第八章「対峙」
明くる日に、璃子は昼過ぎの仕事が一段落する時間を待って急ぎ山へと向かった。傍らに〟桶の箍〝だと嘘を付いた代物を抱え、一刻も早く伊國家から距離を取ろうと息を切らせて山を登る。今までは少しでも伊國家に逃げ込みやすいようにと山奥へ分け行ってはいなかったが、真実を知り始めて今や安全と思えるのは山の中、とりわけ清十郎の近くであった。
「いずこにいらっしゃるのかしら…」
璃子は息を整えながら呟いた。その脳裏に風に吹かれ静かに佇む精悍な姿が浮かぶ。珍しく邪気を微塵も感じない安堵は、同時に清十郎を捜すあてのない不安をもたらす。酉の山だけでも十分に広い上に、子の山、卯の山にいる可能性もある。その一方で璃子には時間がない。夕餉の支度が始まる日暮れまでに、再び伊國家に戻らなければならない。今が夏であればどんなに良かったか…秋の短くなった日がひどく恨めしい。
「あ…」
不意に璃子は希望を見つけて思わず顔が緩んだ。
オニヤンマ…大きな蜻蛉が誘うように璃子の前を横切る。それは邪気が近くにいない証、オニヤンマは邪気のある時には出ては来ない。そして清十郎への道標でもある。以前初めて山の中で清十郎と話をした時を思い出させる。璃子はわき見もせずにオニヤンマの後を追いかけた。よもや清十郎を捜す心を感じ取って姿を現したか。しかし前回と同様に、オニヤンマはそんな璃子にお構いなしに飛んでいく。
「や…やはり待ってはくれないものね…」
璃子は相変わらず転びそうになりながらも、それでも見失うまいと一度も目線を下げずに追いかけた。オニヤンマも知っているのだろうか…清十郎の下が一番の安全圏であると。オニヤンマが清十郎の元を目指す理由は未だ分からぬも、同じく鬼の名を負うもの同士どこか惹かれあうのかもしれない。かくいう私は鬼の字を一切持たないけれど、それでも清十郎様にお会いしたいと切に願う…幾度となく。
清十郎様…あの方は間違いなく伊國の当主の器であった。
「しまったわ…」
ふと物思いをした刹那に、璃子はオニヤンマを見失ってしまった。ただでさえ森の中に紛れやすい模様をしているため、常に目を凝らすようにしていたのだが、考え事をしたがためにそれが疎かになってしまったのだ。
「これでは探しようが…」
璃子は立ち止まって不安な面持ちで辺りを見回した。日毎冷たくなってきた風が、いつもと変わらず木々を揺らす。同じそのざわめきも、心持ちで如何様にも聞こえてくる。今は不安を掻き立てる音…雨のように落ちてくる落ち葉が肩に触れては吹かれていった。
「…清十郎様…」
璃子は泣きそうな声で小さく呟いた。標をなくし、あてもない。オニヤンマの姿に一度は近くに感じた愛しい影が、どんどんと遠ざかって行く。そんな思いが風に吹かれて離れていく落ち葉に清十郎を重ねさせ、どうしようもなく寂しいと感じたのだった。
「なんという声で私を呼ぶのだね、璃子。」
不意に脇の木の影からくぐもった声が返る。璃子は慌てて顔を上げてそちらを見遣った。目に映るは黒い鬼の面…以前は恐ろしさしか感じなかったそれに、今は安らぎを見ている。行方をくらましていたオニヤンマも、いつの間にか清十郎の側を泳ぐように飛んでいた。
「清十郎様!」
璃子はこれ以上ないほどの笑みを浮かべ、清十郎に駆け寄った。面の下でどのような表情でいるのは掴めないが、それでも彼は静かに佇んで璃子を迎えた。懐かしい親しみ…清十郎も感じているのだろうか。
「お会いしとうございました、清十郎様。」
「この度は邪気がないようだね。」
「えぇ、清十郎様のおかげです。この手ぬぐいがあればこそ…」
「それを嫌がる者はいたか?」
「あ…いいえ、どなたも…」
「そうか…」
清十郎は璃子の言葉に僅かに考え込んだ。清十郎の考えでは、あの自身の血に染まった手ぬぐいで必ずや鬼が正体を現すはずだったのだ。それがなかったとあらば、まだ山神は時期ではないと見ておいでなのだろうか。自身の名を璃子が思い出し、とうとうその時が来たのだと踏んでいた。それとも鬼の力が我が血を上回ったか…?
