第一章 友人VS怪物
学校から教会まで通常なら二十分以上かかる道のりを、卍は半分以下の五分に短縮して辿りつき、躊躇いなく墓地に入った。
何かが潜んでいると思わせる闇に怯えることもなく、ふと後ろから声がする等……形の無い恐怖も無視しながら歩き続ける。正面に向けた視線は動かず、息もほとんど乱さず、卍は一切の余分を無くして現場に到着した。
「あら? 他にもお友達がいたんですね」
卍から十メートルほど離れた場所、赤く染まる墓場で唯一動く物体が振り向く。
お姫様のように着飾った、可憐な少女の形をした怪物がそこにはいた。しかし、その姿は卍の眼に入らない。彼の眼に映るのは、怪物の前で石のように固まる夏香だけだ。
夏香の全身に視線を走らせ、呼吸をしていること、怪我が無いことを確認。その後、誰にも視えず、聞こえないように安堵の息を吐いた。
「全く、二人だけのはずですのに……四人目とは。予想外過ぎです」
「夏香、無事か? 助けに来た」
自らの失態を悔やむように怪物が言う。その間に、卍は夏香に向かって話しかけていた。
「ば……ん……?」
全身がかなしばりにでもあっているのか、夏香の返事はあやふやだった。
「助けに来た……ですか、いったいどのようにして助けるんです?」
無視された事に苛立つ怪物の声、その言葉に卍は初めて怪物と視線を合わせる。
友人に向ける思いやりのある表情とは違う、能面のような表情だ。それは怪物に恐怖を感じているからではない、友人を襲われて怒っているからだ。
話しかけた怪物に対して、卍は一切の感情を省いて告げる。
「お前がこれ以上なにかするようなら止める、帰るなら帰ればいい、お前に用件はない」
この赤く染まる墓場を生みだした怪物に、何の興味もなさそうだった。卍は夏香さえ救えれば、それで良いと考えていた。
「私はあります。姿を見られた以上、証拠を隠滅しなければなりません」
怪物が告げ、夏香に向かって右手を伸ばす。その指が額の前で止まる。手首が掴まれ、動きを止められたからだ。
怪物が眼を見開き、腕を掴む相手を視る。
「言い忘れたが、そいつに何もするな。俺にとっては、肉親と同じくらい大切な友達だ」
そこにいたのは卍だ。彼は十メートルの距離を一気に縮め、怪物の腕を掴み、そのまま折るように力を込めて軋ませている。ただし、それは普通の人間にはできない芸当だ。
「ただの人間にしか見えませんが、同類ですか?」
怪物の眼から余裕が消えた。夏香のような一方的な相手ではなく、敵として相対する。
「答える義務も義理も無い。自分の事を容易く話すお人好しは、そうそういないだろう?」
「それもそうです、愚問でした。話しかけた相手が自らの秘密を晒すわけがない。なら、話し合いは不要ですね。狩られる前に狩る、不安要素は即刻排除です!」
少女の左腕、否、爪に変化が起きた。まるで刀のように爪が伸びる。それも鋭く、空から降り注ぐ月の光を鈍く反射するモノに変質しながら真っ直ぐに。
指五本、計五つの刃を瞬時に生成された後、怪物は掌を水平に構え、卍の脇腹に爪を突き立てた。その斬れ味は不明だが、いくら鈍い刀でも馬鹿力で突き立てれば威力を発揮する。
卍に掌を突き立てた衝撃で、夏香が尻もちをつく。相当な力が込められていたことがわかる。卍が、爪が伸びた事に驚きや恐怖に慄く暇もない一瞬の一閃、相手の隙を穿った見事な一撃と言える。
なんの反応もできなかった卍は制服を貫き、脇腹に突き立てられた五つの刃を見下ろす。
「爪が伸びるのか」
感想は淡白だった。そもそも赤く染まった墓場で人間離れした美しさを持つ少女に友人が襲われているのを見て、呑気に友人の安否を気にするような輩に洒落た反応を期待するのが間違いではある。
逆に正当な反応を見せたのは夏香と怪物だった。
ガキン。鉄が無理やり曲げられたような鈍い音が墓場に響く。少女が突き出した手、その指先から伸びた爪が全て、壁にぶつかったようにへし折れていた。内一つが中程からひび割れて砕け、地面に突き刺さった。鉄が曲がるような鈍い音、地面に容易く突き刺さる斬れ味から、一本いくらのなまくらより鋭い刃だったのがわかる。
「どうして無傷なのですか? あなた……」
怪物の発言通り、卍は無傷だ。制服は破れているが、その下に見える白みを帯びた肌は一切の傷がついておらず、ましてや血も流れていない。
