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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

エリカ

作者: 糸井槌
掲載日:2026/04/04

私は6つの時に妹と一緒にこの家にきました。たいへんなことばかりでしたが、親を恨んだことはありません。顔も覚えていない人のことをどうやって恨みましょうか。


台所を離れて水を汲みに行って戻ると、奥さまがひんやりとした目でこちらを見ていました。私が桶を置くと同時につかつかと歩み寄った奥さまは手にしていた包丁を私の顔に触れるほど近くへそえました。

「やっぱりお前だったんだね、よりにもよって火口に包丁を置き忘れるなんて全く勉強を受けさせてやってるのに何を学んでるんだか……いいかい、刃物は火のそばに置いちゃいけないんだ。三つ口って言ってね、兎みたいに割れた口の子が産まれてくるんだよ。この家にもし身重の人がいたらどう責任を取るつもりだい?あんたの口を今からでもこの包丁で割ってやろうか?」

すみません、すみません、と何度頭を下げても奥さまからの嫌味は止みません。ようやく解放された頃には日が落ちようとしていました。


お使いの帰り道、機銃掃射が私たちを襲いました。離ればなれにならないようにきつく手を繋いで、買ったものは盗まれることを覚悟で地面に放り出して走りました。

「どけ!撃たれるぞ!」

叫ぶ声に振り返る間もなく身体は吹き飛ばされていて、やっと顔を上げると血を流して倒れている男の人がいたんです。

「ああ!大丈夫ですか!」

「すまない、心配をかけるね……ただ肉の多いところを貫通しちまっただけさ、人より肉があってよかったよ、それからおれは痛みには鈍いほうなんだ……ま、さすがにこれは痛いけどね」

その人は小説家で、日本を変えるために書いている、と言うのです。話を聞いてみると普段吉野信子や谷崎潤一郎、江戸川乱歩を読んでいる私にはなんだか別世界のようでした。こんな世界もあるのだなあと頷いて、新しい本が出来たら読みたいです、と頼みました。妹も少女雑誌を見るからか、おじさんの話には興味深そうに聞き入っていました。

「おじさんのお家はどこなんですか?」

妹はおじさんの着物の袖を引いてそう尋ねました。

「もう少し歩けばすぐそこさ。でもね、ちよちゃん、それにエツ子ちゃん、おじさんの家にはなにがあっても来ちゃいけないし、近くを歩くのも駄目だ。守ってくれるかい?」

なんとなく、さっきの話を聞くにおじさんには事情があるのだろうなと思っていました。それに、袖がめくれた時に変な痣……ひどい火傷の跡のようなものも見えたんです。妹に目線をやると、物わかりのいい子でしたから彼女は黙って頷きました。

「有難う、さすがはかの商屋さんところのお嬢さんたちだ。あの風呂敷は君たちの家の柄なんだよ」

指を差しながら、まるで自分を褒められたようにおじさんは笑っていました。


それから数週間が過ぎて、奥さまの逆鱗に触れ姉妹そろって外に放り出された私たちは、果物屋さんの前でどれを食べたいか言い合っていました。しかしそうしたところでお腹が膨れるわけでも、例えばリンゴの味をした甘い唾液が湧いてくることもありません。結局一番安いみかんをはんぶんこすることで話が決まりました。

受け取ったみかんを大事そうに両手で包む妹を微笑ましく見ていた時、大勢の大人がこちらへ向かって走ってきたのです。慌てて妹の腕を引くと、みかんがこぼれ落ちて地面で数回跳ねました。スーツもあれば憲兵さんのように腕章をつけたもの、着物、私が普段目にするような国民服だってありました。

それらが小説家のおじさんの家と思われる方角に消え去るまで私と妹は震えたまま抱きしめあっていました。土埃が舞い上がる中を、踏みつぶされたみかんから甘さより酸味が上回る爽やかな匂いがいつまでも漂っていました。


空襲警報もないのにこちらへ向かってくる飛行機があって私たちは物陰に潜みました。しかし音沙汰はなく、空を見上げていると爆弾ではなく、紙束のようなものがはらはらとばら撒かれました。

降ってきたものを捕まえて、ジィっと眺めていたら奥さまに首根っこを掴んで立たされた衝撃で、紙は私の手を離れひらひらと地面を舞っていました。身動きの取れない狭い空間の中で、迫りくる炎に怯えながらどこともしれない所へ落下する人はどんな顔をするのか、私には想像もつきませんでした。

『日本国民に告ぐ。

我が陸軍飛行戦隊は

サイパンより飛来した

敵機3機を撃墜。

これは輝かしき戦果である。

これはまた勝利への道程である。』 あんなに咎められていたのに、私と妹は黒い着物を身につけておじさんの家に上がっていました。おじさんが生きていれば大層叱ったに違いありませんが、なにせ家ごと呼ばれたのですから上がるしかなかったのです。

その日はおじさんのお通夜でした。故郷から来たというおじさんのお母さまは、ここに生きとったんじゃからこん場所から送るべきじゃろう、とおじさんと呼ぶには記憶から余りにも変わってしまった、膨れ上がって変な色をした遺体を抱き締めて、特高の鬼にやられたんじゃ、痛かろう、どないに痛かった……と泣いていました。


