僕と触手のお茶会日誌。
以前見た夢を、ある程度読めるようにした作品。お遊び、またの名をリハビリ。
「触手とは、本来禍々しい存在ではなかったのだよ」
気が付けば、僕は白い空間の中、椅子に座って紅茶の入ったカップを傾けていた。紅茶の味には詳しくないが、美味しい部類に入るであろうことは、この芳醇な匂いで判断できる。
いやいや待て待て。僕は先ほどベットの中に潜り込んで、寝入ろうとしていた筈だ。それなのに、なんで僕はこんなところにいるのであろうか。
僕が困惑している中、彼は言葉を続けた。
「とある地域では、この世界は触手状の生物、つまり神によって出来たという神話も存在するようだ。君の国でも、確か神格化された触手が存在するらしいじゃないか」
「はぁ……」
そう突然に言われても、僕はそう相槌を打つしかなかった。とは言っても、突然どう定義すれば良いのかも分からない場所にいるわけで、そこで突っ込むなんていうことは出来ず、どうすればいいのかも判断できないのだ。だが残念なことに、この紅茶の温かさと匂い、椅子の触感、確かにある意識から分かることは、ここが現実に酷似した夢であるということ。……なぜそこまで現実を否定したがるのかといえば、やはりこの異様な光景ゆえであろう。
「八岐大蛇やヒュドラといった多頭系魔物のそれらだって、神格の部類に属したものばかりであり、尚且つ見方を変えれば触手でもある。
さて、先ほどから我輩が言っていることを纏めてみると、触手とは神格の部類に近いであるということが分かる。確かに、見た目は世辞でも美しいとは言えない。気持ち悪い、と言っても言い過ぎなわけではない。無論、それは人それぞれの感性があるからね。否定しては、それは世界中の自我ある者らのアイデンティティの否定と同じだから。
……しかしね、しかしだね」
なにせ、僕の目の前には――
「なんで触手が陵辱系エロゲーにしか出ないのだ……!?」
「そんなの知るか!」
――触手が紅茶を飲んでいるから。
ГГГГГГ
「すまないね、先ほどは取り乱してしまったよ。どうか許していただきたい」
「あ、いや、まぁいいんだが……」
触手がウネウネと器用に被っていた帽子を取って礼をする。どこか、その仕草からは気品が良い様に見える。しかしそのおぞましい姿で、それら両方が見事に打ち消し合っている。シュールというか、カオスだ。
「我輩の名は触手男爵。男爵とでも呼んでくれたまえ」
「おい、なんだその適当感満載の名前は。もう少し捻ろよ」
「そうは言ってもだね、名前とは一種のコードネームのようなものだ。それに誇りを掛ける者がいるが、まさに我輩は『触手』という存在に誇りを掛けているのだ。ならば触手を名前にしたところでなんら問題は無い、というわけだよ」
なんだこの触手は。適当に付けた名前だと思ったら、案外考えられているとは。
……この謎しか詰まっていない触手を改めて観察してみることにした。
全長は、約一七〇㎝程であり、意外と大きい。この触手男爵とやらは、小さな触手の集合体である。長さは分からないが、太さが親指サイズの触手が所狭しと詰まっており、忙しなくウネウネと波打っているのだ。目のような器官は見受けられないところからすると、蛇などで有名なピット器官でも備えているのかもしれない。紅茶を飲んでいた口は、外からでは見えないが、触手の中に引き込んでいたいたため、きっと触手内にでもあるのだろう。……もしかしたら、触手一つ一つに口があるのかも、と想像してみると、グロテスクな光景が浮かび上がったので考えるのを放棄した。
「む、なんだね。そうじっくり見られては気恥ずかしいではないか」
正直に言おう。たとえ想像しなくても、見た目からしてグロテスクであると。だから一層激しくウネウネ動くな。
「お茶はまだまだあるからな、大いに飲んでくれたまえ。種類も幾つかある。ミルクもあるから、ミルクティーと洒落込むのも良いかもしれない。もし良かったら本物のロシアンティーの飲み方も伝授しよう。
茶菓子も準備しているぞ。スコーン、マフィン、ショートブレッド、パウンドケーキ、マドレーヌ、サンドイッチ。スコーン用にジャムと生クリームもある。お勧めはブルーベリージャムだ。独特な酸味と甘味がこれまた美味い。あぁ、干し葡萄入りやドライフルーツ入りのスコーンもあるし、チーズ風味の物とか、色々と揃えてみた。君の好みも知らないからな」
