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第九章「一太刀」

 「ここまで来れば一先ずは良かろう。」

 清十郎はひどく息の上がっている璃子を伴って、巨木の影に身を潜めた。鬼からいくらか離れた場所でさえ、山々は落ち着かないようにざわざわと音を立てていた。生き物はどこへ隠れたか、まるで気配が感じられない。恐ろしいくらいに無機質な音が、辺りを満たしていた。

「鬼は…もう…来ませぬか…?」

 璃子はならべく大きな音を立てぬように、息を整えながら尋ねた。清十郎の投げつけた面にひどく苦しんだ鬼。あのまま消えてしまえと、心の奥深くで切に願う。

「いや…あの面だけでは完全な足止めにならぬ。それにこの機に倒してしまわねば。」

 清十郎はそう言って小さく溜め息をついた。緑の目が少し伏目がちになり、それから鋭く木の影の向こう側へと向けた。鬼を警戒しながらも、その目には何か考えを宿していた。その思慮深さは昔と何ら変わらない。

「清十郎様…あの…」

 璃子は息が整うのを待って切り出した。その声は僅かに震えている。目線は清十郎と地面の間を泳ぐように移動する。無理もない、俄かに信じられないことは山ほどある…鬼が公三郎に成りすましていたこと、あのような禍々しい邪気がこの世に存在すること…。

 この上なく悲しく、この上なく恐ろしい。しかし何よりも驚愕したのは…

「真なのでございましょうか?私が清十郎様の…」

「異父妹だといったことか?」

「はい。」

 璃子は真っ直ぐに清十郎を見つめた。その様子に、木の影から鬼の気配を探るようにしていた清十郎も向き直る。

「間違いなく真のことだ。璃子、そなたは母上が里帰りなさった折に孕まされた子。可哀相だが、それ以上誰の子なのかは分からぬ。」

 清十郎は伏目がちに小さく首を振る。

「父上の子ではない故に、伊國の娘としては認められなかったのだ。それで小間使いの元に引き取らせ、そのものと同じように扱った。尤も…それを承知していたために、父上のご寵愛が妾に向くことになったのだが…」

 清十郎の言葉に、ふと鬼の言葉が頭をよぎる。妾が…公三郎の母が抱いていた私怨。〟寵愛を受けながら我が子を跡継ぎに出来ない身分〝…全ての発端となった負の思い。

「では…では私の存在が鬼を…?」

 妾も寵愛さえ受けていなければ、その身分を相応のものとして鬼を引き込むことなかったのでは…。清十郎の人生を狂わせ、山神の力をも凌駕し、幾度も災いがもたらされた。

 そして何よりも公三郎…いつも側にいたようで、実際には子の山で果てていた哀しき方。負の思いの発端を辿るとそこにあるのは…

「璃子、その思いは鬼の助力となる。自分を卑下してはならないよ。」

 清十郎は素早く璃子の思惟を汲み取り否定する。

「全ての根源は鬼だ。寵愛が移るのも、身分に不満を持つのも古来から繰り返されてきた人の性。そこにつけ込む鬼が悪なのだ。…いいね、そなたには母が付けた〟瑠璃〝の名がある。望まれて生まれなかったにしても、愛されて生まれたのは確かだ。母上は育ての母君と同じくらい璃子を愛していらした。それを忘れてはならないよ。」

 清十郎は一つ一つの言葉を力強く璃子に言って聞かせた。そしてその言葉が終わってからも、璃子が頷くまで静かにじっとその顔を見つめていた。みるみるうちにその大きな瞳に涙が溜まっていく。一度として瑠璃姫を〟母〝と認識してこなかった璃子にとって、その清十郎の目線こそが全ての真実。

 幼い頃、ふと気が付くと誰かに見られているように感じた事が多々あった。ただの一度も生みの親だと名乗り出ることなく、遠くから静かに見守る真の母の姿がそこにあったのだ。瑠璃姫の心が痛いくらいに伝わってくる。

「…はい、清十郎様。」

 璃子は涙ぐみながら強く頷いた。その涙をそっと拭いながら、口元には小さな微笑が見られた。なんと有難きことかな、二人の母の愛情を一身に受けていたのだ。それは鬼の邪気など到底敵わぬほど強い愛情。鬼に対する心の隙は、また一つ塞がれたのだ。



 


 「さて…手立てを講じなければ…」

 璃子が落ち着いた様子を見て、清十郎はおもむろに呟いた。いつも何事にも動じなかったその顔に、今は僅かに動揺の影が見られる。

「以前邪気にそうなさったように、刀を突き立てるのでは…?」

「私も結果的にはそうしたいのだが、この度はあの時のような邪気とは異なるのでな…。あの時程度であれば困難な事ではないが、鬼本体へとなってそれが敵うかどうか…。刀を突き立てたところで切っ先が折れるやもしれぬ。」

