第一章 友達ピンチ
放課後、沈みかけた太陽の光が窓から校舎に入り込み、廊下を赤く照らしだす。
部活動も終わり、生徒が帰宅した人気がない校舎、その最上階である三階を一歩一歩規則正しく、時計の針を刻むように卍は歩く。彼が向かっているのは、三階の東隅にある教室だ。
そこは特別な用事でもなければ誰も近づかないような場所だった。加えて『魔女の巣窟』という噂による人避けもなされているので、まず生徒は近寄らない。せいぜいふざけ半分、肝試しの気持ちだ。
だが、卍は真っ直ぐその教室に辿りつき、奇幾何学部と銘打たれた表札を見上げた。何度見ても、舐めまわすように見ても、不吉な羅列をした五文字は変わらない。
ある人物が私用のため、謎の権力を発揮して設立されたのがこの奇幾何学部だ。活動内容は『あらゆる事象の奇幾何的な研究』とされている。王道が無いとされる幾何学を、魔道を進む魔女が行うというのは、運命的というか皮肉めいてさえいる。
そんな怪しげな部活に所属しているのは、部を発足した本人であり部長の桑井法。そして、体験入部している人物がいる。
「遅いぞバン、放課後になったらすぐ来るように言ったじゃないか」
扉を開けるのと同時に飛んでくる苦情、部活の先輩が遅刻してきた後輩を叱る言葉であり、まさにそれであった。奇幾何学部二人目の部員(候補)、名前は朝方卍という。
卍は魔女の巣窟に足を踏み入れ、気が抜けた胡乱げな視線を部屋の主に向ける。
「幽霊部員に期待をするな」
「それもそうか。しかし、魔法少女が部長の部活に幽霊部員というのは冗談に聞こえないな」
「俺には悪い冗談にしか聞こえない」
おどけた口調でクスクスと笑う法に、卍はため息を吐いてから教室に入る。
教室の中は机と椅子が一部を除き、奥の方に片づけられている。それ以外は、何の変哲もない普通の教室だった。
カーテンは開けられており、廊下と同じく窓から差し込む夕陽が教室を鮮やかに彩っている。
片づけられた椅子と机に教室の半分ほどを占領されているが、部員が二人であるため十分な広さを残していた。
入口から真っ直ぐ進んだ窓際の場所には、木の椅子が置いてある。法はそこに座り、本を片手に部員を出迎えた。手にしている本は、なにやらミミズがのたうったような文字が表紙を飾る怪しい物だ。読書好きな卍でも、まず手を伸ばさないだろう。
法は窓に背を向け、椅子の隣に小さめの本棚を設置していた。彼女のテリトリーだ。
卍は教室に入り、壁際に置かれた鉄パイプの椅子に座る。ちょうど法とは反対側だ。そこが彼の居場所である。
真白の壁を背に椅子だけが置かれているのは、無機物を思わせる卍という存在をわかりやすく現していた。
「本日の活動内容はなんだ? いきなり呼び出したのだから雑談ではないだろう?」
「いや、活動はしない。ただの報告だよ、昼間も言ったが私は忙しい」
仏頂面で椅子に腰かけた卍に対し、優雅に本を閉じ、いたわるように本棚に戻してから法が言う。僅かにほほ笑むその表情から、卍は不穏な気配しか感じとれなかった。
「そういう割には昼間、俺達のクラスに来ていたじゃないか。それに終始ふざけていた」
「アレも用事だよ、噂が聞こえたのもそうだが、もう一つ用件があってね。その結果を一応、仮部員とはいえ貴重な部員候補である君に教えておこうと思ったんだ。それにアレはふざけていたわけじゃないさ、ユーモアだよユーモア」
昼間の発言は、彼女からすれば場を和ませるための冗談だったようだ。
「寒いどころか場が凍りついていたがな。さっさと言え、お前は忙しいのだろう?」
卍の言葉は雑で表情は冷たいが、一応法のことを想って言っている。
「なら、さっさと本題に入ろう。昼間に会ったあの子、ここ数日観察していたが危ないモノに魅入られている。早急に手を討たなければ、いずれ食われるだろう」
「そうか」
変なことを言っていると会話を切らず。だが、苦い表情で卍はうなずく。