遺体は特に下半身周りがどす黒く変色していて、太ももからすねまで太さがほとんど同じで、内側から張り裂けんばかりに腫れていました。どうして抜いてくれなかったのでしょうか、足の裏には何本も釘が打ち付けられていました。首には細い縄で締められた痕がくっきりと残り、ところどころ皮膚が擦り切れていました。肌にはたくさんの生々しい痣や裂傷、火傷がありました。掌は酷い凍傷になったのか壊疽が起きていました。今年は雪が多く積もったので、おじさんがどんな目にあったのか私は考えないようにしました。

舌の裏からはまち針がいくつか出てきました。それを見たお母さまが口に指を入れると、腫れて塞がった喉にもいくつか食い込んでいたそうです。お母さまが着物をはだけさせると、背中一面に非人国賊の文字が太い針金で無理やり引き裂いたように書かれていました。

「こげなこと出来るなにが人間じゃ!なにが国民じゃ!」

酷く殴られただけでなく、きっと逆さ吊りにされていたのでしょう、浮腫もあわさって顔が倍ほどに腫れて張り詰めた皮膚がツヤツヤとするくらいぱんぱんでした。

おじさんを抱いたお母さまは枯れてしまいそうなほど咽び泣いていました。

「はよ立たんね……はよう立たんね、もう一度あんたは書かあないけんじゃろうて」

おじさんの机には書きかけの本があって、見開き全体を使って殴り書かれた文章がありました。

『犠牲を送りて涙を隠せし同胞は

今や悪魔の勝利を賛美す

病死には喪服を纏うて弔し

戦死には晴衣を装うて祝す

「帝國萬歳大勝利」

何ぞ悪魔の大勝利と書かざる

「陸海軍の大捷を祝す」

何ぞ人道の滅亡と記さざる』

焼け野原の街を歩きました。まだ地面は熱を残しているように思えました。爆弾が直撃したのか電柱が斜めになっているのが印象的でした。

隣町のほうは不幸にして焼け落ちた家が数多くありました。風向きなどの要因からか、たった数メートルを隔てただけでもくっきりと惨事の明暗が分かれてしまっている光景は、よく見られるものでした。

妹の顔は大半が爆弾で吹き飛ばされて、残っていたのはなんとかついた耳たぶと下顎くらいでした。妹は右から三番目の歯と前歯が旦那さまから殴られた時に欠けていたので、十人もしないうちに彼女の顔を見つけることが出来ました。

私はその口に手を伸ばして、あるだけの歯を抜きました。素手で、緩んだ筋肉からは生ぬるくぬかるんだ泥のような手応えがして、簡単に抜くことが出来ました。それから、舌を切り取りました。この子はもう話すことはないのですから、それなら、と思ったのです。苦しんで呻く声も、たとえもう上がらない音だとしても……死体にだって聞かせたくありませんでした。

抜いた歯と舌は別々に油紙で包み、懐に入れました。

それから耳たぶが落ちてしまわないようにもう一度そっと持ち上げて、抱きしめました。エッちゃん、エッちゃん、と呼びかけました。理不尽や不条理にふたりきり歯を食いしばって何度こんなふうにこの子を抱えただろう。ものいわぬ塊になった妹の呼び名を繰り返すうちに、喉奥がなんともいえず熱く腫れて、吐き出しそうになった頃には涙が火照った頬を滑っていました。決壊したそこからはもう止める手立てもなくて、浅い息を重ねながら私は泣きました。顔の高さまで腕をあげて、僅かな皮膚に頬ずりをしました。耳たぶの形を指でなぞって、これを覚えようと思っていました。無くさずに生きようと思いました。私に意味はないけれど、私の身体には色んな人の意味があるから、そのために生きていこう、と。

耳たぶを口に含んで軽く吸うと、粘土質な肉の感触がして、ああ死んでしまった妹はとうに妹ではなくて、神様は人間という容れ物しか残してくれないのだなあとぼんやりと感じていました。

境目を引くように犬歯を動かすと、耳たぶは顔から離れてしまいました。口の中にはいつまでも薄めた泥の味がしていて、それが消えるまでジッと立ち尽くしていた私はきっと阿呆のようだったのでしょう。

焼け跡から動こうとするとボロのもんぺがこちらへ走ってくるのが見えました。

「あんた、美術商屋さんとこのちよちゃんじゃろ?」

私の両肩をしっかりと掴みながら息を切らしている女性に見覚えがありました。

「小説家のおじさんの……」

「ああ、よかった。あの子の母親です。葬式の時はほんと有難うね」

おばさまは一人で立っている私を怪訝そうに見ていました。

「あなた、妹さんがいたんじゃ」

言いさして失態に気が付いたように芝居がかった仕草で口を手で覆いました。

「ごめんなさい、私ったら無神経で……」

「いえ、もう簡単な弔いは済ませましたから」

「そうなの……エツ子ちゃんだったわよね?ご遺体はどの方角に?」

通ってきた方向を指差すと、おばさまは躊躇うことなくその場に正座して、手を合わせると聞いたことがないものを唱えました。

「うぱにしゃど うぱにしゃど」

故郷に残してきた家族も自分の魂を形どっていた存在の妹も一人残らずこの世から消えてしまったことを知った時、私は自分というものの存在が極めて希薄になってしまったように感じていました。

