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第四章「鎌鼬」

 伊國家の敷地の隅にある先祖代々の墓に桔梗が揺れる。その中にはセイが摘んだものも含まれていた。

 璃子が摘んだものとなんら変わりなく、ただ風に吹かれている桔梗。璃子は自らが摘んだ桔梗に混ぜるように、どの墓前にもセイが摘んだものが含まれるように供えた。

 あの時、何故花を摘んで手桶に差し入れたのだろう?瑠璃姫の名を知っていたくらいだ、彼女の最期をも知っていて、それ故の情けの手向けだったのだろうか。それとももっと別の誰かのためにだったのか。それが分からなかったが故に、璃子は満遍なく桔梗を供えたのだった。

 もしこの時セイを単なる悪鬼だと思っていたならば、迷いなく彼の摘んだ桔梗を捨てるところだったろう。鬼はその手が触れたものに邪気を潜ませて持ち帰らせ、遠隔から人を呪う事もできると聞いたことがあった。しかしセイに至っては、よもやそのようなことをするなどとは見えなかった。以前早生の栗を与えた時のように、邪気から璃子の身を守った時のように、到底鬼とは思えぬ暖かみのある手。

 彼の真意は一体いずこにあるのか…

 

「桔梗はちょうど見頃だったようだね。」

 墓前で考え込む璃子の思考を遮って、風に紛れるように静かに公三郎が現れる。相変わらず菫色の着物がよく似合う、落ち着いた伊國の若旦那。璃子はしゃがみ込んでいた体勢から立ち上がり、少し横に逸れて墓前を公三郎に明け渡した。

「若様、えぇ…とても綺麗に咲き誇っておりました。」

「突然に花摘みを頼んで申し訳なかったね。瑠璃姫の命日は私の母の命日にも近い故、花を手向けたかったのだ。」

「そうですね…そうでございましょう。」

 そう…大奥方とその嫡男がなくなって数日後に、愛妾だった公三郎の母も死んだのだ。彼女は狂死だった…鬼を見て気が触れたのだと誰もが囁いた。〟鬼が…我が子が…〝と最期まで公三郎の身を案じる言葉を呟いて逝った。一時は瑠璃姫以上に喜一郎の寵愛を受け、その間に生まれた男子とあらば母が溺愛しないわけがなかった。

 尤も瑠璃姫付きの小間使いとして仕えていた璃子はほんの小さい頃に共に遊んでいた以外に、幼い日の公三郎母子に関わる事は滅多になかったのだが。

「若様のお母上もきっとお喜びですわ。」

 璃子はそう言って更に小さくひっそりと建つ墓石を見遣った。そこにも桔梗が供えられている。妾は代々の墓には入れない…けれどこうして敷地内に眠っている。全ては公三郎の一存。セイ殿は花摘みを申し付けた者が命を狙っていると仰ったけれど、よもや公三郎様がそのようなことをなさるはずがない。いや、その話もセイ殿の憶測に過ぎないではないか。大旦那様も若様もただ墓前に花を手向けたかっただけ…

「もしや…もしや若様…」

 璃子はふと気がついて思わず口に出した。あの時花を手桶に差し入れた、それは情けなどではなく純粋に花を手向けたかったのでは…

「どうしたね?」

 聞き返され、璃子は改めてまじまじと公三郎を見た。セイ殿の白い短髪、剛健な足…どう考えても若様とは一致しない。何よりあの冷たい物言いを、若様がなさるなど到底想像もつかない。けれどあの懐かしい感じは何だったのだろう。

「いえ…何でもございません。度々申し訳ありません、若様。」

「ふふ…おかしな璃子だね。だが何かあればすぐに私に言いなさい。お前には世話になってばかりだからね。」

「そんな…勿体無いお言葉でございますわ。」

 公三郎はそんな璃子に柔らかく微笑みかけると、自らの母親の墓に一歩近づき、その中の桔梗を一本瑠璃姫の墓前へと移して静かに母屋へ帰っていった。あまりに何気ない行為で、普段ならば気にも留めなかったかもしれない。さもなくば、亡き後の正妻を立てるために供えられている花の本数を調整したのだとも捉えたかもしれない。

