第十章「縁」
清十郎と璃子は、人知れず伊國家の敷地へと戻ってきた。二人がこうして敷地内を歩くのはどのくらい振りになろうか。庭の片隅には当時幼子であった清十郎・公三郎・璃子の幻影が浮かぶ。子犬のようにコロコロと遊び育つ日々はとうに過ぎてしまった。今はただ庭の木の茶色い落ち葉が、池に小さな波紋を立てる。
「…静かだな。」
裏門から伊國の庭に入り、そして屋敷の縁側を歩く清十郎が小さく呟く。その足は迷う事なく喜一郎の部屋を目指す。
「えぇ…静かになってしまいました。」
そしてこれからはもっと静かになる。せめて清十郎が戻るなら、どんなに良かったか…しかし戻らぬと決めた清十郎の意志は固い。
「璃子、村の名を取り戻したことを忘れてはいけないよ。」
清十郎は璃子の心持ちを鋭く察して諭した。それと知らぬ内から清十郎を慕っていたのだ、血縁を知って尚募る慕情は致し方ない。
「三神村は鬼の呪縛から離れたのだ。これからは元のように活気づく。それに…」
清十郎は言葉の途中で立ち止まり、目の前の障子をスラッと開けた。部屋の中には片隅で体を丸めてうずくまる喜一郎の姿があった。つい先日璃子が目にした病的な姿よりも、格段に重い空気を纏っている。人知れず伊國の母屋に足を踏み入れたとはいえ、部屋の障子を開けた清十郎と璃子にまったく気が付くことなく、薄暗い中で明かりを点さず、虚ろな目付きでブツブツと何かを呟いていた。
「…大旦那もじきに元に戻る。」
清十郎は緑の瞳に憐れみを浮かべ、昔とはすっかり容姿の変わってしまった喜一郎を見据えた。その胸中で喜一郎を何と呼んだか、僅かに間をおいてから璃子に目線を移した。
「…はい。」
璃子はその目線を受けて小さく頷き、部屋に入る清十郎の後に続いた。瞳の中の三日月が消えたとはいえ、未だ白く変色したままの短髪と緑の目。今一度清十郎が伊國の母屋に戻った事に、璃子は遠い記憶から幼い頃の事を思い起こしていた。
当時一体誰がこのようになることを予想しただろうか。伊國の当主を継ぎ、いずれは三神村を支える礎になるはずだった兄弟は、手から流れ落ちる砂の如くいなくなってしまった。瑠璃姫をも亡くし、今や何が伊國に残るというのか。三神村が蘇ったところで、伊國は死んだとすら思えてならなかった。
「璃子。」
今にも泣きそうな虚ろな表情の璃子に、清十郎は再び振り返って名を呼んだ。
「お前が心配する事はない。鬼によって変えられてしまったものが、元のように戻るだけ。伊國も三神村のように蘇る。」
「…けれど、還らぬものもございましょう?」
浮世とは常に大切なものほど失いやすいもの。山神も三神村も伊國家も、何もかも璃子にとっては大切であったが、それ以上のものはどれほど望んだところで還りはしないのだ。
「璃子、そなたは優しいな。」
清十郎はそう言って、静かに璃子の頬を撫でた。それだけで泣きそうな心が少しずつ緩和されていく。
「…だからこそ、私には考えがあるのだ。」
「…考え…でございますか?」
「そう、必ずや伊國やそなたを良い方向に導くことになる。安心なさい。そのために大旦那の正気を取り戻すのだから。」
清十郎の揺るぎない瞳。何を考えているのかは分からぬも、璃子の心に安堵が広がっていく。
「はい、清十郎様。」
璃子は相変わらず泣き出しそうな気持ちを抑えて返答した。しかしその涙は、先ほどとはまったく異質なものであった。
同じ室内でそんなやり取りがあったにも関わらず、喜一郎は尚二人に気付かないように背を丸めていた。体はこの世にありながら、魂だけが鬼に囚われたまま、まるで生き人形のようであった。
「いかがなさるのです?」
その様子に璃子は些か不安を覚えた。無論清十郎の事は心から信頼している。しかし今や装飾刀も扇も、茅の輪でさえ手にはないのだ。
「…これが使える。」
