「俺のことはいいから先に行け!」と言ったら、親友の婚約者と結婚することになった
結婚式の朝は、抜けるような青空だった。
ウィンストン伯爵邸の庭園には純白のバラが咲き誇り、色とりどりの花々が風に揺れている。招待客たちは続々と馬車で訪れ、誰もが今日という佳き日を祝福していた。
「侯爵令嬢と伯爵家嫡男。まさに理想のご婚礼ですな」
「幼い頃からの婚約者同士ですもの。きっと幸せな家庭を築かれるでしょう」
そんな祝福の声を聞きながら、レオン・アーヴィンは会場の警備を兼ねて式場を見回っていた。
今日は親友エドガー・ウィンストンの結婚式だ。
平民出身のレオンが花婿の付添人を任されているのは、幼い頃から兄弟のように育った間柄だからだった。
木剣を振り回して泥だらけになった日。
騎士になる夢を語り合った日。
身分は違っても、エドガーとレオンの間には確かな友情があった。
だからこそ今日という日を、誰よりも喜んでいたのはレオンだった。
(やっと、この日が来たな)
レオンは友人の新しい門出を心から祝福していた。
まさかこの後、自分の人生まで変わるとは夢にも思わずに――。
◇
「レオン、少し来てくれ」
結婚式まで一時間。
控室で待機していたエドガーが神妙な面持ちで呼び止めた。
「どうした? 顔色悪いぞ。緊張してるなら水でも──」
「違う」
その一言で空気が変わった。
「俺は……リリアのところへ行く」
「は?」
聞き間違いかと思った。
その名前を聞いた瞬間、レオンの頭が真っ白になった。
リリア・ベル。
以前、街でエドガーと一緒にいるところを何度か見かけた女性だった。
「お前……まさか、まだ続いてたのか?」
「……」
エドガーは黙って頷いた。
「クラリス嬢とは家同士が決めた婚約だ。俺はこれでも努力した。彼女を好きになろうとしたんだ。でも、どうしてもリリアが忘れられない」
「だからって、おまえ。よりによって、今日か!」
思わず声が大きくなる。
「三百人以上集まってるんだぞ!」
「分かってる!」
エドガーも叫び返した。
「分かってるから苦しかった!昨日まで何度も諦めようとした。でも……無理なんだ」
レオンは言葉を失う。
こんな必死なエドガーを見るのは初めてだった。
「彼女に何か言われているのか?」
「いや、リリアは身を引くと言った」
「だったら……」
「俺が全部を捨ててでも、彼女じゃないとダメなんだ!」
エドガーは黙って、腰の剣を外した。
家紋入りの指輪や、伯爵家の証となる品々を、すべて机へ置いた。
「俺は今日から何者でもない……」
窓の外には一台の質素な馬車。
御者が静かに手綱を握って待っている。
エドガーは、レオンの肩を掴んだ。
「頼む!俺を見逃してくれ」
レオンは息を呑む。
(今ならまだ間に合う。止めるなら今しかない)
両家を呼べば、無理やりでも結婚式は行われるだろう。
それが正しい。
分かっている。
それでも……目の前にいるのは幼い頃から一緒に育った親友だった。
何度も命を預け合った男だった。
「頼む。レオン」
そう言われた瞬間、理性より友情が勝ってしまった。
「……俺のことはいいから先に行け!」
叫んだ瞬間、自分でも何を言ったのか分からなかった。
エドガーは一瞬目を見開き、それから泣きそうに笑った。
「ありがとう、親友」
裏口の扉が開き、エドガーが走った。
馬車の扉が閉まり、馬が駆け出す。
砂煙だけを残して馬車は街道の彼方へ消えていった。
「……」
レオンは立ち尽くした。
そしてゆっくりと膝から崩れ落ちる。
「俺……何やってんだ」
花嫁を置き去りにした親友を逃がした。
伯爵家も侯爵家も社交界も混乱するだろう。
(なんてことをしてしまったんだ……)
レオンは、ようやく自分のしたことを理解した。
◇
十分後。
控室にウィンストン伯爵夫妻が来た。
「エドガーはどこだ!」
怒号が響く。
レオンは震えながら頭を下げた。
「申し訳ございません……」
「どこへ行った!」
「……駆け落ちしました」
誰も言葉を失った。
