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第十一章「いずれの時にか」

 「るり子姉さまー!」

 幼子独特の甲高い声が璃子を呼ぶ。今年数えの四つになる伊國家の跡継ぎが、パタパタと小さな足音を立てて璃子に駆け寄った。相変わらず庭の落ち葉掃きに勤しむ璃子の、その腰元に頭が届くくらいの小さな子。黒く繊細な髪の毛も、やっとのことで一つに結べるようになった。ふっくらとした頬が愛らしく、切れ長の瞳の割に大きな黒目が、更にその可愛らしさに拍車をかけていた。その身に纏う淡い紫のべべは、璃子の目に映るたびに懐かしさを呼び覚まさせた。

 このべべを同じ目線で見ていたのは、もう何年前になろうか。穏やかな日和には、同じように穏やかな記憶ばかりが甦ってくるもの。秋の高い青空は、以前鬼に怯えていた村の姿をすっかり洗い流すようによく映えていた。無情ともいえるほどに何事もなく過ぎていったここ数年の平和な日々は、どこか璃子の胸に虚しさの影を落としたけれど、その時の流れが伊國にはこの上なく必要なものであった。

 伊國家にはあれからすぐに養子が迎え入れられた。生まれたばかりの乳飲み子だったその子も、乳母のもとで大切に育てられ、今ではすっかり璃子の後を付いて回っていた。鬼の災いがぱたりと止んでから、もう間もなく三年になる。結婚適齢期に鬼の一件に居合わせ、いずれ公三郎の妾になるものだと言われていたことも今では叶わぬものになり、璃子はすっかり婚期を逃したものだと覚悟をしていた。

 しかし養子にもらった子の引き替えに、その故郷に嫁ぐこととなり、来月の大安を待って三神村を離れることになっていた。相手は伊國の分家にあたる家系で、幾分離れた村を治める伊浪家の当主。第二妻…つまり妾になるのだ。本来ならばすぐにでも嫁ぐところを、清十郎の最後の頼みを聞いた喜一郎の強い願いで三年の猶予をもらっていた。

 だがそれももう残り一月…三神村を囲う山々を見られなくなるのがひどく寂しい。

「はい、若様。いかがなさいました?」

 璃子は駆け寄って来た幼子を屈み込んで迎えた。若干転びそうになりながらも近づいてくるあどけない顔…それが少しだけムッとした表情を浮かべる。

「わたしのことは〟清二郎〝と呼んでくださいといったではないですか、るり子姉さま。」

「はい、そうでしたね。申し訳ありません、清二郎様。」

 璃子は困ったような笑みを伴って訂正する。喜一郎を〟大旦那〝と呼ぶように、内輪で呼ぶときには〟旦那〝や〟若〝と呼ぶことが通例であったが、この小さな伊國の跡取りは、事あるごとに璃子に〟名で呼べ〝と釘を刺していた。

 物心ついた頃にその名の由来が勇敢な義兄にあるのだと聞いてから、すっかり自分の名に心酔してしまっていたためだった。清二郎…数字違いのよく似た名、命名したのは喜一郎。養子を亡くした我が子の生まれ変わりと見ていた節も、確かになかったわけではないけれど、ただ〟清〝の字と共に後世にも引き継いでもらいたかったのだ。心に焼き付いて消えぬ、あの方の志を。璃子はこの子の名前が〟清二郎〝だと決まった時、暫くの間呼び違えることが多々あった。その度に母は「誰の名と呼び違えておるのです、失礼ですよ」と耳打ちしたが、その言葉にただ璃子と喜一郎だけが同じ表情をするのであった。決して忘れる事の出来ないお方…慕情は途絶えることはない。

 


 璃子がその名の由来主に会うことは、あれから一度としてなかった。清十郎の生きる証を幾度か山中で目にすることはあったが、ついにその姿を見ることはなかった。おそらくは地図から消えていたために、所在地の分からなくなった古い山神社に住んでいるのだろう。それでも璃子は夜に雨が降るたびに、三方の山々を見上げていた。〟山神と共に生きる〝と言ったまま、あの方は今も独りで山の中。今はどのような思いで、この三神村を見下ろしていることだろう。

 当時はあまり事実を受け入れようとしなかった村人たちも、すっかり成りを潜めた鬼や災いに、三年経ってようやっと自らの見解違いを認識し始めている。あの時〟これ以上背負いたくない〝といった誤解の荷を、少しは下ろすことができただろうか。今はただ清十郎も安穏な日々を送っていることを望む。

