悪魔の契約相談所
大都市の片隅に、悪魔の契約相談所がある。
そんな都市伝説を、いつか誰かから聞いたことがあった。
強い恨みを抱く者にだけ、その看板は見える。
魂を差し出せば、その魂と釣り合うだけの望みを叶えてくれる。
馬鹿げた話だと思っていた。
けれど、その夜の私は、馬鹿げたものにすがりたいほど壊れていた。
私には、殺したい女がいた。
かつて、愛した女だった。
私たちは愛し合っていた。
少なくとも、私はそう信じていた。
どこで間違ったのか、今でも分からない。
彼女の好きなコーヒーの味も、眠い時の声も、寒い日に手をこすり合わせる癖も、私はまだ覚えている。
そんなもの、忘れてしまえばよかった。
けれど、忘れられなかった。
彼女は私を捨てた。
ごめんなさい。
もう一緒にはいられない。
そう言った時の彼女は泣いていた。
だから余計に腹が立った。
泣きたいのは、私の方だった。
愛は簡単には消えなかった。
消えない愛は、やがて形を変えた。
恨みになった。
憎しみになった。
彼女が笑っていると思うだけで、胸の奥が黒く煮えた。
私を捨てておいて、彼女だけが普通に生きている。
それが、どうしても許せなかった。
その夜、私はネオンの下を歩いていた。
行く場所などなかった。
酔った若者たちが笑っている。
タクシーが水たまりをはねる。
コンビニの明かりだけが、やけに白い。
大通りから外れた路地の奥に、寂れたビルがあった。
地下へ続く階段の先に、黒い看板が浮かび上がる。
悪魔の契約相談所。
本当にあったのか。
私は震える足で階段を下りた。
扉の前で、一度だけ立ち止まる。
ここを開けたら、もう戻れない気がした。
それでも、私はドアノブに手をかけた。
扉は、拍子抜けするほど軽かった。
中にあったのは、普通の個人事務所だった。
白い壁。
安っぽい応接セット。
古いパソコン。
コピー機。
スチール棚。
水の入ったウォーターサーバー。
地獄というより、駅前の保険代理店に近かった。
奥の机では、若い青年がスマホをいじっていた。
黒いパーカーに、細い体。
髪には少し寝癖がついている。
顔立ちは整っているが、悪魔というにはあまりに普通だった。
私は場所を間違えたと思った。
帰ろうとして振り返った瞬間、青年が私の前に立っていた。
「悪魔の契約相談所へようこそ」
声は穏やかだった。
私は固まった。
青年は、たしかに机の向こうにいた。
それなのに、今はほんの一歩分の距離にいる。
私は息をのんだ。
青年は軽く首を傾げた。
「相談ですか」
「……本当に、悪魔なのか」
「看板にはそう書いてあります」
「看板に書いてあれば本当なのか」
「人間は、看板に書いてあることを信じるのが好きでしょう」
青年はそう言って、応接用の椅子を示した。
「どうぞ。相談だけなら無料です」
私は椅子に座った。
青年は向かいに腰を下ろし、机の上に一枚の紙を置いた。
契約相談票。
そう印刷されている。
名前。
生年月日。
願いの内容。
代償にできるもの。
あまりに事務的で、逆に怖かった。
「願いをどうぞ」
青年が言った。
私は拳を握った。
ここまで来て、喉が詰まる。
けれど、彼女の顔を思い出した瞬間、黒い感情がせり上がった。
「殺してほしい」
青年は眉ひとつ動かさなかった。
「誰を」
私はスマホを出した。
消せなかった写真が、そこにあった。
彼女が笑っている。
まだ、私の隣で笑っていた頃の顔で。
「この女だ」
青年は写真を見た。
「恋人ですか」
「元恋人だ」
「なるほど」
青年はペンを持った。
「殺害契約ですね」
私は震える声で聞いた。
「できるのか」
「できます」
青年は当然のように答えた。
「問題は、どう殺すかです」
背中に冷たいものが走った。
だが、引き返せなかった。
「苦しませたい」
私は言った。
「私と同じくらい、いや、それ以上に苦しませたい」
「分かりました」
青年が指を鳴らした。
部屋の明かりが落ちる。
白い壁が、黒い水面のように揺れた。
そこに、彼女の姿が映った。
私は息を止めた。
「最初は、炎です」
次の瞬間、壁の中で炎が上がった。
彼女が炎の中で叫んでいた。
もがくたびに髪が燃え、美しい顔が焼けていく。
幻のはずなのに、人の焼ける匂いまでした。
私は椅子を蹴るように立ち上がった。
「やめろ!」
青年は律儀に映像を止めた。
「炎は嫌ですか」
私は肩で息をしていた。
「当たり前だ」
「では、別の方法にしましょう」
青年がまた指を鳴らした。
壁の映像が変わる。
彼女は病院のベッドにいた。
窓の外は晴れている。
春のような光が差している。
けれど、彼女の足は動かない。
看護師が去ったあと、彼女は一人でシーツを握りしめていた。
声を殺して泣いていた。
青年が言った。
「歩けなくする。命は残ります。長く苦しみます」
「違う」
私は思わず言った。
「何が違うんですか」
「そんなことをしてほしいわけじゃない」
「あなたは、殺してほしいと言いました」
「これは違う」
「足は嫌ですか」
「嫌だ」
「では、目にしましょう」
また映像が変わる。
彼女は暗い部屋にいた。
目は開いている。
けれど、何も見えていない。
