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第三章「鬼詣で」

 …二度と来てはならぬ

 

 鬼の口にした冷たい響きが幾度も頭を駆け巡る。けれどその冷たさが鬼そのものなのだとは思えなかった。あの方はもう二度も私を助けてくださった。不快な膜から、そして迷い込んだ山の中から。

 鬼…人を喰らい災いをもたらす者。そう言い伝えられてきた。確かに災いはひっきりなしにこの村を襲う。神楽の面を付けた鬼の姿に畏怖の念を抱く。しかしそれは本当にあの方のせいなのだろうか?璃子はそれを思うたび、心に掛かるものがあった。そして同時に疑問符が浮かぶ。違う…決してそうではない、と。

 自らが口にした「真の所も鬼なのか」という問いに、あの方は肯定も否定もなさらなかった。何か事情があるのだわ。

 そう思いを馳せながら、璃子は釜に残る白飯に視線を落としていた。

「璃子や、若様からお遣いのお言付けですよ。」

 朝餉の片付けに膳を下げながら母は炊事場に顔を出した。

「はい、母様。何でございましょう?」

 璃子は振り向きながら僅かにドキリとしていた。母の言葉に反してオニヤンマを追ってから二日、母に対しての負い目が鼓動を早まらせる。

「まもなく大奥様の命日ですから、花を幾輪か摘んで参るようにと。山の戌亥に咲く桔梗が見頃であろうからちょうど良いでしょう。」

「戌亥…」

 今まで鬼に出くわしていたのは酉…西の方角。僅かに逸れてはいるけれども、会える可能性はある。次はいかなる理由をつけて山へ行こうかと考えていたが、これは好都合だと璃子は思った。

「璃子…」

「はい?」

 璃子の考え込む表情を見て母が呼び止める。

「若様や大旦那様は貴女が鬼と鉢合わせた事をご存知ではありません。それ故に山への遣いをお申し付けになるのですが…。もし貴女が山へ行くことを不安や恐怖に感じるなら、お断り申し上げても良いのですよ。」

「いいえ!…いいえ、母様。」

 璃子は〟好機〝と睨んだが故に強めてしまった返事を、慌てて静かな口調へと戻した。

「折角若様がお申し付けくださったのですから、私もそれを全うしとうございます。どうか母様…あぁ…私のことで心をお痛めにならないでくださいな。」

 一度は母様を裏切った身…そして今再び同じ事を目論む私。既に私も母様のお優しいお心遣いを受けてはならぬのでしょう。

「…分かりました。ただくれぐれもオニヤンマの噂を忘れぬように。」

「承知いたしております、母様。ご安心くださいな、山は広うございます。あの山中で再び鬼に会うなど、枯山水の魚に小石を当てるようなもの。鬼は幻に過ぎませぬ。」

 そう…あの方は人、さも鬼の化身であるかのように振舞ってはいても、あの時の躊躇いが人間らしさを物語る。人々の口にする〟鬼〝とは疑心暗鬼のことで、本当は鬼など山にいないのかもしれない。さればこそ鬼の存在は枯山水を泳ぐ魚の如く幻のようなもの。

 私がお会いしたいのは噂に上がる鬼ではなくあの〟鬼の方〝なのだ。

「では璃子や、必ず日の暮れる前に。」

「はい、母様。」

 そう言うと璃子は慌しく下げられてきた膳を洗い始めた。

 

*******************************************


 璃子が山の戌亥に来たのはちょうど午の刻を少し過ぎた頃であった。眼前には秋の柔らかな日差しと風に揺れる桔梗の波が広がっていた。五角形の紫の花弁が乱れることなく斜面に続く。母の言うとおり、桔梗はまさに盛りの頃であった。

 伊國の大奥方、つまりは大旦那・喜一郎の正妻が早世した年のこの時期は、秋の冷たい長雨が続いて桔梗を供えることが出来なかったのだと母は言う。思い起こせばその年が最も多く鬼の災いに見舞われていた。その上何人もの村人が忽然と姿を消しては、不可解な死を遂げるということが後を絶たなかった。死体はいずれも人の成せる業とは思えぬもの。人々が鬼の存在を口にし始めたのも、ちょうどその頃からであった。その折にお亡くなりになった大奥方の死の理由もそれが為だと多くの者が口にする。

 本当にお可哀相な大旦那様。大奥様のみならず同じ時期にそのご嫡男までお亡くしになって、愛妾の子とはいえ公三郎様がいらっしゃらなかったら、さぞや心を痛めていらしたことでしょうに。公三郎様は神様がお与えになった正に神童だったことでしょう。

