第一章「早生栗」
その山には鬼がいると言われていた。
三方を山に囲まれた盆地にあるこの小さな村は、他の地域より少しばかり災いが多かった。だがその〟少しばかり〝という言い方も、ある意味で村人たちの気休めのようなもので、実際には一月に二度も災いが起こることを誰もが〟多い〝と感じていた。
それを鬼のせいだと人は言う。村を囲う山々にいつからか住み着いた鬼が災いを呼ぶのだと、聞けば誰もが口にした。その風貌は単身痩躯、白髪に黒い鬼の面をつけた老翁だとされている。しかし誰が見たというわけではない。平素鬼は広い山のどこかに身を隠し、災いをもたらしに山を降りてくる時も決して面の下を明らかにしようとはしなかった。
村人は鬼を恐れ、度々祈祷師を呼んではお祓いをしたが災いは一向に収まらず、いつしかこの村は〟鬼山村〝という不名誉な字がつき、出入りするものもめっきり減るばかりであった。
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「璃子…璃子や。」
「はい、母様。」
庭を掃除していた小間使いの少女は、自らの母親に呼ばれ竹箒の動きを止めた。
鬼山村を治める伊國家の領地は、その背後に三方の山のうちの一つを抱えており、秋にはいつも山から落ちてくる落ち葉で庭が満たされていた。紅や黄に染まった美しい落ち葉から、ただ茶色く変色し、この年の山の緑を担っていた老いた葉まで、様々に風に乗ってはやってくる。それを掃除するのは常に一番年若い小間使いの役目で、この年の初めに髪上げしたばかりの少女は、まだあどけなさが残る色白の顔で毎日庭を竹箒で掃いていた。
誰に似たのか、くりくりとした大きな目があまりに着物や結い髪に不釣合いだと、仕える家の大叔母には散々苦言を呈された。このような顔では若の妾以外に嫁ぐ先もないでしょうとさえも大叔母は口にした。母は表向き「真に仰るとおりで」と言われるたびに頭を下げたが、大叔母の耳の届かないところでは「お前の顔はおばあ様にそっくりなのですよ。おそらく隔世遺伝なのでしょう。私の目の形に似れば良かったのですが…いずれにしても大叔母様のお言葉を気にしてはなりませんよ」と、切れ長の綺麗な一重で娘を見つめ返すのだった。
「若様から…公三郎様からお言付けですよ。裏の里山へ行って栗をいくらか拾って参れと。」
「栗ですか?しかし今時分はまだあまり採れませんよ。」
璃子は山を少し見上げて口にした。確かに伊國家に舞い落ちる茶色い葉は日毎増えてきてはいたが、それでも栗の生る時期には幾分早い。それは毎年落ち葉掃きをしていたが故に分かる事。山がどの程度色づき、落ち葉がどれだけ舞い落ちてくれば栗が食べ頃なのか、それを見極める目が璃子には文字通り自然と宿っていた。
「私もそう申し上げたのだけれど、拾えるだけで構わないとのことです。早生の栗なら少しはあるやもしれません。」
長く栗を採り慣れた母は、娘よりも研ぎ澄まされた目で後方の山を見遣る。
「分かりましたわ。けれど…公三郎様はよく私にお申し付けになりますね。先日も山へ行ったばかり…」
「それだけよくお前を見てくださっておいでなのですよ。さぁ、日が暮れてしまわないように早く行って参りなさい。」
「はい、母様。」
璃子はお辞儀をしてその場を離れると竹箒を元の倉に戻し、同じ場所にしまわれている小振りな籠を手にとって裏門へと歩みを進めた。
村を囲う三方の山々はそれぞれ方角になぞらえて、西を〟酉の山〝、北を〟子の山〝、東を〟卯の山〝といった。
璃子が向かったのは酉の山、仕える家の真裏にあるその山の木々も神無月になってようやっと緑色をなくしていた。暑い夏が終わりを告げ、最後のヒグラシが鳴かなくなって一月。やはりそれでも栗の時期にはまだ早い。
