3話 9701号室の秘密
迷いに迷ったせいで、現在14時25分。
落ち着いた心と、息を整えた体でナースステーションの前までやってきた。
――9701
さあ彼女の部屋はどこかと1番端の部屋のプレートに目をやった。
しかし次の部屋へ移動することなく、俺は足を止めた。
ナースステーションの向かい側の部屋。
――伊達陽菜子
個室なんだとわかった。
ドアの閉まっているその部屋に、名前はたった1つしかない。
ざわつき始めた心と松葉杖を脇に挟み、息を吸う。
そして3回ノックをしたが、返事はない。
どうしようかと立ち尽くしていると、1人の看護師さんに声を掛けられてしまった。
「どうされましたか?」
「あ、えっと、伊達さんのお見舞いに……」
「えーっと、ちょっとお待ちいただいてもよろしいでしょうか?」
「え?あ、はい」
看護師さんは彼女の部屋ではなく、なぜかナースステーションに行ってしまった。
そして、待てど暮らせど戻ってこない。
あまりにも待たされるもんだから、大事になってしまってた気までする。
ようやく来た人は、先ほどの看護師さんとは違う人だった。
「お待たせしてすみません。お名前を伺ってもよろしいですか?」
「松本です」
「松本さん。伊達さんから、松本さんが来たら部屋に入れてくださいと言われています。松葉杖、気をつけてくださいね」
「あ、ありがとうございます」
「伊達さんには触れないでくださいね。それからモニターとコードにも気をつけてください」
「え?あ、はい、わかりました」
正直何を言われているのかわからないまま返事をした。
看護師さんはなんとなく暗く見える表情で、彼女の部屋のドアをゆっくりと開けた。
隙間から漏れる光に視線を上げると、目の前の白い部屋に指先が凍えた。
手が小さく震え始めたが、松葉杖を強く握りしめる。
それでも自分の息がどんどん細くなっていくことを、止めることができなかった。
俺が部屋に1歩入ると、部屋のドアが閉ざされた。
この部屋にいるのは俺と彼女だけ。
俺が知っているおしゃべりな女の子には、カラフルなコードと管がいくつも機械に繋がっていた。
部屋にはモニターから規則的に鳴る機械音が空気を揺らしていて、女の子の呼吸音はかき消されている。
頭に心臓がバクバクと響いてきて、感じる恐怖を否定するために松葉杖を振った。
――ベッドに眠るその女の子は、俺の知らない女の子だった。
目の前の女の子は、俺の部屋に来るあの明るい彼女には見えない。
今にも消えてしまいそうな静けさと儚さに、ただ純粋に彼女が動かないことを不思議に思った。
「――びっくりしちゃうと思うよ」
彼女の言う通りびっくりした。
いや、びっくりを通り越した衝撃に頭の中が透明になっていく。
手の震えも止まった。
「伊達?」
俺の声は、機械の音に紛れて溶けた。
再び心臓が鳴りだし慌ててベッドに背を向けたが、ドアに手が届く前に手が震え始める。
途端に杖を握っていなければ、立っていられないぐらい足に力が入らない。
多分俺が彼女の部屋にいたのは、彼女が俺の部屋にいる時間と同じくらいだったと思う。
気がついた時にはナースステーションに声を掛け、廊下を歩いていた。
午後のリハビリを終え、ご飯を食べても、体を拭いても、どうしてもあの部屋が頭から離れない。
陽射しが温かいのに冷房が効いていて、スローモーションに見えた光景を鮮明に覚えている。
彼女がなかなか部屋を教えてくれなかった理由を一瞬で理解した。
――彼女を傷つけただろうか?
