表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

悪魔の契約相談所

作者: momotarou
掲載日:2026/06/05

大都市の片隅に、悪魔の契約相談所がある。


そんな都市伝説を、いつか誰かから聞いたことがあった。


強い恨みを抱く者にだけ、その看板は見える。

魂を差し出せば、その魂と釣り合うだけの望みを叶えてくれる。


馬鹿げた話だと思っていた。


けれど、その夜の私は、馬鹿げたものにすがりたいほど壊れていた。


私には、殺したい女がいた。


かつて、愛した女だった。


私たちは愛し合っていた。

少なくとも、私はそう信じていた。


どこで間違ったのか、今でも分からない。


彼女の好きなコーヒーの味も、眠い時の声も、寒い日に手をこすり合わせる癖も、私はまだ覚えている。


そんなもの、忘れてしまえばよかった。


けれど、忘れられなかった。


彼女は私を捨てた。


ごめんなさい。


もう一緒にはいられない。


そう言った時の彼女は泣いていた。


だから余計に腹が立った。


泣きたいのは、私の方だった。


愛は簡単には消えなかった。


消えない愛は、やがて形を変えた。


恨みになった。


憎しみになった。


彼女が笑っていると思うだけで、胸の奥が黒く煮えた。


私を捨てておいて、彼女だけが普通に生きている。


それが、どうしても許せなかった。


その夜、私はネオンの下を歩いていた。


行く場所などなかった。


酔った若者たちが笑っている。

タクシーが水たまりをはねる。

コンビニの明かりだけが、やけに白い。


大通りから外れた路地の奥に、寂れたビルがあった。


地下へ続く階段の先に、黒い看板が浮かび上がる。


悪魔の契約相談所。


本当にあったのか。


私は震える足で階段を下りた。


扉の前で、一度だけ立ち止まる。


ここを開けたら、もう戻れない気がした。


それでも、私はドアノブに手をかけた。


扉は、拍子抜けするほど軽かった。


中にあったのは、普通の個人事務所だった。


白い壁。

安っぽい応接セット。

古いパソコン。

コピー機。

スチール棚。

水の入ったウォーターサーバー。


地獄というより、駅前の保険代理店に近かった。


奥の机では、若い青年がスマホをいじっていた。


黒いパーカーに、細い体。

髪には少し寝癖がついている。

顔立ちは整っているが、悪魔というにはあまりに普通だった。


私は場所を間違えたと思った。


帰ろうとして振り返った瞬間、青年が私の前に立っていた。


「悪魔の契約相談所へようこそ」


声は穏やかだった。


私は固まった。


青年は、たしかに机の向こうにいた。


それなのに、今はほんの一歩分の距離にいる。


私は息をのんだ。


青年は軽く首を傾げた。


「相談ですか」


「……本当に、悪魔なのか」


「看板にはそう書いてあります」


「看板に書いてあれば本当なのか」


「人間は、看板に書いてあることを信じるのが好きでしょう」


青年はそう言って、応接用の椅子を示した。


「どうぞ。相談だけなら無料です」


私は椅子に座った。


青年は向かいに腰を下ろし、机の上に一枚の紙を置いた。


契約相談票。


そう印刷されている。


名前。

生年月日。

願いの内容。

代償にできるもの。


あまりに事務的で、逆に怖かった。


「願いをどうぞ」


青年が言った。


私は拳を握った。


ここまで来て、喉が詰まる。


けれど、彼女の顔を思い出した瞬間、黒い感情がせり上がった。


「殺してほしい」


青年は眉ひとつ動かさなかった。


「誰を」


私はスマホを出した。


消せなかった写真が、そこにあった。


彼女が笑っている。


まだ、私の隣で笑っていた頃の顔で。


「この女だ」


青年は写真を見た。


「恋人ですか」


「元恋人だ」


「なるほど」


青年はペンを持った。


「殺害契約ですね」


私は震える声で聞いた。


「できるのか」


「できます」


青年は当然のように答えた。


「問題は、どう殺すかです」


背中に冷たいものが走った。


だが、引き返せなかった。


「苦しませたい」


私は言った。


「私と同じくらい、いや、それ以上に苦しませたい」


「分かりました」


青年が指を鳴らした。


部屋の明かりが落ちる。


白い壁が、黒い水面のように揺れた。


そこに、彼女の姿が映った。


私は息を止めた。


「最初は、炎です」


次の瞬間、壁の中で炎が上がった。


彼女が炎の中で叫んでいた。


もがくたびに髪が燃え、美しい顔が焼けていく。


幻のはずなのに、人の焼ける匂いまでした。


私は椅子を蹴るように立ち上がった。


「やめろ!」


青年は律儀に映像を止めた。


「炎は嫌ですか」


私は肩で息をしていた。


「当たり前だ」


「では、別の方法にしましょう」


青年がまた指を鳴らした。


壁の映像が変わる。


彼女は病院のベッドにいた。


窓の外は晴れている。


春のような光が差している。


けれど、彼女の足は動かない。


看護師が去ったあと、彼女は一人でシーツを握りしめていた。


声を殺して泣いていた。


青年が言った。


「歩けなくする。命は残ります。長く苦しみます」


「違う」


私は思わず言った。


「何が違うんですか」


「そんなことをしてほしいわけじゃない」


「あなたは、殺してほしいと言いました」


「これは違う」


「足は嫌ですか」


「嫌だ」


「では、目にしましょう」


また映像が変わる。


彼女は暗い部屋にいた。


目は開いている。


