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第七章「詠み人知らず」

 村の名を思い出すことは、清十郎を思い出すよりもはるかに困難な事であった。清十郎の言ったとおり、村の名はあらゆる記述があの黒い墨で塗りつぶされ、いずれも知るには至らなかったのである。

 鬼山村…その(あざな)がこの村を支配している。知らぬ間に名を奪い、その記憶すら歪ませるとは、げに鬼とは恐ろしきもの。

 その鬼がよもや伊國家と関係があろうとは…。大旦那・喜一郎のことも公三郎のことも信じたい…しかし璃子が今最も信じたいのは、他ならぬ清十郎であった。その清十郎が安全ではないと言った伊國家。村の名を探していることを確かに知られるわけにはいかぬ。

 けれど…屋敷中のそれと思しき場所は、あらかた調べつくしてしまった。人づてに尋ねたり、倉の中を探るという手は残されているものの、それをして真なる鬼に感づかれようものなら、わが身の危険以上に清十郎への負担にもなる。


 

 私はあの方が私にしてくださったように、私も助けて差し上げたいのだ、あの方を。

 村の名…なんとしても思い出さなければ…


 

 璃子は紅の手ぬぐいのある懐に手を当てながら、眉間にしわを寄せてぎゅっと瞑った目を、決意を込めて見開いた。

「あら…?」

 璃子はその目に思いも寄らぬものが映り、思わず眉間に込めていた力を抜き去った。庭で落ち葉を掃いていた璃子から、やや離れた縁側を歩く人影…長らく姿を見せなかった伊國の大旦那・喜一郎がそこにいた。その姿はいつになく老け込み、顔はおよそこの世に生きるものとは思えぬほどに青ざめている。


 

 お具合が優れないでいらっしゃるのかしら…?


 

 璃子は庭掃きの手を止めて喜一郎を見ていた。病気ということを聞いた事はなかったが、長い間自室に篭ったままだった喜一郎と健康を結びつける事は大変に困難な事であった。今の喜一郎の姿は、まさにそういった想像と違わないもの。小さい頃の記憶の内にあるふくよかな喜一郎からは考えつかない姿に成り果てている。

 


 鬼…………まさか。


 

 璃子は囁くように心に浮かんだ裏切りにも等しい考えを、小さく頭を横に振ることで払拭した。今この瞬間に忌むべきは疑心…鬼に隙を見せてはならない。

「瑠璃子…」

 不意にしわがれ声に名を呼ばれ、璃子は慌てて顔を上げた。それは蚊の鳴くような小さな声で、璃子は一瞬空耳だったかとさえ思った。

「あ…はい、大旦那様…!」

 璃子は自分に向かって手招きしている喜一郎を見て、手に竹箒を持ったまま小走りで駆け寄った。喜一郎はそんな璃子を縁側に屈みこんで迎える。何か公に話したくないことでもあるのか、近寄るごとに鮮明になるその顔は、絶えず周りを警戒するように落ち着きがなかった。

「いかがなさいました…?」

 璃子は喜一郎から数歩離れた位置で止まり、おずおずと尋ねた。その距離は主従の関係がもたらすものであり、また清十郎の忠告によるものでもあった。しかし喜一郎は更に近寄るようにと尚も手招きをする。

「そなたに急ぎ取って来て貰いたいものがある。」

 ただでさえ聞き取りづらいしわがれ声が、ひそひそと話す。

「取って参るもの…でございますか?」

「そうじゃ。そなた奥の倉を存じておるな?あの中にある。階段を上ったすぐ先…つづらの中じゃ。その中の物…急ぎ奉納せねば…」

 喜一郎は璃子にそう言いながら、言葉の後半は独り言のように呟いた。

「その…中の物とはいったい何なのでございましょう?」

「それは言えぬ…!だが行けば分かる。これを…」

 そう言われて差し出した璃子の両手に、喜一郎は震える手で鍵を乗せた。古びて錆び付いた鉄の鍵…璃子が入りたいと思っていた倉のもの。璃子は望んでいた事とはいえ、あまりの奇遇に些か気味の悪さを覚えた。

「で…では…母とともに探して…」

「ならぬ。そなた一人で参れ。倉に行く事を誰にも知られてはならぬ。特に公三郎に見られることは決して許さぬぞ。」

 しわがれ声は低く深い畏怖を伴って響く。

「あやつめ…今は折よく寝込んでおるわ…ざまのない…ククク…」

 生気の薄い青ざめた顔で歪んだ笑みを浮かべる喜一郎に、璃子は思わずぞっとした。その表情もさることながら、再び独り言のように呟いたその声が、璃子の全身に鳥肌を立たせていた。