「……何だと?」
レオンはエドガーが置いていった荷物を見た。
伯爵夫人がレオンの視線の先にあるウィンストン伯爵家の証を見て、その場へ崩れ落ちた。
「そんな……」
ウィンストン伯爵夫妻が状況を知ってもエドガーがいなくなった事実は変わらなかった。
結婚式の始まりを待つ三百人以上の招待客。
そして花嫁――。
その時だった。
ウィンストン伯爵家の執事が青ざめた顔で報告する。
「アシュフォード侯爵家から使いが参りました。『まもなく花嫁が祭壇へ向かいます』とのことです」
重苦しい沈黙が部屋を包んだ。
誰も、この最悪の状況を収める方法を思いつけず動けなかった。
ただ一人を除いて。
何の権限もないはずの花婿の付添人のレオンだった。
(逃げたのはエドガーだ。でも、送り出したのは俺だ。なら、この責任は俺も背負う)
◇
祭壇では、すでに聖歌隊が歌う準備を始めていた。
招待客たちは笑顔で談笑し、誰も花婿がすでに王都を離れているなど知る由もない。
レオンは深く息を吸い、花嫁の控室へ向かった。
部屋の中では、純白のウェディングドレスに身を包んだクラリス・アシュフォードが静かに鏡を見つめていた。
緊張しているのだろう。
膝の上で組んだ手が小さく震えている。
侍女が扉を開ける。
「レオン・アーヴィン様がお見えです」
「どうぞ」
レオンはゆっくり頭を下げた。
「お時間をいただき、申し訳ありません」
「どうされました?」
「エドガーですが……」
その続きの言葉がなかなか出てこなかった。
レオンは唇を噛み、やがて覚悟を決めて顔を上げた。
「……逃げられました」
一瞬、クラリスの中の時間が止まった。
「恋人と、駆け落ちしました」
クラリスは何も言わなかった。
目を見開いたまま、ただ立ち尽くす。
「申し訳ございません!」
レオンは床に額がつくほど頭を下げた。
「俺は止められませんでした」
「ふふ、やっぱり」
やがて、小さな笑い声が聞こえた。
「……そうですか」
その笑顔は笑っていなかった。
「やはりエドガー様は彼女を選んだのですね」
その言葉に、レオンの胸が締め付けられる。
「クラリス様……」
「そんな気がしていました」
彼女は震える足で立ち上がった。
「皆様をお待たせするわけにはまいりません」
その姿はあまりにも痛々しかった。
「待ちなさい」
低い声が響いた。
アシュフォード侯爵だった。
その後、親族だけが控室へ集められた。
重苦しい沈黙。
侯爵は静かにレオンを見た。
「レオン・アーヴィンといったな」
「はい」
「お前は未婚だったな?」
「はい」
「娘と結婚しろ」
「……はい?」
部屋中が静まり返る。
伯爵夫妻も目を丸くしていた。
「侯爵閣下、それは……」
「今、この婚礼を中止すれば娘は一生『結婚式当日に逃げられた女』として笑われ続ける」
侯爵は静かに言った。
だからこそ、その場の空気が重かった。
「私は父親だ。娘の未来を守らねばならん」
レオンは慌てて首を振る。
「ですが私は平民です!」
「それがどうした?」
「身分が違います!」
「娘婿として迎え、後日叙爵の手続きを進める」
レオンは言葉を失ったが、侯爵はさらに続けた。
「言っておくが、ただの体裁ではない。お前は騎士団で数々の功績を上げていると聞く。隊長からの信頼も厚いと」
「で、ですが……」
「平民から成り上がった者に爵位を与えるのは、この国でも前例がないわけではない。功のある騎士を陛下が直接叙爵された例もある。お前ならば、誰も文句をつけられぬだけの理由が立つ」
侯爵は静かに、しかしはっきりと言い切った。
「見ず知らずの平民を娘にあてがうわけではない。私は、お前がクラリスの護衛として式に付いていた姿を、何度か見ている。あの状況で一人取り残された娘を置き去りにせず、責任を持ってこの場を収めようとした。それだけで、爵位に見合う器だと判断した」
「しかし!」
「好きな女性はいるか?」
「……いません」
「婚約者は?」
「おりません」
「なら問題ない」