 いずれしても璃子には何故公三郎がそのようなことをしたのかわからなかったが、それと同時に一つだけ敏感に気がついていた事があった。

 公三郎が特に選んで移し変えた一輪…その桔梗は紛れもなくセイが摘んだものだったのだ。



************************************************************

 

 

 夜の月は日毎細く欠けていき、とうとう新月の日を迎えた。星ばかりが煌き始めた夕闇の空を見上げ、璃子はセイの言葉を反芻していた。

 

 …会ってはならぬ、少なくとも新月を迎える頃は…

 

 あの言葉は新月以外なら会うことを許したもの…そう捉えて良いものだったのだろうか?あの方はただ冷たいだけではない。未だ鬼の面をお外しにはならないけれども、私はセイ殿の面の下を存じ上げているような心持ちがしている。

 私が垣間見たのはセイ殿の御心…それ故にそう感じるのだろうか?しかしそれに伴う懐かしい気持ち…その正体は未だつかめない。お会いして分かるものならお会いしたい、何度でも。尤もセイ殿は〟それはならぬ〝と仰るかもしれないけれども。

「璃子や、雨戸を閉めますよ。」

 母は縁側でぼんやりと空を見上げている璃子を中に入るように促した。

「今日は随分早くお閉めになるのですね。」

 いつもなら日が完全に暮れてから雨戸を閉ざす。秋の夜長は虫の声が美しい。神無月は菊月ほどに多く聞こえはしないけれども、それもまた趣がある。儚く減っていく虫の命が冬の訪れを数えさせるものだ。それが何故今日に限っては、酉の山際未だ紅く染まるうちに閉めるなどと…

「今宵は新月です。特に神無月の新月は鬼が最も多く災いをもたらす日でもあります。若様が家中の雨戸を閉めて回るようにと。虫も鳴りを潜めましょう。さ、貴女も家を回って雨戸を閉めていらっしゃいな。」

「はい、母様。」

 璃子は母に言われたとおり、伊國の母屋の反対側へ回り、未だ開け放たれている雨戸を閉め始めた。しかしそうしながらも心は未だ山の上。新月には災いがおきやすい…考えてみればそうだったかもしれない。月に数度、決まって静か過ぎる夜の事。神無月は瑠璃姫様たちが亡くなった月だという事もあって、更に起きやすいのだとも考えられる。

 セイ殿はそのことを踏まえて〟来てはならぬ〝と仰ったのだろうか。さもあらば新月の災いとセイ殿にはどのような関係が…

「何者?!」

 璃子は背後を素早く駆け抜ける気配に思わず振り返った。野犬や野良猫といった類の気配ではない、しかし同時に昨今感じていた、あの実体のない不快なものとも違う…それとは別の人の世にあらざる妖かしなる気配。いつも村が災いに晒されていた時に感じていたもの。体はちゃんと動く…あの不快な膜に比べる今となっては、この妖かしも以前ほど脅威に感じるものではない。その一方で怖い事が確かであっても。

 璃子は小さく一歩気配のした方へ踏み出し、その根源を見つけようと見回した。依然気配はあるが音はしない。

「誰か潜んでおるのですか?」

 璃子はその気配に話しかけてみた。万が一にもセイ殿が山を下りてきたのではと、そう考える事が愚かだとは思いながら。

 

 ザンッ…!!

 

「!?」

 璃子は驚きに息を呑み、気配とは反対側…音のした家の方に向き直った。何もいない…けれど今まさに閉めんとしていた雨戸が支えをなくし崩れ落ちる。ギギギィ…と軋んだ音を立てて、縁側から庭へと倒れていった。雨戸はあまりにも綺麗に真二つに割かれていた。

「こ…これは…」

 後退りと共に璃子は呟いた。その切り口は到底人間業とは思えない。

 

 ザシュッ…!

 

 ズバンッ…!!

