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志乃森町野乃  作者: 停滞
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 その室内には丸くそれなりの大きさのテーブルが3つあり、それぞれには椅子が2つずつ置かれ正面に向かい合うように配置されていた。

 入り口から見て逆三角形の形で配置されたそれらの向こうにはカウンターがあり、経営者の夫婦が4つ並ぶカウンター席の1つに座る客と楽しげに談笑していた。各テーブル席のうち、客がいるのは右上のテーブルの3人と下のテーブルに座る2人のみ。右上の3人もカウンター席に座る客と同じくよくここに顔を出しているお得意様であり、ここ、クオの町にある喫茶店の顔馴染みであった。

 それでは、下のテーブル席に座る2人は誰か。1人はこの店自慢の看板娘であり、ようやっと10代の後半に足が掛かるところまで来た少女。名前はノノ。つい先日14になったばかりであり、まだどことなく幼さを残した顔立ちをしているが、凛とした色を宿した瞳にはこれからの未来を求める強い意思と、年相応な気の強さを感じさせる。

 そして時折小さめの口から八重歯を覗かせ笑う姿からは、明るく裏表の無い性格を体現させているかのようだった。少々つり目な所がたまに傷だが、十分に可愛らしいと言える部類に入る少女であった。

「サーカス? その集落にはそんなものがあるんだ。へぇ、ホントなの? それで、それはどんな感じだったの?」

 ノノの問いに向かいに座る青年は人の良さそうな笑顔を返して答えた。

「うん、そこのサーカスには夜叉熊(やしゃぐま)っていう胸元に夜叉の顔みたいなマークのある熊がいるんだけどね。そいつは結構頭が良い生き物で団員の皆と家族みたいに暮らしてんだ。まあ野生のはすんごい狂暴なんだけどこいつはとっても人懐こくて、それでまた芸達者でさ」

 青年の名はシノ。今年で21歳になる中性的な顔立ちをした男性だ。ひょろりとした華奢な体躯にそれなりに高い身長が異様にアンバランスで、見る人によってはトンボをイメージさせる体つきをしているが、その一方で、成人しているとは何とも考えづらい人懐っこい雰囲気を漂わせ、常に見せる笑顔からは子供っぽい感覚を覚えさせてくる。何とも形容しがたい異質さを持った奇妙な男であった。

 そんな妙な男と少女は親しげに会話をしているが、実はこの2人はまだ出会ってさほどの日数を経てはいない。だがこんな他にいないであろう異質さを持つシノにだからこそ、ノノは早期に気を許せたのかもしれなかった。

 そもそもシノがこのクオの町に現れたのは3日ほど前の事であった。

 その日、店の手伝いで買い出しに出ていたノノは、この町の工芸品を作る場所を訊いて回っていたシノに偶然出会った。その工芸品は他の町ではそれなりに有名な品であったが、当の町ではそれほど流行っている物ではなく所在地を知っているのは精々3人に1人程度の割合だった。ノノはその1人の内であり、少々お節介焼きの気質を持っていた彼女は、そんなシノに道案内を買って出たのだった。

 ノノはこのクオの町以外の世界に憧れていた。この世に生まれ落ちて14年の歳月が流れていたが、一度もこの町を出たことがなかった。13を過ぎた者には一人立ちをする権利が認められているが、一般的に町に生まれた者はそこから一度も出ずに生涯を終えることが当たり前であった。だが勿論それをよしとしない人間もいる。ノノもそうだった。しかし父からの強い反対により現在までそれは叶わずにいた。そんな中で外から来たシノと出会い、案内をする傍らで聞いたこの町でない世界の話を聞くことはとても新鮮で楽しいことであった。

 だからノノは、まだ知りたかった。

「アタシの家は、どうかな」

 工芸品ができるまでの1週間の間滞在できる場所は無いかとシノが訊いてきた時、ノノは迷うことなくそう言っていた。初めはシノも迷惑になると断ったが、結局押しの強いノノに押し切られる形でその言葉に乗ることとなった。

 しかし、家に着いたノノを待っていたのは頑固者の父親の反対だった。放任主義である母親はあっさりと了承したが、娘煩悩である父親にとって成人もしていない娘がいる家に何処の誰とも知れぬ人間を受け入れるわけにはいかなかったのだ。

 ちなみに何処の誰であるかを証明する物をシノは持ってはいた。それは自分が世界に点在する47の町の何処の区分に戸籍を置いているかを判別できる手のひら程度の大きさの長方形の物体で、名称は文字通り所在証明という。これは自分が戸籍を置かない町にある品を購入する際に必須の物であり、旅をする者には必要不可欠であった。

 これを提示すればシノが誰であるか判明するが、そもそも彼はそこまでしてこの家に上がり込もうと考えておらず、何よりその程度のことでこの父親が許すとは思えなかった。だからシノは黙って親子の口論を見守ることしかできなかった。

「何よ、馬鹿。この馬鹿父(ばかとう)!」

 結局、父親から許しはもらえずノノはシノを近くの宿場に案内した。

 謝るノノに、シノはここまで気を使ってくれたことに礼を言って別れを告げようとした。しかしその時、諦めきれなかったノノはこう言った。

「アタシの家、喫茶店やってるの。だから、ご飯に困ったら家に来て。サービスするから」

 シノはその言葉に、笑顔で礼を言った。正直な話をすれば、シノの手持ちはここで1週間を過ごすくらいには十分にあったが、ノノの必死さから何かあると考えて頷いたのであった。それが結局のところ、外の世界を知りたいというただそれだけの話であったのだが。

 そしてそれからの3日間、シノが喫茶店に昼夜来ることは当たり前になっていた。ノノが外の話を訊き、それをシノが答えるのが日課だった。勿論、客が盛況な時は叶わなかったが、そのような事になるのはは元々この店では少なく、現にこの3日間はそれほどの客入りではなかった。