あまりにも強引だった。
レオンの頭は完全に追いつかない。
その時だった。
「お待ちください、お父様」
クラリスが初めて口を開いた。
「私にも質問させてください」
侯爵は静かに頷いた。
クラリスはレオンを見る。
「レオン様」
「はい」
「一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「……何でしょう」
「あなたは、この結婚を後悔しませんか?」
レオンは答えに詰まる。
(……後悔ならエドガーを逃がした時に一生分した。正直、見えない未来は同じだ)
レオンは正直に言った。
「後悔する資格なんてありませんから」
レオンは真っ直ぐクラリスを見た。
「俺がエドガーを止めていれば、こんなことにはならなかった」
「……」
「だから俺が取れる責任なら取ります」
「責任……」
レオンはクラリスに問い返した。
「クラリスはよろしいのですか?」
クラリスは静かに目を見開く。
「本当は苦しいはずなのに、それでも皆様へ礼を尽くそうとなさっている」
クラリスは何も言わなかった。
代わりにぽろり、と一粒だけ涙が零れた。
今まで我慢していた分、クラリスの瞳から涙が溢れ出した。
レオンはクラリスにハンカチを差し出した。
「俺は貴族の作法も知りませんし、頼りないでしょう……ですが」
レオンは、ゆっくり顔を上げた。
「あなたを、一人にはしません!」
◇
式場ではすでにざわめきが広がっていた。
「花婿が遅いな」
「何かあったのか?」
レオンは祭壇へ上がる。
何百もの視線が一斉に集まった。
レオンの喉が鳴った。
(それでも逃げられない)
「皆様」
レオンの声が震えた。
「申し訳ございません」
そして、深々と頭を下げる。
「エドガー・ウィンストンは、かけがえのない人を手放しました」
会場がどよめく。
「何だと!」
「どういうことだ!」
会場は一瞬で混乱に包まれた。
レオンは覚悟を決め、声を張った。
「だから、私がこの美しい花嫁を幸せにします!」
クラリスが一歩前へ出た。
まだ少しまぶたが腫れていた。
それでも侯爵令嬢として背筋を伸ばしていた。
「本日は、ご足労いただき誠にありがとうございました」
それでも最後まで礼を崩さない。
「本日、私、クラリス・アシュフォードは、レオン・アーヴィン様の妻となります」
◇
本来なら中止になるはずだった結婚式は、後日、規模を縮小して執り行われた。
参列者は近親者だけ。
レオンの両親は着の身着のままで招かれた状態だった。
もちろん、豪華な披露宴もない。
それでも神父は変わらぬ声で問いかける。
「レオン・アーヴィン。あなたはクラリス・アシュフォードを妻とし、生涯愛し、支え続けることを誓いますか?」
レオンは一瞬だけクラリスを見る。
彼女もこちらを見ていた。
「誓います」
「クラリス・アシュフォード。あなたはレオン・アーヴィンを夫とし、生涯支え合うことを誓いますか?」
クラリスは小さく息を吸う。
「……誓います」
指輪が交換される。
その場にいた誰もが戸惑っていた。
拍手は少なく、祝福の声も控えめだった。
それでも、その日、二人は夫婦になった。
本来なら決して交わるはずのなかった人生が、この日、一つになったのである。
レオンはまだ知らなかった。
この日交わした誓いが、やがて社交界中から「理想の夫」と呼ばれる男への第一歩になることを。
◇
結婚式から三日後――。
レオンとクラリスは、アシュフォード侯爵家が用意した別邸へ移り住んだ。
広い玄関。
長い廊下。
立派すぎる応接室。
平民の家で育ったレオンにとって、何もかもが落ち着かなかった。
「旦那様、お荷物はこちらへ」
(旦那様って、俺のことか)
「え、ああ……ありがとう」
使用人に案内されるたびに頭を下げる。
その様子を見たメイド長マーサは、小さくため息をついた。
「この方がクラリス様の旦那様とは……」
レオンは騎士としての礼儀はあった。
だが、貴族としての振る舞いは素人同然だった。
「平民風情が……」