母様はああ仰ったけれど、早生の品種ですら生っているかどうか…。
璃子は空の籠をぶらぶらと揺らしながら、公三郎の父・鬼山村領主の伊國喜一郎の持ち物である山中を歩いた。璃子の家は代々伊國家に仕える小間使いの一族で、母に付き従い璃子も小さな頃から伊國家の御曹司の遊び相手になるなど務めてきた。公三郎とも幼少の砌にはよく遊んだものだが、そのような馴れ合いも早いうちからなくなっていった。
それが主従の関係、公三郎は当代の後に領主となり鬼山村を治めることになる人物。小間使いといつまでも遊ぶなと言われたのかもしれない。
そんな公三郎も今年で数えの二十になる。正妻も妾も亡くしたまま還暦を迎えた喜一郎は、歳にもまして老け込み意気消沈しているように見える。公三郎に世代交代するのも、死を待たないかもしれない…と、伊國家の小間使いたちは皆囁き合っていた。
「ここも…まだだわ。」
璃子はまだ青々とした毬栗を見上げて呟いた。栗が好きな喜一郎が長い期間栗を食べられるようにと、わざわざ早生の栗の木を植樹したのだと璃子の母は言っていた。璃子はまだその木を探し、見分ける事がすぐにはできない。何より鬼がいつどこにいるかもしれないこの里山で、その恐怖心が奥まで探しに入る足を鈍らせていた。
鬼山村は山々に囲まれた、ある意味で閉塞的な土地。唯一開けている村の南側の水田には、間もなく収穫となる稲穂が揺れてはいたが、村人全員が豊かな生活を営むには不十分で、いくら鬼がいるとはいえど、糧を山に求めないわけにはいかなかった。
かつては山の立派な木を、名のなる神社の御柱にするなど林業も盛んであったが、それもとうに過ぎた話。皆鬼が恐ろしく、いつの頃からか必要以上に山に関わる事を誰もが避けるようになっていた。
「どの木を西に見るのだったかしら…」
璃子は母に教えてもらった道標を見つけようと辺りを見渡した。母が言うには若干白い幹の木を、西に据えたなら正面を見よ、とのことだった。けれどどの木も同じに見える。見上げる木に生るのは緑の毬栗。涼しくなってきた秋の風が里山を賑やかにする。いくら拾えるだけで構わないというお言付けでも、拾わずに帰るわけには行かない。
喜一郎様が…大旦那様が召し上がりたいと仰ったのかしら…。それにしても公三郎様も意地悪ね、わざわざ早生の木をうまく見つけられない私に栗拾いを命じるなんて。
そう思いながらも璃子は微笑んでいた。昔、子供の頃に遊んでいた時も、公三郎様はそうだった。それは本当に…本当にお小さかった時。少年時代にはすっかり大人におなりで、めっきりお遊びにはならなかった。
ちょうど奥様方がお亡くなりになった折、きっと大旦那様が沈んでいらしたから、公三郎様が毅然といらっしゃるのかもしれないわ。
そう思いながら璃子は顔を上げた。その目に一際色づいた背の低い木が目に入る。
「あら、あれだわ。」
物思いに耽って歩くうちに、いつの間には呼び寄せられていたのか、璃子の目の届く範囲に茶色い毬栗が生っていた。やはりまだ色づいているものは少ない…落ちている実も僅かしかない。けれど木を揺らせばいくらかは落ちましょう。璃子はいそいそと早生の栗の木に駆け寄った。
「…っ!」
そんな璃子の足が不意にビクッと体を震わせるようにして止まる。足だけではない…指先も顔も髪の毛でさえ、まるで時が止まったかのように動きはしなかった。
「な…何が…」
訳も分からず璃子は呟いた。しかしその声もうまく出せない。体がガクガクと震えだし、鳥肌が全身にそそり立った。秋だというのに汗が噴き出してくる。早生の栗の木まであと数歩というところで、璃子は完全に金縛りにあっていた。それが寝ている時に起こるものならどんなにか良かったろう…。今璃子の体を縛り付けている金縛りは、その何倍も怖いものだった。
う…動けない…けれど逃げたい…けれど動けない…!
