表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/11

第五章「星霜」

『璃子、貴女がこの度よりお仕え申し上げる公三郎様ですよ。ご挨拶なさいな。』

『母様?……様はいかがなさいましたの?』

『…その方はお亡くなりになったのです。』

『けれど私、……様にお会いしとうございます。』

『これ璃子や、何を申すのです!公三郎様、大変なご無礼を…』

『構わぬ。物心つかぬうちから兄上に仕えてきたのだ。私に仕えるようになればそれも自ずと分かるようになろう。璃子。私がお前の新しい主人になる。よろしく頼むよ。』

『……はい…公三郎様。』

 

 

 それは遠い記憶。璃子が数えの五つの頃、瑠璃姫とその嫡男が亡くなり、齢十の公三郎が代わって跡取りになった時のもの。随分久し振りに夢を見た。しかしなんと曖昧な…瑠璃姫のご嫡男のお名前はなんと仰ったか…。

 

 

 

*************************************************************** 



 昨晩、セイに促されてどうにかこうにか帰り着いた璃子は、待っていた母にこっぴどく叱られた。災いが起きたという時に雨戸の言いつけを放置したばかりか、伊國の敷地を飛び出すなど言語道断、もはや外に出る事すら許さぬと言い切った。しかしそれではセイ殿の元へ…と言える訳もない。どんなに璃子が陳謝しても、母は決して彼女の外出を許さなかった。

「気持ちは分かるが、許してやってはくれぬか?」

 そんな母子のやり取りの場に公三郎が現れる。

「しかし若様…」

「あの混乱の中、よくぞ無事に帰ってきたものではないか。それで十分、償われてはいないかね?」

「お言葉ですが、若様。娘は私の…いえ、若様のお言いつけを守らず、伊國の敷地を飛び出したのでございます。災いの際には御家に留まり、身を守るようにとした大旦那様や若様のお心遣いに反したのです。御覧なさいませ、腕に怪我まで…。どれほど…どれほど心配したことか…」

 母の声は涙にくぐもり、そして幾ばくか震えていた。璃子は傷だらけのセイを前にした時と同様に、胸が締め付けられていた。母の言葉に二度も背き、我が事ばかりに囚われていたことにひどく罪悪感が募る。

「母君のお気持ちは察するが、璃子が外に出られないとなると私の遣いも滞るものでね。門限を厳しくすると言う事ではどうだね?ほら、璃子も十分反省しておる。」

 母は公三郎に言われ、振り返って娘を見遣った。その目に頭を若干垂れたまま、目を上げられないでいる璃子の姿が映る。か弱い腕からは未だじわじわと出血が止まらない。大きな瞳には涙が零れんばかりに溜まっていた。

「……そう…そう若様が仰るなら…」

 母は大分渋々しながらも璃子の門限付きの外出を容認し、そして優しく抱き寄せた。璃子はその母の暖かい優しさに感謝を抱きつつも、心の一方ではセイの事を考えていた。私には心配してくださる母様がいらっしゃる…私の怪我にお心を痛めてくださっている。けれど…セイ殿には?璃子は自らの切れた腕を治療しながら、それよりももっとひどい手傷を負っていたセイのことで頭がいっぱいだった。あの見慣れぬ怪我に心配が募る。暗い新月の卯の山で、あれから一人で過ごしたのだろうか…とにかくただセイ殿がどうかご無事でありますようにと璃子は請うばかりだった。




 

 そんなやり取りの夜が明けて、未だ曖昧な夢に釈然としないながらも人知れず璃子は東の卯の山を目指した。僅かに朝靄のかかる早朝は大分肌寒くなってきた。村の家々は災いがあった事で戸が固く閉ざされて、辺りは耳鳴りがするほどに静まり返っていた。昨晩の騒ぎがまるで嘘のように感じられる。しかし斬られた家の戸、自らの右腕、鮮明に残るセイの顔…何もかもが現実であった事を示唆している。璃子はまた懐に昨晩の夕餉の残りで握った白むすびを入れていた。あの辛そうな表情のセイが頭から離れない。あの方は災いが起きるたびにあのように山を下りては、その根源を村から取り除いてくださっていたのだ。だから災いと共に姿を現していた。私たちが愚かにもそれを〟災いをもたらしている〝と、勝手に思い込んでいたのだ。セイ殿はその誤解を進んで解こうとなさらないけれど、これ以上は背負いたくないと仰った。それならばせめて私の出来うる限り、その荷を下ろして差し上げたい。