 清十郎はそう言って装飾刀の柄に手を触れた。今まで幾度となく災いを斬り、祓ってきた神楽の刀。山に身を置いてより十数年、常に側にあり信頼してきた。しかし先の鬼の邪気はその思いすら覆させる。それほどまでに鬼本体の邪気は強固なのだ。万一にも刀が折れれば、さしもの清十郎も手出しが出来ない。互いに正体の知れた今、逃せば清十郎も璃子も以前のままにとはいかないだろう。

「清十郎様、これを…」

 深刻な面持ちの清十郎を呼び止めて、璃子はずっと抱えてきた風呂敷包みを解いた。長年の埃によってくすんだ紅の風呂敷。その中からは、それこそ大きな桶の(たが)ほどもある輪が出てきた。輪には白・藍・紅の短冊状の布が幾重にも結び付けられている。璃子はパサッと微かな音を立ててそれを顕わにすると、清十郎を真っ直ぐに見つめ差し出した。

「それは…()()か。」

 茅の輪とは、清十郎の持つ扇や装飾刀と同じ神楽の採物。演目中では日輪を示し、鬼の首にかければその力を弱めるという代物。あの日、倉の中で璃子が見つけたのはそれだった。茅の輪が本当に鬼に効くのかは定かではなかったが、つづらの中で見つけたとき、璃子はこれが大旦那・喜一郎の意思なのだと知った。さもあらば、あの恐ろしく映った喜一郎は真なる鬼だからなどではなく、鬼の邪気によって侵されているためだと容易に察しがついた。

「これをどこで?」

「伊國の倉の中からでございます。全ては大旦那様のご意思です。それを子の祠に奉納するようにと…」

 喜一郎も鬼の邪気によって混濁とした意識の中で気が付いていたのだろう。子の祠へ奉納されていたおぞましいまやかしに。そしてそれを浄化すれば、いくばくか鬼の邪気が弱まるのだと踏んでいたに違いない。尤も子の祠はそれよりも少し前に、清十郎の手によってすっかり浄められてはいたのだが、茅の輪を取りに行かせたことが喜一郎への疑念を晴らすことになったのは言うまでもない。鬼の邪気によって薄らいだ生気の中でなお、喜一郎もまた村を案じていたのだった。

「父上…」

 それを聞いて、清十郎もまた璃子と同じ思いを抱いた。何としても鬼を倒し、邪気から救って差し上げねば…。

 


 「…?!」

 清十郎は茅の輪を手にしたと同時に何かに鋭く気が付き、木の影の向こうに注力した。その理由は璃子にもよく分かっている。山のそう遠くない位置、あのべっとりとした鬼の邪気が確かに近づいてきているのだ。

「来たな…」

 清十郎はそう呟くと腰元の装飾刀を抜き、その切っ先で再び自らの手を切った。そして同じように刀の腹に赤い血の線を引く。以前子の祠への奉納金に記されていた呪歌を祓った清十郎の血。そしてそれと同じものが璃子にも半分流れていると、そう口にしたのも清十郎。璃子はその鮮血を見つめ、それから自らの両手を見た。

「清十郎様、私の血も使えませんでしょうか?」

 同じ瑠璃姫の血が僅かでも流れているのなら、鬼を倒す助力になるかもしれない。

「いや…そなたの血は母上に似て秘めた力が非常に微弱のようだ。ここは私に任せなさい。」

 清十郎は璃子の震える手から何を感じ取ったのか、静かに否定した。

「…そんな…」

 璃子は泣き出しそうな表情で自らの両手を見つめ返す。一つでも多く、清十郎の役に立てる事があれば良かったのに…。

「そう気落ちいたすな。そなたにはまだやるべきことがある。あの…」

「見ぃつけた…」

「…ひっ…」

 璃子は一瞬にして青ざめ息を呑んだ。今は真の悪鬼のものとなった黒い鬼の面が、木の影からゆっくりと姿を現したのだ。面の裏の血文字でその邪気を押さえ込まれているとはいえ、その禍々しさはおよそこの世のものとは思えないもの。警戒していたはずの清十郎でさえ、一瞬その動きを止められてしまった。

