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カラーレンジャー 椎野青江さんの災難

作者: .a.w


ある日、家の前に落ちていたのは黒い羽の生えた人間で。

彼は異星人と名乗りました。

そして、彼と一緒に、正義の味方として戦うことになっちゃいました。

はい、おしまい。





 


   一



 夏の風が吹きつつも。

 まだどこか春ののどかさが残る青空。

 騒動は、午後の穏やかな時間に始まった。



「あの〜、これってなんでしょ〜?」

 ふんどし。

 それが二階から降りてきた男の手に握られているのを見て、椎野青江しいのあおえは卒倒しそうになった。辛うじて倒れなかったのは元から座っていたためだ。めまいを覚え、額を押さえた椎野の隣で、短髪の青年が素っ頓狂な声を上げた。

「うわ、ふんどしじゃないっすか!」

「……えぇと」

 階段、その最後の一段に立って、男が不思議そうに手にしたものを見つめた。といっても、仕草でようやくそう知れるだけで、目線はサングラスに隠されている。形の良いサングラスがひょこっと動いてこちらに向いた。

「ふんどしって、なんですか?」

「えー」

 短髪の青年が一瞬、言葉に詰まって上を見る。絵の具のみを売る店――「絵の具屋」の若き店主は困ったように黒髪をこねた。

「え……下着、下着だなぁ。あ、椎野さん。付け方わかります?」

「わかるか!」

 間髪入れずに叫んで、椎野は慌ただしく立ち上がった。なぜか息を切らせながら、こちらをびっくりして見つめる短髪の青年――赤井正一郎あかいしょういちろうを睨み付ける。平生の冷静さはどこへやら、いきなり行儀悪くもふんどしを指さした。

「な、なんであんなものがここにあるんだ!?」

「え? そりゃ爺ちゃんのですって。ねぇ、黒羽くろはさん。それって屋根裏部屋にあったんですよね」

「はぁ。片づけしてたら見つけたんです。他にも何か、い〜っぱい楽しそうなものがあったんですが、これがとっても気になってしまって……」

 疑問に身を捩るように黒羽――遠い星から来た異星人が両手を上下させ、それに合わせてひらっと真っ白いふんどしが翻った。よく見れば細長いものがついている。気付いた正一郎がひょいと立ち上がり、そちらに近寄った。

「値札……? あ、違う。未使用って書いてあるー。爺ちゃん死んだ時に片づけたんだろうなぁ。――誰か使うって思ったのかな、ばあちゃん」

「で、どうするんですか、これ」

 黒羽が声を輝かせて問うた。

 この世界に来て十日目、まだまだ見るものすべてが珍しくてしようがないようだ。

 正一郎は応えるよう。

「えぇっと、確かこうして――こうして」

 などと自分の股間に近づけてみたが、知っているはずもない。ちょっと困ったように見やったのは、またも椎野だった。何しろ椎野はごく自然に和服を着こなしている。が、俺は知らないからな! と凄まじい気迫で睨み返されて、正一郎は諦めたように手元のふんどしを見つめた。

 布を手で絞り、腰の辺りに当てる。

「腰に巻いて、大事な部分を隠すんですよ。今じゃ締めてる人、少ないんですけど。下着、つけてるでしょ?」

「……はぁ」

 要領を得ないうなずきに、正一郎が驚いたように黒羽を見た。

「レイズ人って下着付けないんですか!?」

「え、いやいやいやいや! 付けてますって!」

「あー、びっくりした。だって、見た感じそっくりなのに」

 ぴたっと口を噤んで正一郎は黒羽の顔を見た。

 遙か宇宙の彼方、アースレイズ星からやって来たという異星人。

 その姿は地球人にそっくり――。

 正一郎の目が疑問とさまざまなものを浮かべてみせ、すぐさま消して、にっこりと微笑んだ。吊られて微笑んだ黒羽だったが、いきなり着ていたYシャツをめくり上げられて悲鳴を上げた。

「な、何するんですかーー!」

「……う〜ん、ほとんど人間と変わらないなぁ」

「変態、止めんか」

 と、正一郎の頭を引っぱたいたのは椎野だった。先ほどの動揺を押さえ込んでいつもの顔に戻っている。物珍しそうに、だがわずかに頬を引きつらせて、正一郎の持つふんどしを眺めやった。

「しかし、お前のじいさんはふんどしを締めてたのか」

「らしいっすねぇ。オレもはっきり覚えてませんが。……本当に知らないんですか、締め方」

「――――」

「あ、知ってますね!」

「知らん!」

 ムキになって(二十四の大人が情けない……)椎野は否定したものの、じっと請うように正一郎と黒羽に見つめられ、苦り切った顔を作る。ふっと視線を逸らした。

 頑としても口を開かない椎野に、正一郎はまた布に視線を落とした。

「?地球を守る正義の味方?がふんどしかー。う〜ん、ちょっと面白いかも」

「どこが面白い」

 椎野は冷たく応じ、ふっと何かに勘づいたよう、流し目を窓の方に向けた。切れ長の瞳がわずかに光る。椎野が転じた視線で正一郎を見やれば、彼も何かに勘づき、笑っていない目で口端を歪めていた。

「あー、なんかちょっと」

「気付いたか」

「えぇ、わかっちゃいました。でも気配だけです」

 会話する二人のわきで黒羽がじっと一点を見つめている。猫が空を見つめている様子とそっくりだった。おもむろに、顔のサングラスを外す。その下から現れた瞳は黒く、その白眼も不自然なほどに黒みがかっていた。先ほどまで「ふんどし」という未知のものに輝いていた瞳は鋭利に引き絞られ、緊張感さえ孕んでいる。

「なんか……、変、ですね」

「はっきり言え」

「確かに、――感じます。でも、なんというか」

「だからなんだ」

 突っ込みの激しい椎野に気圧されたよう、黒羽はちょっとたじろいだが、きっぱりとした口調で言った。

「たぶん出来損ないです!」

 それは貴様だ! と椎野が黒羽を蹴り飛ばさなかったのは、外で弾けるような音がしたからだった。



 椎野が「地球云々」という事態に巻き込まれたのは、たった一週間前のことだった。

 日本画家である椎野は、行きつけの画材屋「絵の具屋」に赴いて、いつものように店主である正一郎と話をしていた。と、そこへいきなり現れたサングラス男。それが黒羽だった。