「公三郎兄さまのお墓に参りましょう。彼岸花が咲いたらというお約束でしたでしょう?ごらんくださいな、庭の隅で咲いてございます。」

 清二郎は璃子を急かすようにしながら、庭の一角を指し示した。そこには炎のように鮮やかな朱が風に揺れている。

「まあ…本当に。それでは約束を果たさなければなりませんね。」

 璃子が柔らかく微笑んで承諾すると、清二郎は満面の笑みを浮かべて大きく返事をした。清二郎にとって公三郎の本当の墓を知っていることは、とても誇らしいことであった。清十郎はその場所を教える必要はないという風に口にしていたが、璃子が伊浪にいずれ嫁ぎ、老い先短い喜一郎の亡き後を懸念して、清二郎にだけは打ち明けていたのだ。

 所謂〟秘密の場所〝というものを得て、まだ幼い跡継ぎはただ喜ぶばかりであった。だがそれもいずれの時にか、真実を受け止める日が必ず来よう。それまでは公三郎を忘れずにいれば、一先ずはそれでいい。

「何の花をお持ちしましょうか?」

 竹箒を離れの土間にしまいに行く璃子の後を追いながら、清二郎は辺りを見回した。とはいえ菊月の中旬、今は月にすすきの美しい折、墓に供える花はいずれもまだ咲ききってはいない。

「そうでございますね…」

 璃子は考え込むように呟いたが、その心内ではすでに決まっていた。

「戌亥の桔梗の気の早いものが咲いているかもしれません。行く道すがら、立ち寄って参りましょう。」

「はい、るり子姉さま。」

 清二郎は待ち遠しいと言わんばかりの声で返事をした。璃子がそんな清二郎に〟彼岸花が咲いたら〝と約束したのは、実のところ桔梗の咲くのを待つためであった。伊國の墓には桔梗が似合う。そして何より璃子にとって清十郎を象徴する花でもあったのだ。あの時桔梗を幾輪か摘んで、手桶にそっと入れた姿を今も鮮明に覚えている。璃子一人ならば今暫く桔梗の咲くのを待つところだが、しきりに行きたがる清二郎をこれ以上待たせるのは至難なことであった。春の彼岸に璃子が一人で行ったことを知って、一晩泣き明かした清二郎に、秋には必ず連れていくと約束して何とか落ち着けたのである。それでも逆に気味悪がって行きたがらないよりかはずっといい。これならばいつか真実を知っても、それを受け入れられよう。

 

 「さ、参りましょうか。」

 璃子は竹箒を返し、その傍らにあった手桶を代わりに持つと、振り返って清二郎に微笑みかけた。

「はい!るり子姉さま!」

 清二郎はこれ以上ないほど元気よく、璃子の手を自らの腕をいっぱいに伸ばして掴むと、わざわざ歩調を合わせている璃子を遅いとでもいうように引っ張って進んだ。その無邪気さは、どこか在りし日の公三郎を思わせる。璃子は思わず誰もいるはずのない後方を振り返った。

 幼い日、こうして公三郎に引っ張られて歩く璃子の後ろには、いつも清十郎が静かに控えていた。八つ歳の離れていた清十郎が二人に合わせてはしゃぐことは一度もなかったが、いつでも寡黙な優しい眼差しを向けていてくれた。

 いくつになっても…瞳の色が変わっても、それは少しも変わらなかった。返す返す清十郎に跡取りの器を見る…そして三年経った今なお残念でならない。



 

 清十郎様、貴方が今もご存命であることを小さな清二郎様がお知りになったら、どんなにか私を急かすか分かりませんわ。

 



 そう心で呟くと、人知れず自嘲的に小さく微笑んだ。それは清十郎に会いに行く、非常に都合のいい理由ではあったが、同時に決して裏切り得ぬ彼との約束でもある。

 〟清十郎は死んだ〝…それを貫き通すことが、親愛なる清十郎への誠意の証であった。

 



***************************************************************



 

 璃子と清二郎が三神村の戌亥までたどり着くと、予想通りそこには点々と僅かに桔梗が咲いていた。今年は例年に比べ、若干冷夏であった。そのせいで少しばかり桔梗の目覚めが狂ったのだろう。いつもなら咲かない時期に見る桔梗は、その一本一本がより美しく、摘み取ってしまうことが些か躊躇われる。