思わず漏れた呟きは、レオンの耳にも届いていた。
(騎士団の入団の時を思い出す)
レオンは逆境に慣れていた。
荷解きが終わると、侯爵家の執事の元へ訪れていた。
「お願いがあります」
「何でしょうか?」
「俺に貴族の作法を教えてください」
執事は少し驚いた。
「本気ですか?」
レオンは真剣だった。
「クラリス様は侯爵令嬢です。俺が恥をかかせる訳にはいきません」
その日から、レオンは毎朝剣の鍛錬を終えると、執事や侍女たちから貴族の作法を学び始めた。
紅茶の飲み方。
舞踏会での立ち居振る舞い。
食器の扱い。
侯爵家の歴史。
覚えることは山ほどあった。
何度失敗しても、
「もう一度お願いします」
その一言だけを繰り返す。
その姿に屋敷の者は、いつの間にかレオンに絆されていた。
◇
夕食の時間。
長い食卓の端と端に座る二人。
静かすぎる。
食器の音だけが響く。
「……」
「……」
何を話せばいいのか分からない。
結婚はした。
だが恋人になったわけではない。
夫婦になった。
だが互いを何も知らない。
見かねた執事が咳払いをする。
「お、お口に合いますか?」
ようやくレオンが口を開いた。
「はい。とても美味しくいただいております」
「そうですか」
再びの沈黙。
レオンは心の中で頭を抱えた。
(騎士団なら酒を酌み交わせば打ち解けられるのに……)
一方のクラリスも同じだった。
侍女たちからレオンの努力していることは聞いている。
しかし、元婚約者のエドガーとも、食事中に会話をした記憶はほとんどないクラリスにとって、夫婦とは何を話すものなのか分からなかった。
結局その日は、
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
それだけで食事が終わり、使用人たちのため息だけが残った。
◇
数日後――。
「クラリス様」
レオンが小さな包みを差し出した。
「……私に?」
「市場で見つけました」
中には小さな花飾り。
高価なものではない。
だが白い花を丁寧に束ねた可愛らしい細工だった。
「どうして……?」
「屋敷の庭に咲いていた花をご覧になっていたので、お好きなのかと思いまして」
クラリスは目を丸くする。
ただ可愛らしいと見ていただけ。
それを覚えていたのだ。
「ありがとうございます」
レオンは照れくさそうに笑う。
「気に入っていただけたなら良かった」
その笑顔を見て、クラリスの胸が少しだけ温かくなった。
◇
それから数日――。
レオンは一人で貴族の令嬢たちが集まるお茶会にも顔を出した。
男性一人で参加する姿に、最初は失笑された。
「あら、旦那様がお一人で?」
「奥様のお使いですの?」
レオンは笑われても気にしなかった。
「クラリス様がお好きなお菓子をご存じではありませんか?」
「クラリス様が好きな紅茶は?」
「クラリス様がよく読まれる本は?」
令嬢たちが一つ嫌味を言うごとにクラリスについて質問するレオン。令嬢たちも、そのうち呆れていた。
「あなた、ご本人に聞けばよろしいでしょう?」
「まだ……そこまで気軽に話せる関係じゃないんですよ」
たくましい騎士が真っ赤になって答える姿に、令嬢たちは不思議な感情を抱いた。
「可愛くないのに可愛く見えますわ……」
令嬢たちは扇子の陰で囁いた。
「変わった旦那様ね」
それでも一人が教え始めると、皆が口々に話してくれた。
「クラリス様は蜂蜜がお好きよ」
「レモンの香りも」
「あとは恋愛小説より歴史書を読まれるわ」
レオンは一つ残らず手帳へ書き込んだ。
◇
その日の夕方に家に戻ったレオンはクラリスの部屋を訪ねた。
「クラリス様。これを」
箱を開けると、蜂蜜とレモンのタルト。
「え……」
「皆さんが教えてくださいました」
「皆さんって……お茶会に参加されたんですか?」
貴族女性の集まりに、鍛えられた騎士のレオンが一人で参加している姿を想像して、クラリスは思わず笑う。
「はい」
「どうしてそこまで……」