「お願いです! わたしと一緒に戦って下さい!」

 いきなり土下座、驚いて言葉もない椎野に、黒羽は額ずいたままに叫んだ。

「この地球の色を奪おうとしている奴らが居るんです! どうか、どうかカラーレンジャーになって地球を守って下さい!!」

「――なんだ、これは」

 訊ねると、大学を卒業したばかりの若い店主は困ったように笑った。

「あー、とですね。じゃーん、彼は異星人の黒羽ちゃんですっ! アースレイズ星ってところから来たみたいで! それも地球を守るために来てくれたんです!っ」

「悪いが、冗談なら他の奴に言ってくれ。俺は忙しいんだ」

「お願いします〜〜〜!」

 黒羽にひっしと裾にしがみつかれて、椎野は何とかそれを振り払って逃げ出した。

 その五時間後には、カラーレンジャーとやらになっていた。

 どうも、黒羽のアースレイズ星は「色」を奪われ、ひどい有り様になっているらしい。その連中が次に地球を狙っているという。それを阻むためにやってきたのが、黒羽という異星人なのだそうだ。

 正一郎は、すでに仲間になることを了承したらしく。

「地球を守るんですよー、すごいじゃないですか!」

 などと無邪気にはしゃいでいた。嫌がった椎野だが、「うちの店の画材、好きに使ってもらってかまいませんから!」と正一郎に言われてしまって。「空いてる部屋もありますんでどうぞ!」

 強引すぎる正一郎に促され、引っ越した。

 たぶん、それが大いなる間違いだったのだ。



 音の元は駅近くの公園。

 ざぁっと砂煙を上げて立ち止まった三人は、そこに見慣れた独りの少女を見出した。彼女は学校の帰りなのか、鞄を片手に遊び回る子どもたちを見やっている。初夏の風がスカートを翻し、その様子が平和そのものを思わせた。

「何やってるんだ、黄美子きみこ

 椎野は渋い顔で彼女の側に立った。

 ふと我に返って、高校生らしい少女が顔を上げた。

「あ、青江さん」

「……いや、名前で呼ばれても別にかまわないんだが。どうした?」

 女子高生はうなずいて、ことりと首をかしげる。さらりと揺れた黒髪の彼方に、噴水で遊ぶ子どもとそれを見守る母親、その彼方の歩道を人々が歩いていた。どこにもおかしなことはない。

 秋野黄美子あきのきみこはゆっくりと砂場を示した。

「子どもたちが爆竹鳴らしてるんで、止めようかなぁって思って――」

「爆竹?」

「でも、もう止めちゃったみたい」

 指された先、確かに爆竹の残りカスと思しきものが砂場の上に散乱している。残骸を確かめ、正一郎がゆるくうなずいた。

「確かに爆竹ですよ。あー、ずいぶんな量をやったなぁ」

 黒羽が「爆竹ってどのようなものですか?」と訊ね、正一郎が「火薬みたいなもんかな」と言った途端、「火薬ぅ!?」と異星人がすっ飛んで驚いていたが、椎野は顧みることもなかった。

 片方の眉を上げて周囲を睨める。

「爆竹か。……昼間っからよくやるな」

「それでみなさんはどうしたんですかぁ? 青江さんまで来て」

「あ、ホント!」

 黄美子の問いに、正一郎がいきなり椎野を指さした。

「あんなに?正義の味方?なんか知らんって言ってたのに! ちゃんと来てるじゃないですか〜!」

「……人を指さすな、行儀の悪い」

 ぺっと正一郎の指を払いのけて、椎野は素知らぬ顔で乱れた服の襟元を直した。その頬がちょっとだけ赤くなってるのは秘密だ。

「俺はお前たちが走ったからついて来ただけだ」

「もう、素直じゃないなー、この人。一緒に正義の味方、やりたいんでしょ?」

「誰がやるか!」

「駄目ですか、カラーレンジャー」

「だから嫌だって言ってるだろう! そんなダサイ名前!」

「……ダサイですか?」

 と、(声から察するに)瞳を潤ませたのは黒羽だった。どうやら彼の星ではものすごく権威と威力のある名前らしい。

 ちょっと横目で黒羽を見、椎野は無理矢理、のどの奥から空咳を絞り出した。

「とにかく、店に戻ろう。黒羽、その出来損ないとやらの気配を追えるか」

「少し待って下さい」

 黒羽の指先が首に巻いた黒いチョーカーを撫でた。それがわずかに光り、彼の足元で黒い靄のようなものが渦を巻く。それを徐々に形を成していき、やがて小さな黒猫の形に固まった。だがどんなに目を凝らしても厚味が無く、黒い影のようにしか見えない。二次元から抜け出したようなそれは、目だけをぎらぎらと金色に輝かせていた。

『なんや、わいに出来損の気配を追えゆぅんか?』

 ばりばりの大阪弁でそれは言う。

 何度も聞くが、なんとも慣れにくい状況に軽い吐息を漏らし、椎野はうなずいた。

「頼む」

『あんさんの相棒にやらせればえぇんとちゃう〜?』

「ね、頼むよ。黒くん」

『黒羽に頼まれたら断れませんわなぁ。わぁった、行きましょ』

 真の闇よりも深い闇をわずかに揺らめかせ、猫の背中にばさっと黒い翼が広がった。動かせばふわりと浮く。

『わいの連絡があるまで動きなや。わぁっとるとは思うけど』

「頼むよ」

『あいよ、任せとき!』

 猫の背中に広がった翼が空を叩いて、その姿が消えた。周囲の人間が向ける目に気付いたのは椎野だけ?

 その時、正一郎が「あ! 絵の具煮詰めたままだった!」と叫び声をあげた。正義の味方が火事を出したら大変だな、などと大声で笑って、真顔で走り去る。黒羽も「手伝います!」とその姿を追った。

 残されて、椎野は額を押さえた。

 はぁと長い吐息が落ちる。

「なんて奴らだ……」

 黄美子がちょっと驚いたように椎野の顔をのぞき込んだ。何を言うべきか考えたのか、ぐるっと目玉が空を向き、ひそりと問う。

「えーと、……まだ諦めてないんですか?」

「何を諦めろというんだ」

「だって、絵の具屋に引っ越した時点で、仲間になったも同然だと思いますけど」

「……地球を守れって?」

「駄目ですか?」

「なんで俺が地球を守らなきゃいけないんだ」

「住んでるじゃないですか〜」

「――まぁ、そうだが」

 それをいうならばドブ鼠だって住んでいる。ちったぁ戦え、などと見たことはあるが会話したこともないドブ鼠に責任を押し付けて――空しくなって、止めた。ドブ鼠に救われるなんて嫌だ。