 

 その間にもあちこちであらゆる物を切り裂く音が鳴り響く。伊國家の囲いの向こうからは人々の悲鳴が上がっている。あまりに素早い動き、あまりに鋭い切れ味…

「まさか…鎌鼬?!」

 三対の鼬の妖怪…人を突き飛ばし、切り裂き、血止めの薬を塗っていく。だが鬼山村に現れる鎌鼬はそのように生易しいものではない。切り裂く鼬のみがやってくるのか、鎌鼬に切られ血にまみれるものが後を絶たない。それは全て血に飢えた鬼が呼んでいるためだと、誰もが口にし忌み嫌う。

「セイ殿…!」

 けれどあの方はそのような事をなさらない。璃子は強い決意で母屋を飛び出した。特に何かができるのだとは微塵も考えていなかった。ただこの鎌鼬がセイとは無関係だと感じたくて…あわよくばこの災いがセイによるものではないのだと村民に知らせたくて、璃子は雨戸の事も呼び止める母の声も聞かず、伊國の囲いの外へ出て行った。

 

***********************************************



 そうして見た鬼山村は騒然としていた。何処とも問わず鎌鼬は切り裂き続け、そこここに流血した我が子を抱え逃げ惑う母親たちの姿があった。非常の松明の明かりに、既に壁を割かれた家が浮かび上がる。璃子は「鬼だ」「災いだ」と罵倒する男たちの間を掻い潜って、切り裂く音のする方へと急いだ。迫る夕闇が人々の猜疑心を増長させる。

「…っ!!!」

 不意に璃子は右腕に痛みを感じて歩みを止めた。ぬるりとした感触…鎌鼬にやられ流血しているのが見ずとも分かる。だが璃子は痛みに顔を歪めながらも、どこかおかしいと感じていた。

 

 傷が…浅い…?

 

 時折村に現れていたあの鎌鼬にしては、切り裂かれた腕の傷があまりにも軽い。衝撃は腕を切り落とされたかと思うほどだったにもかかわらず、その右腕は表面を血が出る程度に切られただけだった。これならば山の斜面を誤って滑り落ちた時の方がよっぽど重傷である。

「まさかこれは…」

 璃子の頭を黒い鬼の面がよぎる。セイ殿…この変化はあの方の影響?

 しかし鎌鼬が人々を襲っている事に変わりはない。村の男たちは口々に鬼を罵り、鍬や矢を手にその姿を探していた。セイを〟災いを呼ぶ悪鬼〝だと思い込んでいる村人たちは、新月が訪れるたびに退治しようと試みてきた。ある時には高名な祈祷師を呼び、一晩中火を絶やさぬ事もあったし、ある時には腕の立つ旅武者を雇った事もあった。それすら敵わぬと思い知らされた後でも、村人の鬼を退治しようという心は変わらなかった。

 璃子は今までそれをとても勇敢な事であると感じていた。災いがあるたびに伊國から出られずにいた臆病な自分には、とても鬼に立ち向かうことなど出来ないと思っていた。

 しかし…セイ殿…!あの方が鬼だったとしても、その根底は決して悪鬼なのではない。鎌鼬の出現と変化…セイ殿との関わりは一体どちらか、それとも両方ともなのだろうか?

 あぁ…せめてそれが分かれば!これ以上セイ殿を罵倒する言葉など聞かずに済むものを!

 

「来たー!!鬼だぞー!!」

 璃子はあれほど閉ざしたいと感じていた耳にそれを聞いた。辺りを見ると誰もが酉の山を向いている。風が渦巻くように吹き荒び、山々は大きな音を立てる。木がセイの姿を隠したか、璃子にはその姿を捉える事ができなかった。しかしその合間から煌く微かな光。村の松明に時折反射するその光はおそらく鬼の面…金色の瞳。

 

 セイ殿…!

 

 間違いない。いつものような人外な速さで、山を駆け下りてくる姿が璃子の目にもやっと映る。人々はそのセイの姿に恐れおののき、金切り声を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。璃子はその場を動かず、ただ闇に紛れるセイの姿を追っていた。右手には神楽の装飾刀を、左手にはあの扇をそれぞれ持ち、真っ直ぐに迷うことなく駆けてくる。璃子にすら見向きもしない。

「…セ…」

 璃子は呼び止めようとしたが出来なかった。あまりにもセイの足が速く、あまりにも人の目があったためだった。だがその代わりに視線はセイから一時も離さなかった。彼は何か見えない一点を狙いすまし、素早く右手の装飾刀を振り下ろした。そして間髪入れずに扇でそれを抱え込む。その瞬間に村を包んでいた重い空気が取り払われた事に気がついたのは、おそらく璃子だけだったことだろう。彼は今間違いなく村を襲っていた鎌鼬を両断し、その身に災いを封じ込めたのだ。

