんはグラお嬢様を溺愛していなさる。」
「シスコンだね、ありゃあ。」
使用人たちの笑う声が聞こえたが、グラは気にしない。グラも一番好きな兄なのだ。
ネイズ家はバリスの東に広大な領地を持つ大貴族である。
父親のコンスタンティンはフリーシアの国務大臣を務めたこともある人物で、その生活も豊かだった。
領地には壮大な城があり、グラはそこで生まれた。
上には姉が3人、兄が2人いた。その中でも次男のグリフィンはグラを殊の外、気に入っている様子で、使用人の言う通り、溺愛していると言って良かった。3人の姉はとうに他の貴族に嫁いでいる。
サイリーは長女の夫でグリフィンの義兄である。グラは6人兄弟の末っ子で、すぐ上の姉とは7歳離れている。年の離れた末っ子なので、甘やかされ放題で育った。
それに、グラの母はグラを産んですぐに他界した。兄弟や父親が彼女を甘やかしたのは、そのせいもあった。
ネイズ家の兄弟の内、長女のフランシーヌは先ほどの中堅貴族の4男坊のサイリーに嫁いでいる。サイリーはフランシーヌを見初めて、猛アタックで口説き落とした猛者である。因みにフランシーヌは妾腹でもあったから、婚儀はとんとん拍子に進んだと言う。
嫡子は長男のマシューと決まっていたが、マシューは先天性のてんかん持ちであり、公務をこなすのは難しいと言われていた。ゆえにグリフィンをネイズ家の後継者へと押す家臣や親族も多かった。
「そうか、辞めるのか・・。それにしても勿体ないな。主席宮廷魔導士の称号を欲しがるヤツは五万といるだろうに。」
「これが最後の仕事になる。」
薔薇の植え込みの陰から話し声が聞こえて来た。
(お父様とお城の魔法使いのおじさんの声だ。)
どういう訳か、グラは薔薇の植え込みの陰に隠れた。理由など無かったが、なぜかそうしてしまったのだ。
「決意は固いのか? お前の代わりになる魔導士などいるものか。待遇の事なら私が王に掛け合って・・・」
「それには及ばんよ。これは私の我儘なのだ。・・おや、グラじゃないか。」
隠れるつもりはなかったのだが、なんとなく出るに出られなかったグラである。
「こんにちは。カイドーのおじ様。」
グラは植え込みの影から出てくると、ペコンとお辞儀をした。
「見ないうちにきれいになったなあ、お嬢ちゃん。」
「ありがとうございます。おじ様。」
「グラ。何をしているんだ? 花壇の草むしりなど庭師に任せておけと言っているだろう。」
「ごめんなさい。お父様。」
そう言うと、グラは一目散に逃げだした。
「まったく、困った子だ。」
「何か薬でも調合しようとしてるんじゃないのか?」
さも、困ったというような顔のアランは、カイドーの問いに苦々しく答えた。
「あれは祖母の影響を色濃く受け継いだらしくてな。呪文は使えなくとも簡単なヒーリング程度なら3歳くらいから出来てた。」
「それは素晴らしい。将来有望だな。」
「だから困ってるんだ。決して魔法使いが・・・そのなんだ、悪いとは思っておらん。しかし、グラはネイズ家の娘だぞ。それが魔法使いを目指すなど決して許されん。」
「そうか? 人にはそれぞれに道があると私は思うがね。」
「バカな! あれは王家に嫁がせる。もうその算段も整っておるのだ。それがあの子の幸せだ!」
(それが必ずしも幸せとは思えないがね。)
カイドーはそう言おうとしたが、そうは言わなかった。
若かりし頃のカイドーとアランは、王の命で地方の豪族の討伐に赴いたり、盗賊狩りだの魔物退治だのを一緒にやった仲だった。そのころのアランは、英雄に憧れを抱く、ただただ熱い若者だった。
「どうした、カイドー?」
「いや、お前も立派な大人になったんだなと思っただけさ。」
「バカ。何を当たり前の事を言ってるんだ。」
「そうだな。当たり前だ。」
カイドーはグラの走り去った方向をじっと見つめていた。
「ところで、ゆっくりして行けるんだろう? 久しぶりに飲み明かすのも悪くない。お前の部下たちも呼べばいい。」
「いや、そうもしていられない。今日は君の領地を通過するので、挨拶に来ただけだ。部下も町で待機しているし、早々に発たねばならん。」
「そうか、それは残念だ。どうせお前の事だ、すぐに仕事は終わるのだろう。帰りは又立ち寄ると良い。」
