霧雨が降る中
「おはよう」
ノクリアは、丘に踏み込んだ瞬間から小さく大地に向かって声をかけた。
風がそよりと吹く。
「今日も良い日になりそう」
男に話しかけるような気分で、独り言を零す。
ネコたちはまだ来ていないようだ。
ノクリアはのんびりと歩きつつ、丘の地面を眺めつつ、本日は巨石ではなく看板の方に向かった。
辿り着いて、ジィと見つめる。
今日は試してみようと思う事がある。
ノクリアはまず屈みこみ、大地に両手をつけた。
「この看板が、あなたを封じている道具だとネコたちに聞いた。・・・あなたも一緒に聞いていたのかもしれないが。私はこれを、引き抜いてみることができないか、試してみようと思う。ただ・・・あなたに痛みや害がないか、心配している」
話しながら少し迷い、大地を撫でた。
静かだ。
風が動いて、また細かな雨が降り出した。
「ここは、霧雨がよく降る。ひょっとして、あなたが降らせている?」
ここに来るまで、こんなに降られなかったし、ましてや霧雨など無かった。
濡れていく大地を変わらず撫でる。
話が出来たらよかったな。でも、無理だと聞いていた事だから、求めても仕方ない。
何かの感覚を得ることができないかと静かに地面を見つめていたが、特に分かる事が無かったので、ノクリアは立ち上がった。
「少し試してみる。・・・思えば、あなたにもどうなるのか分からないのかもしれない、な」
ノクリアは立て看板の前に立った。地面に近いところを両手で持つ。
まず、術を使ってみた。
『発動:物質計測』
じっと感覚に集中する。先端に感覚がなかなか辿り着かない。相当深く埋まっている。
ずっと待って、やっと先端にたどり着いた。そこから意識を引き戻す。戻すのは早い。
「・・・」
多分、私には無理だろう。とノクリアは冷静に判断した。
ノクリアは、優秀な戦力となる者たちに比べて、3段階ほどパワーが落ちる。
今計測できた長さのものを地面から引き上げるのには、ノクリアは力不足のはず。
だが、一気に抜けなくてもいいはずだ。
ゆっくりと、少しずつでも動けば良い。
「あなたに痛みがありませんように」
ノクリアは呟き、グッと体に力を込めた。
***
「駄目だ。全然動かない」
疲労で力を正しく込められない状態になって、ノクリアは看板を前に座り込んだ。
そのままゴロン、とうつぶせになる。
「少しでも動けばいいのに。何も動かない」
泣き言を零してしまう。
それから、大地をさすってみた。
「痛みなどなかった? 大丈夫だったか?」
下からはなんの返事もない。
ノクリアは大地に寝そべったまま、少し目を閉じて休息をした。
あたりは霧雨で覆われている。
***
ずっと霧が覆っている。
ひょっとして、男がノクリアを守ってくれているのだろうか。
そうなのかもしれない。
ただ、雨が降っているから、今日はネコたちは来ないかも。
そして、濡れて滑るので看板が持ちづらい。まぁ、しっかり持てたところで、結果に変わりはないかもしれない。
「・・・」
白い視界の中、ノクリアはぼんやりと考え、気まぐれに大地にキスをした。
それから腕立て伏せのようにして己の身体を大地から起こす。
「私が、パワー型なら、良かったのに」
ノクリアは白い中にある看板を見て零した。本当に無念だ。
「・・・まぁ、パワーに秀でていたら、即戦力に入っていただろうけど」
ノクリアは、元の世界について思う。
無意識に、また右手で大地を撫でていた。
「むこうは、どうなっているだろう。勇者は、タクマは、どうしているだろう。・・・あなたは魔族だけれど、私は人間だ。人間が勝って平和になれば良いと願っている。魔族が勝ったなら、人類は酷い辛酸をなめる」
ノクリアが語り掛ける男は、声が出せない。言いたいことがあっても答えることができないのに、こんな話はしてはいけないだろうか?
「私は、勇者の身代わりでここに来た。勇者が勝てば、私は戻る・・・。戻りたいと願っている。・・・あ」
ノクリアはドキリとした。
ノクリアが戻れば、男はどうするのだろう。ノクリアを食べられないなら、男は帰れないはずだ。
「・・・聞いて良いか。声がでないと分かっているが」
ノクリアは、己の残酷さを自覚しながら、それでも尋ねた。恐ろしく重要な問いだと思ったから。
「勇者が勝って・・・私が戻ったら。あなたは。あなたは、残ったまま? あなたは、どうする」
どうしよう、とノクリアは思った。
自分の思考が分からない。
だけど、心が酷く痛い。
ノクリアはギュゥと大地を握った。
「一緒に帰ったりは、できないのか?」