レオンは少し考え、言った。
「俺には、あなたを笑顔にする方法が分からないからです」
その言葉は飾り気がなかった。
「だから、知ろうと思いました」
クラリスは胸が締め付けられる。
婚約者だったエドガーは、自分の好物など知らなかった。
趣味の話をしても覚えようとしたことすらなかった。
目の前の人は、自分を知ろうとしてくれている。
「ありがとうございます」
そう言った瞬間、クラリスは思わず笑みをこぼした。
「ふふっ」
結婚して初めてだった。
クラリスがレオンの前で声を出して笑ったのは。
レオンは目を丸くする。
「どうかなさいました?」
「いいえ」
クラリスは首を横に振った。
「ただ……」
少しだけ照れながら微笑んだ。
「今度からは、私に直接聞いてくださいませ」
レオンの表情が明るくなった。
「……本当ですか?」
「はい」
「ご迷惑では?」
「迷惑なんて……こうやって、私のことを知ろうとしてくれるのは嬉しいです」
二人の間に沈黙が流れた。
しかし、その沈黙は気まずくなかった。
「では……クラリス様は、今一番お好きなお花は何ですか?」
レオンは少し緊張しながら尋ねた。
「白い野バラです。春は小さな白い花を咲かせ、秋には赤い実をつけて可愛らしいですよ」
「なるほど。それでは、今度は野バラの実をイメージしたアクセサリーを贈らせてください」
クラリスは照れながら頷いた。
「レオン様はありますか?」
「俺ですか?」
レオンは少し困ったように笑う。
「花は詳しくないんです。でも最近は、白い花を見るとクラリス様を思い出します」
その一言で、クラリスの頬はさらに赤く染まった。
気付いていないのは、当のレオンだけだった。
クラリスは少し考えてから、今度は自分から尋ねた。
「レオン様は、どんな本をお読みになるのですか?」
初めて自分から尋ねると、レオンは少し考えて答えた。
「騎士団では、兵法書ばかり読んでいました。でも最近は、クラリス様がお好きだと聞いた本を少しずつ読んでいます」
「私のために?」
「クラリス様の感想を聞いて知りたくなった本もありますが、一緒に物語を分かち合えるようになりたくて」
その一言だけで胸が熱くなった。
誰かが自分の世界を知ろうとしてくれる。
そんな経験は初めてだった。
その日をきっかけに、二人の距離は縮まった。
クラリスは本を読み終えた頃には、自然とレオンへ感想を話すようになっていた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
レオンと話す時間が増えていった。
いつの間にかクラリスもレオンのことが知りたくなった。
レオンも誰かに聞くのではなく、クラリスに直接聞くように変わっていった。
◇
冬の気配が近づいたある夜。
レオンは初めて、クラリスの夫として夜会へ出席することになった。
「旦那様、お召し物はこちらでございます」
マーサが最後の襟元を整える。
「……似合ってませんよね」
「何を仰いますか!」
マーサはレオンに活を入れた。
「確かに立ち振る舞いはまだまだですが、クラリス様の夫そのものです」
「そういう問題じゃなくて……」
レオンはため息をついた。
「今日の主役はクラリス様です。俺が隣にいることで笑われるかもしれません」
その言葉に、マーサは少しだけ表情を曇らせた。
「旦那様。お嬢様は、そのようなことは気にされません」
「……でも、周りは違いますよ」
それだけ言うと、レオンは静かに馬車へ向かった。
◇
会場へ到着すると、あちこちから視線が集まる。
「あれが例の……」
「平民から侯爵家の婿になった」
「すごい玉の輿だな」
ひそひそ声が耳に入る。
レオンはいつものように、聞こえないふりをした。
いつもは、そのような言葉は気にならないが今日は違う。
隣にはクラリスがいる。
彼女まで笑われるのだけは耐えられなかった。
「クラリス様」
「はい?」
「もし何かありましたら、俺から離れてください」
「え?」
「あなたまで評判を落とす必要はありません」