「さぁ…参れ。良いな、誰にも知られてはならぬぞ。つづらの中の物は後生大事に持ち帰り、そなたが再び子の祠に奉納するのだ。」

「は…はい、すぐに…」

 璃子は震えて動かなくなりそうだった足をやっとのことで地から引き離し、伊國の倉へと急いで向かった。今はつづらの中身が何なのか、喜一郎の真意がどこにあるのか、まったく考えられなかった。ただあの恐ろしさから逃げ出したい一心で足を速めていた。

 


*******************************************


 

「…はぁ…っ」

 璃子は倉の前に着いて震えるような溜め息をついた。指の先が微かに震えているのが分かる。鼓動が冷たく感じられ、そのあまりの脈動に体までもが早鐘を打つようであった。大旦那様…久方振りにお目にかかったと思ったら…いつからあのようになってしまわれたのか。あれではまるで…

「…駄目…」

 璃子は小さく呟いて、再び浮かんだ恐ろしい考えを頭から引き離した。考えすぎては駄目…今はただ言い付け通り、つづらの中身を持ち帰るだけ。それにあまりの恐ろしさに思考が疎かになっていたが、結果的に自分が望んだ形になった事に変わりはない。村の名の手がかり…もしかしたら倉の中に眠っているやも知れぬ。これ幸いと受け取って、この機を活かさなければ…

 璃子は思わず持ってきてしまっていた竹箒を倉の入り口の側に立てかけ、古びた鍵穴に同じくらい古い鍵を差し込んだ。右へ左へ…何度も細かく動かして、ようやっとギギギ…と音を立てて解錠した。鍵からは動かすたびに錆がパラパラと落ちる。

「よいっ…しょ…」

 璃子は重たい扉をどうにかこうにか開けた。暗闇に慣れていない目は、すぐには倉の中を映さない。真っ暗闇ともとれる倉の中を見て、璃子は拳を胸の辺りで握り締めた。指先の震えが治まったとはいえ、まるで氷のような冷たさであった。両の足が倉の中を拒んでか、最初の一歩をどうしても踏み出す事が出来なかった。

 闇は夜…新月の夜。連想させるは真の鬼。

 清十郎が「安全ではない」といったその真意が、この倉にあるのだとしたら、再び倉の戸をくぐって外の空気を吸うことができるかどうかも分からない。

 清十郎様…瑠璃姫様…どうかお守りください…。

 そう心に強く願い、懐の赤い手ぬぐいと清十郎の姿を重ね合わせた。瞳を閉じて少しずつ呼吸を整え、鼓動を意識的に小さくしていく。そして最後に長く深い溜め息をついて、不安を心から吐き出すと、今一度辺りを見回して喜一郎の言いつけを守り、人知れず倉の中へと入っていった。



 

 倉の中は一段とひんやりとしていて、かび臭いような埃臭いような独特の臭いがしていた。ようやく暗がりに慣れた目でも、中の様子は容易には見えてこない。璃子は扉の付近に常備されている蝋燭と火打石を手に取ると、まずは倉の中に明かりを持ち込んだ。揺らめく小さな炎に蜘蛛の巣が儚く煌く。

 この倉の中に足を踏み入れたのは幾年振りになろうか…。小さい頃に母と何度か入ったのは覚えている。齢いくつだったか…暗闇がひどく恐ろしく、母の着物の裾を掴んだきり放さずにいた。今にしてもそれは同じ事。闇の中にあって、整えたはずの呼吸や鼓動が今また不安定になっていく。暗闇があの時後を付けてきていた醜い邪気を思い出させる。今再びこの倉の中で出くわそうものなら…。璃子は懐に肌身離さず忍ばせている赤い手ぬぐいを握り締めた。

 

 大丈夫…私には清十郎様のお力がついて下さっている。

 

 璃子は自分に強く言い聞かせて、倉の中へと歩を進めた。蝋燭の明かりに、周りに積まれている荷物の高さが伺える。璃子は身の安全の確保のために、あちこちに張り巡らしたい目線をぐっと堪え、出来うる限り周りを見ないようにと努めた。見ぬは極楽知らぬは仏、倉の中には何もいないのだと思い込んでいれば、何とか奥へと入っていける。