「二人まとめて死ぬがいい!!」

 鬼はその刹那を見逃さず、実体化し鋭く光る爪を立てて、その筋骨隆々の異様に長い腕をしならせながら二人に斬りかかった。

「あぁ…!」

「くっ…」

 清十郎は咄嗟に茅の輪と璃子を両手に抱え、その場に瞬時に跳ね上がると、そのまま巨木を貫いた鬼の腕から一足飛びに距離をとった。ザザザ…と半ば倒れこむように二人は着地し、清十郎は素早く体勢を整える。

 清十郎とは異なり思い切り倒れこんだ璃子は、それでもすぐに顔を上げて恐怖の根源を見遣った。ボコボコと不快な音を立てながら、鬼の体が内部で流動しているのが分かる。清十郎に封じの面を付けられて、邪気は人の形に凝縮されたか。鬼の体の流動性には、押さえ込もうとする清浄の力と外に出ようとする邪気とのせめぎあいのようにも見える。

 あまりの勢いに肘まで幹に食い込んだ鬼の腕。鬼が荒々しく腕を引き抜いた後には、巨木に大きな穴が開いていた。

 「おのれ…清十郎…。忌ま忌ましい面をつけおって…!その身ズダズダに引き裂いてくれるぞ…清十郎!!!」

 璃子の背丈の二倍にもなる鬼は、前屈みの体勢をとりながら呪いの言葉を吐きかけた。その声は低く、ガラガラとしわがれた音を伴っている。

「自らで封じておきながら私の名を連呼するな、鬼よ。何度お前が口にしようと私には通用しない。」

 清十郎はぴしゃりと厳しく言い放った。その言葉に僅かに歯ぎしりのような音が響く。

「クク…ならばお前はどうだ?瑠璃子。」

 鬼に再び名を呼ばれ、自然と璃子の体がびくつく。その一言だけで邪気に囲われているような悪寒、首を締められているような苦しさに見舞われる。名の持つ力のかくも強いこと…それ故に躍起になって鬼が隠したのだ。

「璃子には通用すると狙いを変えたか、浅はかな。確かに璃子はお前が口にする名の言魂に対処できぬが、お前が最も嫌がるものを持っているのだぞ。」

「なに?」

 清十郎は尚も膝をついたままの璃子の前に立ち、強気な笑みを鬼へと向けた。それを受けて、逆に面の下で明らかに浮かべていた鬼のいやらしい笑みが一瞬曇る。

「笑止。今更何をもってしても無駄だ…!」

 鬼は大きな足音を立てて一歩踏み出した。気がつけば今までそよいでいたはずの風も、それに舞う落ち葉もなりを潜めていた。真の姿の鬼によって、まず初めに殺されたのは山そのものだったように思えた。

「虚慢もそこまでだ!!」

 再び鬼が吠える。その声に震えた空気が、衝撃波のように辺りを貫く。しかしそれでも清十郎は動揺の色を見せない。

「いや、遂に潰えるのはお前の方だ。璃子…」

 清十郎は僅かに振り向き、その静かな目線を璃子に注いだ。その目が〟あの和歌を…〝と言葉なしに促す。

「名…名にし負わば…」

 震える声でほつりと呟いた。更に一歩踏み出そうとしていた鬼の足が止まる。

「名にし負わば

 礎築かん

 神社(かみやしろ)

 

 宿(やど)りて()りの

 みかみの山神…

 

 …そう…この村の名は…」

 和歌に導かれるように璃子の言葉は続く。まるでそこら中から、聞き取れないほど小さな声が囁きかけているかのようだった。

「止せ…」

 鬼は押し殺した声で呟いた。今まで璃子を下等と見なしていた高慢な態度が、一瞬にして怯えや憎しみとも取れるものへと変わる。その発するひどい憎しみの感情に清十郎は身構えた。璃子も普通であったらこの鬼の邪気を察して、身の危険に無意識に口をつぐんでいたかもしれない。

 しかしそれをも上回る力が今の璃子には働いていた。その力が言葉を切らしてはならぬと促し続ける。そして璃子は、とうとうその名を呟いた。

「村の本当の名は…()(かみ)村。」

 璃子がそう口にした途端に、村全体を駆け抜けるような風が一陣吹いた。鬼の邪気に静まり返っていた山々は、その風を受けて生き返ったように木々を一斉に揺らす。その音はまさに命の息吹。大きくざわめき立つ音が歓喜の声のように聞こえてくる。地に張り付くように微動だにしなかった落ち葉が、今は舞い踊るように辺りを飛び交う。秋の風だというのに、どこか暖かさすら感じられる…山々は今まさに璃子が口にした真の村の名をもって蘇ったのであった。

