第二章 赤ジャン蕎麦
話し合いは法の言葉を最後に終わり、夏香と卍は急ぎ足で二階に在る食堂へ向かっていた。
昼休みは既に半分を過ぎており、急がなければ午後の授業に間に合わなくなる。
「先輩も昼休みに呼び出すぐらいなら、僕のお昼も買ってきてくれればよかったのに」
「さすがの魔女でも、自分と大食らいの昼飯代で財布が空になったのだろう」
愚痴りながら食堂へ入った時には、既に大多数の生徒が食事を終え、わいわいガヤガヤと談笑していた。出遅れているのは言うまでもない。
「卍は座席の確保をお願い、僕はお昼ご飯をとってくるよ」
「俺は食わないからな、妥当な人選だ」
夏香は卍と別れ、食券を買うため券売機の前に立った。
食堂のシステムは入って直ぐの券売機で食券を買い、厨房に立つおばちゃんに渡すことで調理してもらう形が取られている。
授業の疲れで飢えた生徒達を相手に何十年と戦ってきたおばちゃん達の手際は凄まじく、ほぼ待ち時間なしで要求された料理を並べていく。まさに速攻で腹の虫を鳴かせる隙さえ与えない。
「む……どうしよう、うどんにするべきか……ら~めんにするべきか」
硬貨を投入し、メニュー表を見ながら考え込む。
夏香はどうでもいい選択肢を選ぶのが苦手だった。
「うーん、うどんから~めんか、どっちでも良い。だけど、どっちとも決め手がない……」
「だったら蕎麦を食べれば良いじゃないかー!」
そんな夏香に痺れを切らしたかのように、後ろから元気なかけ声と共に腕が伸び『赤ジャン蕎麦 270円』のボタンがビシリと押された。
『赤ジャン蕎麦』とは、蕎麦の上にもみじおろしがこれでもかと乗ったメニューである。
ガシャンと、取り出し口から券が排出されるのを視た後、思い出したように夏香は振り向いた。夏香のように昼食が遅くなる生徒が居ても別におかしくはない。ただ、待ち切れずに勝手にメニューを決められたのは初めての経験だ。
茫然と後ろに振り向いた夏香の眼に映ったのは、膝裏まで届く長い茶髪の女生徒だった。
背は夏香より少し高く、スポーツでもしているのか、身体つきも骨と皮だけじゃないかと思えるセシアや法と比べて肉つきが良い、かといって筋肉が固そうな感じではなく、豹のようなしなやかな印象を感じる。
胸の方も、二人と比べてかなりデカイ。表情は引き締まっているが、元気と陽気が滲み出ており、誰が視ても第一印象は『明るい』と感じる雰囲気が漂っていた。
そんな健康とか元気とかの二文字がピッタリ張り付いたような少女は、券売機から券を取って夏香に渡した。そして、まぶしい笑顔で言った。
「それアタシのおすすめ、美味しいから食べてね」
「え、あ、うん、どうもありがとう?」
思わずお礼を言っている間に、少女は券売機に硬貨を入れ、『本日のランチ定食 350円』のボタンを躊躇いなく押した。
(自分はおすすめを選ばないのね)
券を取り出し、少女が振り向く。その動作に合わせて髪が揺れた。
「さっきは急にごめん、あんまりに迷っていたから視ていられなくなっちゃってさ。それにアタシもお腹空いてたし。ああ、アタシは二年の新藤藍音、君の名前は?」
「夏香、境容夏香だよ。ずっとここに陣取っていた僕が悪いし、気にしないで」
同じ二年生のはずだが、夏香は藍音の名前に聞き覚えがなかった、顔も見覚えがない。藍音ぐらい印象が強い生徒なら、一度見たら忘れなさそうなのだが、全く記憶になかった。
そのことが、夏香は少しだけ頭に引っ掛かった。
(先輩に話してみよう、あの人……子飼いの生徒とか情報網凄そうだし)
夏香が頭の中で決めていると、藍音がテーブルの方向に指を向けた。
「良かったら一緒にご飯食べない? 勝手にメニュー選んだお詫びに飲み物奢るからさ」
「ああ、ごめん。卍……じゃない、友達に席をとってもらってるんだ」