「何やらつむのが可哀相な気がいたしますね。」

 清二郎も感じていた率直な気持ちを口にする。

「さようでございますね。では手を合わせから頂くことに致しましょう。」

 そう言って璃子は目の前の一輪の桔梗に手を合わせた。清二郎も同じように瞳を閉じて合掌する。風が蕾の桔梗畑を揺らし、返事を返すようにその音を立てる。

「山神様、有り難く頂戴致します。」

「ちょうだいいたします。」

 璃子は清二郎に目を合わせて微笑むと、その美しい桔梗を丁寧に摘み取った。地から引き離しても尚息づくようにと、心を込めて手をかける。桔梗のざわめきはどこかくすぐったくてクスクスと笑う、柔らかな声のようにも聞こえた。

「花はもう十分でございますね。」

 十本ほど摘んだところで清二郎が立ち上がる。時期が早いとはいえ、まだそこここに開花した桔梗は見受けられる。それでも清二郎は手を止めた。

 〟花はもう十分〝…桔梗畑はかつて清十郎が口にしたのと同じ言葉を、清二郎にも言わせていた。

「あまり多く摘んでは、公三郎兄さまも良い顔をなさらないでしょう?」

「さようで…さようでございますね。」

 璃子は呆気にとられながら、いつの間にか成長していた清二郎を見つめた。血が繋がっていなくとも、清十郎の意志は確かに受け継がれていた。公三郎のように無邪気でありながら、清十郎のような穏やかさを併せ持つ…伊浪の末子が伊國に来たのも、山神よ、そなたらの思し召しであろうか。

「今度は桔梗が満開になるのを気長に待ちます。」

 途端に清二郎は悪戯に微笑む。嫁ぐ前に桔梗が咲きそろった頃を見計らって来ようとしていた璃子の魂胆は、いとも簡単に清二郎に見抜かれていたのだった。

「はい、清二郎様。」

 璃子は目に涙をうっすらと浮かばせながら頷いた。山神らも、そんな清二郎にきっと会いたがることだろう。

 


 璃子は携えてきた手桶に似つかわしくないほど僅かしか入っていない桔梗を揺らして、清二郎とともに山中を尚も歩いた。再び穏やかな日々を取り戻した三神村の三方の山々は、以前あれほど〟鬼がいる〝と恐れられていたことが、まるで嘘だったかのように思わせる。山々にはもうじき新たに神社が建立されるのだと聞いた。何回目かの里帰りには、それを見ることになろう。

「るり子姉さま、山神さまの木ですよ!」

 ふと物思いに耽っていた璃子の手をぐいぐいと引いて、清二郎が前方を指す。茅の輪が深く食い込むほどに成長した木は、あの時より更に雄々しくなった。後から知った…それは榊の木、葉が一般的な榊より大きいのは山神の力があっての事だろう。その幹の内には、未だ鬼の面とそれを貫く装飾刀を宿す。あの時のおぞましい断末魔、溶け出していった邪気、何もかもが鮮明に頭に残ってしまっている。だが二度と出てくることはできまい。

 山神の木は鬼の墓標…勿体ないくらいの代物だが、鬼もまた浮かばれぬ故の魂なら、これも一つの鎮魂になろう。

「清二郎様、桔梗を幾本か拝借致しますね。」

「かまいませんよ。」

「忝のうございます。」

 璃子は手桶から四本桔梗を取り出すと、それを山神の木の根本にそっと置いた。三方の山神と、そして鬼への手向けの花。無論未だに鬼は許しえぬ。だがそんな鬼にも鎮魂は必要であろう。

 今はただ山神に抱かれて永久(とこしえ)に眠れ。

 


 「るり子姉さまは、山神さまの木がお好きなのですね。」

 瞳を閉じて手を合わせた璃子を見て、同じく木に向かって手を合わせる清二郎が口にする。

「えぇ、大好きですよ。清二郎様は如何ですか?」

「わたしも大好きでございます。」

 そう言って互いに目を合わせ、にっこりと微笑みあう。

「この木が生えることになった発端には…清二郎様、貴方の御名の由来になった方が関係しているのですよ。」

「清十郎兄さまがですか?!真でございますか?!」

 この上なく敬愛する義兄の存在を感じ取って、清二郎は目を輝かせた。彼は公三郎のことも勿論義兄として敬ってはいたが、それは清十郎に対するものの比ではない。伊國とは絶縁し、長らく悪鬼によって名を封じられていたために、清十郎のことを詳しく話せるものはもはや璃子だけとなっていた。そのため清二郎は寝しなの夜話のたびに、璃子に清十郎の話を聞かせてほしいと懇願していたのだった。