「青江さんは……、何が嫌なんですか?」

 にこりと微笑んで、黄美子がふわりと身を翻して砂場に向かう。椎野は帰れず、なんとなくついていけば、少女は砂場に白い膝頭をつけて爆竹の欠片を集め始めた。その指に黄色い、不思議な輝きを放つ指輪がはめられている。

 彼女もちょっとしたことで知り合った黒羽に頼み込まれ、(誰もが拍子抜けするほどあっさり)?正義の味方?になっていた。

 椎野は物好きな女子高生を眺めやった。

「何か言ったか?」

「なにが嫌で、なりたくないって言うんですか?」

「誰だって普通は嫌だろう……。面倒だ。他の奴がやればいい」

 突っ立っているわけにもいかず、膝をついて椎野も手伝う。懐から取り出した手ぬぐいの上にゴミを集める。黄美子の方に突き出すと、少しだけ躊躇して、少女は集めた分を乗せた。礼を云いながら立ち上がる。

「じゃ、絵の具屋に行きましょうか。あ、青江さんの場合は、帰る、なんですね〜」

 椎野は黙ったままだった。その目がするっと流れて空に向く。同じく見やった黄美子が、意味ありげに目を細めた。手ぬぐいを懐にしまった椎野はさりげなく手を下に降ろした。ひらっとその袂が踊る。

 何かが空の中で悲鳴を上げた。

 小さくか細いそれはすぐに掻き消え、車や人の声が取ってかわる。

 しばししてから落ちたナイフを拾い上げて、椎野は呆れたように吐息を漏らした。黒羽が消えた方を睨めやる。

「……どうやら、出来損ないはあっちらしいな」

「どうなんでしょうねぇ〜」

 のんびりと笑って、黄美子は椎野の手を引き絵の具屋に向かった。



   二


 赤井正一郎が履歴書を書くならば、趣味の欄は。

 絵の具の製作。

 と、なる。

 いささかどころか、ずいぶん変わった趣味であることは当人、まったく気付いていなかった。



 ようやく終わった――。

 正一郎は欠伸を漏らして両手を突き上げると、ようやっと膨れあがった絵の具のチューブを見、ふぅと満足げに吐息した。中にはこの三日間、丹精込めて作った「赤と白と黄色を感じさせる薄い色」の絵の具が詰まっていた。

 そろそろと立ち上がった彼は、名のないそれをそっと両親の写真の前に置き、両手を合わせる。

「はい、出来ました。どうか気に入ってもらえますように」

 芸術家という面々は拘りが強かった。聞いたイメージ通りに作ってみても五回に三回は、まず突き返される。すでに亡い親にちょっとした神頼みをして、はぁとため息をついた。

 すでに夜だ。

 椎野も黒羽も寝ていて、「絵の具屋」兼「自宅」は静まりかえっている。

 蝉の声がした。

 目を向けて、ふっと正一郎は笑む。

「もう夏だなぁ」

「あ、そうなんですか?」

 斜め後ろから声が降ってくる。振り返ると、階段を下りてくる人影が目に入った。正一郎のパジャマを借りている異星人。さすがにサングラスは掛けていない。

「――黒羽さん、どうしたんです?」

「ちょっと寝れなくて……」

「まだ、黒くんは帰りませんか」

 下まで降りきって、黒羽はこっくりとうなずいた。

「波動が乱れてわからないらしいです。頑張ってくれてるんでしょうけど……」

「少し話しましょう。お茶を入れますんで、座って下さい」

「あ、すみません」

 それまで座っていた座布団を勧めて、正一郎は手早く「絵の具製作器具」のバーナーで湯を沸かす。

 一つだけ湯飲みを見つけたが、もう一つはなかったので諦めて、ビーカーにインスタントコーヒーを作った。茶を入れた急須をちゃぶ台の上に置き、正一郎は座布団に腰を下ろす。

 こぽこぽと音を立てながら湯飲みを満たし、黒羽の前に滑らせた。

 湯気がふわっと解ける。

「で、どうしたんです? なんかありましたか?」

「えぇ……」

 黒羽しばらくうつむいていたが、泣きそうな顔を上げると、正一郎に救いを求めるような視線を向けた。年齢は大学生くらいだろうか、サングラスを外すと意外に愛らしい面立ちをしている。

「……椎野さん、ホントに嫌、なんですよね?」

「あ〜、それですか」

「無理に頼み込んだのはわたしですし、地球の方々に迷惑を掛けてますし、……独りで戦えない自分が情けなくて」

 しょんぼりとうつむく黒羽。

 正一郎はぽんぽんと肩を叩いた。

「しょうがないでしょー。敵さんには色が揃わなきゃ対抗できないでしょ? じゃ、しかたないですよ。むしろ、わざわざ来てくれた黒羽さんに感謝したいですね。そうでしょ? 地球なんか放っておけばいいのに」

「でも、敵の正体もわかりませんし」

「……そういえば、どうして黒羽さんが来たんですか?」

「わたしにもよくわからないんです」

 ちょっとしたことくらいでは(椎野のように激しく)動揺しない正一郎だが、さすがにそうもいかなかった。

「……わからないんですか」

「はい。いきなり呼び出されて、行ってこい、と送り出されまして。辛うじて言葉だけはどうにかなるようにしてくれたんですが、こちらのことまったく知らず、ご迷惑を掛けてばかり」

 えぇーと、と頭を掻いて、正一郎。

「じゃ、敵のことも」

「この星をアースレイズ星のようにしたくないだろう、と言われたので、わたしの星を滅茶苦茶にした連中だと思います。――ですがわたしもよくは知らないんですよ。生まれた時から、無彩砂漠むさいさばくのそばで育ちましたが」

「色を奪われたところ、ですよね」

「――星の半分を覆ってる砂漠ですよ、こちらの砂漠という雰囲気です。でも積み重なっているのは砂漠ではなくて、色を失って、こう……茶色っぽい様な、不透明な物体が、あるだけなんです。かつて、ものであった様々なもの――それが重なっているから、砂漠のように見えるだけで」

 声が沈んだ。茶色いコーヒーの水面を見ていた正一郎は、気付く。黒羽は瞳を潤ませていた。

「人もね、いるんです。不透明な茶色い固まりになってて、でもそれが人だって、わかっちゃうんですよ。表情もよく見ればわかるんです。不細工な硝子の像みたいなんですけど、昔は生きていたんでしょうね……」