 だからノノはシノが食事に来るたびに同じテーブルの席に着いていた。それは今日も変わらずであった。

「ああ、いいわね。やっぱりアタシ外を見てみたいわ」

 話を聞き終えたノノは目を輝かせた。

「ねえ、シノさん。貴方は一体いつから旅を始めたの?」

「そうだな、もう5年くらい経つかな」

「やっぱり辛いこともあった?」

「そりゃ勿論。いっぱいあったよ。やりきれないことも、やるせないことも」

「でも、旅はやめないのでしょ?」

「まあね、そんなことも旅の思い出だし。それに家族と連絡がとれれば別に何でもないよ。そこで贈った物についての反応とか聞けたら、笑えるしね」

「ああ、何でシノさんが各地を巡ってそこの工芸品を集めてるのかと思ったら、そっか、家族に送ってたんだ」

「そ、中々帰ってやれないからその罪滅ぼしでね。でも、うち家族が多くてさ。意見もいっぱいあって、たまに難しい注文も来るし、大変さ」

「そんなお金を一体どこから? シノさん家ってお金持ちなの?」

「普通、普通。一般的と変わらないよ」

「ふうん……?」

 変わらない口調で話すシノだったが、それの奥底に何かの変化が起きたことをノノは見逃さなかった。しかし今まで何を訊いてもすぐに答えてくれたシノが答えなかったということから、きっとあまり触れてはならないのだろうと思い訊かくことはしなかった。

「でもシノさん。そこまでしてどうして頼みを聞くの? 難しいことや難儀なことならもう少し品位を落としてもらったりしてもらえばいいんじゃないの?」

「まあね。でも、なんかさ。叶えてあげたいじゃない。これくらいのこと」

「真面目なのね」

「はは、そう言われたのは初めてだよ」

「ノノ」

 話に区切りがつくのを狙ったのかのようにノノの父親が声を発した。

「そろそろ仕事に戻れ。ほら、客が帰ってるぞ。食器、持ってこい」

 見れば確かに先程まで埋まっていた席には誰もおらず、空の食器だけがテーブルにあった。

「はーい」

 口を尖らしてノノは不満そうに立ち上がった。

「シノさん、アタシ戻るわ。話はまた聞かせてね」

「うん」

 席を立ったノノはパタパタと小走りに空になったテーブルに近寄ると手に持っていた盆に食器を集め始めた。

 それから目を逸らしたシノは目の前にある空の食器を一瞥して立ち上がり、店を後にした。

 また来てよ、とノノが言い、シノはまたねと告げていた。

 店を出てからシノは町を散策した。花屋や道具屋、薬屋などを冷やかしながら歩いているとその道中で妙な噂を聞いた。

「何でも最近、近くに化け物が出るんだとさ」

「化け物が? マジかよ、それじゃあ狩りに行けねえじゃねえか」

「そいつ狩ってくりゃいんじゃね?」

「ふはっ、マジ勘弁」

 青年達が笑いながら歩いていく。

 シノはそれを見送ってからふと腰に差しているホルダーに触れた。中には6発式のカノンが入っている。持ち合わせの弾は装填しているのを合わせ36発で、護身用に常に持ち歩いている物である。