そう言って清十郎は手を開いて、山神の木の葉を差し出した。璃子がせめてもの可能性を信じて持たせた一枚の青葉…そこには山神の力が宿る。清十郎は脇腹から血を指に含ませると、手の甲ほどの大きさの葉の表面に、血で一文字梵字を書いた。そしてそれを喜一郎の丸めた背中にあてると、ふっと息を吹き掛けた。すると見る間に赤い血文字が黒くただれていき、遂にはあの奉納の和紙のように文字の通りの穴があいてしまった。
「…これでいい。璃子…」
清十郎は葉を懐にしまいながら後退し、璃子に喜一郎の名を呼ぶよう促した。璃子はそれを受け、今一歩前に踏み出す。
「大旦那様…大旦那様…」
そっと肩に触れ、璃子は繰り返し喜一郎を呼ぶ。
「う…」
喜一郎は詰まっていた息を吐くように呻くと、ようやっと顔を持ち上げた。未だ背中を丸めたままに辺りを見回す。
「私がお分かりになりますか?」
「…瑠璃子…わしは…」
掠れた声で振り向いた目に、白髪の青年が映る。
「お…おぉ…そなたもしや…清十郎…!」
喜一郎はよろめきながら立ち膝で清十郎に歩み寄った。驚きと歓喜と後悔に、喜一郎の表情は崩れる。勘当したとはいえ親子の血縁はあるもの、まして長きに渡り悪鬼に苦しめられてきたとあっては、懐かしい親しみも一入であった。璃子の目にはこの二人のやり取りが、久し振りの親子の対面になるものと映っていた。しかし喜一郎の差し出した震える両手を清十郎は拒み、きっぱりと言い切った。
「いいえ、清十郎は死にました。」
緑の瞳が拒絶の色に光る。喜一郎を見据えた目は厳しく細められている。決して揺らぐ事のない険しい目付き。
「清十郎よ…許しておくれ、わしが愚かであった…よもやそなたが鬼などと…鬼は…真の鬼は…」
「大旦那様、公三郎様は鬼ではございませんでした。鬼が公三郎様に成り済ましておったのです。」
「そ…そうだ、そうであった…」
喜一郎はうなだれ、声を詰まらせてすすりあげた。邪気から逃れたとはいえ、その恐ろしさを改めて思い起こし、体全体を恐怖に震わせていた。
「鬼は貴方に正体を打ち明け、恐れと邪気で縛ったのでしょう。生ける姿から遠ざけ、自らの糧にしていた。」
目の前の喜一郎の怯え方に、清十郎は自らの見解の正しさを見ていた。死んだ妾の恨みすら邪気に転換し、喜一郎の恐怖を増長させては更なる糧にしていたのだ。先刻倒していなければ、伊國は完全に鬼に呑まれていたに違いない。
「そなたの言う通りだ…お、恐ろしい…」
「けれどその鬼は清十郎様が退治なさいました。どうぞご安心なさいませ…。」
璃子は震える喜一郎の肩をそっと支えた。伊國との復縁を頑なに拒絶する清十郎に代わって、今までの彼の苦心をどうしても伝えたかったのだ。伊國を始めとする三神村の何もかもを救っておきながら、人知れず去っていこうとする清十郎。誰にも知られぬなど悲しすぎる。戻らぬならせめてそれだけでも…。
「頼む、清十郎…戻って来てくれぬか…?わしはもう長くない…そなた以外に伊國家は継げぬ…!この通りだ…!」
喜一郎は璃子の言葉を受けて両手を合わせて懇願すると、そのまま突っ伏して頭を下げた。鬼が公三郎に成りすましていた今、正当な伊國の血を引く嫡男はもはや清十郎のみであった。だが血統よりも何よりも、その彼の器が喜一郎に復縁を口走らせていた。それで清十郎の心が変わるならどんなに良いか…。けれど璃子は知っている、清十郎の心は決して動きはしない。
「死ぬる者は二度と還らぬ。…清十郎は戻りません。」
「…うぅ…どうしてもか…?」
「どうしてもです。」
清十郎の目は喜一郎を見つめたまま一瞬の動揺も見せない。その目を見て、喜一郎は手を付いてひどく落胆していた。幼い頃、あれほど大きな存在として見ていた喜一郎が今やひどく小さく見えて、璃子は居た堪れない気持ちになった。それは喜一郎の意思を拒絶したままの清十郎とて同じ事。いや、むしろ拒む言葉を繰り返す清十郎の方が心を痛めているに違いない。
かつて伊國に拒まれて絶縁されたものが、今になってようやく受け入れられようとしているのだ。それなのにあえて首を縦には振らぬ。清十郎は今どのような気持ちで、欲したものを自らの手で断っているのだろう。