「――ひどいですね」

「えぇ。あんなのは、わたしの星だけで、充分です」

「よぉ〜しっ!」

 いきなり正一郎が立ち上がった。黒羽はびっくりして見上げる。涙を拭う異星人に向かって、彼はにっこりと微笑んだ。

「それじゃ、そうならないように思いっきりがんばっちゃいましょう!」

 するりと正一郎は身体を折って座る黒羽を覗き込み、唇に人差し指を当てた。悪戯っぽくウィンクする。

「これはオレたちの秘密ですが」

「……はぁ」

「椎野さんはですね、本気で嫌がってなんかいません。あの人が本気で怒ると、怒鳴るなんてことはしなくなります。だから気にしないで」

「ホ、ホントですか……?」

「はいな。ってなわけで、寝ましょう。明日――いや、今日ですね。追跡しなければならないんでしょ?」

「え、えぇ。お茶、ありがとうございました」

 三つ指をついて深々と頭を下げる黒羽に、正一郎も正座して頭を下げる。

「いえ、ご丁寧にどうも」

「じゃぁわたしは寝ますね」

「どうしても寝にくかったら、屋根で寝ても良いですよ。そっちの方が寝やすいんですよね?」

「はい、どうも!」

 満面に笑った黒羽はひらひらと手を振って、ひょいっと一歩で二階まで上がってしまったらしい。階段を踏む足音がなかった。正一郎はドアの開閉音がしてから、ゆっくりと立ち上がる。

 静かになった室内を見回した。

 慣れてしまった騒音をのぞけば、穏やかな夜。

 平和な夜。

「……本気で怒ってない、か」

 つぶやきながら居間から降り、スニーカーを引っ掛けた。店舗を過ぎって外に出ると、灰色の空にぽつりと月だけが、浮かんでいる。青白い輝きを封じ込めたそれは、独りで仲間もなくどこか寂しげに思えた。

「本気で嫌な人が、わざわざ引っ越してなんか来ないよなぁ……」

 正一郎の指先が左腕にはめた腕時計に触れた。真っ赤なそれを掴みながら膝に力を溜め、一気に跳躍する。ふわりと空に舞い上がった彼は、風が吹いたのち、雑居ビルの屋上に膝をついていた。

 ゆらりと立ち上がって一面のネオンを眺めやる。

 初夏の風はなまぬるかった。



 しばらくネオンを眺めやって、正一郎がぽつりと漏らした。

 誰かに話しかけるように。

「なー、赤ちゃん。そんなにひどいのかな? 無彩砂漠は」

 黒羽のチョーカーのよう、正一郎の付けた赤い腕時計がほのかに光った。彼の足元で赤い光が渦を巻いて仔牛ほどの大きさになる。影もなく、濃紺や朱色が入り交じる真っ赤な獣は、よくよく見れば獅子のように見えなくもなかった。

《ヒドイなんてもんじゃないな。ありゃ、地獄だ。ゾンビばっかりの地獄さ》

 荒々しい声音で赤い獣が応じる。

「……ゾンビ?」

 正一郎は己の相棒を不思議そうに見やった。

 鼻先をふんっと上下に動かして、「赤ちゃん」と呼ばれた獣は低い声を漏らす。

《生き物はな、色を奪われたって生きてることもあるのさ。そいつらは己の意志とは関係なく、色を奪おうとして人や生き物を襲う。襲って殺しちまう。おかげでな、無彩砂漠の近くに住む奴らは、いつも生きるか死ぬかの戦いをしなきゃならねぇ》

「じゃ、黒羽さんが居たところも、そんなのだったのかな?」

《さぁなぁ。だが、あいつの黒髪を見ると、ずいぶんと砂漠に近いところに住んでたんだろうよ。……住むように強要されたのかも知れねぇが》

「なんで?」

《黒は強いのさ。それ以上、どの色を混ぜたってあまり変わらねぇ。戦う上じゃ一番、重要視される色でもある。だからあいつが来たんだろ? ある意味じゃ一番、万能な色だからな》

「へぇ……。すごい人なんだ」

《すごいのも大変さ。……何人も死ぬ奴を見ただろう。苦しむ奴もな。だからここでも、必死になっちまうのさ。悲劇を知っちまった奴は、自分を取り巻く世界が怖くなる。そこから抜け出すのも並大抵じゃいかねぇ。ましてや立ち向かおうとするなんてな》

「……黒羽さんは、笑ってるね」

《あぁ。笑ってるな》

「すごいな」

《おれはなりたくねぇがな、そういう意味ですごい、なんて奴には》

「あは、ひどい」

《本気さ。おれは……出来ることならここに居てぇな。ここが気に入った。……こんなに綺麗じゃねぇか。こんなに綺麗なもの、初めて見た》

 眼下に広がる輝きは闇をわずかに染め上げて、赤や黄色、青など様々な色に光っていた。どこまでも広がる光の海は美しい。他の言葉を失うほどの輝きの中に、何があるのかすら忘れさせるものだった。

 赤い獣はゆったりと座り、金色の瞳を細め、鼻先を空に向けた。

 夢心地に空を見上げる。

《ここじゃぜんぜん星が見えねぇな。けどこの美しさは、夜空が丸ごと落ちてきたみたいだぜ》

「星は、アースレイズ星のほうが綺麗なんだろうね」

《そうだな。……あそこは、星だけは綺麗に輝けるところだ》

「見てみたいな」

《止めとけ。いらん不幸を知ったって、何にもならねぇ》

 きっぱりと言い切られて、正一郎は小さく笑った。穏やかな眼差しで異星から来た不思議な生命体を見やる。

 彼らは色から生まれた生命――色彩生命体だという。また、色にはそれぞれ相性があり、その相性は必然的に劣勢と優勢を作る。敵は同じく色彩生命体色を送り込んで色を奪おうとするが、対するためにはやはりある程度の色を集めなければ、地球を守りたくとも戦えないという。

 黒羽が黒ならば、正一郎は赤。

 椎野は青。

 黄美子は黄色。

 赤い色を有する青年は、にこりと赤い獣に笑いかける。

「この星を助けたいと思う?」

《……それはおれが考えることじゃねぇ。お前が考えるんだ》

「あ、そうか」

 地球は正一郎の星でもあるのだ。多くの人が住むから、正一郎のものとは言えない。だけど他の人と住むから良いんだろうなぁと思って、正一郎もぺたっとその場に腰を降ろした。

「……地球を守る、か。オレが考えなきゃいけないんだねぇ」



   三


「黒羽さん!ッ」

 横を歩いていた黒羽が吹っ飛んだ直後、不気味な風が肩口を吹き抜けていった。叫んだ正一郎は左手首を握り締める。金色の輝きがビルの彼方。光とともに手中へ現れた拳銃を向けようとするが、そこにはもう、気配すら残っていなかった。