「怪物、か」

 1人呟きながらホルダーを3回撫でた。これだけでは心許ないかもしれない、という不安からだった。だがすぐにシノはあっけらかんとした口調で言った。

「ま、なんとかなるかな」

 そしてまた歩き出した。

 やがて夜になって、あちこちにポツポツある街灯が点き始めた。シノはまたノノの父が経営する喫茶店に向かった。

「何よ、馬鹿父!」

「ん?」

 開けようとした扉のノブから手を離してシノは聞き耳をたてた。

「私だってもう14よ。立派に一人立ちできる年齢。なのにどうして家を出ちゃいけないの!?」

「五月蝿い、駄目なものは駄目だと言っている。家族は一緒にいるべきだ!」

「このっ……また家族。家族なんて便利な言葉使って、そうやって後からアタシが言う言葉全部悪くする気でしょ!」

「ノノ!」

「もう知らない!」

 バンッと勢いよく扉が開く。咄嗟にシノが脇に退くと、開いた扉から目元に涙を浮かべたノノが飛び出してきて、そのまま一度も振り向くことなく暗闇の町中へと消えていった。

 シノが呆然と暗闇の向こうを見ていると、閉じた室内からまた声が聞こえてきた。

「また出てっちゃったじゃない」

「何て、我の強い娘だ」

「寂しいなら寂しいって言えばいいのに」

「う、五月蝿い。そんな恥ずかしいことが俺の口から言えるか! 母さんこそ、何で何にも言わないんだ。ノノが大事じゃないのか?」

「私は12の時にはもう1人で猟師生活をやっていたわ」

「そ、それが理由になるか! あんな幼い子が1人でなんて、変な奴に捕まったらどうするんだ!?」

「貴方みたいな?」

「ち、違うわ! お前とは18になるまでしっかり待って……って、それも違う!」

 どうやら店には他の客もいたようで、ノノの父親がそう叫んだ瞬間に中からはたくさんの笑い声が聞こえてきた。

 それを聞いたシノは忍び笑いをすると扉から離れ、ノノを捜しに出た。

 20分ほど捜し回って、やがて町の外れにある資材置き場で木材を振り回しているノノを見つけた。

「馬鹿、馬鹿、ばっかああああ! 父の馬鹿あ!」

 ひとしきり振り回したあと、ノノは持っていた木材を積み上げられた資材に向けて勢いよく投げつけた。木材は資材の山に弾かれて音を立てながらノノの足元に転がった。

「はあっ、はあっ、はあっ。思いしったか、馬鹿……」

 荒い息を吐いてノノはそう毒づくとその場にへたりこんだ。

 あまりの剣幕にシノはたじろいていたが、気を取り直すために一度咳払いをしてノノに声をかけた。

 声をかけるとノノはすぐさまシノの方を向き、一瞬怪訝な表情を浮かべたがそれが誰であるか認識すると罰の悪そうな顔をした。

「やだな、いつから見てたの?」

 そう言って照れたように笑うとノノは立ち上がり、スカートに付着した土ぼこりを払った。

「はは、ごめんなさい。見苦しいとこ見せちゃったかな。あんまりにちょっと頭にくることあったから、憂さ晴らししてた」

「何かあったの?」

「またお父さんと喧嘩しちゃったんだ」

 ノノは自嘲するように笑い、足元に転がっていた先程の木材を拾い上げ、両の手でクルクルと回しだした。

「外に出たいって言ったら、お前にはまだ早いだって。家族は一緒にいるのが幸せだって。去年から繰り返した問答をまた繰り返してさ。進歩がないのか分からず屋なのか。それともアタシがまだまだなのか。あぁあ、やな感じ」

「家族は嫌い?」

「んーん。あ、でも」

 ノノは沈んだ声でそう言うと、回していた木材を止めて手を下ろした。


「こういう時は分かんなくなるかな。頭にくるとは思うけど、時間が経つと虚しくなるから結局許しちゃう。いや、妥協しちゃうのかな。まだいっか、てさ」

「まだいい、か」

「そ。甘いよね、アタシ。ふふ」

 力なく笑って、ノノは右の手を木材から離し耳元に当てた。そして、不意にシノへ視線を向けた。

「点さえつけば、アタシは貴方になれたのにね」

「点さえ?」

「ほら、ノノとシノ。最初のノに点々がつけばアタシがシノ。ね? そしたらアタシはノノじゃなくなる。こんな縛り付けられたアタシじゃなくなる」

「そんなに君は外が見たいの?」

「見たいわ」

「良いことばかりじゃないと、教えても?」

「だからアタシはそれを知らなきゃいけないの」

「え?」

 首をかしげたシノにノノは小さく笑みを浮かべて背を向けると、持ったままだった木材を遠くの地面に向けて放り投げた。カランと、木材は地面に転がって二度三度と弾み、やがて静止した。

「別にアタシはただ外に憧れているわけじゃないのよ」

「うん」

「アタシは何も知らない。ただのちっぽけな小娘よ。そんな小娘でもいつかは大人になる。そしてきっとあの喫茶店を継ぐわ。何にも知らず、小さな箱庭の中だけしか知らないままでね。でも父さんや母さんはたくさんの苦労をしてあの店を手に入れたのよ。散々な思いをして、ようやくこの町にあれを建てられたのよ。なのに、その後を継ぐアタシは、この町しか知らない。小さな苦労しかしたことがない。そんなのは間違ってると思うの。狭い価値観しかアタシにはない。だからアタシは外を見たい。もっと広い世界を見て、確かな価値を手に入れて、父さんや母さんに胸を張って言えるようになりたいの。アタシも父さんたちには負けないよって」

 強い意思を感じさせる瞳でノノはそう言って、悔しそうに拳を握りしめた。

 その姿を見て、シノはノノに対する認識を少し改めていた。

 初め、シノはノノをただ負けん気の強いだけの娘だと考えていた。だがそれは少しばかり違っていたようだった。

 彼女は彼女なりに両親の事を考えている。だからこそ、今言ったような在り方を必死に括るようになっているようだった。

 シノは先程聞いたノノの両親の会話を思い出していた。その不器用な在り方がノノの父親とダブって見えた。

「それ、お父さんたちに言ったことないの?」

「ううん。恥ずかしくて、父さん達には言ったことない」

「言えばいいじゃない。言葉にしなければ伝わらない事だってあるよ」

「分かってる。だけど、面と顔を合わせるとどうにもね。いつも必ず親子のあり方を説こうとしてくるからなおのことでさ。つい熱くなっちゃう。子供だなって思うよ、自分でも」

