息
スゥ、と口を口を合わせた状態で、男は息を吸い込んだ。
とっさにノクリアは相手を押し返し、それから咳き込んだ。
なんだ。何かをとられた気分だ。
ノクリアが灰色のフードを着込んでいる腕で口をぬぐいながら男を見ると、男は妙に満足そうだった。
あれ。顔色が。少し、良くなっている。
「何をした」
とノクリアは尋ねた。
男は嬉し気に目を細めた。
「味見だな」
という答えに、ノクリアは怪訝に見つめ返した。
男は、自分の手を裏返してはまた表返し、満足そうに観察している。
その動きを不思議だと思ったが、一方で、おや、とノクリアも思い至る。
確かめることを少し迷ったが、勝手に体内の空気を吸われたのだ、こちらも多少不躾で構わないはずだ、と結論を持ってノクリアは己の右腕を男に伸ばし、トン、と胸を押した。
押せた。
昨日は、布を押すような手ごたえで、押し返せなかったのに。
「なかなか、良いものだ」
と男は妙に上機嫌だった。笑っていた。
手を伸ばしてノクリアの頬を撫でる。
「あぁ早く成ればいい。早く私になれ」
意図が分からない。とはいえ、男は自分を所有したがっているように思える。ノクリアは男の様子を見つめながら、違和感に少し首を傾げた。
「私はイフィルのものだ。あなたのものではない」
「・・・イフィル?」
男は怪訝な顔をした。
その反応を、またノクリアは不思議に思う。
「イフィルを知らないのか?」
「・・・何だったかな」
「あなたはどこから来たのだ」
男は無言でノクリアを見つめた。ノクリアも見つめ返す。
なお、イフィルとは国の名だ。民は国の所有物である。当然のことだ。
イフィルの他にも勿論国はある。だが小国でもないイフィルの名を聞いてこの反応は不思議だった。
「・・・まぁ良い。関係ない。どうせ同じだ」
男は少し慎重に呟いた。己に言い聞かせるようだ。そして自分の言葉に笑い。
くっくっく、と馬鹿にした笑みを漏らす。
ノクリアは、なぜだか少し哀れを覚えた。理由はノクリアにもはっきりしないが。
寂しかったのだろうか、とノクリアはふと思い、そう思った自分に瞬いた。
けれど、それで異世界からのノクリアに構うのかもしれない。
ジィと観察するように見ていたので、男が気づいて見つめ返した。
男は思いついたように目を細め、もう一度顔が近づいてきた。
二度目だ。気づいたノクリアは避けるために後ろにと思ったが、肩を抑えられて無理だった。もう一度唇が合わされる。
一体何なのだ。
スゥ、と息をまた吸われてまた気持ちが悪い。すぐ放してもらいたい。
自分に何か栄養でもあるのか? と思った途端、鳥肌が立った。
離されたので、離れようとしたが動かない。間近に男の瞳がある。
おや、と思う。奥行きを感じない瞳だ。瞳らしくない。
見つめ合っていると、瞳は横に動き、何かを確認したようだ。それから次にフッと息を吹きかけられた。
温度のある息が直接口内に入ってきて、ノクリアは顔をしかめた。大変不快だ。
入った息を押し出そうと咳をする。
男は今度こそ離したノクリアを見て、また己の手の表と裏を見て、呟いた。
「面倒くさいことだ」
「なんの趣味だ。もう二度とするな」
再び口を袖口で何度もぬぐいながら、ノクリアの目は気持ち悪さに涙目だ。
「イフィルとは恋人ではないな」
「当たり前だ」
「なるほど。まぁそれよりも・・・」
男は落胆したようにまた己の手を見やり、スルリと動いて次にノクリアを抱え込んだ。
「移動するぞ」
「はぁ? 放せ。自分で歩く・・・いいや、なぜ一緒に行動しないといけないのか」
そうだ。ついていく必要はない。正直離れた方が良い気がする。何かに巻き込まれる気分がする。
「大丈夫だ、守ってやろう。昨晩の事を忘れたのか。愚かしいな」
「理由を教えてくれ」
男は無言になり、それからまた馬鹿にしたように笑んだようだ。
「そのうち、な」