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第二章「逢ふ山」

 あの時の事を思い出してみる。

 

 最初に不可解と感じるのは、自分が意識を取り戻したその刹那。それまで死をも予感させるほどに絶望的だった空気が、一瞬にして晴れた。晴れたその訳は…鬼…そうとしか考えられない。さもあらば、あの不快な膜は鬼のせいではなかったのだろうか?鬼でなければ物の怪か…だが鬼以外の妖しが山々にいるなどとは聞いたことがない。

 邪気を祓うは神、あの場にいたのは鬼。辻褄がどうしても合わない。

 しかし一つだけ辻褄が合っていることもある。早生の栗を籠に入れた者…それはやはり鬼。入れたのはおそらく私が意識を失いかけた瞬間。気が付き、顔を上げたと同時に手を引っ込めた…あの手は私を捕らえようとも襲おうともするものでもなかった。思い返せば確かに何かを与えたように天へと向けられた掌。何故鬼はそのようなことを…。

 璃子はふと自分の手を見つめた。色白でふっくらとした若々しい自分の手。そういえば…もう一つおかしいことがある。舞を舞う鬼の手甲のその下も、同じような手をしていた。手だけではない…鎖帷子に覗いた腕も、面の際に見えた首筋も、とても噂に聞いていた老翁には見えなかった。確かに今まで鬼を間近に見た者がいると聞いた事はなかった、璃子自身鬼を直接見たことは一度もなかった。〟老翁〝を裏付ける証拠は何一つない。しかしそれとは逆の年若い証なら、璃子の目にしっかりと焼きついていた。齢二十を過ぎた頃…だろうか、若様と同い年か心持ち年上にも見て取れた。



************************************************************


 

「璃子。」

 庭の井戸端で心ここにあらずという表情で考え込んでいた璃子の名を、若い男の声が呼んだ。

「若様。」

 璃子は振り返り、縁側に立っている細身の男、常日頃〟若様〝と呼んでいる公三郎に歩み寄った。端正な顔つき、切れ長の黒い眼差しが璃子に静かに注がれる。長めの黒髪を緩い髷にして、いつもの簡素な菫色の着物を纏っていた。

「若様、いかがなさいました?」

「いや…私のことよりお前がどうかと思ってね。」

「私…ですか?」

 璃子は内心ドキッとしながらも、きょとんとした表情で公三郎を見つめ返した。

「昨日の夕餉の時に酷く青ざめていたから気になってね。私が栗を採りに行かせたことで何かあったのではと…」

「いいえ…とんでもないことでございます。きっと急に涼しくなってきた秋の風にやられたのですわ。お心遣い、痛み入ります。それよりもあれだけしか栗をお持ちできず、とても不甲斐なく…」

「そんな事はない。父上はとても喜んでお召し上がりだった。感謝するよ、璃子。」

「恐れ入ります。」

 璃子は深々と頭を下げ、その隙に公三郎の足を見遣った。いかにも箱入り息子の足らしく、野山を知らない綺麗なもの。あの鬼の足は違った…ただ汚れているのではなく、野山に順応しきった細くも剛健な足。若様と同じくらいの齢だとしたら、一体いくつの折より山に住み着いていたのだろう。

「どうした?璃子。」

「あ…何でもございません。失礼を致しました。」

 いつまでも頭を上げないことを公三郎に突かれ、璃子は慌てて弁解した。あの鬼の纏う空気はどこか若様に似ている…けれど何の確証もない。しかし確証のないことが必ずしも可能性を否定する事にはなり得ない。今信ずるべきは自らの直感。

もう一度会って…確かめたい。あの方が本当に災いをもたらしている鬼なのか。

 

 

「母様、山に住む鬼は一体何処に潜んでおるのですか?」

 璃子は寝しなに布団から顔を出して、行灯の揺れる光に浮かぶ母に問いかけた。

「まぁ…璃子や、そのような事を聞いてどうするつもりです?」

「ただ…知りたいのです。」

 その言葉に次ぐ〟もう一度会ってみたい〝という真意は口にはしなかった。璃子は内心、母が「教えられない」と口にするものだと覚悟していた。しかしその一方で強い目線で母を見遣る。母はそんな真剣な眼差しの璃子を前にして、立ち上がって狭い部屋の戸をしっかりと閉めると、再び璃子の近くに正座をした。璃子もそんな母の様子に布団から起き上がる。

「あくまで噂ですよ。」

 母はまず念を押す。

「鬼はいずれかの山のどこかにある廃神社に住み着いていると聞いたことがあります。それがどの山の頂上なのか、それとも中腹なのか…それすらも分かりません。見た者がいるとも聞きません。その廃神社はかつて三方の山神様を奉っていたもの…今は宮司もいなくなり、正確な位置を知る者もいないのです。何者かが古地図を見て憶測した…というもう一つの噂がきっと正しいのでしょう。」