 璃子はそう考えながら丁寧に桔梗を摘み取り、持ってきた手桶に差し込んでいった。

「さて…」

 璃子は長らく曲げていた腰を持ち上げて辺りを見渡した。木々の開けた場所に広がる桔梗畑はその続く限りの見通しが利いたが、そこに捜すものの姿はなかった。

 オニヤンマ…目にすればすぐにでも追いかけよう。しかしいくら見渡せど桔梗畑にはただ風の吹くばかり。鬼がいるときに恒常的に現れないところをみると、オニヤンマの話は確かに噂に過ぎないのだろう。初めて鬼の方にお会いした時にもオニヤンマは現れなかった。さすればいかにして会いに行くべきか…

「どなた?!」

 璃子は突然背後に気配を感じ、素早く振り返った。僅かにゾクゾクとするような悪寒が走った…良い兆候ではない。それはあの時飲み込まれた不快な膜を思わせる。だが振り返れども何もない。何もないことがあの時と同じである事を裏付ける。

 ここは山の戌亥…伊國の安全圏にすぐに逃げ込める場所ではない。璃子は周りへの注視を途切らせないまま足元の手桶を持ち、桔梗畑の中央へと後退りした。四方の木の影から何かが飛び出してきそうで、少しでも距離をとりたかったのだ。辺りは耳鳴りがするほどに不気味に静まり返り、先程まで風に揺れていたはずの桔梗も微動だにしていない。まるで時が凍り付いてしまったかのような瞬間…不安を掻き立てる。

「な、何者です?!いるなら出ていらっしゃいな!」

 璃子は震える声を辺りに響かせた。だが何の反応も返ってはこない。この辺りのどこにもいないようで、すぐ側に纏わりついているような不快な感覚…もしあの時と同じ事になれば…

「ああ…っ…!」

 璃子は不意に立ちくらみ、その場にしゃがみこんだ。あの不快な膜に先立つ空気が体を通り抜けたような気がした。両腕が震え体に全く力が入らない。顔を上げて辺りを見渡しても、一体自分が何を見ているのかが分からない。自分の意思とは関係なく眼球が激しく動き、そのせいでひどい眩暈に襲われた。天も地も分からなくなる…立ち上がることができない。

「うぅ…いけない…」

 璃子は酷い吐き気を伴いながらも、何とかこの不快な膜に抗っていた。しかしどんどんと重くなっていく体、狭まっていく視界…あの絶望的な膜が辺りを包み込んでいる。

 

 何とか…何とかしなければ…このまま飲み込まれては…。

 

 もしこれで死のうものなら若様がお気に病む…母様がお嘆きになる…。何より鬼の方への疑惑を深めてしまっては…ああ…けれど…

 

 

 

「…そのまま動くな。」

 失いかけた意識に静かな声が囁きかける。いつの間にか倒れこんでいた璃子の背には、そっと手が置かれていた。

「…あ…鬼の……」

「静かに。」

 鬼はそう言うとバッと歯切れのいい音を立てて扇を広げた。今度は目と鼻の先で鬼の舞を見る。先日と同じように緩急をつけた扇の動きで周りの空気を自分に集め、不快な空気を和らげていく。それに伴って璃子の体も軽くなっていった。

 やはり思っていた通りだった…この不快な膜の根源がこの方であるはずがない。この方は今、何らかの方法で不快な膜を取り除いてくださっているのだ。

「立てるか?」

 ややあって扇をたたみ、鬼は立ち上がって璃子を見下ろしながら尋ねた。

「あ…はい…」

 璃子は多少ふらつきながらも頭を抑えて起き上がった。若干の眩暈は残っているが、今は天地がはっきり分かるまでに回復している。時が再び動き出したのか、桔梗が揺れ木々の音に鳥が囀る。まるであの時間が幻であったかのよう…けれど傍らには鬼の方が佇む。またもすんでのところだったのだ。