手探りで壁に触れ、机にぶつかり、床に落ちたグラスの破片で指を切った。
それでも彼女は、誰も呼ばなかった。
ただ、小さく名前を呼んだ。
私の名前だった。
私は奥歯を噛んだ。
「やめろ」
青年は映像を止めた。
「目も嫌ですか」
「嫌だ」
「注文が多いですね」
「そんな姿は見たくない」
「殺したい相手なのに?」
私は答えられなかった。
青年は契約相談票に何かを書き込んだ。
「では、食べられなくする」
「は?」
壁に、痩せ細った彼女が映った。
目の前には食事がある。
スープ。
パン。
水。
彼女は震える手でスプーンを持つ。
けれど、一口飲み込むたびに吐き戻してしまう。
周りの者が心配そうに声をかける。
彼女は笑って言った。
大丈夫。
大丈夫だから。
その笑顔は、今にも消えそうだった。
私は机を叩いた。
「もういい!」
青年は指を止めた。
「食べられなくするのも嫌ですか」
「嫌だ」
「では、眠れなくする。声を奪う。誰からも愛されなくする。あなたの記憶だけ残して、他のすべてを失わせる。選択肢はまだあります」
「やめろ!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
部屋が静かになった。
青年は、私を見ていた。
「あなたは本当に、この女性を殺したいのですか」
私は、黒く戻った壁を見つめた。
もう彼女の姿は映っていない。
それなのに、目の奥には焼きついていた。
炎の中で叫ぶ姿。
歩けずに泣く姿。
暗闇の中で手を伸ばす姿。
食べられずに痩せていく姿。
全部、嫌だった。
一つも見たくなかった。
私は、彼女を憎んでいた。
裏切られたと思った。
捨てられたと思った。
自分だけが苦しいのが許せなかった。
彼女も同じように苦しめばいいと思った。
だから、ここへ来た。
悪魔の契約相談所。
魂を売ってでも、彼女を殺したい。
そう思っていたはずだった。
「……私は」
声が掠れた。
「彼女に苦しんでほしかった」
青年は黙っていた。
「私と同じだけ、傷ついてほしかった。私を捨てたことを後悔してほしかった。私がどれだけ苦しかったか、分かってほしかった」
「それで?」
「でも」
私は膝の上で拳を握った。
「でも、あんな姿は見たくない」
「では、どうしたいのですか」
その問いは、炎より痛かった。
殺したい。
違う。
苦しめたい。
違う。
戻ってきてほしい。
それも、もう違う。
彼女はもう、私のものではない。
そんなことは分かっていた。
分かっていたのに、納得できなかっただけだ。
私はスマホの写真を見た。
彼女は笑っている。
その笑顔を見て、腹が立ったこともある。
自分なしで笑っていることが許せなかった。
けれど、本当は。
本当は、その笑顔が消えるところなど見たくなかった。
「……彼女が」
私はようやく言った。
「彼女が幸せなら、それでいいのかもしれない」
青年は一秒だけ沈黙した。
それから、契約相談票を裏返した。
「殺害契約は不成立です」
私は顔を上げた。
「魂は取らないのか」
「契約が成立していませんから」
私は、力が抜けた。
何も解決していない。
彼女を忘れたわけでもない。
憎しみが消えたわけでもない。
それでも、少なくとも今、私は彼女を殺したいとは思えなくなっていた。
私はスマホを見た。
写真を消そうとして、指が止まる。
消せなかった。
まだ。
でも、画面を閉じることはできた。
それだけで、今夜は十分だった。
私はおそるおそる聞いた。
「料金は」
「初回相談無料です」
「本当に無料なのか」
「看板に書いてあります」
「本当に、魂を取られないのか」
青年は少しだけ笑った。
「はい、ご安心ください」
私は安堵した。
扉へ向かう。
その前に、私は振り返った。
「悪魔にしては、親切なんだな」
青年はスマホを手に取りながら答えた。
「よく言われます」
「悪魔なのに?」
「いえ」
青年は、そこでようやく私を見た。
「ここは『神の救い』です」
私は、言葉を失った。
そして、驚いて言った。
「看板には、悪魔の契約相談所と書いてあった」
「はい」
「なぜだ」
青年は当然のように言った。
「『神の救い』と看板に書くと、詐欺だと思われて誰も入りませんから」
私は何も言えなかった。
青年は、私に優しく微笑んだ。
「お気をつけて。愛憎で転ぶ人は、階段でもよく転びます」
私は扉を開けた。
外の空気は、少し冷たかった。
階段を上る。
振り返ると、もう『悪魔の契約相談所 初回無料』の看板は私には見えなくなっていた。
彼女への恨みは薄れたのだろう。
空を見上げると、ビルの隙間に星が見えた。
星を見ようとしたのは、彼女と別れて初めてだった。
『神の救い』と書くと詐欺だと思われる。
その言葉が、妙におかしくて、私は少しだけ笑ってしまった。
人の心も詐欺のようなものかもしれない。
結局、私は彼女を殺したいとは思っていなかったのだ。
殺したいと思うことで、自分の心を偽っていたのだ。
笑ってしまった。
そして、私は夜の街を軽い足取りで歩き出した。
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