「…清十郎様、とある和歌をご存知ありませんか?」
「…和歌?」
清十郎の思考を遮って切り出した璃子の問いに、清十郎は思わず聞き返した。
「〟名にし負わば…〝で始まる和歌でございます。」
「〟名にし負わば〝…覚えがあるな。全ては思い出せぬが…。確か山神を奉る歌だったはず。」
「はい、私それを見つけたのです。そしてその中に村の名があると感じてならないのです。山神の和歌…〟名にし負わば…〝」
「しっ…!」
清十郎は何かを感じて咄嗟に璃子の口を閉ざした。面の下で明らかに緑の瞳が辺りを探っている。璃子はその時になって、ようやく清十郎の行動の原因を感じ取っていた。遠くの方から何かべっとりとした禍々しいものが、病的な歩みでこちらに向かってきている。先程まで近くにいたオニヤンマも、いつの間にかそれを恐れてか姿を消していた。
「やはり来たな…」
清十郎はさも忌々しげに呟く。
「あ…あの…清十郎様…」
「なんだ。」
邪なるものの存在を感じ取り、清十郎の言葉は最初の頃のような冷たさに戻っていた。
「私…先程手ぬぐいを嫌がる者はいないと申し上げましたが、どうも腑に落ちないことが…」
「…というと?」
「一つには長らく篭りきりだった大旦那様がお見えになりました。しかし尋常ならざるお姿で…、とても正常な人であるとは思えませんでした。」
「大旦那が?」
清十郎は今一度璃子の方に向き直った。それでも鬼の気配への警戒を少しも解かずに。
「よもや…それはないと思っていたが…」
璃子と同じような不可解を示す苦々しい言葉を、清十郎もまた口にした。璃子には清十郎がどのような想定をしていたのか分からなかったが、清十郎の物言いに彼の僅かな動揺が見られた。
「…それともう一つございます。」
璃子は機を見計らってもう一度切り出した。面の下の清十郎の瞳が、無言のうちに璃子に合わされる。
「若様…公三郎様のご様子もいつもと違いました。昨今寝込んでいらして…それでもお会いしたのですが、目が…」
「目が?」
「……貴方と同じ緑色…」
「誰の目がだい?璃子。」
不意に会話を繋げる言葉に、清十郎も璃子も同時にその方向を見遣った。静かに佇む公三郎…いつの間にか消えたあの邪気の変わりに、穏やかな顔で姿を現していた。
璃子はこれほどまでに公三郎の存在を恐ろしいと感じた事は、今までに一度たりともなかった。いつも穏やかに笑みを絶やさず、何かと用事を申し付けてくれる若い世継ぎを心から信頼していた。
しかし…今のこの状況はそれを根底から揺るがしている。あまりに不自然に現れた公三郎…鬼の面をつけたままの清十郎を前にして、少しも動揺を見せない。いつもと代わらないその穏やかな笑みが、逆に不穏な鳥肌を立たせる。
「璃子…こんなところで何をしているのだね?それに鬼と共にいるなど…なんと…」
「若様!違うのです…この方は…」
「…なんと好都合な。」
「…え?」
璃子はわが耳を疑った。今何と仰ったのか…何を好都合だと…?