日々はまるで氷漬けにされた夢の出来事のようで、自分が自分ではない心地になり、以前なら非道だと良心を痛めた事だろうと躊躇なく行動にうつすことが出来てしまいました。誰と会い、何をしたところで、悲しみも痛みも楽しみも喜びもない。ひどく虚ろな、終わりのない凍てついた悪夢の中にいたような、そんな気がするんです。

私もそうだったように、焼け出された人々は間借りなどをして当座を凌いでいました。とはいえ住人に遠慮をしながら、たった一間に家族数人でひしめき合って雑魚寝をする暮らしが、いつまでも続けられるものではないことくらい解っていました。


敗戦後、政府も警察も流通経路の回復や市場の統制までなんて、到底手が回りません。結果、自然発生的に違法な市場が焼け跡に次々と誕生していきました。

闇市と称されているそれらの市場は、屋台など露天商を束ねるテキヤの組によって始められました。しかし日本の法律の対象とならず物資を自由に売買できる朝鮮・華僑系の第三国人、博徒を仕切るやくざなどが利権をめぐってたちまち入り乱れて、抗争で路上を銃弾が飛び交う事態になっていたのが実態です。

その男は三者の力関係をうまく調整する能力に長けていました。どれにも属さず、そのくせすべてに融通がきくんです。そこでついたのが「顔役」という呼び名でした。

第三国の血が入っているという噂もあるし、やくざの後ろ盾もあるようでした。けど得体は杳として知れず、若い時分から名前が何度も変わっているとも聞きました。そんな具合なので私もまた、顔役さん、顔役の人、とだけ呼んでいました。


闇市に行けば食べるものはなんでもありました。禁制品のはずの小麦粉を使ったすいとんにうどん、麦などの混ぜ物をした握り飯に、少し値段は張りましたが、進駐軍の残飯を一緒くたに煮込んだものなどが人気がありました。確かに味付けが濃く液がどろりとしてお腹にたまったのでまだ食べられましたけど、煙草の吸い殻の入ったそれが栄養スープだなんて名前で売られていたんですよ。そういったものを食べたら、お腹は膨れたのでしょうけど、調達の時点で材料がすでに腐りかけていることもよくあったんです。

野良犬みたいに窪んだ目をギラギラさせた孤児が、腐った半分の玉ねぎをくすねたりして、大人たちから袋叩きにされているのもよくある光景でした。

みんながみんなボロを着てお腹を空かせていました。

でも、それらが20そこそこだった私が生き延びる糧でした。


顔役さんと知り合ったのも闇市でのことでした。

秋口の風を受けながらひしめき合ってうどんを食べている時に、隣に座っていた女の子が食い逃げをしようとしたんです。すぐに捕まって、頭陀袋や変なもので叩かれていました。それがあんまり酷くなって立ち上がろうとした時に現れたのが顔役さんでした。

もうそのへんにして、女の子なんだから顔に傷がついたらどうするんですか。正直放たれた意外なセリフにぎょっとしました。きっと軽く注意をしてなあなあで通り過ぎるとばかり思っていたのに。そのまま女の子を屋台まで連れてくるとお店の人に、今座ってる客全員の分のお勘定頼みます、と言っていたのも印象的でした。ええ、初対面で奢られてしまったのです。顔役さんは半身を乗り出して会計を待っていました。席を立とうとした私の肩に手が掛かりました。

「まあまあお嬢さん、あの騒ぎだ、ろくに食べられなかったろう……それにここのうどんはまず目方が足りてねえのさ。ちゃんとしたところで食い直しましょうよ」

「そんなことは……それに奢りになったばかりですし」

「それなら水分を摂りますか?まあちょっとばかり歩きましょう……おや、お会計が済んだようだな。行ってきます……おい、その子とお嬢さんに手を出したら日の下を歩けなくなると思え!」

一喝する声は低く、凄みがありました。只者ではないなと思っていたのですが、やくざにはない品があるし、もしかすると大陸絡みの人間なのかもと考えました。うどん屋の主人に、やあ大将すまなかったね、色付けしておいたから見逃してくれよ、と取り入ろうとする姿に、擦り寄って機会を伺うやせ細った獣が重なりました。

「さあ揃ったところで行きましょうか。君も手を離さないでね」

涼しい顔で戻ってきた顔役さんは女の子に声をかけていました。表情までは見えませんでしたけど、声の感じから笑っているのかな、そうだといいなと思っていました。

「くじら屋、氷屋、かなりキツイからあなたがたに呑ませるわけにはいかないがカストリ焼酎もある。なんなら特別に私が潰れているのを見せて差し上げますよ、とてもいい気分なんだ」

上機嫌に歩いているこの人の指先にはとても消えない硝煙と消毒液とかすかに血の匂いもしていました。これらは全部あとになって気づいたことです。

顔役さんが立ち止まったのは水屋でした。こんなところでなにをするんだろう、まさか本当に水を飲ませるのだろうか、思案している前で顔役さんは冷たいのとぬるいのを二つを買いました。