 セイは鎌鼬を抱えて村から遠ざけようと、そのまま速度を変えず卯の山の方へ向けて鬼山村を駆け抜けていく。

「放て放て!」

 璃子はすぐ近くで、弓の弦のキリキリという研ぎ澄まされた音を聞いた。

「何を…何をなさるのです?!」

 矢の向くはセイ。何人もの男たちが卯の山へ走っていくセイの背中に照準を合わせている。璃子は思わずその中の一人にすがった。今まさに村から災いを取り祓った方を射抜くなど、なんと愚かな…!

「何を申す!?鬼は退治せねばならん!」

 男の言葉が終わらぬうちに、あちこちからヒュンヒュンと矢の翔ぶ音が鳴り響く。早くも暗闇に紛れていったセイに、その矢の行き先がどうなったかを見ることは出来ない。しかし夕闇とはいえ、これだけ大量に放たれていく矢をかわすなど至難の業。もしもあの方に命中するような事があったら…!

 

 あぁ…!今度は私がセイ殿を助けて差し上げねば…!たとえ今この場に立ちはだかる事が出来なくとも!

 

 璃子は自分の不甲斐なさを心底悔やみながらも、ゆっくりと後退りをすると、着物の裾を持ち卯の山へ人知れず走り出した。脚力など到底敵わない…遠回りもしなければならない。普通に考えれば、それを人外な速さで先行するセイに追いつけようはずもない。

 しかしそれでも卯の山で再びあいまみえないとは、不思議と微塵も感じてはいなかった。

 


*****************************************************


 

 卯の山は物音一つせず、虫の微かな声が響くだけであった。璃子は誰に迷惑がかかるわけでもないのに、慎重に静かに歩を進めた。静かな山に些か息の上がった璃子の呼吸だけがやけに響く。先程までの村の喧騒は収まったのか、それともそれの届かぬ場所まで来たのか、それは分からない。新月の山は目が見えなくなったのかと思ってしまうほどに暗い。足元を掬われ、突然目の前に現れる木々に歩みを止められながらも璃子は探し回った。

「セイ殿…」

 矢に射抜かれはしなかったろうか…鎌鼬に切られはしなかったろうか。あの方に何かあったら心が締め付けられるほどに痛む。璃子は不安な面持ちで辺りを見遣った。

「あ…!」

 不意に璃子は闇に浮かぶ白髪を見つけ、安堵と衝撃の混ざる声を上げた。大きな木の根元、探していたその人物がうつ伏せに倒れているのが目に入った。セイは微動だにしない。

「セイ殿!」

 璃子は慌てて木の陰から飛び出した。同時に足を木の根に取られはしたが、ふらつきながらもセイの元へ駆け寄った。彼は近くに扇を取り落とし、右手には未だ装飾刀を握ったまま倒れていた。しかしその右手にしても、もはや力が入っていないことは一目瞭然であった。

「しっかり…しっかりなさいまし!セイ殿!」

 璃子は以前セイが自分にそうしたように、背に手を置いて声をかけた。セイは小さく「う…」とうめき声を上げたが、それでも指先一つ動かすには至らなかった。

「セイ殿…お気を確かに…」

 璃子はひどく辛そうなセイの腕を自らの肩にかけ、ゆっくりと彼の体を抱き起こした。その刹那に鬼の面の紐が緩み、カランと音を立ててセイの顔から面が落ちる。璃子は落ちた面を見つめ、思わず動きを止めた。

 これより上にセイの体を起こせば、彼の素顔が見える。確かにそのお顔を拝見したいと思ってはいたが、これまでのセイの頑なに面を外さなかった態度を思い返し、それ以上どうにもできなかった。

