憧れ
春美は初めて滝になった。
梅雨が終わり、今や完全な夏が到来した。誰もが夏服に身を包んでいる。もちろん春美も例外ではない。しかし、それでもなお、暑い。もう頭がおかしくなりそうだ。
それでなくとも眠たい午後の授業で、まともに集中など出来るはずがない。汗が滝のように流れ、落ちてゆく。
汗を拭おうとハンカチを取り出す。それを首の後ろへと持って行く。とうとう腰に到達した髪の毛。汗で湿り、重さを増す。一つに束ねた現在でもそれは変わらない。髪で守られて来た白い項も、汗でぐっしょりだ。ハンカチがその汗を吸い込む。少しだけ軽くなったと錯覚した後、春美はため息をついた。
ぼーっとする意識の中、浮かんだ母の顔。腹立たしさと、その中に産まれたもう一つの感情。春美はもう一度だけ挑戦しよう、と決意を新たにした。
今日もいつも通りに帰宅する。母は玄関まで出迎えてくれた。入って早々にピンク色のスカートがちらつく。可愛いらしいおかえり、の声。それに愛想笑いで言葉を返す。出来ればこれ以上会話を続けたくはない。しかし、今日はそうもいかない。自身のために言わなくてはならないのだ。
汗の滲む拳に力を込める。やっぱり髪の毛切りたいな、と笑顔で告げた。愛想よく笑えているだろうか、唇は震えていないだろうか。しかし、それを確認する術はないのだ。じわり、と気持ちの悪い汗が滲む。
母は少女のように微笑むと、首を傾げた。母の瞳は、何をおかしなことを言っているのだろう、とでも言いたげに輝いている 。ああ、昨日と一緒だ。
やがて、ピンク色の唇が開かれる。
「せっかく伸ばしたのに?可愛いのに勿体無いわよ」
春美はそうだね、と笑い声をあげる。けれど、だんだんと可哀想になる。ごめんなさい、小言で呟く。そのまま小走りで自分の部屋へと向かった。怖くなった。逃げ出した。
「女の子なんだから」なんて一言も言われていないのに、胸がキュッと締め付けられた。