「お嬢さんの故郷はどこだい?」

「私は売られてきたので……実家から葉書は来ていましたが住所はなんだったか、ええと」

「じゃあ東京なんかよりもっと寒いとこのお生まれなんだろうな……ここをずっと北にあがったところでお嬢さんは小さい時を育ったのさ。この肌を見なさい、煤けちゃいるがそれでも十分に白く、きめ細やかだ……こりゃあ天性のものだぜ」

私に目線をやると顔役さんは切れ長な目の片方を瞑って見せました。体格のいい進駐軍の人がする仕草を、このひょろ長くてどこの国かも知れない人がするととびっきりキザに映り私は笑ってしまいました。

「さあ、まずは君に。冷たいもので身体を拭くのは気持ちがいいだろう?とりあえず顔と、出ている部分だけでも拭きなさい。遠慮はいらないし、まだ私も使ってないまっさらのハンカチだ。使い終わったら私が洗ってあげるし、なんならそいつを市場にでも並べりゃいい、こんな時だ、すぐ売りきれちまうだろう」

顔役さんが濡らした数枚のハンカチに女の子は頭を下げてから、黙々と顔や手足を拭きました。……途中からは泣きながら。それでも水では完全に落ちきらず、折り重なった垢と汚れでまだらになっていました。涙で溶けた跡が一筋の線のようでした。

「君は運がいいな、肌が強いみたいだ。肌の強い女の子は髪からはらわたまで強いって芸者からも聞くんだぜ。あっちのお嬢さんより君のほうが路上は長く見えるが、よく生き延びたな。湯屋にでも行って洗えばもっと美人さんになっちまうだろう。それから石けんは闇市で戦争より前のものを買うといい。それが一番安全だ。長く使えるものだからひとつあればいい。配給になってからは粗悪な紛い物が多い、肌を傷める事件にもなったくらいだ……しかし身綺麗なわりに薄汚い小金持ちってのはたくさんいるくせに奴ら決まってケチだから使いが少ねえのさ、君はそういう奴らから絞り取れる見込みがある。私が保証してあげよう」

流れるように顔役さんは喋りつづけました。

「さあ、今度はお嬢さんの番だ。あの子は石けんがいるが、あなたは汚れを落とすことに専念しようか。君はなにか飲みたいものはあるかい?なんだ粉ジュースもあるのか……ねえ、これは決まった量よりすこし減らした水のほうがうまく飲めるんだ、これを新米の法則と呼ぶのさ。おい旦那、彼女にラムネとレモネード、あとはおれに牛乳を持ってきてくれ、水割りでも構わん」

手の甲を磨かれながら本当によく舌の回る器用な人だなあと他人事のように私は思っていました。

その時、ひどい酒のにおいと共に女の子の肩にごつごつとした汚れた手が置かれました。

「はっ、色男捕まえやがってガキがパンパンの真似しようってか?それとも相手すんのはあんたかい?」

男がこちらを見ました。なんとも言えない饐えたにおいなんて嗅ぎなれたはずなのにとても気分が悪くなりました。

「ガキのくせにいいもん飲ませてもらってんじゃねえか、えぇ?俺なんかよくて雨水、酷いときゃ犬の小便だって飲むんだから全く解ったもんじゃねえや。なぁ兄さんよお、こんなガキ買う金があるんなら俺にも水やリンゴ水くらい奢ってくれたって構わねえんだぜ?」

顔役さんはずっと俯いていて、なにも言いません。下品に笑う男の口から酒臭く生温かい息が首元にふれたので私は思わず息を止めました。

「離れろ」

さっきよりもずっと低く冷たい声がしました。私は怖くて顔役さんのほうを見れませんでした。

「あらあら、怒らせちまったかなぁ、そりゃそっか、あんたのお客だもんな。悪いがご機嫌はあんたが直してやれよ」

大きな手がばっと伸ばされ、男の口を塞ぎました。よほど力が入っているのか、男の顔は変形していて、呻き声がずっと鳴っていました。

「手を離せと言ったんだが聞こえなかったか?それならそんな粗末な耳は飾りと変わりゃしねえから削ぎ落とそうか。ああそれでも鼓膜は残っちまうなあ……こないだ強い酸を仲間から貰ったんだ、そいつでゆすぐとするか。脳まで直に届くから、よく聞こえるようになるぜ」

脅し文句を裏付けるように袖口から何やら小瓶を覗かすと、男の人は悪態をつきながらもたちまちに逃げていってしまいました。

顔役さんは椅子に座り直すと、何事もなかったかのように私の手を取りました。

「ははあ、やっぱり私の見立ては正しかった。しかしそれを上回ってくるとはね、お嬢さん……いや、きれいな人。次に相見えるその時は私からの贈り物を受け取ってくださるかな?」

歯を見せて舞台の役者のようにキザに笑う姿も、なんだか真に迫るというか、そうしてもまるで見劣りしないのは、顔役さんの見た目や正体の知れない雰囲気もあったのでしょうか。

「一気に飲んじゃいけない、半々に飲んで混ぜるのさ。するとほら、レモネードのきつい酸味がちょうどよくなる。美味しいでしょう?私の考えた特別だよ。それを飲み込んだらちょっと私の鞄を開けてくれるかい?」