璃子は目だけを動かして自分の足を見遣った。足は地に根付いてしまったかのように微動だにしない。
誰から逃げるの?何処へ逃げるの?分からない…分からない…怖い!!
璃子は混乱状態に陥りながらも、周囲に素早く目線を動かした。せめてこの恐怖の根源が知りたい…見えない恐怖と見える恐怖とでは度合いが違う。けれど、どれだけ目を凝らしても周りには何もいない…見えない。体がぴくりとも動かないまま、璃子の呼吸は急激に浅く早くなっていった。先程まで心地よく聞こえていたはずの木々のざわめきが、今は恐怖を増長させる。
もしや…鬼…?
璃子の頬を冷や汗が一筋伝い地面へと落ちる。今まで鬼がもたらした災いには度々遭ってきたけれど、このような事は一度もなかった。まさか今までにないほどに、鬼が近くにいるのでは…?!
「?!」
璃子は何かの気配に感づいて、半ば無理矢理動きづらい首をその方向へ向けた。里山の遥か上…酉の山の頂上から何かがこちらへ向かってくる。それもおよそ人とは思えぬ速さで。璃子にはそれが見えるのではなく感じる。何者かが伊國家の裏門を目指すように近づいてくる…だがそれは何処に?これだけの速さで移動していると思われる一方で、全くその姿が見えない、草木を踏みしめる音すら聞こえてこない。さも遠くにいるような装いをしていながら、気配だけは近くにある。
近い…近い…もうすぐそこ…!
璃子の心臓は張り裂けんばかりに脈動していた。
「あ…!」
不意にどろりだかぬるりとした感覚が璃子を包む。この世においては決して感じえないと思えるほどの不快な感覚。息が詰まる…鳥肌が立つ…体がガクガクと一層強く震えているのに、自分の意思では体を動かせない。手足の先は冷たく感じられ、末端から這い上がってくるような痺れすらある。
「あぁあ…母…様…!」
璃子は咄嗟に母の名を口にした。しかしその声も不快な感覚の幕に吸い込まれていくように儚く消えた。目の前がみるみる黒くなっていく…視界が狭まっていく。
何も見えない…何も聞こえない…。あぁ…私は一体どうなってしまうの…?
しかし意識を失う寸前、璃子の耳にガサッと何かが地に降り立つ音が聞こえてきた。その音が璃子の意識を現に呼び戻したのか、今再び彼女の視界は元の通りに開けつつあった。それに伴い、不思議とあの不快な膜のように感じられるものが薄らいでいくのを感じた。強張っていた体が緩和され、痺れや鳥肌も徐々に消えつつある。
「あ…!」
急に金縛りが解け、足に力が入らなくなっていた璃子は思わずその場に座り込んでしまった。少しチクチクと痛みを感じる地面に、先程までのあの不快感が夢だったかのように思われた。けれど以前あがった息、引かない冷や汗…夢ではない、しかし同時にあれが現実だったとも思えない。
「私は…一体…」
璃子は恐る恐る顔を上げた。その目の前に見慣れぬ足が見える。濃い藍色の袴…白い線が裾の際に描かれている…そして長い事野山を駆け回っていることを思わせる草鞋…。璃子はその視線をゆっくりと持ち上げた。
腰には神楽で使う装飾刀を携え、むき出しの腕には鎖帷子を纏い、紅い丈の短い着物を襷がけにしている。日の光に空ける短い白髪は、歪な形の黒い顔の影の上でなびく。その…その顔は…
「…鬼…?!」
璃子は息を呑むように呟き、じりじりと出来うる限りの速さで後退りした。璃子が振り向いた一瞬で、鬼が手を引っ込めるような動作をしたのが見えた。一体その手をどうするつもりだったのか…。恐ろしさに染まる目に映る鬼は、噂に聞いたとおりの単身痩躯…まさか…まさかこのように間近に居合わせるとは…!