「あの…ありがとうございます、鬼の方。貴方に助けられたのは、これで三度目でございますね。」

「礼には及ばぬ。」

 弱々しい笑顔の璃子に鬼はつっけんどんな返事をする。しかしその場を立ち去ったりはしない…確実に先日とは違う。

「何故山に来た。」

 鬼は〟二度と来るなといったのに〝という雰囲気を言葉に宿す。

「それは…伊國の大奥様への花を摘みに…」

「お前は命を狙われている。」

「わ、私がでございますか?!しかし一体何者に…」

「お前に花摘みを言い付けた者。」

「まさか…いえ、そのようなことはございません。」

 璃子は戸惑いながらもきっぱりと否定した。それを言えば思い当たるのは、若様か大旦那様か母様…どなたも有り得ない。

「いずれにしても気をつけることだ。私もそうそうは来ない。」

「…はい。」

 璃子は不安に顔を歪めながら小さく返事をした。心で何度も〟偶然が重なっただけ〝と言い聞かせながら。

「用が済めばすぐに立ち去れ。ならべく山に踏み入れるな。」

「あ…お待ちください!これを…!」

 璃子は踵を返した鬼を呼びとめ、懐から竹の皮の包みを差し出した。それは朝餉で残っていた白飯で握った白むすび。せめてものお返しのつもりだった。

「栗を私にくださいましたでしょう?」

「…あぁ…」

 鬼は〟言われて思い出した〝という声を出した。

「そのお返しになればと思いまして…」

 璃子はおずおずと包みを鬼へ差し出した。もしかしたらお受け取りにならずに立ち去ってしまうかもしれないけれど…

「…かたじけない。」

 その言葉と共に差し出した手から重みが消える。包みは今や鬼の懐にしまわれていた。

「あの…!不躾ですが…!」

 璃子はこれぞ好機の中の好機だと、慌てて言葉を繋げた。

「お話をしてくださいませんか?せめてお名前だけでも…私、貴方を知りたいのです!」

 鬼は今、面の下で確かに驚いている…璃子はそう感じていた。二人の間を満たすのは、ただ風に揺れた桔梗の擦れあう音だけ。

「…名は?」

 ややあって鬼の方から尋ね返した。

「あ…瑠璃子(るりこ)と申します。けれど皆は璃子と。」

「…瑠璃姫と区別するためか。」

「なんと…瑠璃姫様をご存知なのですか?!」

 思いがけない鬼の回答に璃子は心底驚いた。瑠璃姫とは喜一郎の正妻、大奥方の名前。縁遠い離れた村から嫁いできた上に、十年も前に亡くなった身ゆえ、村人でさえ「大奥方様」としか口にはしていなかった。それを何故山に住み着く鬼の方が知っているのか…。

「…ただ知っているだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。」

「そうですか…瑠璃姫様…お可哀相な方。伊國家にお嫁ぎになって数年で早世なさいました。その名の如く瑠璃石のようにお美しく、またお優しい方でした。ご存命のうちに十分にお世話致すことは敵いませんでしたが、小間使いの娘の私にその御名をくださって…それがあのように早くご嫡男と共にお亡くなりになるなんて…。もうすぐ瑠璃姫様の命日になります。この桔梗はその為のものなのです。」

「成る程…」

 鬼はどこか苦々しげに意味深な一言を呟いた。その一言が何を意味するのかは分からないままだったが…。

「あの…貴方のお名前を伺っても?」

 ややあって璃子は遠慮がちに尋ねた。鬼は遠くを見つめるように桔梗畑に佇む。先程と違い面の下の表情は全く掴めない。

「……セイ。」

 風に紛れるような一言。

「セイ殿?」

「呼び捨てで構わない。」

「いいえ、殿方を呼び捨てに致すなど、はしたない事だと母が申しておりました。」

「…では好きに呼べ。」

「はい、有難うございます、セイ殿。」

 璃子はそう言って丁寧に頭を下げた。その感覚が何故か懐かしい…ちょうど公三郎様に致すそれととてもよく似ている。何か大事な事を忘れているような…けれど何を思い出すでもない。

「…どうした?」

「あ、何でもございません。」

 璃子は顔を上げて鬼を見た。鬼は未だその面を取る事がない。面の下でどのような表情をしていようと、璃子の目に映るのは黒い鬼の怒った顔。もちろん彼が怒ってなどいないことは声で判断がつこうとも、どんな顔なのか、どんな表情をしているのか、まったく掴むことが出来なかった。セイの言葉はその一言一言が、璃子に何かを考えさせる。それが璃子の中で即答されない事が、ひどくもどかしい。

 セイと名乗った鬼は、そんな思考を働かせている璃子を尻目におもむろに屈みこむと、璃子と同じように丁寧に幾輪か桔梗を摘むとそれを手桶にそっと入れた。

「花はもう十分だろう。」

 相変わらずくぐもった、しかし暖かみのある声。

「帰れ。じきに日が暮れる。」

「はい、セイ殿。また…お目にかかっても…?」

 璃子は素直に返事をしながらも小さく尋ねた。

「ならぬ。少なくとも新月を迎える頃は山に立ち入ってはならぬ。分かったら即刻帰れ。」

 それだけ冷たく言い放つと、セイは素早く踵を返し飛ぶが如く桔梗畑を後にした。その姿は重なり合う木々によって、小さくなるのを待たずに見えなくなっていった。鬼の摘んだ幾輪かの桔梗…鬼の邪気に当たった草花はたちまちに枯れるのだと聞いたことがあった。しかし桔梗は璃子が摘んだものと同じように、ただ手桶の中で僅かな風に揺れる。

 

 鬼のようでありながら、鬼とは全く異なる性質を持つ者…あの方は一体誰?


 璃子は暫くセイの走っていった方向を見つめていたが、不意に冷たい追い風が吹き、小さく溜め息をつくと手桶を携えて伊國家へと歩き出した。桔梗畑から出て行くまでの間、璃子は何度もその方向を振り返った。何処に隠れていたのか、今更ながらオニヤンマが後を追う。

 

 あの方の居場所が分かるなら、あの方の事を教えておくれ…

 

 璃子は心で小さく願うと、母が心配している事を思って伊國家へと帰っていった。


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