柳の枝のような腕が伸びて大きな鞄を漁りはじめました。女の子は一瞬ぴくりと反応すると、はじめて声を上げました。か細く枯れてはいたけれど小鳥のような声をしていました

「どりこの……わたし、おみせの看板でしか見たことない」

「君みたいな子らに飲ませて回ってるんだよ。こいつにはまず摂らないといけない栄養が入ってるからね」

そう言って顔役さんは牛乳の入った碗にどりこのをたくさん注ぐと女の子へ手渡しました。

「守ることは出来ないが、私が生きている限りは大丈夫だから、君、また会いにきてくださるかい?」

女の子は一息に飲み干すと、甘い、と呟きました。ぬるい水は体温と同じようで、ハンカチでゆるゆるとこすられていると私の手はまるで顔役さんにやさしく握られているようでした。

「こっちの方向に湯屋があるんだがな」

水屋を出て10分くらいが経った頃、女の子が急に足を押さえてうずくまりました。

「どうしたの!」

「触らんで!」

「なにか踏んだのか」

なにごとかを言いながら顔役さんが女の子の両足首を掴みました。女の子はそれでも暴れていました。

「酷い傷だ」

大きなわらじの下から酷い火傷の痕が見えました。傷の色から、あまり古いものではないと気づけました。生々しい肉の色に妹の最期がよぎりました。幸い化膿せず傷は塞がっていましたが、かなしいほど引き攣れていました。

「この足で歩けるわけがない。気づけなくてすまない……さあ、ここにお乗りなさい」

女の子は不服そうに身じろいでいましたが、ようやく一歩を踏み出して口を開きました。絞り出すような声でした。

「できるわけない、そんなこと……背負ったらどうなるか、わたしの服も顔もお兄さんには見えとらんの」

「なんだ……そんなことを気にしていたのか」

そう顔役さんは言っていたけれど、女の子の懸念が正しいのは私にも解りました。汚れや臭いが酷いだけではなくてこのぶんではシラミなどの虫もついているでしょう。最悪、顔役さんのコートもだめになってしまうと思いました。

「優しい君、それからお嬢さん、死体を見たことはありますか」

顔役さんがもとより鋭い目をさらに細めて言った言葉に、女の子が語気を荒げました。

「見たことある。わたし、お母がわたしの前で空襲で胸撃たれて死んだもん」

「戦争に行ったことはないね」

女の子は押し黙って、自分の着物の端をきつく握りしめていました。

「戦場にはね、汚い死体がたくさんあるし、君より汚れた奴が爆弾を抱えて伏せたまま飢えきって自分の唇の肉を食い出していてね、化膿したそこに蛆がわくと今度はそれだって食べていた。そうしていたうち何人が国へ帰れたと思う?動けなかったのさ、生きていたのに……」

空気がぴんと張り詰めていました。周りに木なんてないのに蝉がずっと鳴いていました。

「すまなかったね、怖い話をして。男に背負われるのが嫌だった?じゃあこのコートにくるんで抱えてあげる。今日は暑いし脱ぎたかったんだ。これなら触れるとこも少ないから、どう?いい提案だと思わない?」

「ばかにしよる!わたしコートがだめになるのが気がかりなんに!」

言い終わるより前にコートが広がって、女の子はずっと年の離れているだろう顔役さんに抱きかかえられていました。

「大丈夫、コートなら燃やすよ。おかげで新しいものを買うことが出来る、こんなに嬉しいことがあるかい?さあ笑っておくれ」

「お兄さんは……いったいどういう人なんですか」

「どうだったかな、まったくあなたたちにに名付けてほしいくらいさ。しかしこれだけ素性を明かさないのも失礼だしな……悪人ですよ、それも極上の。名乗る名前などございません、私は顔役というものです。よろしくお嬢さんたち」

気取った言い方で、釣り上がった目尻をふにゃりと和らげて、顔役さんはキタキツネのように笑っていました。


もうすぐで闇市に差し掛かる通りを歩いているとその先に野犬が3匹群れていました。しかし焼け跡には他に逃げるような建物もありません。意識をされないように、目を細めてすり足で抜けようとした時です。

「おやおや、皿が滑ってしまった」

としゃ、と粘性のあるシチューのようなものが地面に飛び散りって、野犬が次々にそれを舐めはじめました。

「ごめんよ親父、お代はおれとこの犬たちの3頭分合わせて払っておこう」

「顔役さん……」

「あら、また会ってしまいましたねお嬢さん、私から逃げないなんて随分と懐かれたもんだ。こうみえて私は裏切りものなんですよ?根っからの、ね。しかしせっかく会えたんだから、私の贈り物を受け取ってくれるのかい?しかしこんなところじゃあなたの反応が見られてしまうから、どこかのお店に入りましょう」

こうして再会劇はひと皿のシチューから幕を開けました。

「野犬でもこうして餌を与えて、時間をかけて人の手に慣れさせていけば懐いてくれる。人を襲うのは糧がないからだよ、糧がないばかりに荒んで人を殴るのさ。ここらの野犬たちはほとんどが私の言うことを聞いてくれるいいこ達ばかりだ。お嬢さんは元気だったかい?」