「セイ殿。」

 璃子は逸る気持ちを抑えて、辺りに響かない程度の声で名を呼んだ。村の者がセイの姿を見ようものなら、彼らは躊躇いことなくセイを殺しかねない。それでなくとも璃子がセイに会っている場を見られれば、母様…伊國家…引いては鬼山村の存続に関わる。セイの言ったとおり、〟まだ時期ではない〝のだ。

「セイ殿?」

 璃子は返事はおろか気配さえもないことを不審に思い、足元の枝に気を配りながらも昨晩の木の根元を覗き込んだ。しかしそこにセイはいなかった。木の根元に僅かな血の跡を残したまま、装飾刀も扇も面も、何もかもを伴って姿を消していた。

「そんな…一体いずこへ…」

 璃子は辺りを見回し呟いた。しかし辺りの朝靄がやや消えてきていても、セイの姿を見つけることは出来なかった。

 あれは単なる怪我などではない…邪気を宿したおぞましい傷跡。おそらくセイの体にかかっている負担はおよそ考え付くものではない。璃子には数刻前にあの木の根元から、セイがふらつきながらも立ち上がる様子が見えているような気がしていた。そしてその予感は決して遠く外れているものではない。あの状態から動けるほどに体が回復したのなら、それに越したことはないのだけれど。

 

***************************

 

 璃子はふと思い立って、あの瑠璃姫の嫡男の名前を思い出そうとしていた。

 それは鎌鼬の一件で門限が厳しくなり、おいそれと山を歩けなくなったことへの気晴らしのようなものだった。門限が短くなっても、母の言いつける用事の数は変わらなかったため、どうしても伊國から外へ出る時間が持てなかった。母の思惑通りか、それは実質外出禁止を受けていることとさほど変わりはしない。いくら伊國の敷地が広いといえど、一日中を過ごすにはあまりに狭すぎる。多感な時期にあって数日間も外出できずにいるのは、大変に歯痒く、勿体無く感じること。それならば篭っている時にしかできない事をやり遂げようと、その結果が嫡男の名探しだったのだ。尤もその一方で嫡男の名を思い出す必要性に駆られる心があることには、未だ気がつかないままだったのだけれど。

 璃子は物置と化している北向きの部屋の押入れを探った。そこには所謂骨董品と呼ばれる類の巻物やら壺の箱やら、埃臭い物品が隙間無く積まれている。一度この中身を掘り出せば、二度と元のようには納められないだろう。

 璃子は慎重に押入れの中段にある、平たい箱を静かに引っ張り出した。それと同時に正面から見えない位置で物が落ちたのか、小さく奥の方でコトリと音がする。璃子は不安に思って暗がりを覗いてはみたけれど、物置の中は暗く視界が通らず、それ以上何一つ動きはしなかった。小さな溜め息と共に視線を暗がりから手元へと戻す。璃子が手にしたその箱は上等な桐の質素なもので、この埃臭い押入れにあったにしても、その立派さを少しも失っていなかった。指で撫でるとザラリとした感触と共に、その筋が出来上がる。それを見て璃子はふっと息を吹きかけた。埃が大量に空を舞う。

「確かこの中のはず…」

 遅子は自らに確かめるように呟いて、桐の蓋を静かに開けた。その中には綺麗に折りたたまれた紙が幾枚も入っている。

 璃子は一度顔を上げて周りを確かめると、再び箱の中に視線を落とし、一枚そっと取り出した。それは生前瑠璃姫が書き残していた独自の家系図。瑠璃姫つきの小間使いであった母と共に、小さい頃に見た覚えがあった。伊國家のごく最近の家系図では早世した子の名前を書いて残しなどしない。歴代の家系図も、燃やすか倉にしまわれて見ることは叶わない。けれど瑠璃姫が残した家系図であれば、よもや自分の子の名を消す事はあるまい…そう考えてのことだった。

「瑠璃姫様…瑠璃姫様…あった。」

 達筆な文字の中から辛うじて文字を読み取る。瑠璃姫の家系を中心に書かれたその図には、瑠璃姫との婚姻関係を示す位置に「伊國喜一郎」の名前がある。探すはその間の子…

「なんと…」

 璃子は我が目を疑った。嫡男の名を記した場所…そこが黒く塗りつぶされている、他のどの文字よりも濃い墨で。まるで何人も見ることを許さぬように、完全に隠された嫡男の名。このようなこと有り得ぬ…!この家系図自体存じている者はほとんどいないはずなのに。

「一体誰が…」

 璃子は微かに震える指先で名を塗りつぶした墨に触れた。どこか禍々しさすら感じる。村を襲う災いや、山で包まれた不快な膜にも似た雰囲気…もしや鬼の仕業?セイ殿は確かにご自身のほかに真なる鬼がいると仰った。けれど死んだ子の名を鬼が消して何になろう?