「ああ、そうさせてもらうよ。帰りには部下も連れてお邪魔するとしよう。」
その日の夕刻。
ネイズ家では大変な騒ぎになっていた。
鹿狩りに行っていたグリフィンが賊に襲われ、左足を負傷して帰って来たのだ。一緒に鹿狩りに行っていたサイリーは無事だったが、供の者一人が命を失った。
「何だと! いったい誰の仕業だ!!」
「申し訳ありません! 僕がついていながらグリフィンを守れなかった!」
一緒に行ったサイリーはアランの前でおんおんと泣き喚いた。賊と戦ってサイリーも負傷していると見え、服が破れて血だらけになっていた。
烈火のごとく怒ったアランは、執務室から足早に担ぎ込まれたグリフィンの様子を見に行くと、矢傷は左足の脹脛あたりらしく、命に別状は無さそうに見えた。ベッドで痛みに苦しむグリフィンには気の毒だが、アランはホッと無でを撫でおろしていた。
「アラン様。油断はなりませんぞ。」
「どういう意味だ?」
「どうも矢には毒が塗られていたようでございます。」
主治医が険しい顔でアランに告げた。
見ると、矢傷を受けた部分が腫れ上がり、青黒い痣のようになっている。
「治せるのか?」
「毒の種類は判りませんが、解毒薬と解毒呪文を併用して治療を行っております。お任せください。」
しかし、主治医の自信はすぐに崩れた。
解毒薬と解毒呪文、回復呪文を駆使したにもかかわらず、翌日には容態がさらに悪化してしまったからだ。左足は右足の3倍ほどに膨れ上がり、グリフィンは全身を苛まれる苦痛にベッドで暴れる始末だった。
見かねたアランは、すぐにバリスに使者を送り、ギース教に救いを求めた。
大貴族ネイズ家の要請とあっては、ギース教も無下には断れない。バリスのギース教の精鋭がすぐにやって来た。
しかし、彼らはグリフィンの傷を見るなり顔が青ざめた。
「どうだ? 治せるか?」
アランの問いに、司教が答えた。
「難しいと思います?」
「なんだと? お前たちはギース教最高の魔法医師であろう??」
「・・・こ・・この毒は≪アシュタロトの憂鬱≫だと思われます。」
「それがどうした?」
希少な毒であり、使用されることもほとんどなかったこの時代。悪魔の毒薬とも呼ばれる≪アシュタロトの憂鬱≫の知名度は低かった。
戦乱の時代に使われた悪魔の毒薬。如何なる魔法も薬も受け付けず、毒を受けた人間を苦しませるだけ苦しませて死に追いやる。しかも、患者が弱り始めると毒素を緩め、快方に向かったように見せかけたりもする。正に意思のある毒薬。一介の魔法医師の手に負える代物ではなかった。かと言ってギース教の精鋭である彼らにもその解毒法は判っていない。どうしてよいか分からぬのは彼らも同じだったのである。
「御覧ください。矢傷にあったと思われる青黒い痣が、真っ黒になって傷から離れ、膝の近くにまで上がってきているでしょう。この痣が心臓まで達すると患者は息絶えると言われております。」
「何?」
「しかも、どのような魔法も解毒薬も受け付ける事は無いのです。」
アランはいきなり司祭の胸倉を掴んだ。
「いいか! どうやってでも息子を治せ。お前たちは王宮専属の魔法医師なのだろうが!」
司祭に付き添った修道士と、アランの部下が慌てて二人を引きはがした。
「分かりました。幸い傷は足です。切り離してしまえば、毒痣が心臓に達する事はありません。」
「足を切るだと?」
「ええ。ですが、ご安心ください。我らの秘法で足を作り、繋いで差し上げましょう。」
「・・・分かった。金ならいくらでも出す。とにかく息子を助けろ、いいな。」
すぐに手術が行われ、グリフィンの左足は切断された。後は新たな左足を魔法で作り、繋ぐだけである。手術が終えるとグリフィンの容態も安定し、安らかな寝息を立てることが出来た。
しかし・・司祭たちもアランもホッとしたのはわずかの間だった。
驚くべきことに、切り離された左足にあった毒痣が、翌日には右足の太ももに発現したのである。毒の痣に意思でもあるかのように、今度は右足を切って見ろとでも言わんばかりだ。
「ま・・まさか。」
これには司祭たちも青ざめた。呪文も薬も効かない悪魔の毒。また右足を切り離したところで、次もまたどこかに痣が出現する可能性は大きかった。それでも一縷の望みにかけて右足も切り取られた。
が!