クラリスは返事をしなかった。
ただ静かにレオンの横顔を見つめていた。
「まあ、アシュフォード侯爵様」
数人の令嬢が近づいてきた。
令嬢たちはレオンを通り過ぎてクラリスに挨拶した。
「お久しぶりですわ」
穏やかな挨拶のようだが、一人の男爵夫人が扇子で口元を隠しながら笑った。
「それにしても驚きましたわ。まさか護衛騎士とご結婚なさるなんて」
「……」
「クラリス様ほどのお方でしたら、もっと良いご縁がおありだったでしょうに」
周囲から小さな笑いが漏れる。
「失礼ですが──」
レオンは一歩前へ出た。
「レオン様」
クラリスが袖を軽く掴んだ。
ここで言い返したら駄目だと、首を横に振る。
レオンは拳を握り締め、黙って下がった。
男爵夫人は勝ち誇ったように高笑いした。
「まあ、お優しいこと。護衛騎士様もご苦労ですわね」
その時だった。
「男爵夫人」
クラリスが静かに口を開く。
会場がしんと静まり返る。
「今あなたが侮辱したのは、私の夫です」
男爵夫人は笑みを浮かべたままだった。
「まあ、そんなつもりは──」
クラリスはレオンを見た。
優しく微笑み、それから周囲へ向き直る。
「この方は護衛騎士だから、夫になったのではありません。この私が夫として選んだ方です」
誰も息をするのを忘れた。
「毎日、私のために努力し、私を知ろうとしてくださるのも、この方です」
クラリスはレオンの腕へそっと手を添える。
「私の夫を侮辱することは、私を侮辱することと同じです」
男爵夫人は顔色を変えた。
「そ、そのような意味では……」
ちょうどそこへ、いつものお茶会の令嬢たちが集まってきた。
「まあ、何ごとですの?」
そこには、お茶会好きで噂好きのソフィア・グレンヴィル侯爵令嬢もいた。
「今、聞き捨てならない言葉が聞こえましたけど?」
男爵夫人は言葉が出ない。
周囲の貴族たちも、男爵夫人から静かに距離を取っていく。
「申し……訳ございませんでした」
男爵夫人は頭を下げるしかなかった。
貴族の礼儀として、レオンとクラリスは挨拶を済ませ夜会を後にした。
この後、ソフィア・グレンヴィル侯爵令嬢の悪意のない噂が広められるとも知らずに……。
◇
帰りの馬車の中で二人は沈黙したままだった。
やがてレオンが口を開いた。
「どうして……俺なんかを庇ったんですか?」
クラリスは目を丸くした。
「俺は慣れてます。だから気にしなくても──」
「あなたは私の夫です」
初めてだった。
クラリスがレオンの言葉を遮ったのは。
「夫が傷つくのを見て、冷静でいられるほど出来た人間ではありません」
レオンは言葉を失う。
「あなたはいつも私を守ってくれます。今日ぐらい、私が守りたかった。いけませんか?」
馬車の中に静かな空気が流れる。
レオンは少しだけ笑った。
「……騎士になって守られるのは初めてです」
クラリスも小さく笑う。
「夫婦なのですから」
その一言が胸に響く。
夫婦――。
責任でも義務でもない。
自然に出た言葉だった。
レオンはゆっくりとクラリスを見る。
あの日、泣くことすら我慢していた花嫁はもういない。
今、隣には自分を守ろうとしてくれた妻がいる。
「ありがとうございます」
自然と口をついて出た。
クラリスは照れくさそうに微笑む。
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
馬車は夜の街を静かに走っていく。
その日を境にレオンとクラリスは、名目だけではない本当の夫婦への一歩を踏み出した。
◇
社交界の噂とは、恐ろしい速度で形を変えていくものである。
あの日の夜会に残った令嬢たちの噂話は一夜にして広まった。
「聞いて、聞いて!レオン様ったら、クラリス様の好きなお菓子を全部覚えていらっしゃるのよ。クラリス様のために、わざわざ市場まで足を運ばれたんですって」
「まあ、素敵ね……」
「私も先日見ましたの。レオン様が髪飾りを選ばれているところを」
「まあ、ご自分で?」