 舌打ちし、銃口を下に向けたまま唇を噛んだ。

「逃げた……?」

 気配を探る。

 何も。

 何もない。

《あきらめな、お前に気配は探れねぇよ》

 耳元で冷たく響く相棒の声。

 正一郎は拍子抜けしたよう、体中から力を抜いた。

「へ? どういう意味?」

「……正一郎さん、怪我、ありませんか?」

 ビジネス街の片隅、ビルの外壁に叩き付けられた黒羽がのろのろと立ち上がる。正一郎はうなずいた。

「えぇ。黒羽さんは?」

「ちょっと、痛かったですが……黒くんが身代わりになってくれたので」

 ひょこっと黒羽の背中から顔を出したのは、大阪弁を喋る黒猫のような生き物。正一郎に向かってにかっと笑ってみせた(ように見えた)。背中にばさっと広がった翼を持て余しながら、黒羽の頭によじ登る。

『こんなんで怪我されたらわしが困るねん』

 正一郎は感心したようにうなずいた。

「あのタイミングで身代わりが出来るなんて、さすが息のあったコンビですねぇ!」

『そやろ? そやろ? わしはすごいねんでぇ。これくらいやったらお茶の子さいさいや』

「……いつも思うんですが」

『なんや?』

「なんで、大阪弁?」

『なんやその大阪弁ゆぅんは』

「――えーと」

「あれが狙ったのは、わたしです」

 ふっと肩を落として吐息した後、黒羽は言った。肩を庇うように手の平で包むが、二度ほど撫でただけですぐに背筋を伸ばす。怪我など慣れたという仕草だった。

 正一郎は目を瞬く。

「どういうことですか?」

「あれの気配、出来損ないではなくて……まったく別だったんですよ。無彩砂漠に住んでいた獣です。あの獣はわたしのことが気配でわかるんですよ」

「どうして?」

「色、ですよ。わたしの持つ色の波動はこの星のものとは明らかに違います。わたしが無理に行った時空間転位で波動は乱されてわからないはずなんですが、獣の嗅覚か……何か別のものか。似た波動を持つわたしを追ってしまうのだと思います」

「――時空間転位」

 大きくうなずいて、黒羽は獣を探すよう、頭上に黒猫を乗せたまま周囲を見回した。

「そう。ここに来るため、時空間を強引にねじ曲げたんですが、それでエネルギー波などの観測が難しくなっているんですよ。えーと、時空間転位における全方位波動放射と空間関連の――…あ、忘れちゃいました」

「難しいんですか」

「はい。科学系統、苦手なんですよ。わたしは戦いしか出来ない戦士なので――いて!」

『なにすんねん!』

 照れて頭を掻こうとし、落としかけた己の相棒に引っかかれる戦士(あまつさえ怒られてる)。正一郎もちょっとフォローできずに目まぐるしく視線を散らす。こういう時は絶対、「赤ちゃん」は来てくれない。

「……大変ですねぇ」

「い〜え、科学は必要がなかったんですよ。見渡す限り砂漠ですから、まわり」

「――――」

《さっさと獣のこと、話したらどうだ?》

 ようやっと入った助け船はちょっと冷たかった。

 黒羽がぽんっと手を叩く。

「あ、そうでした。……ご存じですよね?」

《おれかぁ? 知ってるがな。けど黒羽が説明した方が良いだろう。――ところで残りの二人はどーした。さっきケータイとやらで話してたが》

 あぁ、と正一郎はあごを引いた。

「椎野さんは店ですよ。黄美ちゃんが学校終わってから、合流することになってます。近くまで来たらケータイに連絡くれるって――」

 正一郎の携帯電話が鳴った。津軽海峡冬景色。なかなか面白い選曲だが、わかってくれる人間はいない。?正義の味方?は取り出した真っ赤な携帯電話を耳に当てた。

「はい、ショウちゃんです!」

『絶対に馬鹿だな、お前。どこにいる?』

「駅から真っ直ぐに歩いて下さい。今行きま――」

 ぶつっと電話が切られた。どうやら椎野さんはご機嫌斜めらしい。正一郎はちょっと寂しげに肩を丸め、携帯電話を閉じた。



「あ、椎野さ〜ん! 黄美ちゃぁん! 見ぃ〜つけた!」

 すれ違う数多の人混みの中、ぶんぶん手を振り回す正一郎を見出し(否応なく目に入ったのだが)て、椎野は顔をしかめた。隣で私服姿の黄美子が「見つかっちゃいましたねぇ」と笑う。そう言う問題か?

 正一郎と黒羽は人混みを無理に掻き分けて、やって来た。

 幾度も後ろを振り返っている。

「どうした」

「あのですね、いきなり黒羽さんが襲われたんですよ。で、黒羽さん、その獣は」

「――気配があります」

 黒羽の声は低められ、平生とはがらりと調子が違った。黒羽を見る正一郎の顔色が変わり、椎野が目を瞠る。黄美子だけはいつもの顔で見ていたが、瞳から微笑だけが抜け落ちていた。

「……見つけました」

 掠れた声で宣言し、チョーカーに触れた黒羽の手が長い一振りの剣を抜き出した。真っ黒いそれは降り注ぐ陽光すら吸収して、ただ黒い。周囲の通行人がわずかにざわめいた。じっと空の一点を凝視し、身がまえた黒羽が深く膝を折る。

 その肩に黒猫がひっしと捕まった。

「馬鹿! 止めろ!」

 叫ぶ椎野の声がぶっちぎれた。跳躍した黒羽のすさまじい勢いに三人はよろめく。ばっと見上げた先で、黒羽が空中で剣先で何かを捕らえ、そのまま彼方の車道に落ちていくのが見えた。あれは……獣か?

 響き渡る車の急ブレーキ!