けれど、何も見えていない。


手探りで壁に触れ、机にぶつかり、床に落ちたグラスの破片で指を切った。


それでも彼女は、誰も呼ばなかった。


ただ、小さく名前を呼んだ。


私の名前だった。


私は奥歯を噛んだ。


「やめろ」


青年は映像を止めた。


「目も嫌ですか」


「嫌だ」


「注文が多いですね」


「そんな姿は見たくない」


「殺したい相手なのに?」


私は答えられなかった。


青年は契約相談票に何かを書き込んだ。


「では、食べられなくする」


「は?」


壁に、痩せ細った彼女が映った。


目の前には食事がある。


スープ。

パン。

水。


彼女は震える手でスプーンを持つ。


けれど、一口飲み込むたびに吐き戻してしまう。


周りの者が心配そうに声をかける。


彼女は笑って言った。


大丈夫。


大丈夫だから。


その笑顔は、今にも消えそうだった。


私は机を叩いた。


「もういい!」


青年は指を止めた。


「食べられなくするのも嫌ですか」


「嫌だ」


「では、眠れなくする。声を奪う。誰からも愛されなくする。あなたの記憶だけ残して、他のすべてを失わせる。選択肢はまだあります」


「やめろ!」


自分でも驚くほど大きな声だった。


部屋が静かになった。


青年は、私を見ていた。


「あなたは本当に、この女性を殺したいのですか」


私は、黒く戻った壁を見つめた。


もう彼女の姿は映っていない。


それなのに、目の奥には焼きついていた。


炎の中で叫ぶ姿。

歩けずに泣く姿。

暗闇の中で手を伸ばす姿。

食べられずに痩せていく姿。


全部、嫌だった。


一つも見たくなかった。


私は、彼女を憎んでいた。


裏切られたと思った。


捨てられたと思った。


自分だけが苦しいのが許せなかった。


彼女も同じように苦しめばいいと思った。


だから、ここへ来た。


悪魔の契約相談所。


魂を売ってでも、彼女を殺したい。


そう思っていたはずだった。


「……私は」


声が掠れた。


「彼女に苦しんでほしかった」


青年は黙っていた。


「私と同じだけ、傷ついてほしかった。私を捨てたことを後悔してほしかった。私がどれだけ苦しかったか、分かってほしかった」


「それで?」


「でも」


私は膝の上で拳を握った。


「でも、あんな姿は見たくない」


「では、どうしたいのですか」


その問いは、炎より痛かった。


殺したい。


違う。


苦しめたい。


違う。


戻ってきてほしい。


それも、もう違う。


彼女はもう、私のものではない。


そんなことは分かっていた。


分かっていたのに、納得できなかっただけだ。


私はスマホの写真を見た。


彼女は笑っている。


その笑顔を見て、腹が立ったこともある。


自分なしで笑っていることが許せなかった。


けれど、本当は。


本当は、その笑顔が消えるところなど見たくなかった。


「……彼女が」


私はようやく言った。


「彼女が幸せなら、それでいいのかもしれない」


青年は一秒だけ沈黙した。


それから、契約相談票を裏返した。


「殺害契約は不成立です」


私は顔を上げた。


「魂は取らないのか」


「契約が成立していませんから」


私は、力が抜けた。


何も解決していない。


彼女を忘れたわけでもない。


憎しみが消えたわけでもない。


それでも、少なくとも今、私は彼女を殺したいとは思えなくなっていた。


私はスマホを見た。


写真を消そうとして、指が止まる。


消せなかった。


まだ。


でも、画面を閉じることはできた。


それだけで、今夜は十分だった。


私はおそるおそる聞いた。


「料金は」


「初回相談無料です」


「本当に無料なのか」


「看板に書いてあります」


「本当に、魂を取られないのか」


青年は少しだけ笑った。


「はい、ご安心ください」


私は安堵した。


扉へ向かう。


その前に、私は振り返った。


「悪魔にしては、親切なんだな」


青年はスマホを手に取りながら答えた。


「よく言われます」


「悪魔なのに?」


「いえ」


青年は、そこでようやく私を見た。


「ここは『神の救い』です」


私は、言葉を失った。


そして、驚いて言った。


「看板には、悪魔の契約相談所と書いてあった」


「はい」


「なぜだ」


青年は当然のように言った。


「『神の救い』と看板に書くと、詐欺だと思われて誰も入りませんから」


私は何も言えなかった。


青年は、私に優しく微笑んだ。


「お気をつけて。愛憎で転ぶ人は、階段でもよく転びます」


私は扉を開けた。


外の空気は、少し冷たかった。


階段を上る。


振り返ると、もう『悪魔の契約相談所 初回無料』の看板は私には見えなくなっていた。


彼女への恨みは薄れたのだろう。


空を見上げると、ビルの隙間に星が見えた。


星を見ようとしたのは、彼女と別れて初めてだった。


『神の救い』と書くと詐欺だと思われる。


その言葉が、妙におかしくて、私は少しだけ笑ってしまった。


人の心も詐欺のようなものかもしれない。


結局、私は彼女を殺したいとは思っていなかったのだ。


殺したいと思うことで、自分の心を偽っていたのだ。


笑ってしまった。


そして、私は夜の街を軽い足取りで歩き出した。

しばらく、短編を毎日11:50分に更新予定です。

お昼休みにでもお読み頂ければ嬉しいです。

できるだけ斬新なアイデアをひねり出して書いています。

評価を入れていただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