「ふーん、意外と種類も豊富なんだな……」
机上にはティーポットとよく見かける三段の大きな塔の様な皿があり、美味しそうな匂いを醸し出している。興味を示したものを取り皿に乗せて、口に運ぶ。
「うーむ、流石にお茶のマナーまでは知らなかったか……まぁ、今後教えればいいか」
男爵は何かブツブツと言っているが、よく聞き取れない。
しかし、この菓子の数々は随分と美味しい。スコーンは外がサクサク、中はシットリとしており、一口噛んでみれば口内に広がるバターの香り。生クリームのしつこくない甘さが、更に美味しさを引き立たせている。
次は新しく注いだ紅茶に口をつけてみた。カップに手のひらを付けてみると、熱くなく、温くもない温度だ。薄いオレンジ色で、綺麗だ。しかしそんなことよりも、この味に驚いてしまった。
甘い。くどい甘さではない。だからと言って薄くもなく、とても優しい甘味なのだ。だというのに、その味、香りからは躍動感が感じられる。祖母の様な包み込む優しさではない、無邪気な子供の持つ、なんの掛け値無しの優しさ。
――僕は、何も言えないでいた。
「君が今飲んだのは、ダージリンという、世界三大銘茶のひとつだ。紅茶のシャンパンとも言われるほどの、上品な味と香りで有名であるな。収穫期は三月から四月の間に取るファーストフラッシュ(一番摘み)で、等級はペコー。ダージリンのファーストフラッシュは香りは若々しい。非常に美味であろう?」
「……あぁ、すごく美味しい。紅茶がこんなに美味しいなんて思わなかった」
ティーパックでしか味わってきたことのない紅茶と、今味わった紅茶には、それこそ越えられない差があるように思えた。風味もまるで別物のように違うし、感じられるものも違う。
「ふふふ、そうであろう。我輩が手に汗ならぬ、触手に汗握る気持ちで淹れた茶であるからな。自信がある」
表情は見えないが、きっとしてやったりとした表情でこちらを見ているのであろう。残念ながら、こちらはしてやられた方なので、文句の一つも言えない。
「そう言えば、なんで今の今まで質問していなかったのか分からないけど、ここはどこなんだ」
よくよく考えてみると、何も疑わずに触手の渡してきた紅茶を飲んでいたのであろうか。普通戸惑ったり、なにかしら不信感を露わにする筈なのに。もし何かを入れているやも知れないのに。自分自身のこの警戒心の薄さにも小首を傾げてしまう。
「ここは、いわば夢と現の間、幻想と現実の狭間、想像と真実の世界。ありとあらゆるものが存在し、跋扈する自由な場所であるよ」
「……よく分からないんだが、それで男爵、なんで僕を呼んだんだ」
シルクハットをグイッ、と深く被った。そして、頭を下げた。
「どうか、我輩を助けて欲しい」
ГГГГГГ
「――つまり、男爵のような幻の存在は、僕たちの世界、現での認識があれば、虚で存在することが出来る、という解釈でいいんだな」
「その通りであるよ。もっと細かいこともあるんだが、大まかに言えばそういうことだ」
男爵のようなフィクション的存在は、虚というところで生活をしているらしいのだが、僕らが生きる現実である現で、社会でその存在が薄らいでいくと、最終的にその薄らいだ存在は消えてしまうらしい。彼(?)は現在薄らいできているらしく、生きるために(真に心外であるが)僕のような男爵との適正がある人間をここに呼んで、協力を要請しているという。
「それで、今まで呼んできた、ということは断られ続けていたという認識でいいんだよな」
「うぐっ……その通りだよ、みんな断っていった……」
相当ショックなことらしく、触手もしんなりしている。……気の毒に。
「ということは、あんまりよろしくない条件だってことか」
「そんなことはない!」
ガタッ、と音を立てて男爵は立ち上がった。触手たちは抗議したいかのように逆立ち、プルプルと根元から固まって震えている。手の代わりをしていた触手が、机をベチンベチンと鞭打つように叩く。キモいというか、なんだか恐い。
「迷惑は掛けないし、寧ろ手助けするつもりであるのに、みんな、みんな我輩の姿を見て苦笑いしながらだとか、罵倒を吐いてからだとかして断る! タダ飯食って!」
最後の一言はいらない、間違い無く。しかし、それほどに追い詰められているということなのだろう。でなければ紳士のような立ち振る舞いをするものが、いきなり怒ったりなぞしない筈だ。