結果は同じだった。
しかも今度は切り離すことが出来ない。
痣は首に発生していたからだ。
左の耳朶のすぐ後ろに嘲うかのような毒痣が出現していたのである。さすがの魔法医師も首を切って繋ぐことは出来なかった。苦痛に身もだえし、日に日に衰えて行くグリフィンの痛みを緩和する事しか出来なかったのである。
城の中では毎日、グリフィンの絶叫が聞こえていた。緩和も一時的でしかない。それすらも毒は受け付けないようだった。痣はゆっくりと移動し、首から鎖骨へと移っていた。
弱り果てたグリフィンは快活だったころの面影はすでになくなっていた。
緩くウエーブのかかった金髪は粘り気のある汗で固められ、両目は落ちくぼみ、頬骨がやけに張り出している。顔色は青ざめ、赤黒い隈がハッキリと浮かんでいた。両腕はやせ細り、指は皺に刻まれ骨に皮が付いているような姿になっている。
アランは毎日のように神に祈り、哀れな息子の姿を見ては涙を流した。親族が毎日のように見舞いに来るが、死にかけたグリフィンを見ると、二度と現れなかった。
グラはグリフィンに会いたかったが、子供たちは面会禁止が言い渡されていた。
「まったく、いい加減にくたばってくれないかな。」
「バカ。誰かに聞かれたらどうする。」
「すまん。しかし、こっちも限界だぞ。」
「・・ああ、それはな・・。」
二人の修道士が階段を降りて来た。
二人ともグリフィンの看病に嫌気がさし、憔悴しきっているようだった。10日以上も経つのに病状は改善されず、悪化の一途をたどる。しかも少しずつなのだ。一歩改善の兆しを見せたかと思うと、病状は2歩進む。希望を与えては打ち砕くのだ。患者にも医師にとっても最悪の状況と言えるだろう。しかもそれが毒の意思によるものだから質が悪い。
二人が階段を降りて廊下を曲がるとすぐに、階段の陰に隠れていたグラが現れ、足音を殺して階段を上がり始めた。
グラは辺りを警戒しつつ、グリフィンの部屋へとそっと忍んで行く。
部屋の中は何とも言えぬ臭いが充満していた。
歓喜の為に窓は開け放たれていたものの、日差しを遮るためにカーテンは閉められたままである。時折、風が重いカーテンを押し上げ、日差しを室内に送っていた。
それでも部屋にこびりついた死臭はぬぐえなかった。
グラは死人のように窶れ果てた最愛の兄を目にして呆然と立ち尽くした。
「・・・に・・い様・・。」
死体に話しかけているような錯覚を覚える。
それでもグリフィンは微かに呼吸をしているようで毛布に覆われた胸が微かに上下している。
グリフィンの吐く息はドブのように臭い。
髪がねっとりとした汗で海藻のように肌に張り付いている。
汗が顔の表皮から滲み、死臭を嗅ぎつけたハエが顔の周りをブンブンと飛び回っていた。
「兄様、お加減は如何ですか?」
グリフィンに最初に声を掛けるつもりだった言葉が続かない。
グラは息を飲んで立ち尽くし、じっとグリフィンの顔を凝視していた。
すると、青黒く染まったグリフィンの瞼が持ち上がった。
「・・・兄様・・。」
グラは言葉を飲み込んだ。両の目から涙が止めどなく零れ落ちた。
「・・グラ・・か・・。」
「ええ、お兄様!」
こらえきれずにグラはグリフィンに縋りついた。
「失せろ! クソガキ!!」
痛みにもだえながら、グリフィンはグラを振り払った。
グラは驚きのあまり床に尻餅をつく。
半身を起こしたグリフィンの形相は、まるで鬼のように見えた。欠けた歯が唇の隙間に見え、よだれが糸を引いて唇から垂れさがる。
「に、兄様。どこが痛いの? わたし・・」
「消えろ!! お前のようなガキに俺の痛みが分かるかっ! 俺は・・オレは・・・」
グリフィンの両目から涙が零れ落ちた。
「なんで・・・なんで・・オレなんだ・・。なんで俺がこんな目に合わなきゃなんねーんだ!」
「にい・・・さま。」
「死ね! クソガキ! お前が俺の代わりに死ね! 死ンじまえ!!」
左手を伸ばした拍子に、グリフィンは勢い余ってベッドから転げ落ちた。
這いずってグラを掴もうとするグリフィンは既に人間ではなかった。両足を切り落とされた芋虫のような怪物!
「死ねえ・・・オレの代わりに死ねえ・・死にたくない・・死にたく・・ないヨぉお・・」
泣きながらグラに這いずって迫るグリフィンに、グラは恐怖を覚えた。
これがあの優しい兄なのか!
これが人間なのか!
恐怖に駆られたグラは、慌てて立ち上がると悲鳴と共に部屋を飛び出して行った。
外は雨が降っていた。
バラの花壇の前で、グラは雨に濡れて呆然と泣いていた。
「おや・・グラじゃないか。どうしたんだ、こんな所で。」
声の方をグラが見ると、そこには数人の部下を連れたカイドーが立っていた。
「おじさま!」
グラはカイドーに縋りつくと、大声で泣き始めた。
カイドーは部下たちに先に中に入るように命じると、グラをやさしく包み込み、雨の中を頭を撫でながら泣き止むまで待った。
相当な時間が経って、グラはようやく落ち着きを取り戻した。
「どうしたと言うのだ? 話してみなさい。」
グラには分からないことも多かったが、それでも事の顛末をカイドーに話せた。
「そうか。それは辛かったろう。外は冷える。ひとまず中に入ろう。」
グラは大きく首を横に振る。
「なら、雨が当たらないように庇の下に入ろう。」
入り口の扉の前で、グラとカイドーの二人は並んで座る。雨は当たらなくなったが、急激に体が冷えて来るのを感じた。
「・・グラよ。」
カイドーは優しくグラに声を掛けた。
「グリフィンを恨んではいけないよ。あれは病がそうさせているのだ。」
グラはコクリと頷いた。
この後、グリフィンは数日して他界した。
王宮魔導士の称号を持つカイドーにも、<アシュタロトの憂鬱>は治せなかった。
そして・・グラはコールレアン修道院に旅立ち、修道士となるのだが、その話はまたの機会に譲るとしよう。




