第三章 ヨルムンガルドの息
朱音の話を聞いた後、卍は屋敷の外から最奥部に向かい、壁を蹴破って室内に飛び込んだ。
そこで眼にしたのは、虚ろな眼をしたセシアと、彼女か細い首をへし折ろうとしているクルトの姿だった。
地面を踏み砕く勢いで卍は二人に駆け寄り、クルトに向かって拳を突き出す。
クルトはセシアを卍に向かって突き飛ばし、一度後ろに退いた。
卍は突き飛ばされたセシアを受け止め、片手で肩を抱きながら、床に膝をつく。
「おい! しっかりしろ!」
床に腰を降ろしたセシアを揺さぶるが、反応が無い。ただ、眼からは涙を、首筋からは血を流している。気高かった彼女はどこにもいない。
そこにいたのは、泣き崩れる少女だった。
「お前、セシアの父親だよな。なんでこんなことするんだよ」
セシアから手を離し、卍はクルトと対峙する。彼は怒りを露わに訴える。
「こいつはお前を愛していたんだ。だからここまで来たんだ、傷ついても、苦しくても、それでも来たんだ。なのに、なんでお前はこんな形で答えるんだよ」
卍は見てきた。セシアがどれだけの想いを胸にここまで来たかを、その想いをここまで完膚無きまでに壊したクルトを、卍は許せなかった。
「俺は一度たりとも愛していない。最愛の者を見殺しにした痛みを、妻を殺した相手を娘として育てなければならなかった苦痛を、そいつが生まれてからずっと感じていた」
「それでも子供を愛するのが親じゃないのかよ。母親は、本当に産みたくなかったのか?」
「選択肢など与えてやれなかった。自分が死ぬことを理解させられたうえで、妻は産むことを強要されたんだ。これは復讐だ、妻の仇を討つ。それで、ようやく妻の所へ逝ける」
クルトは過去の呪縛から解放されるために、セシアを殺すと言う。
「そんなことさせない。こいつの大切なモノを守るって、そう決めたんだ」
卍は過去の呪縛を胸に抱え、その痛みを伝染させないために、クルトを止める。
最初に攻撃を行ったのはクルトだ。瞬時に間合いを詰め、卍の胴体に向かって拳を打ち込む。鉄同士が激突したような音が響く。
だが、卍は微動だにせず拳を受け、クルトの頬に拳を叩き込んだ。
ミシリと骨が砕ける音が響き、顔の形が変わると共に、クルトの口から血が流れる。
「話に聞くアンドロイドか。眉唾モノだと思ったが、事実か」
だが、すぐに顔の形が元に戻った。初めてセシアと会った時と同じく、再生するようだ。
「お前の拳は俺には効かない」
「ならば、効くようにするだけだ」
クルトが赤色の皮手袋を取り出し、右手に纏って再び殴りかかってくる。 無策とは思えない。朱音の前例があるため、卍は避けようと動くが、クルトの戦い慣れした無駄の無い動きについていけず、左肩に拳が入ってしまう。
直後、拳が当たった部分が鼠色に変色した。その変化に卍の眼が向いている隙に、クルトの左拳が変色した部分に直撃する。拳は弾かれることなく、変色した卍の身体を打ち砕いた。
砕かれたのは制服と左肩の表面の一部だが、素手で砕かれたことに卍は驚愕する。
「ツヴァイト家に代々受け継がれてきた魔女の呪具の一つだ。真偽は定かではないが、コカトリスの皮で造られた手袋だ。これには、触れたモノを石化する魔法がかけられている」
砕けないなら、砕ける物質に変化させる。これで卍の身体は鉄壁ではなくなった。
「くっ、魔剣の次は呪具か」
卍は毒づいた。状況は悪化していく。クルトが再生する分、卍が絶対的に不利な状態だ。
(四肢を潰しても再生される。頭か心臓を壊せば止まるかもしれないが)
方法は良いかもしれない。だが、卍がクルトにどうやって攻撃を当てるかが問題だった。
卍の突き出すだけの拳が、怪物を従わせてきた男に届くかは、それこそ素人でもわかる。
卍はクルトに向かって踏み込み、拳を突き出す。クルトは上半身を僅かに傾けるだけで拳を避け、先程と同じ場所を右拳で叩き、即座に左拳による追撃をかけた。
内部構造が剥き出しになった部分を石化され、砕かれる。左腕がダラリとぶらさがり、動かなくなった。
両腕が使えなくなり、卍は右膝で蹴りを入れる。クルトは半身になって蹴りを避けた後、膝の裏に左腕を回して抱え上げ、膝に右拳で一撃入れる。更に、肘鉄を打ち込み、粉々に砕いた。