「ええ。『妻の瞳に一番似合うものを』と、何十分も悩んでいらしたそうよ」
「なんて素敵なの……!」
「騎士団の奥様から聞いた話では、レオン様は十年以上もクラリス様に思いを寄せられていたそうよ。たとえ思いを口にできなくても、お側でお仕えできれば十分だったんですって……健気だわ」
「まあ、悲恋にならなくて本当に良かったわ」
最初は好奇の目で見られていた「笑われ花嫁とその夫」という構図は、ソフィアたちの口伝てによって、実際の経緯とはまるで違う美談へと塗り替えられていった。
その噂を初めて耳にしたレオンは、思わず飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。
「じ、十年って……」
レオンは小さく呟いた。
(さすがに十年は言い過ぎだ。でも……騎士団にいた頃、護衛の合間に遠目でクラリス様を見かけたことは、何度かあった。あの頃はまだ、エドガーの婚約者としか思っていなかったが)
「か、髪飾りは店主に『青い瞳に似合うものはどれですか?』って聞いただけなんだが……」
レオンは独り言のように呟いた。
しかし、誰もそんな弁明には耳を貸さない。
「奥様のために、そこまで悩まれるなんて……」
と、さらに話は美しく脚色されてしまう始末だった。
◇
ある日、マーサはレオンを呼び止めた。
「旦那様。少々、意地の悪い質問をしてもよろしいでしょうか?」
「な、なんでしょう」
「社交界では『理想の夫婦』などと囃し立てられておりますが、旦那様は本当のところ、お嬢様のどこがお好きなのですか?即答できないようでしたら、やはり責任感だけでご一緒にいらっしゃるのだと判断させていただきます」
藪から棒の問いに、レオンは狼狽えた。
だが、しばらく黙り込んだ後、意を決したように口を開いた。
「クラリス様は、誰かのために涙を堪えて、それでも気丈に振る舞われる。あの気高さを、俺は美しいと思っています」
マーサは目を見開いたが、レオンは構わず続けた。
「それに、必ず先に香りを楽しむ癖がおありです。その姿が可愛らしくて。あれを見るのが、俺は好きです」
「……そこまで観察されているとは、思いませんでした」
「教えていただいた好みを覚えるだけでは、足りない気がしたので。ご本人を見ていたら、自然と分かるようになりました」
しばしの沈黙の後、マーサは深々と頭を下げた。
「疑ってしまい、申し訳ございませんでした。旦那様になら、お嬢様をお任せできます」
この日を境に、マーサはレオンにとって誰よりも心強い味方となった。
もっとも、この会話の一部始終を、マーサ自身がその日のうちにクラリスへ話してしまった。
「マーサ、あなた、そんなことを聞いていたの……」
「はい。お嬢様が香りをお楽しみになる癖まで見抜いていらっしゃるとは、旦那様も隅に置けません」
「そ、そんな癖、自分でも気付いていなかったわ……!」
真っ赤になって俯くクラリスを見て、マーサは久しぶりに声を上げて笑った。
◇
その日の夕食の席で、レオンは困ったように頭をかいた。
「クラリス様。あの、俺が身分違いの恋を貫いたとかいう話、ご存じですか?」
クラリスは口元に手を添え、くすりと笑う。
「存じておりますわ。今や社交界では、あなたは『理想の夫』の代名詞になっているようですもの」
「い、いや、事実とだいぶ違うのですが……」
「あら、そうかしら?」
クラリスは穏やかな眼差しを向けた。
「あなたが私のために、貴族女性の気持ちを学ぼうと慣れない社交の場へ何度も足を運んでくださったことも、私の好きなものを一つひとつ覚えてくださったことも、すべて本当ですわ」
「それは……」
「私にとっては、生まれて初めて誰かに大切にされていると実感できた出来事でした」
クラリスは笑顔で言った。
レオンはその笑顔に見惚れながら微笑んだ。
◇
季節が一巡りしたある日。
レオンは領地の視察帰り、街外れの宿場町へ立ち寄った。
そこで見覚えのある横顔を見つけた。
「……エドガー」