「璃子…下がっていなさい。」
清十郎が動揺する璃子の前に立ち、公三郎と直接対峙した。
「お久し振りです、兄上。」
公三郎はこの場に似つかわしくないほどの満面の笑みを清十郎に向けた。鬼が清十郎である事を最初から知っていたような口ぶりで。
「その呼び名をお前が口にするな、白々しい。必ずや伊國の中に潜んでいると睨んでいたぞ。よもやお前の方から出向いてくるとはな。」
「いや…そろそろ時期かと思いまして。刈り取りのね。」
公三郎はなおも笑みを絶やさず、清十郎に言葉を返す。しかしその表情とは裏腹に、言葉の真意はおぞましいものだった。
「一体…一体どういうことでございます?!若様…何故そのような…」
「璃子、心を乱すな。」
清十郎は静かに璃子を一喝すると、おもむろに鬼の面を外し、その緑の目を直接公三郎に向けた。
「公三郎、お前が鬼だったということだな。」
清十郎の声が辺りの空気を震わせる。その震動には僅かに緊張と怒りが含まれていた。
「…いいや、違う。」
公三郎は不敵に声を響かせる。いつもより格段に低くなった声…あの穏やかさは一瞬にして姿を消し、代わりにゾッとするような雰囲気を纏っていた。
「鬼が公三郎に成りすましていたのだ。」
そう言って前屈み気味の体勢から上目遣いに歪んだ笑みを見せた。
「そんな…っ…それでは公三郎様は?!」
「璃子、そなたには私の口からその答えを教えたではないか。」
公三郎は不穏な笑みを浮かべたまま、その瞳を璃子に合わせた。
「…子の山。」
「…っ…!」
公三郎の言葉に息を呑んだ途端に璃子の体は震え始め、涙がボロボロと零れだした。邪気に飲み込まれた時と同じ…手足の先が痺れ、呼吸が浅く不安定になっていく。清十郎は僅かに首を動かし、背後の璃子の様子を見遣った。
このままでは鬼に飲まれる…
清十郎は公三郎への警戒を解かないまま後退りし、より璃子の近くへとにじり寄った。
「璃子、そなたはこれ以上鬼と口を利いてはならぬ。」
「…うっ…うぅ…」
「落ち着いて、私の背だけを見ていなさい。」
「…は、はい…清十郎様…」
璃子はしゃくりあげながらも清十郎の言葉に何とか自我を保ち、目線を清十郎の背に合わせた。赤い丈の短い着物にしっかりと結んだ襷…浅い呼吸を繰り返しながらも、徐々に璃子は鬼の邪気から逃れ始めていった。懐には赤い手ぬぐいが、手には風呂敷包みが、そして目の前には清十郎が…今一人で邪気に対峙しているのではないのだと、璃子は自分を奮い立たせた。
「クク…」
「何が可笑しい。」
「今更何をしても無駄な事…じき私の邪気に飲まれ死ぬ運命。あがく姿の滑稽なこと。」
公三郎は醜く顔を歪ませた。いつの間にかその瞳は緑色の染まり、清十郎とは異なる赤い三日月をその中に宿していた。
「だが最後に詰めを誤ったな。璃子が私の名を取り戻し、私の血に濡れた手ぬぐいを携えていたが故に、お前は正体を晒さざるを得なかった。臥せっていたのも、緑の目を隠しきれなかったのも、今こうして山に出向いた事でさえ、お前にとっては想定外だったことだろう。」
「ふ…あえて否定はすまい。だが、それが何だというのだ?貴様らを殺すには事足りる…貴様らを殺せば…我が邪気の脅かされることのなくなるというものだ。」
鬼の声は不気味に高揚し辺りに響く。璃子は清十郎の背後でその言葉を聞くまいと努めていたが、どうしても耳に入ってくる度に体をびくつかせていた。鬼の真に恐ろしきは、人の心理に入り込むこと。璃子は尚も手足の先を震わせながらも何とか耐えていた。鬼には隙を見せてはならない。
「この村もいよいよ我が手に落ちる時。次の新月には極上の災いを招いた晩餐になろう。これこそ十数年もの間、愚かしい人間に成りすましていた甲斐があったというもの。一人残らず食い殺してくれる。」
公三郎は天を仰ぎ悦に入った。その緑の目にも映ったか、夜空には日毎細くなりつつある半月が浮かぶ。