「まぁ、僕は条件次第では受けても良いけど……」という僕の言葉に、「ほ、本当であるか!?」とズイッ、と体を寄せて来る。触手が当たりそうなほどの距離であったので身を引きながら、「あ、あぁ。条件次第だけどな」と答えた。匂いはしない。無臭だ。強いて言うならば、先ほど男爵が飲んでいたお茶の香りがする。
「そ、そうかそうか。条件次第であるなら、全く大丈夫だよ!」
まだ了承も得ていないと言うのに、小躍りしそうなくらいにテンションが高い。すでに触手の一本二本が踊っているかのようににょろにょろ動いている。……なんとなく、踊っているように見えた。
「で、条件ってのは?」
「あぁ、なに、簡単なことである」
ピッ、と触手で僕を指差してきた。そして、自信満々に言い放った。
「脳みそをちょっと貸してくれればいいだけである」
「帰ります」
「あぁ! ちょ、ちょっと待って!」
逃がさんとばかりに、触手が絡み付いてきた。気持ち悪いとか、そんなことが思い浮かぶ前に、男爵への悪態が出る。
「離せぇ! そんな怪しいことが出来るかよ! そりゃ断られる!」
「なんでであるか!? 全くをもって問題が無いではないか! 寧ろ毎日紅茶飲めるからプラスだよ!」
「毎日飲んでいたら流石に飽きる!」
じたばたと暴れるが、抵抗は空しく終わり、それどころか触手に絡みつかれてしまった。
「な、なんでであるか! 本当に、なんでであるか!? 我輩の見た目が醜いのが、そんなに悪いのか? そりゃ、容姿は醜いであるが、この心はそこまで醜いとは思えないであるよ……我輩だって、生きたいんであるよ……」
男爵の涙声が響く。触手も項垂れ、僕を束縛するそれの力も段々と抜けていく。しかし、僕に配慮してか、ゆっくりと下ろされた。
嗚咽まで聞こえてきて気まずくなってしまい、ポリポリと頭を掻くしかなかった。
そして、禍々しい姿をしているが、自分で言うとおりに、男爵は悪い奴とも思えなかった。
「……なぁ、男爵。脳みそを借すってのに、なにか問題があるか?」
「ふぇ?」
「だから、脳みそを借りるったって、僕の意識を乗っ取るとか、そんなことはしないんだよな?」
「そ、そんなことしないであるよ! 精々使用されていない二、三%の脳みそを使わせてもらうだけ! 確かに最初の二、三日は違和感を覚えると思うが、統計上ではそれ以降はそんなことない!」
「……そうか」
まだ、完璧には信用できない。男爵が嘘を吐いており、もしかしたら体を乗っ取られるのかもしれない。先ほどまで泣いていたのは泣き真似で、泣き落としをしようとしていたのかもしれない。
だが、男爵が嘘を吐いているようには見えないし、感じられない。それに極短時間ではあるが接してみて、自分の中では、男爵は嘘を吐くことが出来ないような性格にしか思えないのだ。だから、多少妥協した。
「……僕も、まだお前のことを詳しく知っているわけでもないから信用できない。だから一ヶ月間ここに通って、もし信用が置けると判断したなら、条件を飲んで、男爵に手を貸してもいい」
「ほ、本当であるか!」
「ただし! 信用が置けないと判断したなら断るし、脳みそを貸して支障が出るようであれば出ていってもらうからな!」
「大丈夫であるよ! ノープログレムだよ!」
そんなこんなで、僕と触手のお茶会は始まりを告げたのである。
ГГГГГ
そういえばと、僕は疑問を告げた。
「なぁ男爵。僕は今、どういう状態なんだ?」
「ん? どういう意味であるか?」
「ほら、睡眠にもレム睡眠だとかノンレム睡眠だとかあるじゃないか。僕は寝ようとしていたわけだし、どっちなのかなって」
「あぁ、それなら、」
多分これは夢の類だし、レム睡眠だと僕は考えているんだが、彼の口から直接聞いたほうが正確だ。もしかしたら、彼の外見通りに邪神的なこ「魂を直接呼んでいるから、仮死状態であるかな」とをしていたよ。
「それって大分危ないんじゃないのか!? それに、母さんが起こしに来たりだとかしたら拙いだろ!」
「む、大丈夫であるよ。仮死状態とは言っても、ぎりぎり生きていられる程度には体は動いているし、魂を直接呼ぶということ自体は全く問題ないである。よく悪魔とかが使う手であるよ」
「危険だろそれ! なんだか拙い気しかしないんだけど!」
僕にはしては珍しく、大声をよく出す日だ。とは言っても僕は魂なのだから、喉が痛いとかは無い様子であるが。