 自分の立てた物音にいちいち驚いている事を些か情けないと思いながらも、倉の中にひっそりと居座る階段の元へ辿り着いた。所々腐食した階段は、足を乗せた途端に崩れ落ちてしまいそうなほど、とても頼りなく映る。喜一郎がわざわざ璃子を選んで言付けをした理由の一つは、まさにそれがためであった。いくら不健康なほどに痩せた喜一郎の体でも、璃子の体の軽さには敵わない。階段を登りきるだけの身軽さは、伊國家の中では璃子以外にはいなかったのである。勿論それ以外の何かを秘めて喜一郎が言付けしたことにも、璃子は僅かながら気が付いていたのだが。

「相変わらず…急だわ。」

 璃子は恨めしげに独り言を呟いて、四つん這いになって階段を慎重に登り始めた。ギィギィというやけに大きく聞こえる音を伴いながら、一歩上がっては蝋燭を置き…一歩上がっては蝋燭を置き、火種を絶やさぬように上がっていった。

 階段の中段で璃子は階下を見下ろした。僅かに開けておいた倉の入り口からは細い光が差し込んでいる。蝋燭の明かりは思っているよりもずっと明るいけれども、入り口からの光なくしては倉から出られないようにも感じられた。あの僅かな隙間が、外界と倉の中とを繋いでいる。今は手元を照らす蝋燭の明かりよりも、遠くに微かに差し込む光の方が璃子にとっての希望の光であった。

 早まる鼓動に〟どうか絶えないで〝と切実に願う。

 

 璃子はやや息を切らせながらようやっと階段を登りきった。二階は更に埃臭い…蝋燭の明かりだけが生命の証であるかのように、何一つ暗闇の中で動きはしない。普段は嫌がる鼠の存在をこんなに請うことは、生涯で今時分くらいだろうと璃子は思った。

「上がってすぐのつづら…」

 璃子は空気の冷たさと恐怖によって僅かに震える体を堪えながら、喜一郎の言付けを囁くように口にした。蝋燭の明かりの範中には、古い木箱に並んで確かにそれと思しきつづらが置いてあった。倉の中につづらはいくつもあるけれど、階段を上がったすぐの場所には璃子が目にしたつづら一つしかない。それを確認すると蝋燭を高く掲げ、今一度二階の様子を目線で探った。

 小さな窓すらも閉め切った倉の二階は、僅かに入り口を開けておいた一階にもまして大変に暗いものであった。恐怖、疑心、不安…様々な負の思いが盲目にさせたか、蝋燭の明かりがあるにもかかわらず、目的のつづら以外の物を上手くその目に捉えることができなかった。目に見えない恐怖がじわじわと心を染めていく。

 相手は目に見えるだけが全てではない存在…けれど同時に禍々しい気配を消しきれないもの。倉の二階には生き物の気配が全く無いように、あの不快な気配も感じられなかった。今この場には、あの邪気がないものだと思っていい…はず。それでも尚躊躇う璃子を、足元で軋む階段の音が後押しする。璃子は意を決して二階へと上がりこんだ。

 



 つづらは一目見ただけではまるで木箱にも思えるような色をしていた。多量の埃と僅かな腐食…本来ならば新しいつづらに変えるが相応しい。しかしつづらに限らず、倉の中は多くの物が手付かずのままであった。

 無理も無い…瑠璃姫たちが亡くなった頃より災いが続発し、とても倉を掃除するという雰囲気ではなかったのだ。村に何かあるたびにその対処に追われていては、せめて何事も無い事には気を煩わされたくないと思うもの。この倉もそういう経緯で人の手を離れていた。

「この中の物…」

 璃子は傍らに蝋燭を置き、つづらにかけた手をひとまず止めた。喜一郎は中の物を〟奉納しなければならない〝と口にしたけれど、だからといって良い物が入っているとは限らない。今まで長らく子の山神に邪なる奉納をしてきてしまっていた…知らず知らずのうちに。

 それにあの喜一郎の表情、笑い声。つづらを開けて、またあの不快な膜にとり込まれようものなら今度こそ命は無い。今璃子がいるのは山の中ではなく、閉め切った倉の中なのだ。自分が今ここにいる事を知るものなど喜一郎以外にはいない。誰かが…清十郎が助けに来てくださる可能性など、微塵もないのだ。