「そっか」

「何も、言わないの?」

「何もって?」

「だって、こういう事言うといっつも周りからは」

「分かってるんなら自分で治すようにしろ、とか? 言わないよそんなこと。だってこれは当事者達の問題だし、赤の他人の俺が首を突っ込んでいい話じゃない」

 そう言ってから、でも、と付け加えシノは苦笑いを浮かべた。

「もう随分と余計なことしちゃってるかな。今のもやっちゃったて思ってるよ」

 その言葉にノノの暗かった表情は少しだけ明るくなっていた。

「そうなんだ。でも、そっか。大人って正論ばかり吐いて説教する人ばっかりだと思ってた。母さん以外でそれに嵌まらない人は初めて見たわ」

「俺が大人かどうかは知らないけどさ、大人だって人間だよ。人生を説けるようになるのは死んでからだもん。それまでは自分のことだけで精一杯さ」

「それってつまり、刹那的思考ってこと?」

 首をかしげたノノにシノは肩をすくめた。

「どうかな。多分違うと思う。ま、俺は楽天家が一番だと思うけどね」

「それって刹那的と何が違うの?」

「何とかなるよう自分で動くかどうかが違いかなって思うよ」

 そう言ってシノは笑いノノに背を向けた。

「さあ、帰ろうよ。夜遅くまでいても良いことないよ」

「そうね。頭も冷えたから、もう帰っても大丈夫かな」

 ノノがあっさりと肯定したことからシノは、これは頻繁に起こっていることなのだろう、と判断し気づかれないようこっそりと笑った。家にいる家族のことが頭に浮かんでいた。

「もしかしてシノさん。アタシを捜すよう頼まれたの?」

 肩を並べたノノが首をかしげてシノを見上げた。シノが首を振って自分の勝手だと伝えるとノノは顔をほころばせた。

「優しいんだね、シノさん」

 そして2人は喫茶店に戻っていった。

「それじゃあね」

「うん、シノさんありがとう」

 店の前でシノはノノと別れ、宿に向かって歩きだした。

 街灯がまばらにしかない舗装の無い町並み。そんな中をシノは歩いていた。

 静かな町だった。今までいくつもの町を歩いてきたが、ここまで争いと無縁に見える地は初めてであった。

 世界には47の町がある。その内の12を回っていたシノであったが、この町はその中でも上位に入る穏やかな場所だった。

 大きく屹立した山を背に張り付けここに立つクオの町。果てしない森に覆われている世界にある町の内の1つ。

 少し前に散策をした際の役場で訪ねたこの町の総数は122万人。200万に足りない人数からここは、世界から見て村型に区分される町だ。つまりここは都市型の町の傘下にあるということである。

 クオの町を納める町はガワの町だ。人口は240万人。ウドンが美味いという話以外あまり特筆したことを聞かない町だが、このクオの町がこれほどの安らぎを得ているということは、良好な関係を築けている証だろう。

 そうでなければ町の中はもっと殺伐としている。こんな穏やかな夜も家から聞こえる談笑も何もない、暗く重い終末の気配しかない。つまりはいさかいや争いに発展する前兆が常に漂っているということである。

 そして前兆が事実に変わったとき、それを都市戦争と呼ぶ。

 不意にシノは右目を閉じて夜空を見上げた。そこには漆黒の闇が広がっていた。その目を閉じ右目を開けば美しい星空があった。心なしか気分によるものか、その景色は他とは違って見えた。

「そんなことはなさそうだけどね」

 自分にしか聞こえない声量で呟いたシノは、口許に小さな笑みを一つ作った。そう思えたことが嬉しかったのだ。

「土産話一つ、思出話一つ。だから飽きようもないんだよ、この生活」

 そう呟くシノの表情はとても穏やかだった。

 やがて宿に着き受付に頭を下げると、シノは真っ直ぐに自分の部屋に向かった。そして中に入り寝る準備をすると、夜虫の心地よい鳴き声を耳にしながら眠りについた。

 次の日、目を覚ましたシノはいつものように宿の朝食を採って散策に出掛けた。

 時刻は6時の半過ぎ。この町ではまだあまり人が起き出す時間ではないようで周囲が明るく照らされている以外は夜と大差なかった。

 シノは何年も昔から慣れた道を歩くようにあちこち好きなように回った。4日目ともなれば慣れたもので、初めは地図と格闘しながらも結局迷ってしまっていた町中だったが、今では地図がなくても今自分がどの辺りにいるのか把握できるようになっていた。

 その事が嬉しくてしょうがなかったシノが南側の外れ、つまり山が壁と化しているところでひっそりとある洞窟を見つけ冒険心から迷わず入っていったのは恐らく必然だったのだろう。

 洞窟の中は暗く、どことなく湿気った空気が漂っていたが、道自体は安定しており歩きやすかった。ここの町人もよく来ているのだということなのだろうか、洞窟の壁を見ると明かりを作る器材のようなものが見えた。

 暗いとは言えもう早朝の光が先にある出口と背にしている入り口からうっすらと届いている時刻だ。わざわざ点けて歩くほどの不都合はなかった。

 歩いて7分ほどで洞窟は終わった。そこでまず目に入ったのは泉の間と書かれた錆びた看板だった。そして看板の向こうには偽りなく確かに泉があった。

 泉と言ってもさほど大きなものではない。まず場所からしても手を繋いだ大人が50人が目一杯に広がった程度の広さだ。

 端々を見れば山の内部なのか土の壁で行き詰まり、見上げればぽっかりと開いた天井の向こうに青空が見えた。

 泉はその中央で大人10人が手を繋ぎ広がった程度の大きさだった。

 空から注いでる日差しが泉で反射して辺りに水の波紋を映し出す。泉を囲う植物達がその光に照らされて喜ぶように風で揺らいでいた。

 幻想的という言葉がとてもよく似合う場所だった。あまりの美しさにシノは暫し呆然としてその景色をただ見つめていた。

 シノが気を取り戻したのは水と風の音に混じって流れてくる小さな笛の音に気付いた時であった。

 自然による豊かな音色とは全く違う、たどたどしく独創的な不馴れな様子の音。誰かが笛の練習でもしているのだろうか。

 こんな時間から誰が、と気になったシノは笛の音の主が自分に気付かぬよう足音を忍ばせて泉の間に入っていき、音の出所を探し始めた。音を辿りながら泉に近付いていくと、どうやら主は生い茂る植物の影にいるようだった。

 楽器をたしなみ植物の影にいるという2つのワードから思わず妖精の類いを浮かべたシノは思わず自分の幼さに苦笑してしまった。その一瞬緩めてしまった気配を察知したのか、断続的にも響いていた笛の音が唐突に止まった。

「誰?」

 鋭利な刃物のように尖った女声がシノにぶつかった。その瞬間、何か小さく丸い物体がシノの顔目掛けて飛び込んできた。咄嗟に首を左に傾けて直撃を避けたが、かわしきることはできず右の頬にうっすら血がにじむ一文字の傷ができてしまった。

「っ、わ!」

 地面に転がりながらシノは地べたに視線を走らせ、尖った切っ先のある石を掴むと再び飛びかかってきた何かの頬に向けて攻撃をかわしながら振るった。何かは飛び上がっていたためかわすことができず、シノが受けた傷と同等の傷がそれについた。

