6 風と絶望
立花は、大顎を広げた犬に向け、無意識のうちに両手を突き出す。
それが、合図のように。
――ドクン
心臓が、大きく脈打つ。
視界が、一瞬ぶれる。
体が、熱を帯びる。
言葉が、漏れる。
「来るな」――と。
なんとなく、発した言葉。だがそれが意思を持っているかのように、体内を巡る。
その瞬間。風ひとつなかった公園に、突然。
――旋風が、巻き上がる。
「グルアアアアアア……!?」
狂犬を迎え撃つように発生したその暴風は、いとも簡単に。
闇を、吹き飛ばす。
死を、追い払う。
「え……!?」
だが、だれよりもその風を発生させた本人が、一番驚いていた。
立花は両手を突き出した体勢のまま、何が起こったのかわからないと佇む。
立花が、自分を庇って無残に死ぬところなど見たくない。
そう思い、目を閉じていたが……立花の、気の抜けた声が聞こえる。
恐る恐る目を開けた葵は、弟が五体満足のままいることに、そしてその右手の変化に驚く。
「立花……その手……」
葵に言われ、右手を見る――とそこには。
「ん……?ってうわなにこれ!?」
立花の右手の甲には、淡い緑色に光る刻印があった。
台風を模しているのか、いくつものラインが渦巻き状になった絵。
数秒前までなかったそれは、まるで長年そこにあったかのように輝き、闇夜の中で立花を照らす。
どこかで、見たことがあるような、ないような。
思い出そうとする立花の思考を、黒い犬が放った雄叫びが中断する。
「グルゥアアアアアアア!!」
先ほどよりも怒りも速度も増して、猛然と飛びかかってくる。
今まで余裕がなかったため詳しく観察することができなかったが、見れば見るほど恐ろしい風貌をしている化け物。
だが立花は、今回は落ち着いて敵に手を向け、叫ぶ。
「吹き飛べ!」
再び、立花の周囲から突如沸き起こる旋風。
それと同時に、右手のエンブレムが発する光も強くなる。
束になり、うねりを上げる風は、夜の闇をかけ化け物へと襲いかかる。
肉を食いちぎらんと飛びかかってきた犬を逆に弾き返し、遠くの木へと叩きつける。
「グルァ……ギャンッ!!」
初めて経験したであろう痛みに、黒犬は悲鳴を上げる。
狂犬が纏う気炎が、苦しそうに揺らめく。
地に落ち蹲った狂犬はすぐさま起き上がるが、警戒するように立花を睨み付ける。
「立花……? それ……?」
弟が、目に見えない力で異形の怪物を吹き飛ばした。
いくつもの非現実的なことが度重なり、驚きのあまり、呆然と問いかける。
「いや、俺にもよくわからないんだけど……」
風を操った右手が、燃えるように熱を放つ感覚がする。
それでも、なぜかそれは苦痛ではなく。むしろほんの少し心地よい気さえする。
それとともに、気分が高揚してくる。
「これがあれば……」
これがあれば。
姉と一緒に、この黒い狂犬から安全に逃げられる。
しかも、それはおろか。
――この力があれば、あの化け物を倒せる(・・・)かもしれない。
人には無い、非凡な力。
それを手にした今、自分にできないことなど無いかのように思われる。
大げさではなく、まるで世界を敵に回しても生き残れるのではないかという感覚。
「お姉ちゃん、俺が足止めするから先に逃げてて。できれば、外と連絡を取る方法を探してみて」
まっすぐ、犬を見据えたまま言う。
自分と一緒にいては、万が一と言うこともあり得る。
負ける気はさらさらないのだが、一応の保険はかけとくべきだろう。
「でも……」
「俺は大丈夫だからさ。お姉ちゃんは先に安全なところへ――ハァッ!」
立花が姉に気を取られた瞬間を狙ったのだろうか。
隙をついて音もなく飛びかかってきた化け物は、横殴りに発生した突風によってあっさりと別方向へ飛ばされていく。
「ほら、俺は大丈夫だからさ」
熱を飛ばすように右手をぷらぷらと振り、余裕さを見せる。
それでもなお、葵は心配げに立花を見るが。
「……わかったわ。でも、気を付けてね。」