顔役さんは以前のお金持ちな書生のような格好から一転して外国仕立ての洋服を着ていました。寒くなってきたからかもしれません。引っ掛けているコートは大きくて、かなり背が高い顔役さんにしても布が余りそうでした。やわらかそうなセーターの下に、ここだけ兵隊さんと同じ襟無しのシャツを着ていました。太めのズボンは真ん中を一本線が通っていて。動くたびに形のいい脚が浮きました。長い首にはその長さを引き立たせるようにマフラーが巻かれていて、端は帯皮の近くにまで垂らされていました。頭だけは前と変わらずに、あんぱんを平らに潰したような短い鍔のついた帽子を被っていました。

私は勤労奉仕で縫い物をしていたこともあってか、顔役さんの背丈よりも大きなコートを作るのは大変そうだなとぼんやり思いました。


「握り飯をふたつ」

顔役さんは席につく前にお店の人に言いました。簡素とはいえ、この焦土で席につけるようなお店があることに私は驚いていました。向かい合って座ると顔役さんはすぐさま鞄から新聞紙に包まれた細長いものを取り出しました。

「美顔水……?」

「丁度あの子や君と会ってすぐの仕事で京都に行ったからね、八坂神社の御神水を洗ったラムネ瓶に頂いたんだ。女性を綺麗にしてくれるものさ。まあお嬢さんには無用の長物だったかな。少し嗅いでごらん、爽やかなにおいがついている」

言われるままに顔を近づけると鼻に抜ける果物の香りがして、そのあとにほのかな甘みが立ち昇りました。

「においみずみたい……」

ぽつりとこぼした言葉に顔役さんは眉をひそめました。なにか変なことを言ってしまったのかと焦っている私を置いてあちこちを漁ったあと、やっとあげられた顔は嬉しそうにニコニコとしていました。

「思い出した、渡したかったものがあるんです」

顔役さんは貝のような形にしていた大きな手をぱかりと開くと、そこにはおしゃれな装飾のされた外国製の小瓶がありました。

「祖父に聞いた話によるとね、こいつは金遣いが荒いからあれは娼婦に違いないというばかげた言いがかりで刑務所へ連れていかれた母が、まだ赤ん坊だった私に握らせたものなんだ。おしゃれ好きな人だったらしい。一人になった私は、祖父母の国へ引き取られた。そして色んなことがあったけれど、なんとかここまで指も欠けずに生きてこれた……これは香水瓶なんですよ、まあ今となってはただの小瓶ですが、あなたに差し上げます。この瓶はきっとあなたの苦難もその中に閉じ込めてくれることでしょう」

「そんな、お母さまの形見なら」

「……私は天涯孤独の身です。思い出は自分で抱えるよりも誰かに引き受けてもらうのが一番いいんだ」

困惑していると手が伸びてきて握り飯の乗った皿を置くとすぐに引っ込みました。

「すごい……ぴかぴかしてる」

「栄養状態は悪くはなさそうだが、雑穀や麦飯じゃあ胃腸にやさしくない。白い飯は久しぶりだろ?よく噛むんだよ」

「私こどもじゃありません」

そう訴えると、そうだったな、と笑われました。

手に取ってあちこちから眺めていると、顔役さんがなにか思い付いたようにニッコリとしました。

「ちょっとその握り飯を私のと重ねてみよう。いや、そうじゃない、山形同士を重ねるんじゃなくて、こんなふうにずらすんだ」

「なんか、籠目紋みたい」

「これは私の信じるところの神様を表す印さ。あとで地面にでも描いてあげる。話が逸れてしまったが、さあ、受け取ってくれる?」

「どうして私なんかに教えたり、贈り物をくれるのですか?」

「信じているからだよ……脆い私は消えてしまうけれど、こういう物は残るからきっと誰かは覚えていてくれるって」

未だ耳に付きまとう玉音放送の幻をふと忘れたのは鼻先に感じた冷たさでした。

世界の半分を向こうに回した無謀な大戦の幕切れから、数えてみてようやく半年が経ったのか、とそんなことすら理解が追い付かない日々をやり過ごしていたんです。

春雪の空のもと、駅舎の庇の下にうずくまって聞いたことのない祝詞のようなお経を唱える老女の姿が、どういうわけだかやけに目につきました。内容を聞くために近寄って、ぎょっとしました。老女に見えた人は、あの特高に見せしめとして殺されたおじさんのお母さまだったのです。30は老けたように映ったのですが、そんな年を急に取るなんてことあるはずがありません。心労がそうさせたのだと気付いて、私は今日の稼ぎの大半を小さくなったおばさまに差し出しました。おばさまは皺に埋もれた目から涙を一筋流すと私に向かって手を合わせました。