「その古地図はどの御家にあるのですか?」

「さて…ただ伊國家でないことは確かです。」

 母は嗜めるような目線で璃子を見遣った。その表情に行灯の火の揺らめきが、不規則な影を作り出す。璃子は母に気付かれないように唇を噛んだ。噂と言っても不確かな部分が多すぎる。あまりにも曖昧で噂の尾ひれもつかないのか…これでは捜すあてすら掴めない。再び偶然に出会う事を見込んで山に入るのみか…しかしそれで昨日と同じことになりでもしたら、今度こそ命があるかどうか…

「…噂はもう一つあります。」

 ややあって母は切り出した。

「もう一つとは?」

「〟鬼の元にはオニヤンマ〝といいます。」

「オニヤンマ…ですか?」

 璃子は不可解と言った表情を浮かべた。数ある蜻蛉の中で最も大きな種類…オニヤンマ。その羽を広げれば大人が手を広げても足りないほどに大きく、体には黒と山吹の縞を持つ。幼子の憧れともいえるその虫は、木々や清水の豊かなこの村においても、なかなか見られるものではない。

「オニヤンマが鬼を慕っているのか、鬼がオニヤンマを手懐けているのか、それは分かりません。けれど共に現れる事が多いようです。それ故に子を持つ親はオニヤンマを見ると子供を家へと入れるのです。璃子、あなたもこれからは山でオニヤンマを見ることがあったら逃げねばなりませんよ。」

 その言葉は髪上げをした璃子への、母が今になって与えた大人の証。鬼に会いに行こうという璃子の隠れた真意を感じ取り、母は再度念を押したのだった。このオニヤンマの話は璃子の自衛のためを思って話したのだ、裏切るでない、と。それは璃子にも分かっている。そして自分が母を裏切れない事も重々承知。

 

 けれど母様、もしあの人があらぬ誤解を受けたまま〟鬼〝だと言われているのだとしたら、助けて差し上げなければならないと思うのです。それが出来るのは鬼を間近に感じた私のみ。

今ひとたび…もう一度だけ、出来るならあの面の下を垣間見たい。

 

「璃子、返事がありませんよ。」

「はい、申し訳ありません、母様。」

「さ、行灯の火を消します。早くお休みなさい。」

「はい、お休みなさいませ。」

 璃子はそっと頭を垂れると、再び布団の中へと潜り込んだ。行灯の火が消えて辺りが月明かりに仄暗くなっても、璃子は目を開けて天井を見つめていた。

 その目にあの鬼の姿が浮かぶ…ふとこちらを振り返って目の合ったあの瞬間。恐ろしい反面でどこか懐かしさを感じた。それに伴うのは哀しい、寂しい気持ち。璃子は静かに寝息を立て始めた母を横目で見遣った。そして静かに目を伏せて、僅かにお辞儀をするように首を動かすと、先程よりも深く布団に潜り込み、その重くなり始めた瞼を閉じたのだった。

 


*******************************************************************


 

 公三郎には〟先日の栗拾いでかんざしを落とした〝と伝えた。そしていつもつけているかんざしを外して懐に忍ばせ、璃子は伊國家の裏門から里山へと登っていった。

 昼間の里山は穏やかで、木漏れ日が揺れながら璃子に注ぐ。少し高台の開けた場所に出れば、そこからは鬼山村が一望できる。南方にある村へと至る一本道には道祖神が据えられており、その道に平行するように水田が並ぶ。向かいの卯の山から流れる川が水田を潤し、小さいながらも鬼山村の水田は安定した収穫を村人にもたらしていた。

 水田と山々の間には集落が並び、北方の子の山の麓には秋の豊作を祝う神楽の舞台が建てられていた。たとえどのような災いがあろうとも、秋の祭りは必ず行なわれてきた。伊國の領主が、子の山にある神聖な祠に奉納金を奉る限り、祭りは続けなければならないという一種の村人たちの意地のようなものでもあった。その時ばかりは皆、災いのことなどすっかり忘れたように振舞う。けれど実際、祭りを心の底から楽しんでいたのは子供らであった。大人になればなるほど、怖いものが増えていき目に見えてきてしまうもの。

 夕暮れとは異なり、昼間の山々はあちこちから鳥のさえずりが聞こえてきては人の心を和らげる。何も知らぬものが見れば、とてもこの山に鬼がいるようには思うまい。璃子でさえ先日のあの危機がなかった事のように感じられた。この穏やかな時間が絶えることなく続けばよいのに。それでも夜はやってくる。

 災いと鬼に縛られた哀しき村。

「鬼は廃神社に住む…か。」

 璃子は母の言葉を思い出して口にした。確かに鬼山村の三方を囲う山々には、それぞれ山神様を奉る社があるのだと聞いたことがあった。しかし鬼が出るからと人が出入りしなくなった頃より急激に廃れ始め、宮司でさえも逃げ出した。いや、鬼に殺されたのだと言う者もいる。そのために昨今の絵師が書き残す地図には神社が描かれなくなった。その反面で地図には〟鬼山村〝の落款を押す。もう…本来の村の名を口にする者もいなくなってしまった。本当の名を口にすると鬼が怒ると誰もが恐れて。