「俺はお前に何も答える義務もなければ義理も無い。何度も言わせるな、学習しろ」
怪物の腕を掴んだまま、卍は馬鹿にするように言った。しかし、その答えで刀と同等以上の斬れ味と頑丈さがある爪をへし折られた驚きから、怪物は立ち直れない。
怪物が動きを止めたのを好機と見て、卍は夏香に言う。
「夏香、動けるなら離れていてくれ。ここは危ない」
「卍も危ないだろ! 逃げるなら一緒に」
怪物が動揺したことで動けるようになったのか、卍を見上げながら夏香が叫ぶ。
夏香の申し出に卍が答える前に、怪物が動いた。その指から伸びた爪が生え変わるように抜け、新たな爪が伸びる。今度は一般的な長さだ。同じ攻撃を行うという愚は犯さないらしい。
そうして、見た目は普通に戻った小さな手で拳を作り、卍の顎下にアッパーをぶちかました。頭を後ろに仰け反らせた卍のみぞうちに間髪入れずボディブローを当て、トドメに膝で股間を蹴り上げた。
人体の急所を正確に狙った三連撃、傍目で見ていた夏香が青ざめるほどの見事な流れだった。
「呑気に雑談をするのは、さすがに油断大敵です」
打撃を叩き込んだ後に怪物が言う。相手の表面は硬かった、ならどうするか? 怪物はその問いに『内側を狙えばいい』という答えを即座に導き出したようだ。鍛えづらい急所を狙ったのはそのためだろう。
それを茫然と理解した卍は、むっくりと上半身を起き上がらせた。顔に傷は無く、表情も苦痛に歪んでいない。おまけに怪物の手もしっかり掴んだままだ。
「んなっ……なんでなんともないんですか!?」
怪物が悲鳴に近い声を上げる。続くように、夏香も声を上げた。
「金的食らって無事ということは、やっぱり女なの!?」
今までの出来事に驚き過ぎたのか、発言がズレている。
「やっぱりとはなんだ。お前なら性別ぐらいわかっているだろう?」
夏香の発言に傷ついて、卍は口を尖らせた。
「実体が無い? いえ、殴った感触はありました。ならばスライム? それにしては硬い」
混乱しているのか、怪物がぶつぶつと呟き始める。その間に卍は感想をもらす。
「しかし、爪が生え変わるとは便利だな。まるでトカゲの尻尾だ」
今更過ぎる感想だった。
「失礼です! レディに向かってトカゲとは!」
聞こえていたのか怪物が怒鳴る。そして、ハッと思い付いたような表情で卍を指差した。
「あなたの正体がわかりました。この町に滞在するフェイカーですね、それなら今の手品も納得がいきます、このペテン師」
怪物の言葉に動揺したのは、卍ではなく夏香だった。
「……卍、君もこの女の子みたいに化け物なの?」
怪物の質問に乗じる形で夏香が聞いてくる。お前も怪物なのか? その問いに、卍は酷く傷つきながらも夏香の問いに答えた。
「俺は怪物じゃない、ましてやこいつが言うようなモノでもない」
「だとしたらなんです! 正体を現しなさい!」
怪物の怒るような問い。想定外の出来事に出くわしてヤツ当たりをするような態度だが、卍は無視して夏香に答える。
「俺はアンドロイドだ」
「あなた、頭茹ってるんですか?」
「お前、さっきから黙って聞いていれば本当に失礼だな」
しつこい怪物の言葉に、憮然とした表情で卍は睨み返す。
「失礼もなにも、アンドロイドはこの世に生まれるはずがありません」
「生まれたではなく造られたが正しい、それと何様だ? 俺の存在を怪物が否定するな」
観念したと言うべきか、卍は怪物と会話をする。それは眼下で驚きのあまり眼を見開く夏香から、視線を外したかったからかもしれない。
「現状の世界でアンドロイドが『次世代の人間』が現れるわけがありません」
怒りを露わに怪物が睨んできた。全てを否定され、面白くない卍の視線も鋭くなる。
「嘘ではない。というか、自在に爪を伸ばせるようなお前に言われたくない」
「私の存在は過去からずっと継承され続けてきたものです。ですが、アンドロイドという存在は過去も今も含めて存在する隙間が無い、ありえないモノです」
怪物が高らかに卍の存在を否定した。怪物は存在してもアンドロイドはいないと。怪物と呼ばれる存在は古くから真偽は問わずに囁かれてきた。だが、アンドロイドは違う。彼らが存在するための条件、もっと言えば科学力が足りていない。ゆえに存在しないと。