「十数年…やはり幼少の頃からか…」
清十郎の苦々しい言葉に、公三郎は今一度視線を下ろす。
「全ては公三郎の母親が引き起こしたこと。浅ましい妾…あの女はお前とその母親を憎んでいた。大旦那の寵愛を受けながら偏愛する我が子を跡継ぎに出来ない身の上を憎み、正妻の座を妬んだ末に成り代わってやろうと企んでいた。強固な三方の山神の守りに生まれた一転の穴…そこから儂が来てやったのだ。公三郎を子の山で食い殺し、その皮をかぶって成りすました…齢十にもならない子供を我が牙にかけることなど造作もない事。誰もすり替わった事に気づきはしなかった。」
そう話し続ける男の顔は、もはや公三郎とは言い難いものだった。その歪んだ顔つきはまさに鬼。清十郎を隔てていなければ、璃子などあっという間に邪気に飲まれているところである。
「…それから次々と手をかけていったということか。」
「ククク…子供の皮を被って道化のように振舞えば誰も疑いはすまい。人間の皮にわが身を定着させるには生き血が必要だったのだ。尤も我が邪気はあの女のおかげで潰える事はなかったがな。愚かな女よ…我が正体を知って発狂しおった。死して尚我が邪気の糧になるとは、まったくこの上なく利用価値のあるものよ。」
ニタァ…と浮かべた汚らわしい笑みには鋭い牙が伺える。伊國の墓の隅に据えられた、公三郎の母の墓標が頭をよぎる。先祖代々の墓に寵愛された妾の墓が作られたことを、喜一郎や息子・公三郎の優しさだと思っていた。しかし全ては死して尚、途切れることのない妾の恨みの思念を糧にするため。
璃子は同時に、人づてに聞いた公三郎の母のことを思い起こしていた。「鬼が…我が子が…」と遺した最期の言葉、あれは我が子を案じるものではなかったのだ。
「…そして一番邪魔だったのはお前だ…清十郎。」
鬼の顔は更に醜く歪む。
「体を定着させた後、儂は一番の狙いであったお前と瑠璃姫にも手をかけた。それがあの女の望みであったし、何よりお前ら母子が疎ましかったのだ。事あるごとに儂の邪気を脅かし、取り祓おうとする山神にも似た力。すぐにでも消すべきであった。」
鬼の声は一段と低くなり、憎々しげな響きを含んでいた。鬼は常に強い邪気を発しているのか、璃子はまともに鬼を見ることが出来ず、清十郎の言い付け通りその背だけを見ていた。今鬼を一目直視しようものなら、完全に自我が崩壊するとさえ感じていた。
「…あの夜の事、お前も忘れはすまい、清十郎。」
歯軋りをするような音を立てて鬼は清十郎に問う。しかし清十郎はそれでも微動だにしなかった。鬼が激しく憎しみ、怒りを周囲に放出しているのとは対称的に、清十郎はその静かな怒りを自身の中にほとばしらせていた。
「あの夜のうちに母子共々一思いに殺してやろうとしたものを…瑠璃姫は儂の邪気にあてられて簡単に死んでいったが、子供のお前は生き残った…!あの時ほどお前が忌々しいと思ったことはない…!!」
「…私の母の血だ。」
清十郎は小さく呟く。
「我が血統は、さる高名な陰陽一族の分家。母や祖父にはその力がなかったが、お前に襲われた時に私に秘められていたそれが目覚めたのだろう。邪気を吸い込み浄化する力…お前に私を殺せなかったのも当たり前だ。」
「だがそれもまた不運。あの時素直に死んでいれば〟可哀相な清十郎坊ちゃん〝と墓穴の一つ、卒塔婆の一本でもこしらえてもらえたものを。儂の邪気を浄化しきれず姿が変わり、逆に諸悪の根源といわれ勘当までされて…愉快なまでに不幸な男よ。」
カカカ…と鬼は不快な笑い声を上げた。その狂気の表情はもはや人の姿をしているのが不思議なほどであった。
「璃子。」