「ふぅ…」

 璃子は急な勾配を上がりきって一息ついた。まだそこは里山から少し昇った中腹にも至らない場所、けれど随分登ってきたようにも感じられる。これ以上昇ることを躊躇う気持ちがそう思わせるのか、間伐が行き届かなくなった山の鬱蒼とした雰囲気に璃子も足がすくむ。

 

 …帰ろうかしら…

 

 璃子の心が小さく呟いた。ここまで登ってきて出くわさなければ、彼女にそれ以上捜すつもりはなかった。もとより母親が心配する。この小さな裏切りをこれ以上広げるわけにはいかない。退いた足にパキッと枝を踏む音がする。

「あ…!」

 璃子は目の前を滑るように横切った大きな昆虫に思わず声を上げた。細く大きく風に乗る縞の体。特徴的な緑の目がすぐに見て取れる。

「…オニヤンマ…!」

 自然と足がオニヤンマを追い始める。〟鬼の元にはオニヤンマ〝…廃神社に住むという噂にまして確証などないのに、璃子は何かに導かれるように追っていた。璃子の足の山の斜面を踏み分ける音だけがやけに大きく響く。先程までと風の強さも木々の様子も何も変わらないのに、まるで急に音が消えてしまったかのようだった。

 

 オニヤンマ…この前の時にはいなかったけれど…

 

 しかし体はその事実を受け入れない。璃子は自分が予め決めていた境界線を越えて山を登っていることには気付いていたけれど、オニヤンマを追う足と気持ちは止まらなかった。段々と息を荒くさせながら、どこか案内するように飛び続けるオニヤンマから目を離さなかった。

「す…少しお待ちよ…オニヤンマ…」

 さすがに息が続かなくなり、伝わるわけのない言葉をオニヤンマにかけた。木に手を付き息を切らし、璃子はふと上がってきた斜面を見てしまった。改めて自分が夢中になって追いかけてきたことを思い知らされる…幾重にも重なった木々の影が、麓をすっかり隠して見えなくしていた。

 ただこの斜面を下りていけば自然と伊國家の裏門に出るかしら…あぁ…せめて道々に標を残してくるべきだった…。

 璃子は強い後悔の念を宿して、もう姿を消したであろうオニヤンマに僅かな期待をもって振り返った。

「…あ…」

 璃子はその瞬間初めて言葉を失うということを体感した。姿を消したオニヤンマの代わりに山のやや上からこちらを見下ろしている影があった。西に向いているために逆光…けれどその透き通るような短髪が風になびいているのが見える。そしてその髪の間から僅かに覗く二本の角…

「鬼…」

 璃子がそう呟くと同時に、鬼は素早く踵を返し山を更に登り始めた。その刹那に黒い鬼の面の金色の目が日光に反射する。

「あぁ…!お待ちを…お待ちください!」

 璃子は息が整っていない事を忘れ、斜面を鬼を追って駆け上がった。木々の枝や根が璃子の進路を妨害する。鬼を見失うまいと前ばかりを見ていては、途端に足をすくわれる。鬼はなんと慣れていることだろう…あれほど素早く移動していながら音を殆ど立てていない。

「鬼の方…!お逃げにならないでください…!話を…!!」

 聞かせて欲しい…聞いて欲しい。栗のこと、舞のこと…何もかもが噂に(たが)う鬼の行動。考えるほどに無意識の内に感じる、締め付けられるような胸の痛み。それが鬼に対する恐怖心を凌駕していた。今はただ…恐ろしくとも、その(おもて)をこちらに向けて欲しかった。

 鬼はそんな璃子の思いを背に受けてか、不意に立ち止まり振り返った。そこは尾根の影となる場所で、金色の目や口元がはっきりと見て取れる。

「話すことなどない。」

 鬼が初めて口を利く。面の下のくぐもった声。その冷たい響きに璃子は木を五本ほど挟んだ距離を置いて思わず立ち止まった。

「何をしに来た。」

「あ…私は貴方にお目にかかろうと…」

「無駄な事。」

 一つ一つの言葉が細く深く突き刺さる。やはり青年の声…立ち振る舞いもとても老翁には思えない。

「帰れ。二度と来てはならぬ。」

「では…では貴方は…?」

 震える声で言葉を返す璃子に、面の下の不可解を示す表情が読み取れる。

「貴方は何故ここにおわすのですか?何故そのように鬼の装束を纏い山に暮らすのです?貴方の真の所は鬼などではないのでしょう?」

 風が吹き荒び、ザザザァ…と木々が激しい音を立てる。璃子も鬼も微動だにしない。

「…二度同じことは言わぬ。」

 鬼がややあって変わらぬ抑揚で突き放す。そしてなおも言葉を続けようとした璃子を遮って、おもむろに手甲を嵌めた手で麓の方を指した。その指の先に、開けた場所に僅かに覗く早生の栗…伊國の里山がそこにある。

「…貴方は一体…」

 璃子は栗に気を捉えていた目線を今一度鬼の方へと戻した。しかしその瞬間には鬼は忽然と姿を消していた。

 


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