 何かはシノがすぐに戦闘体勢になったことに怯んだようで、鳴き声をあげながらまた植物の影に逃げ込んでいった。

「な、なんだぁ」

 シノが血のにじんだ頬を撫でながら頓狂な声をあげる。すると植物の影にいた女性は驚いたような声を出した。

「その声、もしかしてシノさん?」

 慌てた様子で植物の影から姿を現した人間は地べたに座り込んだシノを認めると唖然とした表情になった。

「やっぱりシノさん。え、どうしてこんなところにシノさんが来てるの? 何で?」

 姿を現した人間はとても狼狽していた。落ち着きなく目をしばたたかせ、現状を理解できないように首を左右に振っていた。

 そこにいたのはノノだった。

 彼女は右手に笛を持ち、胸元に兎を抱き抱えた体勢で戸惑いの表情を浮かべて立っていた。

「いや、そんなことより、というか、シノさん怪我、怪我してる。ああ、アタシのせいか。えと、どうしよ、どうしよ。絆創膏とか、何も持ってきてない。ああ、ああ、えと。待って、今作る」

 狼狽えながらそう言ってノノは自分のスカートの裾を両手で掴み右手に力を込めて何度も引いた。その動作を見てシノは慌てて止めた。

「待って、大丈夫。大した傷じゃないから。ほら、こんな元気。元気だよ、ほら。だから破んなくていいよ、ね?」

 勢いよく立ち上がり身体に付いた砂埃を払ってシノは気合いの姿勢を見せながらそう捲し立てた。

「でも、血、血」

「かすり傷かすり傷。それに絆創膏なら俺持ってるから。ほら、これ。ね、あるでしょ。というか、兎。傷つけちゃったからこれ使って」

 シノの言葉にノノは初めて兎の小さな傷に気付いたようだった。

「あ、ありがとう。て、元を正せばこの子が突っ込んでったのが原因じゃない。こらノサギ、あんたったらアタシが警戒したからってすぐに突っ込む癖やめなさい。だからあんた皆から嫌われちゃうのよ」

 ノノは腕の中で丸くなる白い小動物に叱責を飛ばした。しかし当の生物はどこ吹く風で丸い2つの瞳をシノに向けていた。

 その生き物をまじまじと見ている内に、シノはあることに気付き驚いた表情を作った。

「て、え、これユキノサギ? へぇ珍しい。そいつが人に懐いてるの見たの初めてだよ」

「え、そうなの? アタシはこの子と初めから仲良かったけど」

「それはなおさら珍しいよ」

 ユキノサギは子供が雪で作る兎と似た白く可愛らしい姿をした動物である。

 丸い球体を滑らかに等分したような身体に胡桃のように丸い目が2つとすぐ下に栗のような形をした小さな口が1つ。目からそのまま後ろにいった頭に当たる部分には笹の葉のような形状をした物がそれぞれ生えている。これがユキノサギの耳であり四肢があまり発達していない彼らにとっては手足の代わりとなっている。

 一見するととても可愛らしい生き物なのだが、その見た目に反し気性はとてつもなく荒く肉食で、よく他種族を襲ってはその血肉を食らい自分の体毛を赤く濡らしている。

 さらにユキノサギの耳は手足の代わりになるばかりでなく獲物を捕らえる際や興奮状態になると側面が刃物のような鋭さとなり、ちょっとしたものならばあっさりと両断できてしまう。

 その鋭さは確かなもので、迂闊に近付いてしまい腕を切り落とされてしまったという事件が発生したことがあるくらいだ。ちなみに先程シノの頬を傷つけたのもこの耳である。

 その見た目と行動のあまりの違いから気狂いの代名詞や雪の詐欺という蔑称で呼ばれたりもする、人から忌み嫌われた生き物である。

 だからそれを知っているシノにとって、腕の中で可愛らしく丸まるユキノサギが信じられなかった。

「ふぅん、見れば見るほど懐いてる。すごいや。君って動物に好かれやすいのかな」

「そうなのかしら。別にそうとはアタシは思わないけど」

「いつからの付き合い?」

「2週間くらいかしら」

「うそお。え、ホント?」

「嘘ついてどうするのよ」

「スゴい。凄いよそれ。君ってすごいや」

 年甲斐もなく子供のようにシノははしゃいだ。

「そ、そんな大したことじゃないって」

「だって凄いじゃん。俺あんまり動物に好かれてないからさ、そうやって戯れられるのってとっても羨ましいんだよ」

 シノは本気でそう言っていた。何よりそう思わせていたのは、ノノがその中でも扱いにくさに定評のあるユキノサギをわずかな期間で懐柔していることだった。そのことがシノをさらに心から感嘆させていた。

「うーん」

 しかしそんなシノの興奮ぶりとは無縁なようにノノは思案顔を見せていた。

「ん、どうしたの?」

「思ったんだけど、アタシ、シノさんに自己紹介したよね?」

「うん? うん、してくれたよ」

「そうだよね。じゃあやっぱりアタシの気のせいじゃない、か」

 ノノは不思議そうに首をかしげた。

「じゃあさ、シノさんは何でことあるごとにアタシを君って呼んで、名前を呼んでくれないの?」

「うぃ」

 シノは言葉をつまらせた。先程までの興奮振りが嘘のように気配は沈んでいった。

「ええーと、そうだっけ?」

「多分呼んでくれたの最初名乗った時の1回だけじゃないかな」

「あー、そっかあ」

「なに、もしかして恥ずかしいとか?」

「いや、ないよ、そんなはず」

 慌てるように手を振ってシノは否定した。

 図星であった。

「へーえ、シノさんって案外純朴なんだ。ふふふ、いいこと知ったわ」

「なにその嫌な笑い」

「へへへ、若いねシノさん」

「年下に言われる言葉じゃないよ、それ」

 げんなりした表情でそうぼやいたシノの顔がまた子供っぽく見えて、ノノは暖かい気持ちを抱えながら笑った。出会ってからさほどの日は経っていないのに、自分達はずっと昔からの友人のように冗談を言い合いながら接している。それが何とも心地よかったのだ。