「そう落胆なさらないで下さい。瑠璃子がこの三神村の名を取り戻しました。村は再び栄えましょう。伊國は他より養子をお取りになってください。」
「その者を跡継ぎにとな…?」
「それがいい。」
清十郎は深く頷く。これこそが清十郎が先刻口にした〟考え〝であったか。その若干伏せて細めた目に厳しさはなかった。ただ老いた親を気遣う息子の姿がそこにあった。
「璃子…参ろう。」
「あ、はい。」
清十郎に呼ばれ、どこへとも分からないままに璃子は返事をした。
「今暫く伊國の小間使いをお借りします。」
立ち上がり清十郎は喜一郎にそう言ったが、喜一郎はただ啜り泣きながら頷いただけであった。その姿に僅かに目を伏せ、それでも踵を返すと部屋の入口へ歩き出した。璃子は喜一郎に一礼し、慌ててその後を追う。清十郎は璃子と共に部屋から廊下に出て、そして今一度喜一郎の部屋を振り返った。
正気を戻して尚、暗い部屋にうずくまる喜一郎…最後の最後まで、自分には父を落胆させる事しか出来なかった。
「さようなら。」
〟父上〝と口にする直前で、清十郎は音も立てずに障子を閉めた。それはあまりにも静かな今生の別れであった。
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「どちらへいらっしゃるのです?」
伊國の敷地を喜一郎以外の誰の目にも見つからぬ内に出て、暫く山を歩いてから璃子は尋ねた。日が暮れて群青に染まった空は、その東の切れ端を僅かに黒く変え始めていた。翌日の晴天を思わせる明るい月明かりが、木の間から二人を照らす。眼下に見ゆる三神村の家々からは、夕餉の煙が絶えることなく立ち昇っていた。
伊國の中は今どうなったろうか…本来ならば同じように夕餉の支度をしなければならない時間、母様がご立腹かもしれない。尤も、鬼の邪気から回復した喜一郎が、何か口添えしていることも考えられるが。
「…これから子の山へ。」
ややあって清十郎が呟く。その足取りは酉の山中を、鬼を封じた山神の木のもとへと辿っている。
「弟を弔ってやらねばならん。」
「公三郎様を…」
本当の公三郎様、瑠璃姫様より先に亡くなっていらしたのだから、その御歳は享年数えの九つ。急に子供遊びをなさらなくなり早くに大人におなりだったと思い込んでいた、その正体は鬼。なんとお可哀相に…墓穴や卒塔婆がなかったのは清十郎様だけでなく、ご兄弟だったのだ。
「弟の御霊も浄化してやらねばな。」
そう言って再び戻って来た酉の山で、山神の木を見上げた。その青葉は夕闇にあって尚輝かしい。悪鬼を幹の中に封じ込めている事を忘れてしまいそうになるほど、神々しく映る山神の木。あれほど強大だった邪気は、清十郎が突き立てた装飾刀に相成ってすっかりその姿を消していた。先刻のあの恐ろしさがまるで嘘のよう。あまりにも穏やかな夕暮れの酉の山。
「山神よ、その枝を一本頂戴致す。」
清十郎の静かな言葉に、木は頷くようにざわめく。清十郎は懐に忍ばせていた短刀を手にとると、差し出すように垂れ下がる枝を丁寧に切り取った。小さくとも山神の力を宿した清き枝。その枝には未だ生命力が漲っている。
「忝ない。」
恭しく頭を下げた清十郎と共に、璃子も一礼をする。山神の木はまるでその様子を微笑ましく見ているようだった。
「…さぁ急ごう。じき夜になる。鬼はなくとも夜の山は危険だ。」
「はい、清十郎様。」
二人は夕刻から足を休めることなく、続けて子の山を目指した。見送るような山神の木のざわめきがいつまでも聞こえていた。
「清十郎様は…いつ公三郎様をお見つけになったのですか?」
璃子は懸命に清十郎の後を追いながら尋ねた。黒い面の鬼が清十郎だったと知った今、彼が十年もの間山に住んでいることは明らかだった。それは清十郎が孤独に過ごしてきた年月をも物語る。誰に思い出される事もなく、ただ悪鬼と呼ばれ続けた日々…清十郎は〟誤解を背負いたくない〝と口にした以上に、その日々の辛酸を口にすることはなかったが、璃子はそれを思うだけで心が締め付けられるようであった。