「今回は今までとは桁が違う、一月前から気付いていない段階で何人もやられている。ニュースで何度か見ていると思うが、近所で通り魔事件が起きているだろう? アレと同一犯だよ」
一月前から近所で起きている通り魔事件。事件の総数は十件、確認されている被害者は二十人。全員が原因不明の出血多量による意識不明の状態で発見されている。しかし、犯人について警察は何の情報も手に入れておらず。よくニュース番組で叩かれているのが現状だ。
「それほど大きなニュースになっていたにも関わらず、気付いてなかったのか?」
「今日までの被害者が校外の人間に限られていたのも、気付けない理由の一つだ。同じクラスの女子が魅入られていたのを視た時は、さすがに驚いたよ」
「それはどうなった? もうやられたのか?」
「広まっている七不思議の内容が完結していないのを考えると、まだだよ。ただ、オチはこれでわかった。悪夢に魅入られた者は、闇夜に誘われて襲われる。定番だな」
「ああ、定番過ぎて面白くない。それで、被害者は何をされているんだ?」
卍は吐き捨てるように言い、七不思議のオチへ繋がる手段を聞いた。
「根本はわからないが、かけられたのは初歩的な奇術の一種だ。同じクラスの女子とバンの友達が同じ現象に遭っているのを考えると、悪夢による催眠だと考えられる。毎晩同じ夢を『魅せる』ことによって、微力だが奇術の効果を着実に深層心理へ植えつけるモノだろう。抵抗力のない人間なら大体二週間で落とされ、思いのまま操られる」
加害者に狙われた被害者は、二週間で落とされるというルールだ。それも奇術なんていう非科学的で現実的ではない方法で、なにも知らない普通の人間には回避不可能と言える。
「報告は以上だ。私は今から探索に出るよ、この街……真周町にどれだけ被害者候補がいるか、そしてどういう加害者か視てくる。それと君は今日、ここに泊まって行くことを勧める。事件を嗅ぎつけた怪しい白装束の集団が、町に来ているという耳寄り情報だ」
法が話を切り、椅子から立ち上がりながら今晩の活動内容を口にした。その頃には日が沈み、室内は闇で満ちていた。
「泊まりか、考えておく。……。今回も解決は可能なのか?」
「しなければならないレベルだよ。被害がいつもと比べて広範囲だからね、白装束以外にも部外者が乱入してくる可能性がある。隠れ住む私達にとっては非常にマズイ状況だ」
深刻そうな答えに、卍は法と同じく席を立とうとする。
「素人かつ体験入部中の部外者はお呼びじゃない、そういう取り決めだろう?」
二の句を告げる前に、法が突き放す。卍は短く頷いた。
「なら、あとは任せる。夏香の事を頼む」
「ああ、バンはあの友達の相談相手にでも……おや?」
不意に、法が意外そうな声を上げた。闇夜に浮かぶその蒼の瞳が淡く輝く。離れた位置に立つ卍から見てもわかるように、実際にだ。
「どうした? 敵か? 浸入者か?」
「教会で奇術が発動している。中には……クラスの女子と、バン……君の友達が傍にいるな。あと、もう一人は知らないな。ちっ、まだ時間があると思ったが、思い違いだったか」
遠く離れた場所で起きていることを視て、法が伝えてくる。
言葉を聞き終えない内に、卍は立ち上がった。
「待て、行ってどうする気だ?」
法が呼び止めた。部外者が立ち止まって答える前に、魔女は断言する。
「今からじゃ君が行くのも私が行くのも変わらない。その場合、損をするのはバン、君だぞ」
「……。わかっている。だが、俺は行きたいから行く」
子供のわがままのように、卍は拒絶する。聞きわけのない子供を叱るように、法が眉を潜めた。だが、フッと息を吐いて脱力する。
「なら、好きにすれば良い。今回だけは静観してやろう。ただし、わかっているな?」
応えず、卍は教室から出ていく。教室を出る間際、残された法がゆっくりと椅子に座り直すのが視えた。