「そ、そういえばさ」

 何とか話を変えようとシノは思い出したようにノノの手にある笛を指差した。

「どうしてこんな朝早くにこんなところで笛を吹いてたの?」

「え、ああ、これ?」

「そうそう」

「いえね、アタシだって別に好き好んでここで練習してるわけじゃなかったんだけどね。家だとちょっと練習しづらいのよ」

「もしかして隣から苦情とか来たとか?」

「ううん、そうじゃなくて、父さんがね」

「うるさいぞー、とか?」

 言ってみてすぐにシノはいや違うと否定していた。

 確かに聞き苦しい音も混じっていたが、全体的に見ればノノはそれなりの旋律を吹けていた。それをあの子煩悩な父親が否定するとは考えづらかった。

「どうせ吹くならね、店で吹いて客寄せしろって。その方がお前のためになるって」

 シノは大笑いした。

「何よ、シノさんにとっては笑い話かもしれないけどアタシにとってはいい迷惑なのよ。こんな下手くそな笛を常連さん達の前で吹けだなんて。ただの趣味の笛なのよこれ。人前で見せる代物じゃないってのに、それ分かってるくせに父さんったらいっつもことあるごとに言ってくる。嫌んなっちゃうわ。遠回しに恥かけって言ってるのよあの人は」

「あはは、いや、ごめん。あはははは。はあ、でもそっか。恥かけ、か」

 きっとノノの父はそういう意味で言ったのではなく、娘の演奏を皆に聞いてほしかっただけだとシノは思った。恐らくあの店の雰囲気から考えて、ノノが演奏をすると話が出れば皆が楽しんで聞きに来ると容易に想像ができる。そうしていく経験がきっとノノの役に立つと父は考えて言ったのであろうが、いかんせん言葉が足りないばかりかノノの気持ちをあまり考えていない。だからノノにはこれは父の悪意だと勘違いさせているのだろう。

「ふん、別にいいわよ。いずれは継いで養う喫茶店に両親。アタシを子供子供と舐め回した父さんには絶対いつか見返してやる」

「色々黒いよ。ところでさ、笛もう吹かないの?」

「え、どうして?」

 抱いていたユキノサギを地に放しながらノノは首をかしげた。

「いや、もっと聞きたいなって思って」

「別に、良いと言えば良いんだけど」

 曇った顔でノノは横笛を手で持て余した。

「あまり人前では吹きたくないなあ」

「やっぱ恥ずかしいかな」

「いや、そうじゃなくて。んー、シノさんって大人しく聞いてくれる?」

「どゆこと?」

「手拍子しない? てこと」

「あー」

 人というのは気分が乗ると便乗したくなる生物である。しかしそれは演奏者にとっては邪魔以外の何物でもない。

「うん、しない」

「なら、いいけど」

 そう言ってノノは座っていた大きな丸石に再び腰を下ろし横笛を口許に運んだ。シノも同じように座るのに手頃な石の上に腰を下ろすと、ノノがジッとこちらを見ていた。

「どうしたの?」

「笑わない?」

「笑いませんよ」

「馬鹿にしない?」

「馬鹿にしませんよ」

「じゃあ、吹くけど」

「お願いします」

「笑うなよ」

 シノは苦笑いを浮かべた。

 それを見て僅かにノノは口を尖らせたが、やがてためらいがちに横笛に口をつけた。

「……ん?」

 気付けばさっき放したユキノサギがノノを励ますように寄り添っていた。それにノノが気付いたのかシノには分からなかったが、震えていた指が止まった事だけは見逃さなかった。

 そして、ぎこちない吹奏楽が始まった。

 笛の音色は緊張のためかさっきよりも半音ずれたりとろくなものではなかったが、シノは心穏やかに目を瞑り聞いていた。

 風が吹き、植物がすれる音が響き、水面が揺れた。そうしている内にノノの笛も次第に安定していき外すことも少なくなっていった。

 そうして時間は過ぎていった。

 ふと、シノは目を開いた。視界の先には目を閉じて笛を吹くノノと寄り添うユキノサギがいる。

 その向こうの山壁に、何か刻み込まれた文字が見えた。

「あれ」

 シノが思わずそう呟くと、笛の音が止まった。

「ん? どうしたの」

 ノノが首をかしげてシノの視線を追いかける。山壁の文字を見つけるとシノの方を向き指を差し訊ねた。

「あれがどうかした?」

「あれって誰が書いたの? わざわざあんなところに」

 シノは文字を追いかけながらそうノノに疑問を提示する。文字はこの泉の間の壁を埋め尽くすように並んでいた。気付かなかった時は何も思わなかったが、気付いてみれば中々不気味だった。

 興味を持ったシノはもっと文字を近くで見ようと立ち上がり、壁の側に寄り読める文字を口にした。

「箱庭。作成。操り。繁栄。飽きて滅び。また作られ。神の気紛れで私達は踊る。幾度。逃れる術無し。今。自ら。遊具なり。んー、あとはかすれて読めないな」

 なにこれ、と歩み寄ってきたノノに身振りでシノは尋ねる。

「アタシ達の先祖が遺したもの、らしいわよ」

「先祖ってこの町の?」

「ううん。この世界全ての先祖様が」

「またスケールのでかいことで。どんな話なの?」

「眉唾物だけどね。なんかね、アタシ達の町の伝説だとずうっと昔に世界は一度滅んで、その時に生き残った人や動物達は皆ここに逃げ込んだんだけど、滅びの余波で出口が塞がれて閉じ込められてしまったの。逃げ込んだのは、一組の家族と一組の動物数種。彼らは生き残るために互い手を出さず、栄養不足で倒れた死体を食らい生えた植物を食して活力を得て子供を作り、それが死んだらまた食らいを繰り返して生きてきた。そうして数十年が経ったある日、成人を迎えた青年が外の世界を見たいと言い出した。自分達以外にも生き残りが絶対にいるはずだって。両親は外はまだ危険だと止めたが青年はがんとして聞かず天井の穴を目指して登り始めた。でも力足りず中程まで登ったところで固まってしまった。手を離せば落ちて死ぬ。でも降りる力ももう残ってない。万事休すな状態だった」