片足が動かなくなり、卍の身体が後ろに倒れる。その胴体に、クルトは右拳を打ち込み、壁際まで吹き飛ばした。
壁に背中からぶつかり、床に腰を降ろした状態で卍は動きを止めた。
胸の中心部分が石化し、表面が剥がれる。人間でいうところの心臓の位置だが、そこには心臓ではなく真白色の球体が組み込まれていた。それが卍の動力炉だ。
だが、その動力炉も一部が罅割れたように石化しており、輝きを失いつつあった。
(両腕機能停止、右脚も使えない、動力炉にエラー、放電も不可能。ここまでか)
クルトが卍の眼の前に立ち、むき出しになった動力炉の石化した部分目掛けて貫手を放つ。避けられない。ここで終わりだと思い、卍は願う。
セシアが大切なモノを失わないようにと。
卍の身体に血が飛び散った。だが、それはアンドロイドの身体に流れていない液体だ。眼を見開き、身体を見下ろす。セシアが卍に覆いかぶさるように抱きつき、代わりに身体を貫かれていた、
「お前、何してるんだ!」
胸から腕を生やし、傷や口からおびただしい量の血を流すセシアに、卍は叫んだ。
「だって……これは、私と……父様の、問題……だから」
喋る度に、その小さな口からごぽりと血が流れる。
彼女が吐き出す血がヴァイの全身を赤く染めていく。
「そうだろ、父親を止めるんだろ! なのに、お前が死んだら止められないだろ!」
「それも……そう……です……ね」
困ったようにセシアが笑った。その胸から腕が引き抜かれる。クルトが何の感情も感じられない表情で虫の息のセシアを見下ろし、もう一度貫手の構えを取った。
「! やめろおおおおおッ!」
悲鳴じみた卍の制止の言葉は届かず。クルトがセシアの心臓目掛けて、腕を突き出した。
セシアのか細い身体に二つ目の穴が開く。
身体がビクリと痙攣させた後、セシアは声を発することもなく、卍の身体にもたれかかるようにして倒れた。聞こえていた呼吸が途絶える。
その胸中に在る筈の心臓は、胸から腕を引き抜いたクルトの手の中にあった。
「お前怪物なんだろ、心臓無くなったぐらいで死なないよな? おい! おいッ!?」
セシアは答えない。ピクリとも動かない。呼吸もしない。間違いなく死んでいる。
「友を庇って朽ちたか。それではどの道、俺を殺したところで生き残れなかったろうな」
クルトは手中の心臓を握りつぶす。ミンチになった肉片が周囲に飛び散る。
その言葉、その行動に、卍はクルトを睨み上げる。瞬間、クルトが液体を吐いた。血ではない。赤ではなく黒だった。墨汁のように黒い液体を吐き、咳き込みながらうずくまった。
突然倒れたクルトに変化が起きる。全身に斑点模様が浮かんだのだ。それは朱音の腕にあったモノと同じ、腐ったような紫色だ。
クルトは痙攣を繰り返し、黒い液体を吐き続けている。
そこでようやく、卍は自分の身体にも変化が起きていることに気付いた。 全身に付着したセシアの赤い血が黒く変色し、ゆっくりと蠢きだした。
クルトが吐いている黒い液体は、セシアの血のようだ。それがクルトの身体を侵しながら、体外に這い出てくる。
異様な現象を見ながら、卍は朱音の話を思い出した。
朱音がクルトを殺すため、ツヴァイト家に侵入した時、眼の前に立ち塞がる怪物達を斬り殺しながら前に進んだそうだ。その時、幼い少女も一人、首を刎ねて殺した。だが、少女からの返り血を数滴浴びた途端、全身を針で刺されたような痛みを感じ、朱音は気を失ったそうだ。
後は本人から聞いた通り、ツヴァイト家の雇われ勇者となった。だが、彼女は意識が途切れる間際に視たそうだ。首から上の無い少女が、ゆっくりと立ち上がったのを。
その少女の名前は、セシア・零・ツヴァイト。
セシアが立ち上がった。胸に二つの穴を開けたまま、その穴から黒い液体を流しながら。
床に広がった黒い液体が気化し、黒いガスとして大気中に浮かぶ。ガスは室内に充満し、納まりきらなくなったモノは室外へ抜けだしていく。
茫然と進行する現象を視ていた卍の意識に、割り込むモノがあった。
(データの更新? いや、プロテクトの解除だと。対象『ラグナロクナンバー1・ヨルムンガルドの息』と認識、データ『ラグナロク』の解除……失敗、多面干渉式処理演算ユニット『イザヴェル』起動……成功。対象の殲滅を開始?)