「なんと…」

 璃子は木々を見上げて呟いた。山神の存在を確かに感じていた。酉の山神のみならず、子の山神、卯の山神ともにあるようであった。鬼が名を封じていた時はかくも恐ろしいと感じていた名の言魂を、今は素晴らしいものとして受け取っていた。三神村…その名一つでこれほどに蘇るとは…。山神らよ、さぞ待ち望んだことだろう。

「うぅ…ぐ…あぁぁぁぁ…!!」

 そんな歓喜のざわめきを破って鬼の叫び声が響く。あれほどどす黒く筋骨隆々の肉体を誇っていた鬼の体は、見る間にどんどんと薄れていき、纏っていた邪気のようにどろどろと溶け出した。

「おのれぇ…っ…忌ま忌ましい…小娘がぁっ…!!!」

 息も絶え絶えに鬼が璃子を睨む。あの醜く高飛車に歪んだ笑みは見る影もない。鬼は重い足取りでドスッドスッ…と数歩進んだが、三方の山神に押さえ込まれてか、崩れるようにその場に屈み込んだ。それでも清十郎は警戒を微塵も解かない。鬼の原動力は憎しみ、怨み。山神が復活したこの状況において、鬼のそれは増大しているのだ。

「うぐぅ…っ…死、死なぬ…死なぬぞ…!」

 鬼は呻くように繰り返した。相変わらずガラガラという不快な音を伴った声。溶け出した体を地から引きずり出すようにうごめく。ボタボタと邪気の零れ落ちる音が不快に響く、それはまるで血反吐を吐く病魔の如く。しかしその鋭い眼光と恐ろしさは衰えない。二人を見据えた目が怪しく光り豪語する。

「ただでは死なぬ!!」

 山神の抑圧を振り切って、鬼は遮二無二走り出した。牙を剥き、辛うじて鋭い爪を立てて二人に襲い掛かってきた。最期と知ってこれ以上ないほどの憎しみを溜めこんだ鬼の素早さは、璃子に声を上げさせることすらさせなかった。



 

 清十郎は向かってくる鬼から一歩も引かず、機を計るように身構えていた。鬼は溶け出した体を引きずりながらも、人外な速さで二人に向かってくる。数刻前までは安らぎさえも見ていた黒き鬼の面は、真の闇に染まったか、木製の面の角や牙はまるで刃物のように璃子の目に映る。璃子はその文字通りの鬼気迫る状況に震え、今にも腰が抜けんばかりであった。

「鬼め…かくも救いがたいものよ…!」

 清十郎は互いに避け切れない位置まで鬼を誘い込むと、携えていた茅の輪を紙一重で鬼の首へとかけた。そして鬼の爪を避けるように、跳ぶが如く後ろへ退く。不意に茅の輪をかけられて、鬼は一瞬戸惑いに足を止める。よもや茅の輪に効果はなかったのでは…しかし璃子がそう思ったと同時に、茅の輪の短冊状の布が一斉にざわめき立った。

「ぐおおぉぉあぁぁ…!!!!!」

 茅の輪は日輪を示す…その神楽での意味合いを裏付けるように、茅の輪は鬼の首で淡く光りだした。それが鬼にとっては灼熱にも感じるか、鬼の体は叫びとともに更に不定形な姿へと変わっていき、遂にはその場から動けなくなった。下半身は既に溶け込むようになくなり、上半身だけでもがいていた。茅の輪の元々持つ力に蘇った山神の力が加わったのだろう、鬼は見る間に小さくなっていく。

「おのれぇ…!」

 それでも鬼は最期の力を振り絞り、残った鋭い爪を清十郎に向けて振り上げた。邪気によって構成されていた腕は如何様にも伸び縮み、正確な間合いを容易に計らせようとはしない。それがために鬼を完全に封じようとしていた清十郎の腹を掠め、鮮血が飜んだ。

「くっ…!」

「清十郎様!!」

「構わずそこにいなさい!」

 思わず駆け寄ろうとした璃子を、清十郎は一喝して拒んだ。やはり油断ならない…この原型留めぬ状況に於いても尚牙を剥く。清十郎は、思いの外深く傷つけられた脇腹を押さえて僅かによろめいたが、ぐっと足に力を込めて留まると一旦退いた足を再度大きく踏み出した。

「この村が(あざな)で呼ばれるのもこれが最後だ!」

 清十郎はそう奮い立って装飾刀を逆手に持った。血の赤い線が引かれた刃が、山の際から漏れた夕日に煌めく。

「息災退散…!!」

 その言葉と共に、未だ汚らわしい叫びを絶やさない鬼の面に装飾刀を突き立てた。それは鬼を葬ると同時に、長らく鬼として過ごしてきた自分との決別でもあった。清十郎はその瞬間に何を思っただろうか、表情を少しも揺るがせることなく、柄を握り締めた手に力を込める。刀は面の中心を貫き、そのまま地面へ深く突き刺さる。

