第二章 一般人
「待って!」
法の首から血の滴が流れた時、夏香は校舎裏に飛び込み、朱音を呼び止めていた。
「バカ! 隠れていろと言ったろ! 彼女は全員殺る気だぞ!」
余裕無く法が叫ぶが、夏香は朱音と対峙する。
「夏香くんやっほー、おひさー? それとも初めましてと言うべきかな? 新藤朱音だよ~」
クスリと笑った朱音に対し、夏香は眉を潜めて言った。
「見事に騙されたよ。学校におびき出された終団のフェイカーが、君に変身できた段階で疑うべきだったね。あのフェイカーは今日学校に侵入したのに、その時僕と話をしていた君に変身できるわけがない。気付くのが遅かった、それに……」
「つまらないなぁ、そういう話」
朱音が刀を動かした。法の首から流れる血の量が増す。
「! ……どういう話なら良いのかな? 僕、最近の女の子が好きそうな話とか知らないよ?」
「そうだねぇ、君の事が聞きたいかな? 法ちゃんとロボ友達くん、そしてセシアちゃんは事前に情報を集められたんだけど。どうしても夏香くん、君だけは情報を纏めにくかった」
「……それは、どういう意味かな?」
気付かず。夏香は唾をゴクリと呑みこんだ。
「例えば、君は高校一年生の時まで家族と仲が良かった。だけど、二年生になってからは家には着替えを取りに行く以外、あまり寄りつかずにインターネット喫茶やカプセルホテルで寝泊まりしている。そして、家族もそれを認めている。いや、君に関心を示さないようにしているんだね。他には高校一年生の時まで仲が良かった友達と、今は絶縁状態になっている。これは今でも君の友達ではなく『知り合い』の和樹くんに聞いた話なんだけどね」
あのおしゃべり馬鹿。夏香は心の中で和樹を罵った。今の話は、卍にすら話していないことだ。
「あと、個人的には無口無愛想なロボ友達くんとは違って、愛想の良い夏香くんがどうして友達いないのかとか気になったんだよね~。っと、そんなどうでもいい私情は置いておいて、私の調べによると、君はある時期を境に別人のように変わっているんだ。もしかしてフェイカーとして覚醒したんじゃないかとか疑ったんだけど、教会裏の墓地でセシアちゃんに襲われていたのを視た限り、ただの一般人なんだよね」
情報が前後し、右往左往する。夏香という人物を特定しようとするが、情報が二人分出てくる。その不揃い加減が気になって、朱音は聞いているようだ。
「そうだよ、僕はどこにでもいる一般人。フェイカーでも、怪物でも、アンドロイドでもない」
「ただの一般人だけど、普通の人じゃない。だってそうでしょ?。普通の人間が、どうしてアンドロイドと友達でいようとするの? 魔女が仕切る部活に入っているの? 自分を襲った怪物と顔を合わせられるの? そんなの誰が見ても普通じゃない、異常だよ。夏香くんは、アタシ達の世界においての一般人になってるんだよ。それは普通の人間にはできないことだよ」
いくら理由があろうと、普通は拒絶する。それがただの人間だ。
「だからさぁ、君のことが知りたい。正直、夏香くんからは何が飛び出してくるかわからないから、これでも警戒してるんだよね。さ、話してみよ~」
刀を握る手に込めた力を緩ませず、朱音が言った。話さないなら、法の首を落とすのだろう。
(なんでこのタイミングで僕の話を聞くとか、考えてる場合じゃないか)
迷うように思考したことを中断し、夏香は答えた。
「高校一年生の時に、境容夏香は事故に遭った。詳しいことはわからなかったそうだけど、道路で倒れていたのを通りかかった誰かが見付けてくれたそうだよ。それで、気付いたら病院のベットで寝かされていた。外傷は無かったけど、打ち所が悪かったみたい」
誰にも、友達にさえ語らなかったことを、夏香は他人事のように話す。
「事故に遭った時、境容夏香は記憶を失くしたみたい。その時に、自分の価値観も一緒に失くした。高校一年生までの境容夏香はどんなモノが好きだったか、苦手なモノはなんだったか、何を恐れていたか、どんな考え方をしていたか、どんな生き方をしていたか、どこまで物事を受け入れられたか、どこまで拒絶していたか、全部忘れちゃったんだ」
「ピーンと来た。夏香くんは現状に馴染んでるわけじゃないんだね。今という日に、物事を受け入れるか、拒絶するかの価値観を構築してるんだ。スポンジみたいに」