この場にとどまっていても自分に出来ることは何一つないと思い、素直に提案を受け入れる。
「グルァアアアアアアア!!」
三度も捕食を邪魔されたことから憤怒の雄叫びを上げる狂犬。
それを尻目に、葵は遠ざかるように木々の間へと消えてゆく。
「さーて、と」
大事な姉が安全な場所へと逃げていくのを確認すると、立花は犬へと向き直る。
数分前までは恐ろしかったその雄叫びも、今では何とも感じない。
大型犬を一回りも二回りも大きくしたようなその巨躯にも、恐ろしさは感じない。
口腔から吐き出される真っ黒な気炎、周囲に纏うどす黒い煙という、非日常的な図体にさえ、違和感はない。
この瞬間から、自分は狩られる側から狩る側に変わったのだから。
「今度は、お前の番だ」
自分は姉を守れた。ヒーローになれたのだから。
*
立花と黒い狂犬との戦いが始まったそのころ。
プルルルルルル……プルルルルルル……
空虚な夜の公園に、電子音が鳴り響く。
プルルルルルル……プルルルルルル……
「……やっぱり、繋がらない」
葵は、手に持った携帯を落胆とともに下ろす。
やはり、この公園から出ようとした時にあった、あの壁のようなものが原因なのだろうか。
それとも、単に相手が出れない状況にいるだけなのだろうか。
「それにしても……」
深呼吸し、冷静になった頭で思い出す。
「あの怪物、やっぱり……」
炎の夜に出てきた化け物と違って、感じる気迫も、禍々しさも、重圧も、全てが桁違いに低かった。
けど……なんとなくだが、わかる。
二つは、根本的には同じものだと。
「全く、こんな時のためにいたんじゃないの……?」
ため息をつき、携帯に目を落とす。
宵闇の中、存在感を主張するかのように光る画面の中央にでかでかと表示された名前。
「それに……本当にそうだったんだとしたら、立花……」
弟が突然行使した、あの力。
そして、右手に浮かび上がったあの光る刻印。
あの人が持っていたものと、似ていた。
「やっぱり、だめ……引き返そう」
立花が、あの化け物に負けないような力を手にしているのはわかる。
でも……なんだか、心配だ。
それに――嫌な予感がする。
「……よし」
意を決し踵を返した葵は、着信があったらすぐにわかるように、携帯を握りしめる。
闇の中、来た道を木々の隙間を縫うようにして立花のもとへと走る葵。
携帯電話の画面が、葵の手と同じ軌道を描き不気味なラインを闇夜に浮かび上がらせる。
そして、その画面にはたったの三文字。
『宵月 晃』
立花の、自称親戚の名前が書いてあった。
*
飛びかかってくる犬を、上昇する風でアッパーカット気味に吹き飛ばす。
今度は逆に、下降する強風で地面へと叩きつける。
ジグザグとこちらの様子を見ながら走り寄ってくる犬を、横から薙ぎ払う。
上昇する風、下降する風をサンドイッチのように挟み込むように発生させ押しつぶしたりも試してみる。
――戦況は完全に、立花の優勢だった。
「おいおい、こんなんで終わりか?」
新しく手に入れた力で、どんなことができるのかと思い思いに遊んでいた立花は、挑発するように言う。
息は全く上がっておらず、むしろ休み前の学生のように生き生きとしている。
「グルゥゥ……」
それに対し、黒い狂犬は。
全身に纏っていた瘴気のようなものも薄れ。
どこか存在そのものが矮小化したかのように見え。
満身創痍。その言葉を体現したかのような姿だった。
弱弱しく地面に倒れ、最初のころの暴虐な姿はどこへ行ってしまったのかと思わせる。
「グルルルゥ……」
それでも、目の前の人を捕食することだけが生きがいかのように狂犬は立ち上がる。
「いいね、じゃあもう一度かかって来いよ。何度でも地面をなめさせてやる」
全能感に満たされた立花は、興奮したように告げる。
そして立花は、今度は別の技を試してみよう、と右手を突き出す。
「グルラァッ!」
手足も疲れ切っているのか、小細工なしにまっすぐ立花へと飛びかかってくる。