 椎野が舌打ちした。

「あの馬鹿! 止めろと言ったのに!」

「急ぎましょう!」

 と、いざ言ったものの逃げる人やらクラクションの音がうるさく、混乱した歩道から抜け出せない。刹那ばかり唇を尖らせた正一郎は、ちらっと己の腕時計を見やった。まさか、と目を瞠った椎野ににこっと笑いかける。

「じゃぁお先に!」

「おい!」

 正一郎の姿がふっと消えた。さすがに人へ危害を加えることを恐れてか、真上に飛び上がってから手近なビルの屋上に降り、黒羽の方へ飛び去っていく。椎野は転んだ子どもを助け起こしながら「くそ!」と罵った。

 次々と人にぶつかられ、困った顔の黄美子がぼそっとつぶやいた。

「青江さん、あたしもやっちゃまずい?」

「勝手にしろ!」

「それじゃ〜」

 ぐっと手を握り締めた黄美子の姿が消える。立ち尽くして椎野はちょっと考えた。肩に次々とぶつかってくる男女を眺めやりながら、極めて大きなため息をつく。

「聞いてるか、青いの」

〈あぁ。聞きたくはないがね、聞いてるよ。どうするのさ?〉

 椎野の胸元でぶっきらぼうな女性の声が上がる。

 普段は和服派の椎野だが、さすがに今日ばかりはジーンズにセーターを着ていた。セーターの下から青いペンダントトップを引き出し、二十四歳の若い芸術家は諦観の声を漏らす。

「今回は、手伝ってやる」

〈それは黒羽に言いな。私の知ったこっちゃないね〉

「……いいから黙ってろ」

 ふっと、椎野の姿が消えた。



「く……っ!」

 空中で捕らえたのはやはり、無彩砂漠に引き込まれた獣の一種のようだった。かすかな命の欠片が硝子のような身体の中で輝き、黒い瞳だけがぎらついている。大きさは正一郎が「赤ちゃん」と呼ぶ色彩生命体とほぼ同じ――。

 黒羽はぶつかった衝撃で漏れた苦鳴をどうにか呑み込み、強引に真下へと力の方向をねじ曲げた。剣を振り上げ、咆哮した獣に叩き付ける。刹那の浮遊感、直後の凄まじい衝突。剣の下で獣がアスファルトにのめり込み、黒羽もすぐには動くことが出来なかった。

「っ!」

 目の前を鋭い牙が掠め去った。両肩を捕まれ、強引に後ろへと転がされる。体勢を整えるなり背中でばさりという音がした。少し苛立ち気味の声が囁く。

『何やっとるんやっ! お前まで色が壊れてまうで!?』

「悪い、黒くん」

『心してかかりや。厄介やで』

「えぇ」

「うわ、黒羽さん格好いいですねぇ!」

 呑気にあがった声は正一郎のものだった。隣に並びながら、彼は拳銃を握り、横に色彩生命体を従えていた。どうやら彼が格好いいと言ったのは、黒羽の背中に広がった「黒くん」の翼らしい。

 正一郎が銃口を立ち上がらんとする獣に向けた。撃鉄を起こす。

「黒羽さん、大丈夫ですか? すっげぇ音がしてましたが」

「はい」

「どうやら……、周りの人も怪我が無いみたいで」

 ちらっと正一郎は周囲に一瞥をくれた。周囲は放置された車で一杯だったが、遠巻きにこちらを眺めやっている人々が居る。あー、もしかして俺たち目立ってる? 目立ってるよね?

「……明日の一面はいただきか、ふふ」

 心の奥底で投げやりに漏らして、正一郎は意識を戦いへと向けた。

「それで黒羽さん。こいつに有効な色は?」

「すべての色が有効です。この獣はすでに色を失っています。辛うじて生きていますが……命が失せるのもすぐでしょう。ですがその際に、無彩砂漠の欠片を撒き散らすんですよ。そうしたら――ここが無彩砂漠になります」

「はいぃ!?」

 獣の前足がぐっとたわんだ。飛び上がろうとしたその瞬間、その首筋に黄色い紐が巻き付く。飛びかけた獣が引き戻され、もんどり打って倒れた。そこに数本の青いナイフが突き刺さる。

 獣が絶叫に似た声を上げた。薄茶色い硝子細工のような身体がのたうち回り、黄色と青白い光が身の中で駆け巡る。苦しげな悲鳴が細々と宙を舞った。

 正一郎が目を輝かせる。

「黄美ちゃん! 椎野さん!」

「呼ぶより戦え!」

「はい、ごもっとも。行くよ赤ちゃん!」

《任せろ!》

 が、残念ながら任せられなかった。いきなり大口を開けて咆哮した獣の声に、周囲で凄まじい金属音が上がったのだ。黒羽が何か叫ぶが、聞こえない。赤い獣が苦しんでのたうち回る。正一郎は立て続けに銃弾を放つが、当たっているかどうか定かではなかった。何よりも不気味な金属音に背筋がぞわぞわする。

「うひゃぁ〜! 気持ち悪い!」

「馬鹿もの!」

 何度目かの馬鹿を叫んで、椎野が問答無用に正一郎を蹴り倒した。すっ転んだ青年の真上を獲物を逃した獣が通り過ぎていく。黄美子の身がふわりと振り返った。その手が激しく振り下ろされ、しなった光の鞭が獣の後ろ足を捕らえる。

「黒羽さん!」

 黄美子が叫んだ時にはもう、黒羽の身は空を飛んでいた。真正面からぶつかって競り合い、真後ろへ吹っ飛んだ。その身が道路上を滑って放置された車にぶつかる。獣は黒羽を弾いた勢いを殺さず、ぐっと全身に力を溜めて大空へと飛び上がろうとした。

「きゃぁ!」

「早くはなせ!」

 巻き付いた鞭が離れず、黄美子の身が引きずられた。慌てて駆け寄った椎野は細い手から鞭の柄をもぎ取る。直後、凄まじい衝撃に襲われ腕が抜けるほどの激痛が走った。そして我に返った彼は、足元に広がる大都会、東京を見た。

 ……飛んでる。

 間違いなく、飛んでる。

 赤い東京タワーが遥か下――。

「……なんで俺が空を飛ばなきゃならないんだ」

 不意にがくん、と身体が下にずり落ちた。黄美子の武器――後ろ足に絡んだ鞭を、獣が振りほどこうとしていた。茫然とする椎野の前でふっと黄色い光が外れる。上に引っ張り上げる力が、失せた。

「ちょっと待てーーー!」

 悲しいかな、重力は待ってくれない。

 落下を始めた椎野の背に、何かが勢いよくぶつかった。だが風を切る音以外、すべての感覚が滅茶苦茶に掻き回されて何も感じられなくなる。胃の底から突き上げてきた違和感を堪えるのに必死で、だから正気に戻った時、自分がふわりと空を飛んでいることに気付くのに時間が掛かった。

「……はぁ?」

『あまり暴れなさんなや。飛び慣れてへんのやったら危ないで』

 背中でばさばさと翼を動かす音がした。

 呑気な大阪弁が続ける。

『ちょと目ぇ閉じとき。慣れんのやったら見んほうがえぇ』

 椎野は素直に目を閉じた。時折、黒羽が「黒くん」と呼ぶ色彩生命体の翼を借りているが、こういうことか……?

