色恋
「その・・・以前言っていた、イフィルとは? ノクリアはイフィルのものだと、言っただろう。覚えているぞ」
と男は真剣に尋ねてきた。
「イフィルは、国の名前だ。魔族には名が届いていないのか」
不思議に思いながら答えると、男は目を瞬かせる。
それから嬉しそうに目を細めた。
「国の名。そうか。つまり、ノクリアはイフィルという国の者という意味か」
「そうだ」
なんだと思っていたのか。
「では」
男は目を泳がせた。
ノクリアをチラと見てから、何かを尋ねようとした。
だがノクリアと目を合わせると、動きを固めたように黙ってしまった。
「・・・必要な事なら、何でも答える」
心配になってノクリアはこう言った。
男はまた引き締めたように真剣な顔になった。それからまた何かを迷い、結果としてこう尋ねた。
「好きになった男はいるのか?」
またその質問なら、どうやらとても重要なのだ。
答えようとする。なぜか急に顔に熱が集まってきて、ノクリアは焦った。どうしたというのか。
「その、慕った人ならいるが」
正直に答えて俯いてしまったのを、チラと目を上げて男を見ると、男はグッと息を飲むように後ろに一歩引いていた。
どうしたのか。
「上官だ。慕うのは当たり前だ」
不思議に思うが、どうやら自分が違った答えをしたような焦りを覚える。
男は今度は困惑した様子を見せた。
「分かった」
と男は言った。
「キスを、私以外の者と、したことは?」
「あるはずがない」
「ないか」
男は頷き、また嬉しそうになった。
良く分からないが、嬉しそうにされるとノクリアも嬉しくなる。不思議だ。
「あなたはあるのか?」
と質問を返してから、ノクリアは己を馬鹿かと思った。あるに決まっている。初対面のノクリアにしてくるぐらいだ。
それでも答えを待っていると、男は顔をこわばらせた。
返事をしようとするようだが、言葉に出すのを躊躇うらしい。
ノクリアはその態度に不快感を示して見せた。
「私は答えたのに、あなたは答えを渋るのか」
「しかたが、ないだろう!」
と強い口調で責められる。
「逆ギレか」
ボソッとノクリアは呟いた。
元の世界ではよく遭遇した。何か指摘するとすぐ逆上する者が近くにいたのだ。
男はノクリアの態度に絶句し、ノクリアが胡乱な眼差しで見つめ続けるので、また口を開こうとした。
そうしてやっと出てきた言葉はこうだった。
「嫌だ。言いたくない」
「子どもだな?」
背はノクリアの方が低いが、見下したように感想を述べてやる。
男はムッと傷ついた様子だが、何も言い返してこない。
なんだか呆れる。
「もう良い」
ノクリアはため息をついた。
「生気は吸えた? もう大丈夫か?」
「・・・実際、少し物足りていない」
と男は言った。
「だが良い。こちらが居たたまれない」
こんな風に言われると、罪悪感が湧く。息苦しく、離すようにと胸を押したのはノクリアだ。
「すまない。息ができなくて、あまり長くが難しく」
とノクリアは目を伏せて詫びた。語尾が弱くなってしまった。
世話になる一方なのに、求めにきちんと応じることができないのはあまりに不甲斐ない。
「では、もう一度」
と言われたので目を上げた。先ほど『もう良い』といったのに。やはり足りないのを我慢させたのだろう。
ノクリアは同意に頷いた。
「ノクリア。その、なんだ」
正面に立ち、ノクリアの頬を指の背で撫でる男は、少し躊躇うように言った。
「私の事は、好きか?」
え。とノクリアは瞬きをした。
答えようとして、心臓が妙に音を立てた。どうしたのだろう。
好きとか。つまり色恋沙汰。
自分にはその感情は今まで訪れた事が無い。
ただし、こっそりと恋愛沙汰の小説が回ってきて、回ってきたものだからきっちりと読んだ。
そして実はその状況に憧れた。小説で、人々は幸せな結末を迎えていた。周囲も幸せに変えていた。
とはいえ。憧れたものの、そういう事態は自分には訪れたことがない。
「私は」
ノクリアは答えようとして、じっと相手を見た。
好きなのか。
この者が。魔族が。
魔族なのに。
そうか。好きになっているのか。
魔族。自分は使命を果たしに来ているのに。勇者と引き換えにこちらに。そんな状況で。
ぐるぐると感情が巡ってしまう。
それでもノクリアは相手に誠実に正しい答えを返した。
ただし、感情もぐるぐるしたまま、コクリと頷く事しかできなかった。