「疑っては駄目…疑っては…」

 璃子は瞳を閉じて念仏のように自身に言い聞かせた。確かに先の喜一郎はおよそ正常とは程遠いものだったが、璃子が懐に入れている赤い手ぬぐいを嫌がる素振りを少しも見せなかった。その意味で喜一郎が糸を引いている可能性は極端に下がることになる。しかしあのゾッとするような顔を前にして、どうしても疑いを晴らしきれない。もしや本当に…

「違う…違う違う…!」

 その思いを跳ね除けようと、璃子は声に出して否定を繰り返した。ぎゅっと瞳を閉じ、両手で顔を覆う。その瞼にしっかりと焼き付けられてしまった、喜一郎の恐ろしい姿を遠ざけて、何とか昔のふくよかだった頃の主人を思い出そうと必死になっていた。思い出すのだ…喜一郎は長く仕えてきた家の当主ではないか。瑠璃姫たちが亡くなった時に奔走していた姿をちゃんと知っている…!言いつけを守らなければ…!

 

 璃子は意を決して固く瞳を閉じたまま、思い切ってつづらの蓋を開けた。独特な臭いと埃が一気に舞い上がる。邪気の気配は…ない。

「…ケホ…」

 璃子は微かに咳き込みながら、十分に邪気が無い事を確認し、恐る恐る目を開けた。その中にあったのは神楽の採物…大きな竜頭が目に入る。つづらいっぱいにその体となる布を埋め、僅かな金が蝋燭の明かりに煌いていた。見たことがある…小さい頃に山神に捧げるために秋祭りに演じられていたものだ。

「まさかこれを奉納しろと…?」

 璃子は思わず躊躇った。自分の体の何倍もある竜の装束を、人知れず持ち帰るなど不可能だ。まずは母に見咎められ、公三郎にも必ず問われる。喜一郎の真意が何処あるのか分からないが、こうして倉にいることも、つづらの中身を持ち出すことも、そしてそれを奉納する事も…知られたくはないはず。しかし今目にしている装束は大の大人でも密かに持ち帰るなど致しがたいもの。さてどうしたものか…いや、それ以前にこの竜の装束が何になるというのだろう?

「…あら?」

 璃子はふと竜の体に隠れるようにしまわれていた、もう一つの物の存在に気が付いた。つづらの蓋を傍らに置いて、上等な絹の竜の体から慎重にそれを引っ張り出す。揺れる蝋燭に炎に気を遣いながら、物音を極力立てないようにゆっくりと。

「これは…」

 璃子は古びたつづらから出てきた物を掲げ、そして恭しく見つめた。その物自体も、その物の持つ意味も璃子は十分に知っていた。竜の装束に守られて鬼の手にかからずに済んだか、それとも鬼が手出しできなかったのか。いずれにしても形勢を左右する要になるもの。これこそが大旦那・喜一郎の真意だったとしたら、まさか喜一郎は…

 


 璃子は倉の中にあった風呂敷で、それをしっかりと包んだ。竜の装束ほど大きなものではないが、それでも幾分手に余る。だが何としても持ち帰らねば。喜一郎の言い付けがため以上に、今はそれが璃子の意志だった。神楽に使う装飾刀と扇を操る姿が浮かぶ。これがあれば必ずや清十郎のためになる…そう確信していた。

「さればこそ、あと一つ…」

 璃子は風呂敷包みをしかと胸に抱いて暗い辺りを見渡した。村の名…それこそが均衡を崩す。この手付かずの倉の中に、鬼の手にかかっていない何らかの痕跡があれば、おそらく璃子自身も思い出すことができる。ある種の希望を抱いているせいか、倉の中は先程よりも明るくなったように見えた。

 しかし、かといって手がかりのあてがあるわけでもない。村の名を探すことは大旦那の言いつけではないのであって、倉の中にあまりに長くいるようでは大旦那とて不審に思うだろう。

 

 急がねば…

 

 璃子は一先ず風呂敷包みを傍らに置いて、つづらの蓋を元の通りに慎重に閉じようとした。しかし再びその手が止まる。くるりと蓋を返した刹那に、蝋燭の明かりに当たって何かが浮かび上がった。一瞬ただの汚れかと思った心を捨て、璃子は十分に目を凝らす。蓋の裏には何か文字が書かれていた…墨文字だが禍々しいものではない。腐食したつづらにあってひどく読みづらい、が…

「…和歌…かしら?」

 璃子は定型的な五列の文章の並びを見て小さく口にした。目を細め、蝋燭の明かりがよく当たるように角度を変えて凝視する。

「〟名に〝…〟名にし負わば〝…?読みづらいわ…えっと…」

 璃子は更に注意を凝らす。

 