「うぱにしゃど うぱにしゃど」

妹に唱えてくれたものと同じ音が私の耳をやさしくなぞりました。


瓦礫の残る街中で名を呼ばれた方を向くと、そこにいたのは見知った顔役の男でした。

苦虫を噛み潰したような表情で寄ってくると、抵抗する隙さえ与えられないまま首筋に顔を埋められ匂いを嗅がれました。

「誰に会った?」

暴れようとする私をものともしない力で押さえながら顔役さんは怪訝そうに言いました。

「誰に会おうがあなたの知るところじゃないでしょう!」

「それはそうだがな、君からおかしな匂いがするんだ。変な意味じゃない、おどろおどろしいような……そうだ」

顔役さんは私の肩をぽんと叩きました。

「私と会う前に最後に口にしたことを言ってください」

「もう、ふざけていらっしゃるなら私は帰ります」

踵を返すふりをすると強く肘を捕まれて、離す気はないのだと解りました。

「戯れで私が呼び止めると思いますか、さあ言ってごらん」

私がおばさまに教えて頂いたものを唱え終わる頃には、顔役さんは見たこともない表情を浮かべていました。人に感情を表すのが下手なだけで、この人は案外表情が豊かでした。

「ああ、ああ!なんてことだ!この可愛い娘さんになんてことを!ma chérie S'il vous plaît soyez heureux!……いや、取り乱してすまない、でもね、あなたには大変な呪いがかかってしまっている」

「冗談なら本当に帰ります!」

「駄目だよ、行ってはいけない。これから起こることをしかと見届けるんだ、私のためになると思ってください、それが君のためにもなるんだ」

顔役さんは自分でも言っていたように取り乱していました。空襲の最中でも平気な顔で薄く笑っていそうなこの人が、です。

「大丈夫、君に掛けられた呪いの大半を私が引き受けます。この型のやつは呪えたら誰でもいいのさ……だからこそ厄介なんだがな、心配しないで、すぐに終わらせる」

口を開いて舌をだしたままさっきの言葉をもう一度唱えてみなさい。

声になっていない音を真面目くさった顔がジッと見ていました。うぱにしゃどと言い切って、二巡目に入ろうとした時です。すっと指が差し伸べられて舌を摘まれ、そのまま軽く噛み付かれ、舐めとるように動きました。時間にすれば5秒もなかったのでしょうけど、当時の私にはとんでもないような衝撃でした。

「さあ、これで半分くらいは引き取ったよ。どうする、もう一度耐えられるかい?」

本当に呪いを半分請け負って貰ったのか、もしかすると、私に手を出すための口実だったのか……今となっては、もう解りませんが、どちらも半々といったところでしょう。

「私……こういうのは、初めてで、だから……」

「そうでしたか、口づけが初めてとは。そんなたからものを私なんかに拐われてしまって可哀想に……ねえ、少し抱きしめさせてもらっても構いませんか?」

私は俯いたままほんの少しだけ腕を広げました。すると顔役さんは飛びつくように、甘える犬のように抱きついてきました。顔役さんの肩口からはほんのりと花の香りがしました。

「……巻き込んでしまってごめんね」

身体を離す時に名残惜しいような素振りをみせながらそうこぼして、顔役さんが懐から拳銃を取り出しました。

ぎょっとなり固まっている私に軽薄に笑いかけると、あなたを撃つはずがないでしょう、こうするのさ、とこめかみに銃口を突き付けたのです。

「だめ、だめですよ!顔役さんに私、なんのご恩も返せていないんです!だから馬鹿なことはおやめになって、お願いですから……」

「引き止めてくれて有難う……私は君の故郷をさらに北へ渡った場所で小さい頃を育ったんだ、君と似たような酷い寒さを知っている。身を寄せるだけでは生きていけないあの寒さを。大陸から日本へ下って、海峡を越えて、あなたの故郷の土を踏んで、ここに辿りつく頃には名を忘れて私は顔役の男だった。どれだけ洗っても誤魔化しても逃れようのない死臭がこの国の暗部に生きる者には巻き付いていた。君もきっと気付いていたでしょう……混血で異邦人で祖父母とともに逃げるように国を捨てて今日まで殺しと人身売買に手を染めていました。それなのにあなたは私という人間にふれてきませんでしたね、それがどれほどの安らぎだったか……ああ、最後だからもう全てお話してしまいましょう。初めて見た日から今日のこの日まで誰よりあなたをお慕いしておりました。会えない日は二倍思うようにしました。お互いの呼び名も知らないのに、こんなにも思い合えているなんて私たちはもう運命なんだと……そう思いませんか?ああ、さようなら、私の可愛い最愛の人。最後なら私の本当の名前をあなたに呼んでほしかった、誰にも呼ばれたことのないそれをあなたの口から……けれどこれ以上苦しめるわけにはいかない。あぁお嬢さん名残惜しいが時間切れだ。もう二度とお目には掛かれません……けれど、こんな私が最後に誰かのものになれて、嬉しかった」

ぐっと身体を引き寄せられて、肩口に顔を収めると優しい声で囁かれました。

君の罪悪感が消えるお呪いをかけてあげる、私は遅い戦争に行ったのさ……どうかお幸せに。

銃弾の過ぎる音がして、見えた顔役さんはあどけない顔で春先の陽光のように穏やかに笑っていました。

真新しい死に顔を見たのはおじさんと、妹と、この人で3人目でした。顔役さんの奥歯は大きくて、だけど妹と同じように少し欠けていました。

その日は村の庄屋さまへ着物を野菜と交換するために、下り列車を待っていました。なにかを背負った青年が離れたところから私を見ていました。しばらくこちらを見てなにか背のほうを振り向いてから、青年は近寄ってきました。