 そう言ってノノは空を見上げた。シノも釣られて見上げると遥か高くに穴が見えた。あそこまで登ることはまず不可能だろう。

「彼はどうなったの?」

「登りきったわ」

「どうやって?」

「外に可能性を見た」

「え?」

「見えたそうよ。世界の全てが。そして」

 ノノは壁の文字を指差した。

「外の世界で生き残りを見つけて帰ってきた青年が、皆と一緒にここを出たときこれを刻み込んだ。そう伝えられてるわ」

「生き残り?」

「いたんだって他にも。そして世界はまた繁栄して、アタシ達が生まれたこの時代まで続いている」

「じゃあこの町は全ての命の再生の町でもあるわけか。でも、この文字の意味は? 箱庭とか多分ここの事なんだろうけど、神の気紛れとか踊るとか、分かんないよ」

「アタシも知らない。誰も知らないわ。所詮は伝説。真実なんて誰も分かんない。でも、もしかしたらあるかも。アタシは興味がなかったからちゃんと聞いてなかったのだけど」

 そう言ってノノはシノから離れ泉の方に歩いていった。

「伝説なんてただそれだけ。ホントにあったかも疑わしいわ。でも、アタシは羨ましい。彼は外に出れたんだから。アタシも出れるのなら」

 地面の小石を泉に蹴り落としノノは溜め息を吐いた。

「もっと力があるならなあ」

「それは何の力?」

「意思でしょう」

 ノノはシノに向き直った。その顔には儚い笑みが浮かんでいた。

「アタシ帰るよ。シノさんはどうする?」

「俺も帰るよ。面白い話ありがとう」

「面白かったなら良かった。いつもシノさんが楽しい話をしてくれてるからちょっと不安だったけど。じゃあ行きましょ。ノサギ、待たね」

 そう言いながらノノはノサギの側にしゃがみこむと頭を撫でて優しげな笑顔を向けた。

「ユキノサギはここの子なの?」

「違うよ外の子。アタシ達が分かんないところから入り込んでるみたいよ」

「そっか。じゃあねノサギちゃん。うわっ」

 同じくしゃがみこんで話しかけてきたシノに、ノサギは両耳を突き付け威嚇した。

「あ、はは……ごめんごめん」

 困ったように笑ってシノは立ち上がり後ろに下がった。ユキノサギは丸い瞳を三角にして両の耳を震わせていた。

「ちなみに、ノサギはオス。歳もアタシ達で換算したら歳上よ」

「先言ってよね」

「聞かれなかったしね」

「わあズルい」

「あっはは」

 楽しそうに笑ってノノが立ち上がると、ノサギはくるりと身を反転させて植物が繁る向こうに消えていった。それを見送り2人は泉の間を去った。

 洞窟を抜けた先で、ノノは足を止めた。

「そういえば今何時かしら」

「今は、8時だね」

「うっそ、もうそんな時間? やだ、店が開店するじゃない。じゃあシノさん待たお昼ね」

 慌てたようにノノは言い、シノに手を振りながら喫茶店へ駆けていった。

 手を振り返しシノはもう一度時計を見てこれからを考えた。

「んー、為すべき事も無下無き如し。俺も帰るか」

 決めた時の口癖を口ずさみ、シノは宿に向けて歩き出した。ちなみにこの言葉に意味は何も無く、シノの頭に何故か閃く造語であった。

「おい、お得意さん」

 宿に向けての第一歩を踏み出したちょうどその時、シノを呼び止める男声がした。

 振り返るとそこには屈強な体格をした人間が立っていた。

 最初、シノは相手が誰なのか、そして何故自分が呼び止められたのか分からなかった。しかし、相手の目元に先程まで話していた娘との共通点を見つけ思い出した。

「喫茶店長」

「仰々しいのか馬鹿っぽいのか分からん台詞だな、お得意さん」

 シノが思わず口にした言葉に相手は呆れた顔をしてそう言った。

「失礼」

 それを受け、シノは素直に頭を下げた。

「貴方とは今までろくな話もしてなかったのでなんと呼べば宜しいか決めてないんです」

「お得意さん、それは横着だし嘘だろう。ホントは人の名を呼ぶことが恥ずかしいのだろう?」

 男の言葉にシノは驚いて目をしばたたいた。

「あれ、バレましたか?」

「ノノと仲良くしているのに頑なに名を呼んでないところからな。まあ俺はアンタに名前を呼んでほしいとは思わんが。娘含めてな」

「厳しいお言葉で」

 苦笑いで頭をかきながらシノは相手を、つまりはノノの父親を見やる。薄くなった白髪混じりの髪に刻み込まれた皺に厳格そうな雰囲気を漂わせ、鋭い眼光が真っ直ぐにシノを射抜いている。端から見れば荒くれ者のような印象を抱かせる筋肉質な体つきだが、一方で着こなす服は半袖短パンにエプロン掛けと大変可愛らしい出で立ちだ。そのため一瞥しただけではどのような人柄なのか全く判断がつかないが、その真剣な瞳と昨日の会話から、娘のことを大事に考えている男なのだとシノは理解していた。