「悪魔が信用ならないのであるか? いやいや、悪魔以上に信用できる存在を我輩は見たことがないであるよ。彼らは契約に従順である。人間と大差ないである。悪魔はいわゆる、全員が同じ会社の社員のような感じだな。契約を結び、それを遂行し、報酬を得て生計を立てるのである。だから彼らにしてみると信用が重要であるから、契約は決して破らず、寧ろ破っていくのは人間や神、天使の方であるよ。
メフィストフェレスを見るといい。彼はファウスト博士と魂を対価にする契約を結んだが、それを神が天使が邪魔をして、最終的に彼はファウスト博士の魂を得られなかった。おかしくないかね? 仕事には報酬があるからこそ結ぶのであるよ。彼の若返らせの契約なんて、悪魔からしても高位の者しか行えなず、さらには大変難しものである。だというのに、天使とファウスト博士はまるでペテンのように彼の報酬である魂を奪っていったのであるよ! 神に属せし者が、そんなことをしていいと思うかね!?
……失礼、感情が高ぶってしまった。彼とは仲が良くて。まぁ、であるから安心するであるよ。この方法で失敗したことはないからね」
「そ、そうか。なら、安心した」
いきなり怒鳴り声を上げるものだから驚いてしまった。それにいきなり触手が逆立つし。
口ではこうは言っているものの、実際のところでは多少の不安は残ってはいる。しかし、ここまで言い張るのだから安全なのだろう。内心でそうけりを付けて、マグカップを傾けた。
また違う美味さだ。渋みが少なく、マイルドだ。鼻腔をくすぐる仄かな香りはバラのそれだ。
「今君が飲んでいるのはディンブラと言って、果実を混ぜたフルーツティーとしても美味しく飲める代物である。今回は準備してはいないが、次回準備するよ」
「しかし、紅茶といっても色々な種類があるんだな。種類が幾つかあるのは知ってはいたが、こんなにあるとは思わなかった」
紅茶というものにあまり接したこともないからではあるが、予想以上の種類である。
「基本的に紅茶の元となる茶葉が取られるのは、インド、スリランカ、中国、ケニヤなどの国から取られていて、その国々でも地域ごとに味わい、香り、水色が違うんだよ。さらには収穫時期でもそれらが変わり、等級ごとに抽出時間が分けられているのである」
「? 等級って、品質の良し悪しじゃないのか?」
男爵はプルプルと触手を左右に振って、それを否定する。では、僕の捉え方が間違っていたのであろう。
「確かにそう思われがちではあるが、違うであるよ。等級は部位のことを言っており、茶葉の厚さや大きさを別々に分けるのである。混ぜてしまうと抽出する時間が適応したものではなくなってしまい、味に支障が出てしまうのであるからな。とは言うっても確かに良し悪しでつける等級も存在するが、年度によって変わるであるから、過度に信用してはいけないであるよ。新芽のことをチップという。チップの名前は上から順に、オレンジ・ペコ、ペコ、ペコ・スーチョン、スーチョンと呼ばれているのである。それぞれ特徴があり、それに合わせて抽出しないとおいしい紅茶はできないのである。例外にスペシャル・ファイン・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ、ファイン・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ、ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ、ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ、フラワリー・オレンジ・ペコの良し悪しで分けられる等級も存在するである」
「結構奥が深いんだな。ちなみにここにあるのは?」
「基本的にオレンジ・ペコである。長く楽しむには、この等級が一番だと我輩は思っているからな。味がいい上位の等級も揃えようと思ったであるが……お金がなくて、買えなかったである……」
「テンションの上下が激しいな、おい」
思わずそんなことを口走ってしまう。なにせ、先程まで饒舌に紅茶について語っていっというのに、今は失意の底にいるようなテンションだ。目まぐるしく変わる男爵のテンションに、思わず深いため息を吐いてしまう。……とてもメンドくさいとは思っていない。いないったらいないんだ。