「一体どのようなご関係なのですか?」

 清二郎は合わせていた手を璃子の腕にかけて急かす。

「それは……まだ内緒でございます。」

 璃子は清二郎の膨れっ面を承知で今一度真実を隠した。清二郎はまだ数え四つの幼子…真実を知らぬことよりも、中途半端に話して曲解されることの方が恐ろしい。

 かつて鬼山村と呼ばれていたものを、悪鬼の手から救った良い鬼が、未だ山神らとともに生きていると話す一方で、それを死んだものと話してきた清十郎と重ねさせるには清二郎には早過ぎる。そして清十郎もまた、今明かされることを望みはしないだろう。

「父上もるり子姉さまも、わたしにはまだ早いとそればかり。」

「まぁ、そのようにご立腹なさらないでくださいな。早いと申し上げるのは、いずれの時にお話する約束でもございます。」

「では必ずやお話くださるのですね?!」

「えぇ、致しますよ。ですから…この木を大切になさってくださいね。清十郎様や公三郎様をお思いになるように、私が嫁いでも…」

「そのお話をなさるのはまだ早いですよ、るり子姉さま!」

 璃子の言葉を断ち切って、清二郎は甲高い声を上げた。璃子は驚いて目を丸くして清二郎を見つめ返す。

「約束です。」

 清二郎はニコリと笑って言い切った。いずれの時にかの約束を〟早い〝という言葉に当て込んで。

「さあ、参りましょう、るり子姉さま。公三郎兄さまがお待ちです。」

「はい、清二郎様。」

 璃子も柔和な笑みを浮かべて、手を引く清二郎に従った。公三郎の最期を知り、清十郎が決して戻らぬと言った時には三神村の行く末を案じずにはいられなかったが、今は清二郎にそれを覆す光を見ている。山神らよ、貴方がたもきっと同じようにお思いの事だろう。三神村は再び栄える。

 

 





 窪地に佇む公三郎の墓には、今ではしっかりと地に根を張った山神の分木が茂っていた。柔らかな木漏れ日を受けながら、その葉が二人を迎えるように揺れる。璃子はあれから彼岸の度に必ずこの場所を訪れていた。本当の公三郎と過ごした日々など、ほんの一握りにも満たなかった。頭の中には未だ悪鬼が成り済ましていた成人姿の公三郎が残っているが、それでも幼い日の彼を忘れたことは一度もなかった。

 かつて年上だった死んだ者を差し置いて、自らは歳を重ねることのげに哀しきかな。

 璃子は今年、幾分遅れながらの婚期を迎えた。幼いままの公三郎の魂も、輪廻転生の輪に乗った頃であろうか。

 骨は地に還り、魂は再び現世に生まれゆく。決して変わらぬ世の営み。

「るり子姉さま、ご覧ください!」

 墓に近づき、その目に見慣れぬものを捉えて清二郎は駆け出した。璃子は慌ててその後を追って窪地に下りる。

「一体どなたなのでしょう?花がそなえてございます。」

 清二郎の指し示す先には、誰が摘んだか秋桜が数輪供えられていた。だが言わずとも分かる…それは紛れも無く清十郎が供えたもの。この墓を知る数少ない参拝者の、心ばかりの供え物なのだと伝わってくる。

 璃子は目を見張り、ただその秋桜だけをその瞳に映していた。確かに今まで幾度かこのような形で、山に生きる清十郎の存在を垣間見ることはあったが…一体いつ供えたものなのだろう、摘まれて間もないようにも見える。尤も清十郎が摘む草花は、断ち切られて尚生きているようであったが。

「きれいですね。どこの秋桜でありましょうか?」

「そうでございますね…」

 璃子は清二郎の横に屈んでその秋桜にそっと触れた。三神村の名を取り戻し蘇った山々には、あちらこちらでこのような花が咲き誇っているのだろう。それは清十郎しか知らない場所…こうして璃子と清二郎が墓参りに来ることを見越して、間接的に教えてくれている。山にはまだまだ知られていない場所があるから探しにおいで、と。

「きっと山神様がお遣いの鬼をよこしてくださったのでしょう。」

「あの良い鬼をですか?」

「えぇ、この秋桜がいずこに咲いているのか、探しに行かなければなりませんね。御礼を申し上げなければ。」

「そうしたら良い鬼に会えますでしょうか?清二郎はお会いしとうございます。」

 清二郎は目を輝かせて璃子に問う。

「いずれの時にか。」

 今は無意識に感じている良い鬼への思いが、義兄に対するそれと全く同じであることに気付く日も、そう遠くはないでしょう。その日を思って璃子は柔らかく微笑んだ。傍らできょとんとしている清二郎が、今に驚愕した表情を浮かべるかもしれないと思うと、とてもほほえましく感じられた。