「なら、未来を考えればどうだ? 俺がいる理由はあるかもしれないぞ」
怪物の否定を、卍は静かに否定し返した。今は理由が無くとも未来にはあると。
「馬鹿を言いなさい! あなたはノートルダムの予言をパクるつもりですか!?」
だが、その答えはあり得ない。怪物が即座に言い返す。
「現在は過去の積み重ねだ、過去という過程の結果に現在がある。だが、そんな堅実なモノとは違い、未来は未知数で無形だ。ゆえに無限の可能性が秘められている。だから、未来なら俺のような存在がいるかもしれないだろう?」
未来ならばアンドロイドが存在するかもしれない。可能性は否定できない。なぜなら、誰にもハッキリと断言することができないからだ。
「それは無から有を生み出す、世界の原理に真っ向から喧嘩を売る方法です!」
しかし、それは空想を現実化する、何でもありにしてしまう魔法の言葉だ。だから怪物は信じないのだろう。なにより、その言論が正しい場合の未来が信じられないようだ。
「その戯言には頷けない。あなたはアンドロイドであってはならない」
怪物は否定する。卍の存在を否定する。
「戯言でも虚言でも妄言でもないのだが?」
「なおのこと最悪です! 嘘でも真でもあなたは全世界に喧嘩を売っています! 朽ち果てなさい狂言師! あなたの言葉は最悪のまやかしを世界に蔓延させる!」
正義を執行する騎士のように、怪物が断罪を行う正当性を並べたてる。
「……一つだけわかった」
突如呟かれたその言葉に卍と怪物の口論が止まる。
地面に尻もちをついたままの夏香が声を上げたのだ。彼は怪物を睨みつけ、威勢良く吠える。
「さっきから何の話をしているのか全然わからないけど! 卍がいたら駄目な存在とか言われているのはわかった。ふざけるなよ! 卍は僕の友達だ! 大切な仲間なんだ! 君は何もわかってないのに駄目とか言うなよ! 確かに卍は何を考えてるかわからないけど、優しいし! 頼りになるし! 僕を友達だと思ってくれてる良い奴なんだ! それを何も知らない君が勝手なことを言うんじゃない! ちゃんと考えてからモノ言え! この馬鹿!」
今まで恐怖で押さえつけられていたのが反転、感情を爆発させて怒っている。友人の存在を意味無く否定され、夏香は激しく激昂していた。しかも、自分よりも何倍も恐ろしい怪物に向けてだ。どうやら恐怖心は度を超えて、どこかに消し飛んでしまったようだ。
「な、なにを言ってるんですか? この人の存在はあなた達人類にとっては害悪で」
面を食らったのは怪物だ。いきなり切れた夏香に対して、どのような反応をすればいいか困っている。
「そこら辺の話はわかんない! ただ、僕を助けに来てくれたことは見ればわかった! だったらアンドロイドだろうが人類の敵だろうが卍は卍で僕の友達だよ」
「馬鹿ですかあなた!?」
怪物が愕然として叫ぶ。そんな夏香の言葉に、卍は友人と顔を合わせる勇気を得た。
「夏香、吠えるのは構わないが相手を見て言った方がいいぞ」
「卍はもうちょい怒ってよ。なんで僕が怒ってるか、わけわかんなくなるじゃないか」
「ああ、それはすまないとしか言えないな」
「……あなた達、どこかズレています」
怪物が困惑気味に言う。確かに、こんな場面で行うべき会話ではない。だが、片方はアンドロイドで、もう片方は……今時の若者だ。なにをしでかすかは誰にも予想できない。
「仕方ないだろ! 逃げようにも腰が抜けて動けないんだ! だったら怒るしかないよ!」
どうやら尻もちをついたままなのには理由があるようだ。身体は素直とも言える。
「成程、なら俺が動くしかないか」
「えっ? ッ!」
卍は初めて攻勢に出る。怪物を掴んだまま、投球フォームのように腕を後ろに反らし、前方に向かって振り下ろした。
野球ボールのように、ロクに抵抗もできなかった怪物は真横に宙を飛ぶ。
卍の力は怪物の比ではなかった、怪物が投げられた瞬間、小枝が折れるような嫌な音が響いたほどだ。
怪物は数瞬の飛行した後、約十メートル離れた地面に砲弾のように着弾した。
「ほ、本当にアンドロイドなんだね」
人間にはできない荒技に加え、巻き上がる土煙を見て、夏香が盛大に頬を引き攣らせた。
「隠していてすまなかった」
「ああ、気にしないで、誰だって隠し事ぐらいするでしょ? それが例え友達でも、お互いの秘密とか隠し事とか全部知っていたら正直怖いし、僕は全然気にしてないよ」