「…今にして思えば…十四の頃であった。」
それは瑠璃姫が亡くなった年の齢。璃子は清十郎もその時に死んだものだと聞かされていたが、実際には瑠璃姫を死に追いやったと疑われ、伊國から勘当されていたのだ。
「伊國の者でなくなって…山中で行き場を探していた。せめて三方の山々の神社に行けば雨露を凌げると思ってな。その頃は神社も宮司も健在だった。だがこの身なりでは神社ですら受け入れてはくれぬ。それでとりあえず子の祠を目指した…その時にな。」
清十郎の背中が悲痛を物語る。璃子は胸元でぎゅっと拳を握り締めた。
「最初はそれこそ人骨とは思わなかった。しかし何か心に引っかかるものがあった。程なくして神社が廃れたと知って子の祠を去るときに、ふと墓に仕立てねばと思った…公三郎が私を呼んでいたのかもしれないな。」
そう言って清十郎は静かに脇に目をやり立ち止まった。その頃には辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。子の山は静まり返り、ただ僅かにひんやりとした風が吹くばかりであった。烏ももはや巣へと帰り、虫が秋を惜しむように鳴く。真実を知った今、この子の山は以前にも増して寂しく感じられる。
「ここだよ、璃子。」
清十郎は足を止めた傍らの、ちょっとした窪地を指して口にした。そこには丸みを帯びた大きめの石がせめてもの墓石として置かれていた。
「この石は清十郎様が…?」
「あぁ…かつて誰のものとも分からないほどにバラバラにされた骨のあった場所。よもや公三郎のものであったとは…。」
そう言って清十郎は目を伏せた。思い起こす異母弟の成れの果てに、ただ無念が募る。殺され、皮を剥がし取られ、かけらすら肉片の残らぬまでに食い荒らされた公三郎…いかに苦しかったことか、それと知られぬままにいかに無念であったことか…。
山に一人で暮らす折、いつの頃からか常に側を飛んでいたオニヤンマ。邪気を恐れ、災いの前触れには必ず姿を消していた。あれは死してなお伊國を案ずる弟の魂であったか。
公三郎…
清十郎はただ心中で小さく名を呼ぶ。
「公三郎様…こちらにいらっしゃったのですね。」
璃子は窪地に下りて、その名も無き墓石を優しく撫でた。その手に浮かぶのは鎮魂だけでなく懺悔の思い。知らなかったこととはいえ、鬼を公三郎だと呼び続けてしまっていた。その影で幾度となく〟その者は公三郎ではない〝と叫び続けていただろうに。璃子にはそれが聞けなかった…どんなに辛かったろうか…!
「弟はそなたを怨んだりはしない。」
清十郎も窪地に足を踏み入れ、璃子のそんな惜念を汲み取って口にした。
「弟はまこと純粋であった。これからそれに報いてやらねばなるまいな。」
そう言うと更に墓石に歩み寄り、手に持っていた山神の木の枝をその傍らに植樹した。小さな墓石にまだ頼りない若木が揺れる。だがいずれその母体樹のように雄々しい大木になることだろう。その常緑が御霊を鎮魂し、三神村の一つの礎になる。
「公三郎様…」
璃子は小さく名を呟いて手を合わせた。許しを請うことはしなかった。それは相手が自分に対して怒りを感じていることを前提にしてする行為、公三郎はもとより誰をも怨んではいないのだ。
ただそのかわりに感じていたであろう寂しさに手を合わせる秋の夕暮れ。
「さぁ、璃子は帰りなさい。」
ややあって清十郎は穏やかに帰宅を促した。山の何処からか梟が静かに鳴き、辺りは月の明かりがより一層映える夜になっていた。
「ここを下れば子の山に接する三神村のはずれに出る。そこまで送ろう。」
清十郎は窪地を上がり、南の方向を指差した。彼は早くも山を下りる体勢であった。子の山から見て南西に位置する伊國家を目の端には入れても、決してその方向を指し示さない。その様子には、どこか頑なに伊國家へ近寄るまいとも感じられる。
「清十郎様は、これからいかがなさるのです?」