しかし鬼はそんな璃子を無視するように、手に持っていた扇を広げ辺りの空気を集めるように仰いだ。何をしているのか璃子には全く分からず、鬼から目線を外さぬまま手探りで落とした籠を持ち、背後の木を使って何とか立ち上がった。そして同じ目線の高さでまじまじと鬼の面を見つめた。
黒い顔面、渦巻く紅い眉、金色の瞳と食いしばった歯、額には般若のような角が生えている。鬼の面の怒ったような表情のその下は、おそらく無表情なのだろう。鬼はそんな璃子の目線を無視するようにゆっくりとした舞を舞いながら扇を翻らせ、そして途端にそれをパチンと勢いよくそれを閉じたかと思うと、今一度鬼は璃子の方を見遣った。面の金色の瞳の向こうと不意に目が合う。
「ひ…っ…」
璃子は怯えて息を呑むと、弾かれたように走り出した。そしてそのまま振り返らずにただ走った。もしかしたら鬼はあの扇を使って不快な膜を村へと運んでいたのかもしれない。この真下には伊國家の裏門がある…母様や若様たちに何かあったら…!
「母様!!」
璃子は庭の砂利に足を取られながらも、ちょうど縁側を歩いていた母の姿を見つけ走りこんだ。
「璃子…一体どうしたのです?そのように青い顔をして…」
母は縁側に倒れ掛かるようにして息を切らしている娘の肩に手を置いた。
「何もありませんでしたか?…私…もしあれがこの家に来ていたらと思うと…」
「何を申しているのです?璃子、落ち着いてお話なさい。」
少し厳しい母の物言いに、璃子は一息二息深呼吸をすると、未だ早鐘のように打つ胸を押さえて口を開いた。
「母様…私、鬼を見ました。」
「まさか…なんて事!体は何ともないのですか?!」
「えぇ…危うく憑り殺されるかと思いましたが…幸運にも逃げることが出来ました。本当に恐ろしい…もはやこれまでかと…。」
璃子はあの感覚を思い出して身震いをした。あのまま視界がなくなった先にあったものは間違いなく死。思い返すほどにすんでの所だったのだという思いに駆られる。
「ああ…けれど無事で何よりです。」
母は震えるような声で璃子を抱き寄せた。
「しかし母様…私栗を…」
そう申し訳なさそうに籠を持ち上げた。早生の栗をようやっと見つけたのに…
しかし璃子はその手に今まで気が付かなかった重みがあることに感づいた。籠を持ち上げるのに伴って、ガサリと微かな音を立てる。璃子は驚いて籠の中を覗き込んだ。そこには小振りな毬栗が五つほど、さも当たり前のように入っていた。
「まぁ…しかしこれだけでも十分ですよ。」
「しかし母様、私…」
「この栗は私が若様に献上いたしましょう。くれぐれも鬼のことは内密に…こと大旦那様には…。分かりますね?」
「え…えぇ…」
璃子は思わず言葉を飲み込んで、ただ母の言いつけに頷いた。何故…私は一つとて栗を拾っていないはず。偶然に籠の中に入るわけもない。仮に入ったとしたらいつの間に…
「さ、じきに日が暮れます。お上がりなさい。今日は特に戸締りに気をつけましょう。あなたは部屋で少しお休みなさいな。落ち着いたら夕餉の支度を手伝うのですよ。」
「…はい、母様。」
璃子は素直な返事をしながらも、心内は不可解なわだかまりでいっぱいだった。今はまだ恐怖から逃れた安心感で思考が疎かになっているけれど、それも徐々に整理されつつあった。
鬼山村の山の鬼…噂に反するこの直感は一体何を示唆しているのだろうか…。