 その十二秒後、無事に地上へと降り立ったが、相次ぐ出来事に頭の中がついていかなかった。混乱しながらアスファルトに膝をつき、込み上がる吐き気を堪える。それでも激しい咳が出た。

「うわー、椎野さんだいじょーぶ!?」

 大丈夫なものか! と気力があれば叫んだだろうが、さすがに叫べない。のどの奥で小さな声が上がるだけ。苦しげに喘ぐ椎野の横に膝をつき、背を撫でる正一郎の隣で、「赤ちゃん」が鼻先を空に向けた。

《始まったぞ》

『……あんま、見とぉないけどな』

 椎野の背中からつぶやいた黒猫がぴょんっと飛び降り、着地したばかり黒羽の方へ駆けていった。黒羽は獣に切り付けた剣を拭い、刹那、空を仰いで切なそうに目を細める。悔いるように漏らした。

「黒くん……、頼むよ」

『あいよ。わぁっとるわ』

《さて、おれもやるかな。……よく見ておくといい。色を奪われた奴は、あぁなるんだ》

 正一郎に告げ、赤い獣が地を蹴った。

 駆け出した二匹の先に、黒羽の剣を受けて、傷を負った獣が凄まじい音を立てて落ちた。

 その身体の中を赤と青、黄色に黒の光が滅茶苦茶に駆け巡っていたが、それも徐々に薄れ、また不透明な硝子のようになる。ぱきん、と硝子が割れるような音が広がった。それが獣の全身に及び、砕けるかと思われた時。

 声なき咆哮を上げ、赤い獣が襲いかかった。首もとに喰らいつく。無彩砂漠からの死者はもはや抵抗も出来ず、ひび割れた身体のままに押し倒された。その足元に赤い光が広がって、魔法陣のような円を描く。

 椎野の胸元から青い光が飛び出し、黄美子の手から同じく黄色い光が零れた。

 二匹の色彩生命体――オコジョのような青い獣と、雉のような黄色い鳥がそれぞれ、さらに黒猫も加わり、硝子細工の獣へと食い付いた。

 途端、ぱぁんともの柔らかな音を立てて獣が砕け散る。硝子の欠片は四方八方に飛び散ったが、赤や青、黄色や黒が入り交じった光の円がそれらをすべて呑み込んだ。最後の一片も残さずすべて取り込み、それらの色は尚輝きを増す。

 ほのかな光が失せても色だけは残り、アスファルトが一転して鮮やかな色に染まった。

 立ち尽くす四つの命。

 彼らはどこか、寂しげだった。



   四


 暗い空間の中にきらきらと何かが輝いていた。

 それがふわりと翻って、若い男の声が言う。

「思った以上に限界が近かったな」

「は。……しかし、目的は達せられました」

 応じる声もまた若い。

 姿なき会話は、続いた。

「地球にいたのはあの男の息子で間違いないのか」

「はい。?黒の一族?に探りを入れたところ、……確かかと」

「厄介な男を巻き込んでくれたものだ。それに色彩生命体が三匹か。手段を変えねばならんな。……時空間の湾曲は戻ったか」

「いいえ。少々強引な手段をとったため、少なくとも、十日以上は必要です」

「いささか、急ぎすぎたか」

「――――」

「居場所はわからないのだな」

「探らせていた小物が消されました。時空間転位の波動が消えないうちは、これ以上、探ることは出来ません」

「いい。しばらくは放っておけ。……こちらの準備を急げ」

「御意」

 きらめきが失せる。

 空間そのものが、消えた。



「ほら、これはなんでしょう?」

 目の前に突き出された白い布に、カメラ雑誌を読んでいた椎野は顔を引きつらせた。がたた、っと椅子を蹴って立ち上がる。室内を見回すが誰の姿もなく、というよりも誰に助けを求めたのか自分でもわからない。

 「絵の具屋」の二階は静まりかえっていた。

 穏やかな初夏の午後。

 穏やかならないのは、椎野の心臓のみか。

 真っ青になった椎野はじりじりと後ずさった。

「……頼むから止めろ、正一郎」

「いやー、そんな風に怯えられちゃうと楽しくなっちゃうなぁ。なんでそんなに駄目なんですか? ふんどし」

 にっこりと笑って、正一郎が手にしたふんどしを泳がせる。椎野はまた卒倒しそうになった。

 ――二日前、例の獣が砕け散ったあと、椎野の手が傷ついていることを見た黒羽が手当を申し出た。どうやら鞭の柄を必死と掴んでいる間に皮が破れたらしい。させるがままにしていた椎野は、手に巻かれた布に「未使用」の札が下がっているのを見。

 気が遠くなって、あとのことは覚えていない。

 はぁ、と正一郎がわざとらしくため息をついた。

「あのあと、大変だったんですよぉ。警官に追われるし、どう見たって素人がカメラ回して追い掛けてくるし、椎野さんは気ぃ失っちゃって担がなきゃいけなかったし」

「……黒羽が悪いんだろう、黒羽が!」

「いやぁ、黒羽ちゃんは手当てしただけじゃないですか。?正義の味方?がふんどし恐怖症だって知っても驚かないから、先に言って欲しかったですねぇ〜」

「俺は――恐怖症じゃない」

「え? でも真っ青ですよ?」

「だから近づけるな!」

「じゃー、言って下さいよ。みんなと一緒に?正義の味方?をやるって!」

「――――」

「手、震えてませんか?」

「……ちょっと待てお前、どさくさに紛れて凄まじいことを言ってないか」

「え? そうですか?」

「だから近づくな! 来るなって!」

 大声で交わされるやり取りに、一階で絵の具屋の店番をしていた黒羽と黄美子が上がってくる。ふんどしを持った正一郎の前で、真っ青になって、またもや気絶しそうな椎野の姿に二人は揃って目を丸くした。