卍の胸に埋め込まれた動力炉が駆動音を上げ、光輝く。直後、卍の背中に四つの突起物が展開された。それは二対二組で並んでおり、骨組みだけの羽のようにも見える。
展開と同時に、卍の意思に反して勝手に機械仕掛けの羽が周囲のガスを吸収し始める。
(『ヨルムンガルドの息』と『イザヴェル』のデータを検索、可能な限りロード)
卍は最初から知っていたはずの知識を引き出す。
(『ヨルムンガルドの息』は空気感染する新種の悪性腫瘍だと? 通常の悪性腫瘍とは異なり、タイムラグ無しで水も空気も栄養もいらずに自己増殖、自動で気化し、空気中を増殖しながら感染範囲を永続的に拡大する。これに感染した場合、対象者は新たな病原体となり、数分かからずに全身の細胞が機能不全に陥り死亡する。病原体を処分しても、細胞が一つでも残っていればそこから増殖を繰り返す。これはウィルスか細菌の間違いじゃないのか? いや、データには悪性腫瘍とある。こんなモノが未来の世界では蔓延しているのか? これが広範囲に拡大するのを食い止めるために、俺が現在に来たのか?)
疑問の答えを記した『ラグナロク』はデータが破損し、読めなくなっていた。ただ、勝手に起動している背中の兵装については情報があった。
(『イザヴェル』は対象を分子レベルで分解、変性、再構築を可能としたユニットであり、背中の羽から振動波を出すことで周囲に干渉する。このユニットを用いれば、細胞である『ヨルムンガルドの息』を無毒な物質に分解、変性して無力化できる)
ユニットは卍の意思とは関係無く、周囲に漂う細胞を分解していく。
「駄目だ! 止まれ! 止まってくれ!」
うつろな表情で立つセシアに向かって卍は叫ぶ。ユニットが分解するのは細胞だけではない。それを産みだす元凶であるセシアさえも分子レベルに分解し、無力化しようとしている。つまり殺す気だ。
システムは機械的に処理を続ける。卍の意思では止められない。加えて、セシアがこのまま『ヨルムンガルドの息』を産みだし続ければ、末路は法が予言した現人類の滅亡だ。
回避するには、セシアを止めるしかない。だから、卍は必死に呼びかける。
「お前はこのままだと夏香を、法を、お前の大切な家族さえ殺すことになる、そんなのお前は望んでないだろ! だから! 止まってくれ!」
『イザヴェル最大駆動ノタメ、人格プログラムヲダウン』
不意に卍の意識が強制的に落とされた。意識が落ちる間際、卍は自分の身体を呪う。自分自身の意思では何もできず、力に振りまわされて大切なモノを壊すこの身体を。
そこで卍は気付いた。セシアは既に、夏香や法と同じくらい大切な人になっていたことに。だが、気付いたところで手遅れだ。護るどころか、卍はこれからセシアを殺す。
『動力炉ニエラー、イザヴェルシステム修復ノタメ、主導権ヲ人格プログラム二譲渡』
だが、幸運にも意識が回復した。卍は驚いて胸に埋め込まれた真白の動力炉を見下ろす。動力炉からは電流が迸っていた。明らかに問題が起こっていることがわかる。
(エラーコード? そうか、さっきの一撃で)
クルトが卍の胸に石化の拳を当てた際、動力炉の一部が石化し、破損したようだ。
娘を殺した父親が、結果的に娘を護った。だが、状況は好転したわけではない。
(イザヴェルの出力が上がらない。細胞が増える速度と、こちらの分解速度は同じ。いや、損傷部から過剰放熱が発生、冷却システムのカバー範囲を超えている。このままではシステムが停止する。そうなると、もう止められない)
現状は卍とセシア、そしてクルトの周囲をヨルムンガルドの息が渦巻いている。それ以上に増えて部屋から出ていくことはないが、ここから減らすことも卍にはできない。
それどころか、卍の全身から白い蒸気が立ち昇り、黒色の髪が発熱により白く変わり出していた。このままイザヴェルを起動し続ければ、卍の身体は融解し、機能停止を引き起こす。
(瞬間的に出力を最大にすれば、システムがダウンしても全てを無に帰すことはできるが)
卍は二つの選択を強いられる。セシアを生かすためにシステムを停止させ、夏香や法、そしてセシアの大切な人を見殺しにするか。システムを無理にでもフル稼働させ、セシアを殺すか。
(俺は、どうすればいいんだ)
「卍! 聞こえる! 聞こえたら返事をして!」
タイムリミットが迫る中、卍の耳に夏香の声が届いた。