「娘さんなら先程帰りましたよ」

「そんなことは分かってる。道中会ったからな」

「え、そうですか」

 それでは何故、とシノは首をかしげた。

 シノはここに来てからの昼夜の食事をノノの両親が経営する店でとっていた。しかしそこではもっぱらノノと会話するだけで両親とは初めの挨拶をする以外話してはいない。だからこんな早朝にわざわざシノ個人に会いに来る理由が分からなかったのだ。

 首をかしげたシノがおかしかったのか、ノノの父親は口許を少しだけつり上げた。

「何故呼び止められたのか分からん面をしてるな。まあそりゃそうか。アンタとはちゃんと向かい合って話したことはなかったからな。正直言えばもう話す気もなかったが。まあ事が事だからな。ちゃんとアンタとは話さなければいけない」

 端々にシノにも分かるはっきりとした毒を滲ませながらノノの父親は言う。しかしシノはそれには何も言わなかった。

 仕方がないか、とシノは思う。

 その理由にはノノの両親との初めに原因があった。

 事の始まりはノノの提案ではあったが、相手から見ればシノは自分の子供を口車にのせて家に押し入ろうとした侵略者であり、その後は客の体をして合法に店に何度も来る目障りな者である。

 そんな人間に対し好意的に話せと言うのがそもそも無理なことだ。

 だからシノは異を唱えず黙ってノノの父親が言葉を出すのを待っていた。

「アンタには礼と頼みがある」

「礼?」

 予想外の言葉に呆気にとられたシノに、ノノの父親は重々しく頷いた。

「ああ。アンタのお陰で娘は昔のようによく笑うようになった。外に出ることを反対してからあいつはいつも仏頂面で、家内も冷めた奴だから家の中はとても暗くて息が詰まっていた。だがアンタが来てからあいつは戻った。家内にいつも言ってるよ。明日はシノさんに何を訊こう、約束したから明日も来るよね、てな。俺に対する反応はあまり変わってないが、それでも父親としてこれはとても嬉しいことだ。ありがとう」

 姿勢を正して深々とノノの父は頭を下げた。それは先程まで滲ませていた毒を排した真摯なもので、シノはおおいに戸惑った。しかし何とか気を取り直して、それを受け入れた。

「いえ、そんな礼を言われるほどでは。そ、それで、頼みの方とは?」

「ああ、別に大したことじゃない。とても簡単で難しくはない」

 顔を上げたノノの父親の表情はまた厳しいものに戻っていた。

「何ですか」

「娘にもう会わないでくれ」

「……えっ」

 シノは言葉を詰まらせた。それははっきりとした拒絶であった。

「アンタのお陰で娘は戻った。それは確かに感謝している。心からな。だが、アンタが来てからあいつは外への関心を強めてばかりだ。現に昨日は久しぶりにそんなことを言ってきた。そんなこと許せるわけがない。まだ成人したばかりで左右も善悪も分からないあの子にそんな危険な場所を行かせるわけにはいかない。親として、父として、そんなことさせるわけにはいかない」

「父、として」

「だから頼む、あいつにはもう会わないでやってくれ。そしてもし会ってももう外のことを話さないでくれ。あの子にはまだ早すぎるんだ。少しずつ経験して積み重ねて、一人前の貫禄を得ててくれれば俺ももうなにも言う気はない。だから、頼む」

 そう言ってノノの父親はまた頭を下げた。

 シノはそれを複雑な面持ちで見つめていた。

 言いたいことはいくつかあった。けれど自分には言う資格がないとシノは分かっていた。これは親子の問題であり、他人の自分が関わってはいけないことだ。 だからシノに拒否権はない。店の主人としてではなく父親として言う彼に言えることなど、シノには無かった。

 例えそれが、ノノを傷付けるかもしれなくとも。

「1つだけ、俺からも頼みがあります」

 顔を上げたノノの父親に、シノは落ち着いた声音で告げた。

「何だ」

 頭の中でノノの笑顔が浮かんで消えていった。

「今日の昼だけ、そちらの店に行かせてください。約束したんです、あの子と」

 その言葉にノノの父親は頷いた。

「約束か、分かった。今日の昼は許そう。だが、夜からはもう」

「分かってます」

 シノは一度目を閉じ、頭の中で決めた時の言葉を浮かべながら、まぶたを開いた。

「もうこの町で、あの子には何も言いません」

 言葉はずきりと自分の心に刺さっていた。

 それから、ノノの父親と別れたシノは真っ直ぐに宿に帰り自分の気持ちを落ち着けた。

 昼になり、シノはノノに会いに行った。ノノはいつものようにシノを歓迎してくれた。いつものように料理を食べ、いつものように話をした。

 そして、食事を終えてシノは勘定を支払い出口に向かった。ノノも見送りに出口まで付いてきた。

「それじゃシノさん。また夜、来てね」

 そう言うノノの笑みに、今のシノは返す言葉がなかった。

「どうしたのシノさん?」

「何でもないよ。じゃあね、ノノちゃん」

 初めてノノの名を呼びシノは別れを告げた。それがノノに何かを感づかせた。

「何、何かあったのシノさん?」

「ノノ、早く仕事に戻れ」

 厨房から強い口調が飛ばされた。その瞬間、ノノは自分の父親に厳しい眼差しを向けた。

「父さん、何か言ったの? シノさんに何か余計なことをしたの?」

 その隙を付いて、シノは店を出た。

「あ、シノさん!」

「ノノ!」

 後を追おうとしたノノを、怒声が引き留めた。

 騒ぐ声と怒鳴り声が店の外まで聞こえた。

 それでもシノは、何も考えようとせずに宿へと戻っていった。

箱庭が好きです。ものを配置するのが好きです。人形を配置するのが好きです。それらが動いてくれたらなんて、昔憧れてました。

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