「鬼が名前を封じておる…?」

 さもあらば失われた名はこれで二つ目。一つは嫡男の名、そしてもう一つはこの村の名。いつしか誰ともなく口にしなくなっていった。私もいつの間にか忘れてしまっていた…このままの状態が続いたとすれば、最初から真の名がなかったとも捉えかねない。

 思い出さなくては…村の名、嫡男の名。

 もはやそうすることが、単なる自己満足には留まらないように感じられてならない。伊國の倉に行けば何かしらの記述があろうか。しかし母様が倉に入ることをお許しになるとは思えない。よしんば若様のお許しで入れたとしても、その後の言い訳をうまくできようはずもない。何か…必ず名を残すものが、他に無いものか…

 璃子が巡らすそんな思考の中に、所々セイの姿がよぎる。閉じた瞳の瞼の裏に、はっきりと浮かぶ精悍な青年。つっけんどんに早生の栗のある里山を指し示した姿、災いを取り込むように舞う姿、鎌鼬によって負傷した姿、その素顔。そして彼の纏う黒い面、短い白髪、装飾刀、扇、手甲…桔梗…

「…そうだ…」

 璃子は何かを思いついて顔を上げると、不可解な家系図を再び桐の箱にしまい、元のようにそっと戻した。黒く塗りつぶされたその真意も気になるが、分からぬ事にいつまでも縛られていてはならない…突き止めねば。そして音を立てぬように襖を閉じると、思い立ったその場所へ、素早く小走りで向かっていった。



***************************************


 

 璃子はひっそりとした伊國の敷地の隅に来た。そこは以前桔梗を供えた伊國の墓場。秋の風に卒塔婆(そとば)がカタカタと乾いた音を響かせる。桔梗は既に枯れ、茶色く変色した花弁が散っては風に飛ばされていた。

「ここならば…」

 璃子は静かに墓前に手を合わせると、数歩踏み出して墓石の後ろの卒塔婆から名前を探し始めた。先代・先々代、さらに前のご当主…そしてその奥方…歴代の卒塔婆が幾本も並ぶ。流石に数十年前のものとあっては、風雨に晒され文字の解読も容易ではない。

「あった…瑠璃姫様…」

 璃子はやや新しい卒塔婆の中から、瑠璃姫の(おくりな)を探し当てた。その文字はまだはっきりと読み取れる。同時期にお亡くなりになったご嫡男の卒塔婆も、この様子ならば見分けられよう。しかし…その卒塔婆は何処に?

 璃子は横に並ぶ卒塔婆の中に、瑠璃姫のものと同等の古さのものがないことに同時に気が付いた。確か瑠璃姫と嫡男の後には未だ亡くなったものはいない。実質この瑠璃姫の卒塔婆が一番新しいということになる。しかしいくら見渡せど、他の卒塔婆はいずれも瑠璃姫のものより格段に古い。いくら母子といえど、一本の卒塔婆に(おくりな)が二つ書かれていることなど決してない。流産の赤子でさえ(おくりな)を与えられて卒塔婆に記される。喜一郎の八つ違いの弟がそうだったように。

「これはおかしいわ…」

 璃子は眉間にしわを寄せて、自らに聞こえる程度に呟いた。塗りつぶされた家系図、見つからぬ卒塔婆。やはり何者かが隠そうとしている…村の名と嫡男を。一体何故…

 

「何をしているんだい?璃子。」

 突然名を呼ばれ、璃子は慌てて振り返った。いつものように静かに公三郎が現れる…いつでも不可解な考え事をしている時に限って。

「若様…いえ、少し探し物を。大変失礼を致しました…!」

 璃子はふと自分のいる位置を再確認し、転ばんばかりの勢いで墓前へと戻った。

「ふふ…門限が厳しくなってさぞかし退屈なのであろう?」

「いえ!退屈などと…。それに自業自得によるものでもありますし。じき制限が解かれ、再び若様のお遣いに励みたい所存でございます。」

「そう願うよ。でないと色々困るものでね。ほら…桔梗もとうとう枯れてしまった。」

 公三郎はそう言って流し目に墓前の花を見遣った。枯れた花弁が数枚、また風に舞う。

「ところで探し物が見つかったのかい?」

「いいえ…それがまだ…」

 璃子は俯いて先程まで公三郎が目線を向けていた枯れ桔梗に目をやった。公三郎を前にしておきながら、思考は尚も嫡男の名を探していた。本当は事を大きくすべきではないのだろうけれど、卒塔婆にもないとあってはこれ以上一人で探しようが無い。何よりも公三郎は倉を開ける権限を持っている…突破口になるのなら…