「何がそんなに面白いのですか?」

「いえ、なんでもございません。さ、桔梗をお供えして帰りましょう。あまり遅くなっては父君が心配なさいます。」

「はい、るり子姉さま。」

 清二郎は訳が分からないながらも手桶から桔梗を取り出すと、秋桜に寄り添うようにそっと置いた。それを見て璃子は手を合わせた。山神に抱かれているのは、公三郎とて同じこと。ゆっくりと育つ若木が満足そうに枝を揺らす。

 

 公三郎様、そちらにいらっしゃるのですか?瑠璃子は次の大安に嫁ぎます。

 されど貴方を忘れは致しません。

 

 そして切に再会を願う。輪廻の輪に乗ったなら、またお会いすることも出来ましょう。

 



 「るり子姉さま、お嫁ぎになっても彼岸には必ずお帰りになってくださいね。清二郎に色々なお話をしてくださいな。」

「はい、そうしたらまたこの場所に参りましょう。」

「はい!」

 清二郎は心底嬉しそうに返事をすると、窪地の傾斜を駆け上がり伊國家へと歩き出した。璃子は立ち上がってその背中をしばし見つめていた。来年にはこの小さな背中も、一回り大きくなっていることでしょう。

 いずれ三神村のすべてを背負うことになる…逞しくあれ。

 

 

「?!」

 不意に璃子の目の前を何かが横切った。璃子は慌ててそれを目で追う。見つけることを願い続けて来たオニヤンマ…変わらぬ大きな体で流れるように空を舞う。

 

 …よもや…

 

 璃子はその場から動かないながらも、ずっとオニヤンマの行き先を追った。オニヤンマは璃子の目線を子の山の山頂方面へと導いていく。あれから暫く見ることのなかったオニヤンマ…鬼の遣いはすっかりなくなったものだと思っていた。あの方が鬼の面をなくしてから。しかし…

 

 清十郎様…

 

 璃子は木の影に人影を見つけて、心内で小さく呟いた。その体の半分と見えてはいないが、あれから随分伸びて一つに結んだ白髪や、変わらぬ赤い着物が見て取れる。オニヤンマはその人影の元へ迷わず飛んでいった。鬼の遣いたる羽は、未だ健在であったのだ。

「るり子姉さま、いかがなさいました?」

 遠くあさっての方向を見ている璃子を清二郎が呼ぶ。璃子はその声に無意識の内に動こうとしていた足を止めた。清二郎はなかなか窪地から上がってこない璃子を見て、引き返しては覗き込んでいたのだ。

「あ…いえ、なんでもございません。ただ…」

 璃子は一旦目線を清二郎に合わせ、それからすぐにオニヤンマの先に戻した。人影は幻であったか…見る先には重なり合う木々以外のものは何もない。

「何かあったのですか?」

 清二郎は訳もわからず璃子の顔と、璃子の見つめる先を交互に見遣った。そんな二人に柔らかな風が山頂から吹きおろす。その風に僅かに感じる暖かさが、今の今まで木の影にいた人物の存在を思わせる。間違いなくいらっしゃったのだ…清十郎様は。遠く隔てて尚、こうして心や思いは傍らにある。貴方もきっと…この幼い跡取りを見守って下さることでしょう。

「いえ…ただ山神様がいらっしゃったような気がしたのです。」

 璃子はその木の影から目を逸らすことなく、小さく呟いた。〟山神と共に生きる〝…あの方はご自身のそのお言葉どおり、清らかなお心で生きておいでなのだ。

「まだいらっしゃいますか?」

「…残念ながら。しかし三神村は山神様に守られた地…いつでもお側にありましょう。」

 璃子はそう柔らかく微笑むと、再び窪地に下りて来ていた清二郎の背をそっと押した。

「さ、今度こそ参りましょう。」

「次に来た折りにはお会いできますか?」

「山神様にそうお願い申し上げますわ。」

 璃子は清二郎の小さな手をとって、子の山を伊國家へ向かって歩き出した。西に傾き始めた太陽が、少しずつ赤くなりゆく光を照らす。璃子は不在を知っていながらもう一度振り返った。

 

 

 行きなさい。

 

 

 オニヤンマがその言葉を代弁するように、木々の間をすり抜けて飛んでいった。

 

 

 


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