その背中には負われていたのは、闇市で顔役さんに助けられた女の子でした。その子は驚くほど身ぎれいになっていて、艶のある髪は編まれ、うすくですが化粧もしていました。

「あなた、あの時の?」

女の子はにっこりと笑いました。もう少女への階段を昇り出した大人の影さえ見える笑みでした。

「ええ、姉様こそ。これからどちらへ?」

「ちょっと南のほうの村に大きい庄屋さんがあるでしょう、着物を持って行こうと思って」

「うち、これからお医者さま行くの。足の傷と、咳が止まらんから看てもらいに」

私は女の子を背負ったままの青年に目をやりました。ない仕事は作るものでしたから、そういった商売なのかと思っていると青年は片手で器用に帽子を取ると小さく頭を下げました。

「姉様聞いて、この人ね、うちみたいな歩けん女の旦那さんになってくれる人なんよ」

驚いた私は小さく、え、とこぼしました。

青年が顔を赤くして、まだ先の話です、と言いました。

「この人いっつももうちょっと大きくなったらって、はぐらかしよるんです。男やったら腹決めたらええのに」

「あなたは、この子がいくつになったら結婚なさるおつもりなんですか?」

問い掛けると青年はそっぽを向いたまま、たっぷり黙り込んだあと、彼女が17になったら、と答えました。死んだ妹と同じ年でした。あの終戦がもっと早かったら妹の晴れ姿を私は見る事が出来たのでしょうか。今となっては、もう解りません。

「あなた、これ」

私は荷物の隙間から、油紙に包まれた、水で濡らして使う棒状の口紅を取り出しました。これは昔、婚礼などの特別な機会にだけ使われた、高級なものでした。

「本当は着物もあげたいけれど、荷物になるから。これだけ持っておいて。そして大きくなったら、それをつけてあのお兄さんと祝言をあげているのを私に見させてほしいの、いい?」

「姉様有難う……うち、ずっと焼け野原におったのをあの日お兄さんに助けてもろた。それからしばらくして、売り子やっとる時にあの人に見初められて、家に入った。人間の扱いを思い出させてくれた。姉様さま、うちはあの人と幸せになりたい」

「大丈夫、なれるよ。あんなに親身にしてくれてる人だもの」

青年に口紅を自慢しながら、二人は列車へ乗り込んでいきました。あたりには出発を報せる汽笛の音が鳴り響いていました。


幾らかの月日が過ぎて、私はセイさんという人の家で女中として働いていました。

幾度もの空襲を生き延びたセイさんでしたが、そのご家族はたった一つの空襲で亡くなったと聞きました。

帰国の道につく機体を軽くするために、爆弾を予定にない所で投下したというのがもっぱらの噂でしたが、真偽のほどはもちろん解らず、もはやどうでもいいことなのだとセイさんは言います。


こんなことなら自分も娘の心配に応えて移り住めばよかった、とセイさんはいつも言うのです。自分の元へ来てほしいと言う再三の娘の言葉に、亡夫の思い出が残るこの家で死にたいのだと言ったのを今でも後悔している、と。


この家の庭には、婚礼披露を控えたセイさんの孫娘に贈るための着物が埋められていました。

年若い孫娘は見合いをして、夫となる男性の出征を前に慌てて夫婦となったのですが、時勢がら式は兵隊服ともんぺ姿で簡素に行われたのだそうです。

戦争が終われば、改めて祝言を挙げられる。空襲に備えて、念のために大切なものは振り分けておこうと家族と相談して、その衣装をはじめとした着物の一部をセイさんが預かっていました。しかし祝いの席に並ぶはずの娘と孫娘の家族、そしてそれぞれの家のすべてが灰になり、夫たちも一人として戦地から帰ることはありませんでした。

セイさんは裁縫がとても上手でした。勤労奉仕の中でだってあんな手さばきは見たことがありません。目が悪いとずっと言っていたのに、ミシンのような速さで縫うのを見て問いかけると、指が覚えているんです、と返されました。

セイさんが縫っていたのは、掘り起こした着物の一部を切り取ったものでした。

なにを作っているのか聞いて、私は言葉を失いました。

「なあに、これはわたしの死に装束ですよ」

最近胸が痛いし、脈もおかしい。死に時は解っていたつもりなんですが、ああ、最後まで難儀なもんなんですねえ……ちよさんもそう思いませんか?

掛けるべき言葉は真っ白になった頭の中では私は見つけられませんでした。



セイさんのお墓参りをしに行った時の事です。

小さい女の子が泣いているのを見掛けました。一度通り過ぎたのですがすぐに私はたまらなくなりかけよって声をかけました。

「どうされたんですかこんなところで。ああ……それはそれは可哀想に。そうですか、じゃあ、その子の魂が美しい場所へ行けるよう私にもお祈りさせてください」

女の子は頷いてくれました。頬に涙の跡が光っていました。

立ち上がるとその子は鞄の中をごそごそとあさって、個包装のものを取り出しました。

「あら、飴でも舐めるのですか?それはいいですね、いや、変な意味ではありません、私は戦前の産まれなものだからね、あんまり手が伸びてくれなくて……いやいやそんなおかまいなく、うんと昔から、これが一番なんです」

包み紙から欠けた奥歯を口に放り込んで、私は再び歩き出しました。

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