「…若様はご存知でしょうか?」

「璃子の探し物をかい?」

「はい、その…若様の兄上様の事を…」

「兄上の事を?だが兄上は幼い頃にお亡くなりになった。今更何を探すというのだね?」

「痕跡でございます。」

 璃子の即答に不可解に公三郎の眉根が動く。にこやかだった表情が途端に陰る…その顔に落とした影は、以前自らの母に見たそれよりもずっと濃いものだった。

「兄上の痕跡を…?」

 恐ろしいくらいの響きを含んで公三郎は聞き返した。璃子は公三郎のその様子に思わずたじろぎ、一歩退いた。〟口は災いの元〝という教訓が今更ながらに押し寄せる。

「も…っ…申し訳…」

「いや、謝ることはない。だが何故今それを探すのか、申しなさい。」

 公三郎は畏縮する璃子を前に、先程までの影を一瞬で取り払い穏やかに尋ねた。しかしいつものにこやかさは、すっかり鳴りを潜めてしまった。恐怖…不安…罪悪感、なんともいえない気持ちが璃子の中に交錯する。

「それは…」

 言うべきか、言わざるべきか…セイ殿のこと。若様ならば真実を分かってくださる可能性は高い。だがそれで全てが良い方向に向くなどとは何故だか微塵も思えない。しかし現状が八方塞がりである事は確かだ。疑心は心の鬼を呼ぶ。だが…

「それは退屈しのぎのようなものでございます。若様の仰るとおりに。」

 吉と出るか凶と出るか…璃子は今にも引きつりそうな笑みを浮かべて返答した。セイの言った〟まだ時期ではない〝という言葉が、璃子の言葉を紡がせていた。

「命日が近いこともありますし、花を摘んで来れぬ分、せめて鮮明に思い出して差し上げようと…」

 自らの主人に対するこれはある種の裏切り…しかし半分以上は真を申し上げた。心に強い罪悪感を感じていながら、あらゆる理由をつけて“悪いことはしていない”と言い張る自分がいる。そう思うことが既に〟悪いこと〝なのかもしれないが。

「なるほど…それで卒塔婆を探していたというわけか。しかし兄上のものはなかっただろう?」

「え…えぇ!しかしそれは何故なのです?」

 璃子は思いもよらない公三郎の言葉に思わず顔を上げた。まるで全てを知っているかのような公三郎の物言い。璃子は貪欲な気持ちを宿して、公三郎を強い目線で見つめ返した。先程まで到底合わせられないと思っていたその目を公三郎に合わせる。

 嫡男の事を何か一つでも多く知らなければ…その根源の掴めぬ使命感が、大きく響く鼓動に拍車をかけていた。

「璃子は瑠璃姫と兄上がお亡くなりになった理由を聞いたことがあろう。」

「は、はい。」

 璃子は大きく見開いた目を一時も公三郎から離さず頷いた。瑠璃姫様とご嫡男が早世なさった理由…それは…

「それは鬼に…鬼に憑り殺されたのだと…。」

 未だ畏縮がちに璃子は答えた。真偽の程は定かではないが、暗黙の了解のうちに二人は鬼に殺されたのだと誰の間でも囁かれていた。

「そう…けれどそこにはもう一つ隠された話がある。知る者は少ないがね。しかしそなたもそろそろ知って良い頃だろう。」

 公三郎はそう言って墓前に向けていた視線をゆっくりと璃子に合わせた。その表情にはいつもの柔和な穏やかさが知らぬうちに戻っている。

「その…隠された話とは…?」

「瑠璃姫を殺したのは兄上だという噂だ。」

「なんと…それは真でございますか?!」

「いや…あくまで噂だ。私とて人づてに聞いた話だ、どこぞで付いた尾びれやもしれぬ。」

 公三郎は小さく首を振る。

「…何故そのような噂が…兄上様とてお亡くなりになった身ではありませぬか?!」

 璃子は公三郎と違い、大きく首を振って震える声で尋ね返した。そのようなはずはない…そのようなはずが…!璃子の中の小さな記憶が必死に記憶を拒絶していた。嫡男の姿も名も、とうに忘れてしまっているのに。