声を掛けられた男はゆっくり振り返った。
「レオン……」
かつて伯爵家の嫡男だった親友は、質素な服に身を包み、薪を運んでいた。
日に焼けた顔。
荒れた手。
以前の面影はあるが、もう貴族ではない。
「久しぶりだな」
「ああ」
二人はしばらく黙ったままだった。
やがて宿の奥から一人の女性が出てくる。
「エドガー、その人は?」
「昔の友人だ」
リリアだった。
彼女はレオンを見るなり、深く頭を下げた。
「あの日は……本当に申し訳ありませんでした」
「もういい。気にするな」
レオンは穏やかに笑う。
「二人とも元気そうで何よりだ」
エドガーは苦笑した。
「最初は何もかも失った気がした」
「……」
「爵位も、家族も、財産も」
隣に立つリリアの手をそっと握る。
「でも、この手を取ったことを後悔はしていない」
その笑顔に偽りはなかった。
「俺は、この人と生きる道を選んだ」
「そうか」
レオンは頷く。
「なら、それでいい」
その返事にエドガーは少し驚いた。
「怒らないのか?」
「何を?」
「俺のせいで、お前まで人生が変わったんだ」
レオンは少しだけ考え、それから笑った。
「変わったよ」
「……」
「でも、今は幸せだよ」
その一言でエドガーはすべてを悟る。
「クラリス嬢は……元気か?」
「ああ」
迷いなく答えた。
エドガーは空を見上げる。
かつての婚約者に謝れないことに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
クラリスを愛してはいなかった。
だが、彼女を傷つけた事実は消えない。
(謝って楽になろうとするのは俺のわがままだ……あの人が幸せなら、それでいい)
そう思えた。
屋敷へ戻ると、クラリスが庭園で待っていた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
自然に交わされる日常の会話。
一年前には考えられなかった。
「少し疲れた顔をしていますね」
「古い知人に会ってきた」
クラリスはすぐに誰のことか理解した。
「……そうでしたか」
「二人とも元気だったよ」
「それなら良かったです」
その言葉に嘘はなかった。
もう過去を恨んではいない。
そう思えるのは、隣にいるレオンのおかげだった。
◇
暖かな春の日の午後。
レオンとクラリスは屋敷の庭でお茶を楽しんでいた。
かつて護衛騎士として無骨に生きてきたレオンは、今ではすっかり紅茶の作法にも慣れていた。
レオンの隣に座るクラリスのお腹は少しだけ膨らみ始めていた。
「レオン様」
「何だい、クラリス?」
「あなたは、あの日置いていかれたのですよね」
「ああ」
レオンは苦笑する。
「『俺のことはいいから先に行け!』なんて言ってな」
「ふふっ」
クラリスは笑う。
「私は残されました。でも……」
クラリスはレオンの手を握った。
「置いていかれた人と、残された人だったからこそ、今があるのですね」
「……そうかもしれない」
レオンは照れくさそうに頭をかく。
「正直、あの時は人生終わったと思った」
「実は、私もです」
二人は顔を見合わせる。
「終わりではなく、始まりだった」
レオンはクラリスのお腹へ優しく手を添えた。
クラリスの瞳に涙が浮かぶ。
嬉し涙だった。
その時、小さくお腹が動いた。
「……!」
「動いた」
二人は同時に笑う。
庭には柔らかな春風が吹いていた。
あの日――。
親友へ向かって叫んだ。
「俺のことはいいから先に行け!」
その一言で、親友は愛する人のもとへ向かった。
そして自分は、その場に残された花嫁と出会った。
誰かの幸福は、誰かの不幸の上にあるのではない。
それぞれが自分で選んだ道の先にあった。
置いていかれた男と、残された花嫁。
本来なら交わることのなかった二人は、夫婦となり、家族となった。
一人の誠実な男が、目の前の人を大切にし続けた、その積み重ねが生んだ奇跡だった。
今度は誰も先へ行かせることなく、二人はいつも隣を歩いた。