「そうなんだ、残念。じゃあ、また縁があったらねー」
小気味よく話が進んでしまい。藍音は手を上げて振りつつ、おばちゃんが立つ厨房に向かっていった。呼び止める間はない。
登場から退散まで竜巻みたいだと、夏香は茫然と思った。
★
放課後、悪夢を止めるために奇幾何学部と協力者が揃った部室で、夏香は藍音のことを法に話していた。すると、その名前を法は知っていた。
「ああ、新藤藍音か、彼女は君と同じで悪夢にうなされている子だ。二週間前に、近所に引っ越してきたその日から悪夢を視ているらしい。もうそろそろ狙われる頃だから、見張りをつけようと思っていたところだ。ちょうどいい、面識ができたのなら君が見張ってくれ」
「別に構わないですけど、二週間前に引っ越してきたってことは、転校生ですか?」
「そうだ、君が顔を知らないのはそのせいだよ。それと彼女を疑っているようだが安心しろ、新藤藍音は間違いなく人間だ。何日か監視しても不審な動きはなかったし、私の魔眼でも何も視えなかった。だから守ってやれ、明るい子だが、女の子だ」
法に言われて夏香は思い出す。藍音の眼の下には、夏香と同じくクマがあった。
「わかりました、自分の眼で確かめて判断します」
面識も根拠もあるためそう言った法に対し、夏香はあくまで自分のスタンスを崩さなかった。
「ここまで言って、そういうことが言える君は本当にただの一般人だよ。まぁいい、バン、セシアも顔は覚えておいてくれ、次に狙われるのはこの子かもしれない」
法が制服のポケットから一枚の写真、プリクラで撮られた装飾過多な写真を取り出した。この人もこういうところ行くんだと、夏香はなんとも言えない気持ちになった。写真に映るのは法と藍音の二人であり、まるで旧知の友人ように肩を並べている。
「わかりました、私もナツと共に彼女を見張りましょう」
「いや、セシアとバンは私と一緒に、別の候補を探して見張ってもらう」
法の指示に対して、二人はわかりやすく口を尖らせた。卍は友人が危険な眼に遭う人間の傍に居ることが、セシアは手掛かりとなる人間を見張れないことが不服なようだ。
「あのな、彼女の守りに集中して、他の奴が襲われたら意味がないだろ」
「……わかりました。ただし、この子を傍に置かせてもらいます。構わないですね?」
子供のような反応に法が呆れて言うと、セシアが教壇の上に止まっていた鳥を指差した。
「そうしてくれ、いきなり二人が襲われた時に、私達が傍にいない可能性も十分にある」
「不吉なこと言うのやめてくれません? というか、今更ですけど僕一人が見張ってもしょうがないような気が……僕は三人みたいに戦えませんよ」
「誰も戦えとは言わないさ。私が君に頼むのは精神のケアだよ、君なら彼女の気持ちがわかるはずだ。いきなり夢物語に突き落とされたような不安感や、誰にも言えない辛さを」
それは奇幾何学部に入る前の夏香の心情だった。悪い夢だったことがいきなり現実になり、誰かに相談しても決して安心できない状況は、恐怖と共に強い孤独を感じさせる。
夏香もまだ悪夢を魅せられているが、今の彼には卍やセシア、そして法がいる。その安心感は心強い支えになっている。だが、夏香以外の悪夢を魅せられている人達にはそれがない。
そう考えると、夏香は法の言うことに頷けた。また、力になりたいと真摯に思えた。
「わかりました、なるべく頑張ります。先輩の友達ですしね」
「? なにを勘違いしてるかわからんが、彼女はただの被害者だ。なら、私が救済するのは当たり前だ。そうしなければ、私の肩書きは嘘になってしまうからな」
本音なのか、それとも照れ隠しなのか、夏香にはわからなかった。ただ、どのような理由であれ、藍音を助けるという意思だけはハッキリと感じ取ることができた。