不意に鬼に名を呼ばれ、璃子は体をびくつかせた。名前には言霊が宿るのか、他のどの言葉よりも体に深く突き刺さる。璃子は唇を噛みしめて、胸元の風呂敷包みを強く抱きしめながら、体の震えを止めようと努めていた。清十郎はそんな璃子を完全に自分の背後に隠す。鬼はその二人の様子を嘲るように見据え、そして高揚するような口調で忌々しげに言葉を続けた。
「儂にはお前も邪魔だった。幼少の折には最後まで清十郎の名を忘れず、今になって尚思い出しおった…!幾度となく儂から遠ざけ呪い殺してくれたものを…しぶとく生きながらえるとは…!」
「…っ…そんな…」
璃子は鬼を見ないながらも、清十郎の背後で愕然としていた。度々遣いを頼まれる事を一種の信頼だと思っていた…しかしそうではなかった。覆される思い…常に笑みを絶やさず穏やかに使いを申し付ける姿は虚像だったのだ。
「…お前に璃子を殺せなかったのも当然だ。」
清十郎の思いがけない言葉に、再び体の震えが止まる。
「なに?」
「璃子には私と同じ血が半分流れているのだから。」
「…え?」
「何だと!!?」
璃子も…そして鬼でさえ驚愕の声を上げた。璃子はずっと伏せていた顔を持ち上げ、清十郎の顔を斜め後方から見遣った。清十郎はこちらを見ない。しかし僅かに垣間見る彼の緑の瞳は、揺るぐことなく尚も鬼を見据えていた。
「…今なんと申した?」
「ならば敢えて繰り返そう。〟璃子には私と同じ血が半分流れている〝と言ったのだ。璃子は瑠璃姫の娘、私の父違いの妹だ。」
「わ…私が清十郎様の…?」
璃子はそのはっきりとした瞳を見開き、今一度清十郎を凝視した。確かに母に似ていないといわれ続けていた…瑠璃姫がその御名を小間使いの娘に与えるのも不可解な事だと思う節もあった。これほどまでに清十郎を愛しく思う心持ちも、懐かしい親しみも…二人の間に血縁があったればこそ。全ての辻褄が重なっていく。
「ク…ククク…」
そんな僅かな心の安らぎを断ち切って、鬼は再び不快に笑い始めた。
「なるほどな…道理で疎ましかったわけだ!さもあらばこの場で二人もろとも食い殺してくれる!!」
鬼が鋭くそう言い切った途端に、その体が内部からボコボコと歪に盛り上がり、急激に人の形を成さなくなっていった。そして遂には長く纏っていた公三郎の皮を醜く切り裂き、中からドロリとした大きな邪気の塊が姿を現した。
以前璃子の後をつけていたあの邪気よりも数段に濃く不快で、その中心となる真っ黒な部分が周りに邪気の膜を纏っている。その核になる部分は僅かに四つん這いになっている人のようにも見えようか。しかしすぐにそれを確認できる間はなくなった。鬼の纏う膜が二人の辺りを一面に覆い、夕焼け迫る酉の山の一角をどす黒く染めていく。
「あ…あぁ…清十郎様…」
璃子はその漆黒に動揺して清十郎を呼んだが、彼は相変わらず静かに佇むだけであった。
「ふ…醜い姿を晒しおって…」
そうして持ち上げた面の裏には血文字がびっしりと書かれている。
「お前に似合いの面をくれてやる!」
清十郎はそう言って黒い鬼の面を邪気の核へと投げつけた。面は吸い付くようにぴたりと核の面前を覆う。
「ぐ…ぐああああぁぁぁ…おぉのれぇぇ…!!!」
途端に面から発した稲妻に鬼は苦しみ、この世のものとは思えない叫び声を上げた。周りを覆っていた邪気の膜も収束していき、核の部分が徐々に鮮明になっていく。それは人の形をしていても、やはり人とは到底思えぬ醜いもの。その姿も叫びにも、全身に鳥肌が立つ。
「璃子、一旦離れるぞ。」
「は…はい!」
清十郎に手を取られ、璃子は慌てて走り出した。木の間を縫うようにすり抜け、苦しむ鬼からどんどんと離れていく。璃子は眼前で揺れる白い短髪を見ていた。清十郎の口にした言葉が絶えることなく繰り返される。その思いが聾唖にしたか、劈くような鬼の叫びも、山々の木のざわめきも、いつの間にか璃子に耳には届かなくなっていた。そして恐怖から離れていくごとに、様々な思いが胸中に交錯していったのである。