その例えは何か嫌だな。夏香は不快な気分になるが、実質その通りなので反論できない。
「ある程度成長して環境に馴染んでからじゃ、異なる環境に適応するには時間がかかる。でも、記憶を失った君は今環境に適応しようとしてるんだね。だから、アンドロイドやフェイカー、怪物を受け入れられる。狼に育てられた子供が、狼の世界という異界の環境に馴染んだように」
「その話はガセネタらしいけどね」
「らしいね。じゃあ、ネタばらしも済んだところで、そろそろおしまいにしようか」
ようやく不安要素を取り除けた朱音が、この場を終わらせようとする。
「セシア! 今だ!」
魔眼を光らせ、法が叫ぶ。同時に、朱音の足元が光さえ呑みこむ混沌の黒に染まった。
セシアと初めて出会った時に、巨大な大蛇を出現させた異界に続く穴と同じモノだ。
その現象に朱音は素早く反応、法を手放して後ろに跳んだ。直後、法の眼の前を大蛇が空に向かって飛び出した。
だが、その大蛇は直ぐに消える。その間に、法も卍の隣まで退がった。
「うーん、時間切れかな~」
朱音が校舎の外に視線を向ける。遠くの空にサイレンの音が響きだした。
「ようやくか……」
法が呟く。校舎裏へ飛び込む前に、連絡しておいた消防車がようやく来たようだ。
「あはは、呑気に喋ってる場合じゃなかったねー。じゃあまぁ、また今度会いましょ~」
特に困った様子もなく朱音は笑い、塀の壁を蹴って跳び上がり、校舎の外に抜けて闇夜に姿を眩ませた。まるで最初からこうなると予測していたような、迅速な行動だ。
「わざと時間稼ぎさせてたよねぇ。エンって男と一緒で、いまいち目的が視えないなぁ」
夏香はぼやく。すると、左手で首筋を抑えた法が近づいてきた、
「助かった、ありがとう。だから、礼だ」
そう言って、法は夏香の頬に右掌を叩きつけた。空に音が響くような、強烈なビンタだ。
「ごめんなさい、指示を破って」
赤くなった頬を抑えて夏香は謝る。だが、法は無視して校舎裏に広がる死体の山に近づく。
「私が死体を処理する。三号は外に出て消防車の足止めを頼む」
法が制服のポケットから薄い赤色の液体が入った試験管を取り出し、死体に向かって投げる。
死体の上に転がった試験管を法が銃で撃つと、中で波打っていた液体が飛び散り、即座に発火した。なにか特殊な液体だったのだろう、炎は衰える気配がなく、むしろ勢いが増して肉塊全体を包み込んだ。油が焦げたような黒い煙が立ち込めだす。
「わかりました」
夏香は校舎裏から出ていく。その間、法はポケットから次々と試験管を取り出し、同じことを繰り返していく。背後に立っている卍とセシアに気を使う余裕は、二人には無かった。
★
「法……」
卍には法の気持ちがわかった。彼女は夏香に対して怒っているのではない、夏香にあそこまでさせた自分自身に怒っているのだ。
卍が法に声をかけようと口を開いた時、肩に手が置かれた。
セシアが卍の肩を掴んでいた。放っておけという意思表示かと思い、卍は振り向く。
だが、違っていた。セシアは短く荒い呼吸を不規則に繰り返し、卍の肩を掴んでいなければ倒れそうになっていた。慌ててセシアの肩に手を回し、顔を覗き込む。顔色は蒼白で、固く閉じられた目蓋が苦しそうに震えている。
「待っていろ、今法を」
「待って……バン、誰も……呼ばなくて……いいです」
法を呼ぶため、声を上げようとした卍の服をセシアが掴む。しかし、ほとんど力が入っておらず、服から指が離れる。卍は思わず怒鳴った。
「見栄を張っている場合か! どうみても衰弱してるだろお前!」
考えてみればわかることだ。明らかに体調が悪かった状態で、この場を斬り抜けるために大蛇を召喚したセシアは、限界以上に体力を消費していることに。だが、彼女は首を左右に振る。
「今……フェイカーは頭の整理で手いっぱいです。ナツにも……心配をかけてしまいます」
だから、誰も呼ばないで。ほとんど聞きとれないような弱弱しい声で、セシアが繰り返す。
「……。やはりお前は怪物の前にただの馬鹿だ。今、お前が一番辛いんじゃないのか? 自分の父親が元凶で、それを止めるために必死に頑張って傷ついて、他人の心配をしている場合じゃないだろ。なぁ、自分の心配は自分でしろよ、これじゃ俺が馬鹿みたいじゃないか」
卍の言葉は、眠るように気を失ったセシアには届かず、闇夜の空に虚しく響いた。