「ハッ!!」
立花は、それに合わせ勢いよく右手のひらを突き出す。
手の周囲を渦巻く風。それが圧縮され、手のひらサイズの玉へと凝縮され、撃ち出される。
「ギャッ!!」
立花が放った玉は、見事に犬の鼻面へと命中し、狂犬をはるか後方へと跳ね返らせる。
犬は何度も地面をバウンドし、四肢を投げ出し地面に倒れこむ。
「これで終わりかな?」
静かになった狂犬を遠くから眺め、立花は呟く。
「意外と、あっけなかったなー、っと」
ピク、と黒い犬の足がわずかに動く。
「へぇ、まだ生きてんのか……」
そう言い、立花は止めを刺すために自ら歩み寄る。
だが、もはや虫の息な怪物でも、一応は異形の存在。
用心に越したことはないと遠距離から右手に力を込める。
徐々に集まり、圧縮されていく風。
すぐに先ほど放った玉の大きさになるが、まだため続ける。
ものすごい勢いで集まっていく強風と、それに伴い光度を増す刻印。
先ほどの2、3倍ほどの大きさまででかくなった玉を、倒れ伏す犬に向け。
止めの一撃を放ち……。
――ドクン、と。
体が、大きく跳ね上がる。
「!?」
視界が、ぼやける。
集中力が途切れ、風の玉が霧散していくがそんなことはどうでもよかった。
頭が、痛い。
手足が、痺れる。
心臓が、肺が、五臓六腑が悲鳴を上げる。
体が――千切れそうになる。
「がああああああああああああああああああああああああ!?」
立花の口から、獣のような絶叫がほとばしる。
体内が、まるで制御を失ったかのように暴れまわる。
「ああああああああああああああああ!!」
平衡感覚を失い、受け身を取ることも忘れ地面に崩れ落ちる。
痛い。熱い。寒い。吐き気がする。
地面に転げ、のたうち回る立花とは別の影が、のっそりと起き上がる。
先ほどまで散々痛めつけられた狂犬。今がチャンスと一歩一歩着実に近づいていく。
立花は、もはやそれどころではない。
悲鳴を上げる心臓を必死に押さえつけ、ただもがくのみ。
あまりの苦しみに、周囲の状況など頭から完全に消去されてしまっている。
原因不明の異変が立花を襲う中、黒い化け物は足に力を込める。
待ちに待った、食事の時間。散々辛酸をなめさせられた。
今こそその恨み、晴らす時。
そして、狂犬は立花へと飛びかかり――
――バシャ、っと。
立花は、突然頭に水をかけられ、意識が戻る。
頭痛はいまだにするし、体も焼けるように熱い。
それに、横たわった草むらからも冷たさが伝わる。
霞む目を開けると、自分に覆いかぶさる誰かと、自分の顔にかかった大量の水。
生暖かく、どろどろとした、不思議な液体。
滲む視界。徐々にピントが合っていき――。
「あ……え、あぁああああ」
「大、丈夫……?りっ、か……」
理由が、わからない。
理解が、追いつかない。
理屈に、合わないと。
理性が、考えることを放棄する。
なんで、どうして、何故、彼女が、ここに。
「立花、……無事で、良かっ、た……」
どさ、っと自分に覆いかぶさっていた人が、倒れこむ。
重い。お願いだから、起き上がって。頼むから、一人にしないで。
「グルルルル……」
すぐ近くで、何やら唸り声が聞こえるがそれどころではない。
――起きてよ、ねぇ、お願いだから! お姉ちゃん!
重なり合う二人を見ながら、化け物は口を開ける。
剣山のように並んだ刃が、月明かりを照り返し赤黒く光る。
再度狂犬は足に力を込め、深淵へと誘う顎を大きく広げる。
――完全に閉め切られた空間。
誰も助けに来ないし、誰もその存在に気付くことはない。
でも、もし。
五年前。あの夜。
同じように閉鎖空間に閉じ込められ。
絶体絶命の危機に陥った時のように。
二人を救ってくれる誰かが。
彼が来てくれるのならば。
「グルルルァアアアアアア!!!」
――狂犬が、雄叫びを上げ。
――折り重なる二人へと飛びかかり。
――二人を飲み込もうと口を広げ。
一条の閃光が、世界を貫く――――