 セイの素顔は今、力なく垂れ下がった短い白髪のその下にある。

「…もう良い。」

 小さく押しつぶすようなセイの呟きが耳に入る。

「…と仰いますと…?」

 璃子は自分がひどく場違いな返事をしたと思った。けれど本当に何を〟良い〝と言ったのか、その真意をつかめていなかったのだ。体を抱き起こすことを言ったのか…或いは…

「無様なところを見せた。」

 そう言ってセイは自らの力で顔を上げた。璃子は間近でそれを見た。端正な顔付き、緑色に妖しく光る瞳…まるで猫の目のような三日月に似た縦線がその中に浮かぶ。荒ぶる鬼の面とは対称的に、あまりにも静かな表情。どこか見覚えのある顔立ちだった…けれどいつの記憶なのかは全く分からない。

「ゲホッ…ゲホッ…!」

「あぁ…大丈夫でございますか?」

 ひどく咳き込んだセイを、璃子は慌てて気遣った。その素顔にばかり気を取られていたが、改めて見ればセイは体中が傷だらけになっていた。まるで内側から切り裂かれたような独特な傷跡。自身の体内に取り込んだ鎌鼬の影響なのだろうか…あちこちから血が滲んでいる。

「…私を…追ってきたのか?」

 喘ぐようにセイが尋ねた。その緑の目が直接璃子に向けられる。未だ彼の息は荒い。

「はい、貴方のことが気掛かりで…。射られたりしなかったかと…。」

「矢は…当たらなかった…」

「ですがひどくお辛そう…お医者様にかかった方が…」

「いらぬ。この程度…いつもの事だ。」

「〟いつも〝…災いを取り除いていて下さったのですね。」

 璃子の矢継ぎ早な言葉に、セイは静かな目線を向ける。何も言わずとも、その緑の瞳が肯定している。

「あぁ…村の者のなんと愚かな…。皆、貴方が災いをもたらしていると…」

「…言わせておけ。」

 セイは一度瞳を閉じて溜め息をついた。

「ですが、私は貴方への誤解を解きたいのです。」

「必要ない。」

「しかし…」

「いや…〟今は時期ではない〝と言おう。鬼はいるのだ、私の他に。それを見極めるまではこの均衡を崩してはならぬ。」

 セイはそう言って体を完全に起こした。ふぅっと小さく息を吐き、遠くを何処ともなく見つめるようでいながら、その緑の瞳には固い決意が宿っていた。

「璃子、そなたはすぐに帰れ。」

 セイは呼吸を整えながら、暗闇に映える緑の目を璃子へと向ける。彼のその言葉は、つっけんどんながらも、とても暖かみのあるものだった。

「貴方をこのままにしてはいけません。」

 白髪を血で一部赤く染め、体中に見慣れぬ傷を沢山負ったセイを前にして、璃子の心はひどく痛んでいた。このような手傷を負った状態で暗い森の中に一人でいるのは、体力以上に精神力を消耗する。もしこれが自分なら人恋しくてたまらない。

 たとえセイがこのような一人の夜を〟いつもの事だ〝と言ったとて、彼をこの場に一人にするのは、自分を置き去りにすることとまったく同じ感覚であった。

「いや、帰れ。あの騒ぎの中いなくなったとあれば、いらぬ誤解が増えるだけだ。新月のたびに増える誤解を、私もこれ以上は背負いたくない。」

 再び小さく息を吐きながらセイは目を伏せた。その表情には僅かに哀しさが見て取れる。璃子はぐっと唇を噛みしめ、悔恨に頭を垂れた。これほどセイに近いところにいながら、何一つ出来ない自分がひどく歯痒かった。

「…申し訳ありません、仰るとおりに。けれどせめて雨風の凌げる場所へ。」

 そう言ってセイを自分を支えにして立ち上がらせると、そばにあった大きな木の根元の窪みに座らせた。そして取り落としていた装飾等と扇、鬼の面をそっと添えた。今はこうすることしか出来ない、とても情けない話だけれど。

「明るくなったらまた参ります。それまでどうかご無事で。」

「案ずるな。」

 璃子はセイの言葉に頷いて村の方へ歩き出した。しかし未だ息の整わぬセイが気掛かりで、立ち止まっては振り返った。

「行きなさい。」

「…はい、セイ殿。」

 セイに促され、璃子はそれこそ心を鬼にして山を下りていった。〟行け〝と言ったセイの言葉が頭に残る。その柔らかな物言いに、璃子の記憶が確かに反応を示していた。

 

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