「その点に関しては同意するが、見ての通り俺はこういうのだぞ?」
卍は自分の胸を軽く叩いた。軽い金属音が響く、人間らしい柔らかみのない音だ。
「ああ、だから卍は潔癖症とか言ってたんだ、納得したよ」
「いや、そういう話じゃなくてだな。……。やはりお前の感性は、人としてどこかオカシイ」
あっさりとアンドロイドの存在を許容する夏香に、卍は眉を潜めて呟いた。
「なにより、今日まで必死に隠してきた俺が馬鹿みたいじゃないか」
「だって今日まで付き合ってきた卍を見てたら、絶交とか別の選択肢なんて出てこないよ」
その言葉に毒気を抜かれ、卍は安堵混じりに嘆息する。
だが、呑気に雑談をするのは今ではない。眼の前の相手は真っ当な人間ではなく、存在からイカれた怪物なのだ。
墓地に異変が起きる。既に数えきれないほどの異変は起きているが、そんなものは前座だと言わんばかりの強烈な異変だ。それにいち早く気付いた夏香がギョッとして声を上げる。
「な、なにこれ!」
音も無く、墓地を赤く染めていた液体が一点に向かって回収されていく。
まるでバケツの水をひっくり返した映像を巻き戻しているかのように、怪物が地面に叩きつけられた地点へと赤い液体は向かっていく。
墓地全体、卍や夏香の身体に付着していたモノ全てが一点に集まった時、土煙が晴れ、地面に仁王立ちする怪物の姿が視えた。
「どうやら打撃では埒が明かないようですね」
その右腕はあらぬ方向にひん曲がってはいるが、他は傷の無い状態だった。いや、右腕も傷が無い状態になりはじめていた。
全治数カ月はかかるだろう骨折が秒単位で元の形に戻っていく。その時の骨を繋げる音は、肉を骨ごとミンチにするような生々しい音だった。
「本当は事が起きるために蓄えていたかったのですが、仕方がないですね」
聞いている方が痛々しいが、怪物は何食わぬ顔でぼやいた。
怪物の足元から波が広がるように、墓地全体に黒いなにかが広がる。それは夜の闇より暗い、光さえ呑みこむ混沌の黒だ。
卍は眼を見開く。怪物の足元、影に見え、混沌の闇に見え、異界へ続く道にも見える、そんな無限に続くような底の知れない穴から、巨大ななにかが這い出てくる。
全長は五メートルを超えるだろうか、足元に広がる闇と同じ、黒の鱗を持った大蛇が怪物の背後に控える。艶めかしく鱗が光る長い胴体、口から生えた鋭い牙が月の光を反射してギラリと輝く。だが、眼が無かった。代わりとでもいうように、口が異様なまでに大きい。最大まで広げれば、その巨体よりでかくなるんじゃないかとさえ思えるほどでかい。
人間二人程度なら容易く地面ごと丸呑みにできるだろう。そんな、この世界で普通に存在する動物ではあり得ないモノだ。
「蛇? いや、口か? それにしてもデカイな」
「な、なにアレ!」
卍は冷静に観察していたが、どこからどう見ても化け物なモノを見た夏香は恐怖のあまり情けない声を上げていた。後者の反応がまともなのは言うまでもない。
「この子に食われたが最後、この闇に引き摺りこまれて二度と出れなくなります」
怪物が右手で地面に広がる闇を指差す。どうやら骨は繋がったようだ。
「臭いモノには蓋の理論か。忠告感謝する」
言って卍は狼を見据えた。狙いを定めたとも言える。直後、彼の左眼から光が消えた。
「忠告のつもりはありません! 行きなさい!」
怪物の指示により、大蛇は地を這う。野を高速で蛇行し、大口を開き、唾液を撒き散らしながら獲物に食らいつこうとする。その巨体が高速で迫る様は、まるで洞穴が自分に向かって伸びてくるような、ありえなさと威圧感を獲物に向かって与えてくる。
「うああああああああああああああッ!」
「安心しろ、多分なんとかできる」
威圧感に恐怖した獲物の叫びに、アンドロイドは機械的に答えた。
そう、向かってくる摩訶不思議に対峙するのは無力な人間ではなく未知のアンドロイド。自身に迫る恐怖に対して否応なしに的確な判断を下せる、人が造りし人を超える存在だ。
「今日が晴れで良かった、それに民家も遠くて、これなら焼き払う心配もしなくて済む」
物騒な言葉を口にして、卍は左眼を閉ざす
「一つ問いたい、お前は光速を視認できるか?」
問いを投げかけた後、卍は左眼を開けた。