「まぁ、これでも十分美味しいんだし、いいんじゃないかな?」
「紳士たるもの、客人には最高の持て成しをするのが当たり前なのである!」
「あ、そうですか」
助け舟すら一撃で撃沈された。あの異常なテンションをどうにかして欲しい。してくれ、して下さい。
「求人誌を見てもいいバイトがないから、中々お金が貯まらないよ」
はぁ、と男爵はため息を吐く。幻想的世界のはずなのに、なんて現実的な。触手がバイトをしている姿を思い浮かべるが、シュールな光景しか見えない。
「というか、この世界にもお金はあるのか」
「生存自体は現で認識さえしてくれればいいだけであるから、娯楽用であるがね。家とか食事とか服とか。我輩は我が盟友メフィストフェレスとの契約で、対価としてお金の支払いであったから、現在金欠状態である」
「……仕事は?」
「残念ながら、先月リストラになったであるよ……」
リストラとかもあるのかよ。随分とリアリティのある世界だ。しかし、幻想と現実の狭間、などの言い方もしていたし、やはりそういう概念があってもおかしくはない。
「……協力には断られ、契約で金欠になり、仕事はリストラって。かなり波乱万丈な人生を進行形で歩んでいるんだな」
「それは言わない約束」
僕と男爵はその一言を機に、カップを傾けて紅茶を飲む。
ソーサーにカップを載せ、スコーンへと手を伸ばした。一口サイズに千切り、ブルーベリージャムを塗り、口に放り込んだ。うん、美味い。
「しかし、紅茶もお菓子もこんなに美味しいんだから、自営業で喫茶店だとか、お菓子屋だとかで仕事をすればいいのに。自分の好きなことができて、しかもリストラの危険性も無い。お客が来なかったら、そりゃ金儲けは出来ないだろうけど」
「そういうことが出来たら、どれだけいいことか……」
またもや僕は男爵の地雷を踏んだらしい。男爵の心の中は地雷で埋め尽くされているのだろうか。今回だけでどれだけ踏んだことなのやら。
「現が存在の権限を持っているから、やはりこの世界は人間の認識がベースになっている。無論例外はいるであるよ。でも、現の認識通りの存在の方が多いから、価値観も人間に近くなる。
となれば、美醜感もやはり現、つまり人間のそれに依存している。人間である君に問う。我輩の形姿を見てどう思う?」
「そりゃあ……不気味だとか、確かにそういう感想だな」
「はっきり言ってしまえば、気持ち悪いだとか、醜い、であろう? そういうのが作ったお茶やらなにやらを食べたいと思うのは、やはり少ない。だから無理なのであるよ、我輩が飲食店に勤めたり自営したりするのは」
成る程、確かにその通りだ。僕だって混乱していて正しい判断が出来なかったから食べれたわけであって、落ち着いた状態で出されていたら、きっと食べなかったであろう。
人を見た目で判断してはいけない、人は外見ではなく中身が重要、とよく言われるが、これは長い付き合いがあるという前提での話である。詰まる所、長い付き合いをしていないのであれば、相手の外見で判断する割合を多く占める、ということになる(ここでいう外見は容姿だけでなく、服の着こなしや食事のマナーなど、見て取れる所も含めている)。
そこから考えると、彼はかなり時間を有する姿であると考えられる。確かに言葉遣いや物腰は丁寧、服の着こなしもシャンとしてはいるが、触手の集合体である彼の姿は、それらを吹き飛ばすほどのインパクトがあるのだ。この外見の印象を拭うというのは、努力も必要になってくる。
そんな信用を得るために時間を大量に必要とする彼が飲食店を経営するのは、不可能でなくとも、不利であると判断がつく。
「しかし何度も言うであるが、我輩は自身が触手ということに誇りを持っているし、相手の思いというものを否定することはしない。今の立場は確かに不便であるが、受け入れられるからね」
表情は見えないがきっと、苦笑しながら男爵はそう言った。
「そうか」
僕はそう呟いて、紅茶を飲む。
「ん、もうそろそろ現では朝であるな」
「もうそんな時間なのか?」
「うむ、君が寝るのが遅かったからな。君がここに来てから結構時間が経っているであるよ」
「そんなに経ったのか、時間の流れが早く感じるな。まぁ、有意義な時間だったよ」
「それは嬉しいであるな。では、また明日」
「あぁ、じゃあ」
そして僕は、意識が沈んでいくのを感じながら、瞼を瞑った。