「ぐぎゃあああぁぁぁぁ…!!」

 装飾刀に貫かれ、鬼はぞっとするような断末魔の悲鳴をあげた。刀はその刃の半分以上を地に埋め込むように刺さり、鬼は急激にその姿を小さくしていく。邪気の中心はまるで地面に吸い込まれるように、纏った邪気はまるで蒸発していくように、見る間に浄化されていった。それに伴って周りの重苦しかった空気が一掃されていく。山々は邪なる抑圧から解かれ、歓喜のざわめきをより力強く奏でている。

 清十郎はそれを耳にしていながら、尚も鋭く邪気を見つめていた。その胸中には、いかなる思いが駆け巡っているのか。鬼の叫びは段々とくぐもっていき、最後には声ともつかない音へと変化していった。黒い邪気もどんどんと薄まり遂には消え、ただ茅の輪の中心に装飾刀が鬼の面を貫いて残っていた。

 






 「お…鬼は…?」

 璃子は鬼の断末魔に震えながら僅かに一歩踏み出した。

「…死んだ。尤も元から生けるものではなかったが。」

 清十郎はそういうと屈むようにしていた体勢からややよろめくように立ち上がり、脇腹から流れ出ている血を手にとって、いくらか鬼の面へと垂らした。するとその血の地面に触れた部分から一斉に木の芽が芽吹いて、どんどんと成長していくと、茅の輪を幹に巻くような大木が目の前に現れた。その幹の内部に鬼の面と装飾刀を隠すように。

「これは…」

 璃子は感嘆の声を呟き大木を見上げた。その木はまるで注連縄を巻いたご神木のように神々しく、三方の山々のいずれの木よりも雄々しかった。秋というのに、その木の枝には緑の葉が揺れる。璃子は足元に落ちて来た青葉を拾い上げて胸に抱いた。

「清十郎様、これは一体…」

「十中八九、山神の力だろう。誰も封印の装飾刀を抜けぬようにと…。」

 清十郎が穏やかに木を見つめ返す。浄化の力を高めようと垂らした自らの血…よもやこのような立派な木へと変貌するとは。山で生きながらえたこの数十年、何も無駄な事ではなかったか。鬼と称されたその間も、常に山神らと共にあったのだ。大木は、そんな清十郎の気持ちに応えるように枝を揺らす。二人は微笑むように木を見上げていた。

「…さぁ、参ろう。」

「?!…清十郎様…瞳が…」

 ややあって振り返った清十郎の瞳を見て、璃子は驚いた。相変わらずその瞳は緑色を帯びているけれど、あの鋭く光る黄色い三日月が消えていた。

「瞳から三日月が消えてございます!」

「…三日月が?」

 清十郎は目元に手を添える。鏡なくして自らの瞳を見ることはできないが、それでも細い糸を手繰るように感じることはできる。自らの体のうちに残留していた鬼の邪気。完全になくなったとはいえないまでも、確かに弱まっているのを感じる。

「なるほど…鬼が死んで私の中の邪気が僅かに祓われたのだろう。しかしこの白髪と緑の瞳までは戻るまい。」

 これは三神村に鬼のいた証。決して忘れえぬ強い戒め。

「そんな…」

「良いのだよ、璃子。今更姿が戻ろうと現実は変わらぬ。…それより参るぞ。」

「いずこへでございますか?」

 璃子は早くも歩き出した清十郎の後を小走りでつけながら尋ねた。

「伊國家だ。父…いや、大旦那から邪気を祓わねばならぬ。」

 清十郎は伊國家へ向かう足を〟清十郎〝 から〟セイ〝へと変え、璃子を従えながら山を下りていった。璃子はそんな清十郎の後を追いながら、もう一枚山神の木の葉を拾うと、それを清十郎の手の中へと入れた。清十郎がそれに気が付き振り向く。璃子は鬼が消えたこととは裏腹に、今にも泣きそうな面持ちであった。

 お伽話ならば宝の一つも手にできようが、現実は鬼を退治したとて、鬼から返るものは何一つないのだと痛感していた。

「…何て顔をしている、璃子。ご覧なさい。」

 清十郎は、今は背後に遠ざかり始めた山神の木を指した。

「山神は帰ってきた。」

 その言葉に、まるで大木には三方の山神が控えているように見えた。


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