 正一郎がにこにこ笑いながら前に出る。

「ねぇ、どうせなら言ってくださいよ。一緒にやるって!」

「よせって……」

 目を輝かせる正一郎より、手に握られたそれへつい目が向く椎野。何を思い出したのかきつく目を閉じる。

 小刻みにうなずいた。

「……わかった、やる。やるからそれを隠せ!」

「その言葉、忘れないで下さいねぇ」

 喜々としてポケットにふんどし(未使用)を押し込む正一郎を見て、黄美子が同情したように漏らした。

「――正一郎さんてば、ちょっとひどい」

 黄美子の横で気を揉んでいた黒羽が激しく目を瞬く。

「あ、……ありなんですかね? こういうの」

「うん〜。いいような気もするけど」

「そうですか?」

「うん。無彩砂漠の生き物を追ってた時だって、仕切ってたのは青江さんだから。嫌じゃないと思うんだけど」

「……ですか?」

「嫌なのはね、……真面目な自分だと思う」

「え?」

 問い返した黒羽を見ず、黄美子は椎野の方に近づいた。

「ねぇ、青江さん。なんでそんなに駄目なんですかぁ? ふんどし」

「……若い女の子がそんな単語を言うもんじゃない」

 天敵が姿を消したためか、ちょっと調子を取り戻し、椎野が掠れた声で云った。彼は無意識のうちに襟を整えながら椅子に座る。

 聞いたって面白くない、と続けて言うものの「そんなことないですって!」「聞きたいなぁ」「……えーと、聞かせてもらえるなら聞きたいと思います」と一斉に反論されて、しばし黙り込んだ。

 しばらくして、椎野は長々と息を吐く。

 不穏げな上目遣いでのぞき込む三人を見やった。

「……正一郎、お前は俺の家が色々やってることは知ってるだろう?」

「あー、日本画からお花まで、いろいろ教えてますよね。他にもお茶とか、日本舞踊だとか」

「そうだ。あれは……、小学校の頃だったな。学校から帰った俺は、いつものように着替えようと思って居間にランドセルを放り投げたんだ。その時、隣室で人の気配がして」

 また椎野の整った顔から血の気が引けた。

「ふすまを開けたら、父の弟子が着替えていたんだ。――そいつがなぜか、その、……ふんどし愛好者だったらしくてな」

「それで……駄目なんですか? ふんどし」

 腕を組み、椎野は冷ややかな目で正一郎を見た。

「そいつが日本人にあるまじき程に毛深かったと言ったら、わかるか」

「――――」

「――――」

「え? え? なんですか!?」

 正一郎と黄美子、二人の顔が真っ赤になった。

「だ、だ駄目だぁ!」

 正一郎が先に吹き出し、黄美子もうつむいてしゃがみ込んでしまった。体勢はどうあれ二人の口から飛び出したのは笑い。爆笑。二人の脳裏にはとても(描写できない)凄まじい光景が思い浮かべられていた。

 独り、事情のわからない黒羽が交互に二人を見た。

「なんですか? 何が笑えるんですか?」

 息も絶え絶えに、正一郎が黒羽の腕を掴んだ。

「つまり……、です、ね。毛だらけのケ――」

「言うな!」

 正一郎の頭にこれまでの恨みも込めてひじ鉄を食らわせ、椎野は肩を怒らせて階段を下った。立ち尽くした黒羽は、笑い続ける二人を困ったように眺めやり、そっと椎野の後を追った。



「あの〜、椎野さん」

 足元を学校帰りの小学生が走っていった。それを何気なく目で追えば、視界の端に黒羽がちょこんと立っている。サングラスを掛けた長身の男が何を願うのか、胸の前で両手を組んでいる姿はちょっと不気味だ。

 椎野は身体ごと振り返った。

 「絵の具屋」そばの細い道。

 人の姿は少ないが、流れてくるざわめきがあった。

「……どうした」

「あの、その……、――どうもすみません!っ」

 ぺこっと身を折る黒羽。

 椎野は困ったように片目を眇めた。

「あんたが謝ることじゃないだろう。あの馬鹿が悪いんだ、馬鹿が」

「でも、わたしがしっかりしてないんで、こんなことになっちゃって、だから――」

「安心していい。俺は地球の平和なんか願ってないからな。絵の具屋に引っ越したのだって、実家にいると親がうるさいからだし、……絵に雑音を入れたくないからだ」

 黒羽は何も言わない。

 凍りついたように立っていた。

「俺は絵さえ描ければいい。その点、絵の具屋はほどほどに良い環境だ。うるさい奴はいるが、俺の絵について文句を言う奴はない。……俺にはあんたも、あのうるさい奴も、黄美子も関係ないんだよ。地球すらもな。だから気にしなくていい」

「……あの、ですけど」

「せいぜい死なないようにしろよ。こんな星、守ったって意味はないと思うが、約束した以上は付き合ってやる」

「――――」

 椎野は背中を向けて、気の向くままに歩み出した。黒羽は追ってこない。あの感じやすい異星人は泣いているかも知れないと思った。たぶん泣いているだろう。だが、胸に迫るものはなかった。

 初夏の風がからりと乾いている。

 邪魔な前髪を掻き上げた。

〈お前もひねてるね〉

 胸元で小さく、相棒の色彩生命体が呆れたようにつぶやいた。

 椎野はちょっと笑う。

「どこがだ? 本当のことを言ったまでだ」

〈違うね。お前は黒羽が気に入らないのさ。真っ直ぐで、片っ端から人を信じる奴がな〉

「……かもな」

〈この星に住んでいるのに、お前は地球なんてどうでもいいのか?〉

「あぁ。どうでもいいね。だいたい――」

 傍らをバイクが通りかかって、椎野は口を噤んだ。何気なく足を止めてから、草履をざらざらいわせて歩き始める。

「誰だって俺と同じだろう。すべて大義名分だ。最後は自分のためにやるさ。黒羽だって、自分の恨みで戦っているようにしか見えない。俺には大義名分なんていらないだけだ」

〈あの、すっとぼけた兄ちゃんはどうなんだい?〉

 なかなか面白い言い方だった。

 椎野はにやりと笑う。

「もしもあんたが正一郎を本気ですっとぼけてると思っているなら、その認識は改めた方がいい。あれはすっとぼけてなんかない。俺よりよっぽど複雑さ。笑ってるからわからないがな」

〈……地球を助ける気なんかないってことか?〉

「それは」

 ふっと口を閉じて、椎野は小さくかぶりを振った。黙ったまま立ち止まる。かと思えばくるっときびすを返し、白昼、サングラスを外して必死になって涙を拭う異星人を大声でどやしつけた。

「大の男がめそめそ泣くな! みっともない!」

「は、はい!」

「泣くならせめて家の中で泣け!」

 などと、自分で泣かしておきながら手ぬぐいを投げつけ、椎野は黒羽を蹴飛ばすようにして絵の具屋へと放り込んだのだった。



 ――三日後、彼らは警察の事情聴取を受けるが、それはまた別の話。


 


 


はい、おしまい


 読んでいただいてありがとうございました。

 楽しいひと時を過ごしていただいていたら、幸いです。

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