「当時その場を見た者に言わせれば、瑠璃姫の血にまみれた局で一人、見慣れぬ子がうずくまっていたそうだ。背格好は紛れも無く兄上…しかし到底人とは思えぬおぞましい姿だったという。兄上が鬼だったのか、兄上に鬼が憑いていたのかは定かではないが…」

「しかし…恐怖でお姿が変わってしまわれたのかもしれません。目の前でお母上を殺されて、平然としていられようはずもございませんもの。」

 胸元で握り締めた璃子の手が僅かに震えていた。目にはうっすらと涙が滲む。

「私もそう思ったがね。いかんせん私とて当時幼子だったのだ。真意は掴めぬ。」

 公三郎は軽く瞳を閉じて肩をすくめた。信頼する公三郎の口にした信じがたい言葉。ご嫡男…鬼、そしてセイ殿。細い絹糸のような繋がりがあるように思われるのは、そこにいかなり理由があるからなのか…。

「では…では兄上様はお亡くなりになってはいないのですか?万が一にもご存命でいらっしゃるのですか?」

 璃子は矢継ぎ早に質問を浴びせた。もし生きて山にいるのだとしたら、卒塔婆がないことにも…セイにも…理由が付けられる。

「いや、お亡くなりだ。少なくとも伊國の中では。」

「伊國の中では…?」

「父上が兄上を勘当したのだよ。鬼だったにせよ、憑かれていたにせよ、伊國家の嫡男にあってそのような疑惑…塵一粒とて残してはおけぬ。」

「それ故に兄上様は埋葬されなかったと?卒塔婆にも…」

 まるで存在自体無かった事にするために。

「お可哀相だがそれが世間体なのだ。よしんばあの時生きていらしたとしても、もう何処かで果ててしまわれただろう。子の山で子供の骨があるのを見たという話も聞く。…尤もその骨は猿のものかもしれんがね。」

「さようで…さようでございますか…」

 璃子は落胆し、小さく公三郎の言葉を聞き入れた。だがその中にあって未だ絹糸の繋がりは、切れずに璃子の中に残っていたのだが…。

「さすれば璃子はどう思う?兄上が死して尚災いを呼び寄せているのか、死なずして災いをもたらしているのか…」

「それは…あの黒い面の鬼が兄上様ではないのかということでございますか?」

「万一にもね。」

「私は…」

 璃子は言葉に詰まった。何も知らなかったならば、〟そう考えることも出来ますね、命あっても鬼に成り代わったなどお可哀相な方〝といった他人行儀で差し障りの無い言葉を返しただろう。

 しかし今は黒い面の鬼を…セイを知ってしまった。

 その正体を掴めずとも、災いをもたらす悪鬼ではないと身に染みている。セイ以外の真の鬼…それが存命の嫡男なのだろうか?いや、違う…それでは絹糸はぷっつりと切れてしまう。

 何かがおかしい…鬼山村に潜む話の根本的な部分から、真実が少しずつ歪んでいる…歪められている。私の中にもあるその歪みをなくさなければ、絹糸は跡形もなく消えうせよう。

「…少し意地悪な問い掛けをしたね。この事はあまり深く考えぬ方が良い。忘れなさい。そなたの門限もそろそろ解いてやらねばな。」

「…忝のうございます。」

 璃子はそう言って公三郎に一礼をすると、墓前に再度向き直って手を合わせた。

 

 瑠璃姫様、どうぞ知恵をお授けください。

 私は貴女様のご嫡男が鬼ではないと信じております。

 

 そうして祈りを捧げると、璃子は先に踵を返して母屋に向かい始めていた公三郎の後をついていった。秋の涼しい風がまた一陣頬を撫でる。璃子はそれを感じながら、もう一度先祖代々の墓を振り返った。枯れた桔梗の花弁は、先程となんら変わらず無機質に風に乗って飛んでいく。

 あの花弁の行き着く先で…この風の吹く先で、セイ殿も同じく頬を撫でられているのだろうか。鬼の面を付けた、誰よりも信じたいお方。璃子はその心にしっかりとセイの姿を思い浮かべながら、更に遠くなっていた公三郎の背を追った。その胸に今再び主人の言葉を裏切る事を心に秘めて。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