璃子は公三郎の墓石の傍らで立ち上がり尋ねた。清十郎が戻らないことは知っていた、けれどその行く末は未だ口にしないままであった。
「私はこのまま山に。山神と共に生きる。」
「村へは…?」
「帰るまい。今更死んだと言われた身で俗世には生きられぬ。その上この風貌とあっては異形にほかならない。…世間は受け入れぬよ。」
璃子は言葉を返さぬまま、ただそう口にした清十郎を見つめていた。月明かりが緑の瞳を輝かせ、風が白い短髪を撫でる。そしてその顔には悲哀が滲む。
人間とはかくも哀しきものかな…鬼を恐れながら、その心の内に鬼を宿している。そしてそれを無くしては生きられない。璃子の中にも無論いる…清十郎と公三郎を奪った鬼を未だ憎んでいる。それは愛情故に宿る鬼。愛の証にも鬼が宿るなら、人とはかくも鬼と紙一重の存在なのだろう。
「…璃子、私の頼みを聞いてくれるか?」
「はい…はい!」
思いも寄らない清十郎の言葉に思わず璃子は返事を重ねた。三神村のはずれへ続く獣道のその途中で、秋の虫の音に清十郎の声が混じる。
「一つには弟の…公三郎の真実を村に伝えてほしい。尤も大旦那が口にするかもしれないが…。それから卒塔婆を一本、公三郎のためにこしらえてやってくれ。本当の墓の在りかを教えずとも、諡が必要だ。」
「分かりました、清十郎様。ですが貴方のことは…?」
「私のことはいい。清十郎は死んだままにして、ただ黒い面の鬼への誤解を解いてくれ。そして二度と現れぬと。」
「…はい。」
璃子は胸を締め付けられる思いを何とか飲み込んで、出来得るかぎりの落ち着いた声で返事をした。もう何度も清十郎に〟なんて顔だ〝と釘を刺された。ここで璃子が寂しがることを清十郎は望みはしない。
「それともう一つ…」
村の際に近づいてか、清十郎は歩みを止めて璃子に向き直った。
「じき大旦那がいずこかから養子を迎えよう。その子が三つになるまで、璃子が世話をしてやってくれ。」
三つ子の魂百まで…それで伊國は蘇る。
「はい、必ず。清十郎様。」
璃子は清十郎の頼みを力強く請け負った。喜一郎の部屋で口にした〟考え〝とは、ここまでの言葉こそが清十郎の真意。おそらく璃子が清十郎にまみえるのも、これが最後になろう。清十郎の緑の瞳は、それを思わせるように璃子を見つめる。
どれほど強く望んでも、成就しない事は山のようにあるものだ。
清十郎が伊國に戻らずとも、また山の中で幾度か会えるのなら、璃子にはそれだけでも十分な事であった。しかし清十郎は、自らの事で璃子の人生を縛る事を望みはしない。真に異父妹を思う形が、今この場においては〟別れ〝だったのだ。
璃子にも清十郎のそんな気持ちが伝わってくる…それを裏付ける緑の瞳。ただ優しく、穏やかに…清十郎が自らの兄だということが強く心に刻まれる。
「…私は随分不孝者であった。とりわけそなたら弟妹に対して…」
清十郎は不意に目線を璃子から逸らし、自嘲的な笑みを僅かに浮かべて呟いた。
「そんな…そのようなことはございません!ずっと…守ってきて下さったのではありませぬか!」
しかし清十郎は小さく首を振る。
「不孝者でなければ、こんなに後悔はしない。璃子、そなたには随分助けられた。そなたの方が長子にふさわしかったのかもしれないな。」
「清十郎様…」
「さぁ…そなたの母君が心配なさる。」
清十郎はそっと璃子の背を押した。璃子はそれに一、二歩踏み出したがすぐに清十郎へと振り返った。しかしそれに次ぐ言葉は見つからなかった。〟ありがとう〝でも〟さようなら〝でもない気持ちで満たされていた。どんな言葉を口にしようと…それを何度繰り返そうと、心に感じる不足感は決して拭えない。
「行きなさい。」
「…はい…」
璃子は清十郎に再び促されて、ようやっと村へ向けて歩きだし始めた。足が止まることを恐れて、一度も振り向きはしなかった。璃子の視界が涙で揺れる。今はただ生涯で一度も清十郎を〟兄上〝と呼ことの出来なかった蟠りが心を支配していた。