本当はあの部屋を見られたくなかったんじゃないだろうか。
俺のしつこさに断る言葉が見つからなくて、仕方なく教えてくれたのではないだろうか。
そう思うと同時に、なぜ彼女は俺を部屋に入れてくれたんだろうとも思う。
「――やっほー」
漫画を読む気持ちになれず、ダラダラと携帯を見ていた俺はその声に跳び上がった。
「お、お前!」
「びっくりしすぎ」
笑いながらするっとベッドに腰掛け、膝に頬杖をついて俺を見上げる彼女。
「会いに来てくれたんでしょ?」
「その……、ごめん」
明るい瞳と目が合って、俺はすぐに逸らしてしまった。
「謝らないで?そのつもりで部屋を教えたんだから。それより普通に入れた?」
「いや、看護師さんに声掛けられた」
「言っておけばよかったよね、ごめん」
「そんなの全然。っていうか、その、動いて大丈夫なの……?」
「大丈夫だよ。あれ見た後だと信じてもらえないかもだけど」
「信じるけど……点滴は?外して大丈夫なの?」
「大丈夫。あれは寝てる時だけつけてるんだ」
「……寝てたの?」
「うん、寝てた。私は眠り姫なの」
「あんな、だって……」
「お昼寝、とは言えないけどね。あーあ、今日もいいお天気だったのにな」
残念と口をとがらせる彼女は「19時35分か」なんてつぶやき、腕を組んで背伸びまでした。
昨日と同じ状況なのに、俺の気持ちは追い付かない。
あの姿を見せてくれたうえで、こうやって会いに来てくれたことと。
いつもと変わらない明るさでいてくれていることに感謝する気持ちと、こんな自分で申し訳ない気持ちがせめぎあっている。
「私がここにいるの、怖くない?」
「え?」
「昨日言った通り私友達なんていないからさ、ついうっかり声を掛けちゃったの」
「いや、それは別に。むしろありがとうというか」
「久しぶりに知ってる人見つけたからさ、ちょっと懐かしくなっちゃったんだ」
「俺も懐かしいって思ったけど……」
「――もう来ないよ」
「な、なんで?」
「怖い思いさせてごめんね」
「そんなの、謝んなくていいし」
「昼間にあんな姿見せちゃったのにさ、急に来なくなったら怖いじゃん?」
「まあ」
「私、正都くんに伝えたかったんだ」
「な、何を?」
「私と話してくれてありがとう」
「俺だって……」
「足、お大事にね!」
彼女はベッドからぴょんと跳ね降りて、後ろに手を組み笑った。
「――待ってよ」
なぜ彼女に声を引き留めたのかはわからない。
ただこんな別れ方をしたら、モヤモヤが残ると感じたのは確かだ。
「何?」
「伊達は、その……いつまで入院してるの?」
「ずっとだよ」
「……じゃあ、明日も会えるよね」
「会えるかもしれないけど、もう来ないって決めたんだ」
「俺が会いに行く、って言ったらどうする?」
「来ても多分私寝てるよ?」
「じゃあ起こす」
自分でもかなり無茶苦茶なことを言っていると、頭ではわかっている。
彼女と病院で再会してから顔を合わせたのは、今日の昼間を入れてもたったの4回。
嵐のように訪れ、太陽のような笑顔で俺の入院生活に入り込んできた彼女。
彼女のせいで「なぜ来るのか」から「いつ来るのか」へと、俺の気持ちが変わってしまった。
「夜なら会えるんじゃないの?」
絞り出した俺の言葉に、彼女は眉を八の字にしてそっと小さく笑った。
「――私の、重いよ?」
「それは……」
「それよりさ、やっと名前で呼んでくれたね」
「え?」
「すっごく嬉しかった!」
「いや、あの」
「――ありがとう!バイバイ!」
俺に背中を向けることなく、カーテンの向こうへ消えた太陽のような女の子。
彼女を2度は、引き止められなかった。
会いたいという気持ちだけで、あの部屋を見て手を震わせている俺に彼女を受け止められるのだろうか。
自分にそう問いかけた時、答えはすぐには出なかった。
静まり返った部屋。
友達がいないと言った彼女は、本当に来なかった。