 



 名にし負わば

 礎築かん

 神社(かみやしろ)

 

 宿(やど)りて()りの

 みかみの山神




 

 

 この村が出来た頃に誰かが詠んだ歌だろうか。つづらの文字の状態から察するに、とても古いものであるのだという事は感じ取れる。誰が詠んだか、記載はない。詠み人知らずの歌…どこか郷愁を誘い心に残る。

「みかみの…山神。」

 最後の句を口にすると同時に何かが心を灯す。璃子は暫く自分の発した言葉の余韻に浸っていた。これは清十郎の名を思い出した朝と同じ感覚。耳元で誰かが囁きかけるような大事な言葉。それがもし目に見えるものであったなら、さながら天上から垂れ下がる神々しい蜘蛛の糸。璃子は今心中で、その糸を断ってしまわないように慎重に手繰り寄せている。

 未だその先は見えぬ、しかし忘れてはいけない…この和歌を。璃子はそう直感していた。



******************************************

 

 

 不意に倉の外から烏が大きな声で一声鳴いて、璃子は驚いて顔を上げた。倉の中では外の様子が分からないだけに長居をしすぎたか、烏は夕刻を知らせる。

「戻らなければ…」

 璃子は胸に風呂敷包みを、心に郷愁の和歌を抱いて立ち上がった。相変わらず軋む階段を、蝋燭を取りこぼさないようにと慎重に下り、そして微かに差し込む紅い光へと急いだ。やはり少しばかり倉の扉を開けておいたのは幸いだった。迷うことなく外へと向かう。

「ふぅ…」

 璃子は外へ出て安堵の溜め息をついた。入る時は倉の中がこの上なく恐ろしかったが、思いがけず多くの物が手中へと転がり込んだ。その正体は未だ分からぬが…鬼め、その悪行も次の新月を待たずに潰えよう。その思いと共に再び重たい扉を閉ざし施錠する。


 さて…この鍵をうまく大旦那に返すことが出来ようか。まだ自室にお戻りになっていなければ或いは…。璃子は敷地内に敷き詰められている砂利の上を、いつもよりも音を立てて足早に歩いた。

「何をしていたのだね?璃子。」

 そんな璃子を若干弱々しく聞こえる穏やかな声が呼び止める。この時ばかりは会いたくないと思っていた公三郎…具合が悪いのか青白い顔で佇む。喜一郎が確かに〟寝込んでいる〝と口にはしていたが…

「…それは?」

 公三郎は竹箒を持つ手の逆に抱えている璃子の風呂敷包みを見咎めた。

「あ…これは…これはそこの裏で…。古い桶の(たが)でございます。朽ちて捨てられておりましたので片付けようと…」

 璃子は咄嗟に嘘をついた。手に持つそれはちょうど大きな桶の直径ほどある物だったため、反射的に桶の(たが)なのだと口走った。倉の中にあった風呂敷の汚れ具合も手伝い、その言い訳も些か真実味を帯びている。

「…それはご苦労だったね。だが落ち葉掃きも疎かにしてはいけないよ。」

 傍らに竹箒を持っている割りには落ち葉の片付いていない様子に、公三郎は釘を刺した。

「はい…申し訳ありません、若様。…何かお体の具合が優れないようにお見受けいたしますが…」

 璃子は公三郎のあまりに青ざめた顔に、謝罪もそこそこに尋ね返した。公三郎の様子はほんの僅かに喜一郎に見たそれを思わせる。

「大したことではない。じきに良くなろう。ところで璃子…」

 公三郎はそこまで口にすると、裸足のまま縁側から砂利の上へと歩みだした。重たそうな足取りで砂利の音を鳴らし、璃子の直前まで近づく。子供の頃以来、これほど公三郎と接近した事があっただろうか…何か不穏な空気を思わせる。公三郎はそんな不可解な表情の璃子に十分に近づき、そして小さく囁きかけた。

 

「…そなた、次はいつ山へ行く?」

 

 璃子はその言葉に思わず顔を上げた。そして二の句を告げようとして公三郎の顔を見た途端に、その言葉を飲み込んでしまった。いつも穏やかな漆黒だったはずの公三郎の瞳が、何の因果か僅かに緑色に染まっていた。璃子はそれを見て、言葉もろとも息をも呑んだ。

 その瞳の緑色は、清十郎のそれと全く同じ色だったのである。


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