第8話 無恵のカナタ
その後、次々と横須賀クラスの生徒が閉鎖空間に一人づつ入れ替わっては恩恵の訓練やテストを行った。
人類の常識を凌駕する超常的な能力のどれもが栞にとっては驚愕だったが、本当に千差万別でまさに個性の発露と言えた。
一通りのクラスの生徒がおわって一段落したかと思った時に中山が心配そうに呟いた。
「戸隠彼方が来ないな」
先ほどのグラウンドでの跳躍テストと同様に顎鬚をさすりながら心配そうにして「ちょっと見にいきましょう」と栞をともなって外に出た。
時刻は夕方近くになっていた。少し西日になりかけて影が伸び始めている。
戸隠彼方はクラスの他のメンバーよりも身体能力が一段と低く、印象的な生徒だったので栞もよく覚えていた。
適応者とは言え、まだ大人になりきれてない子供である。クラスの中での出来不出来を察するに、彼方少年にはもしかするとメンタル的なケアが必要な状態かもしれない。
今頃訓練が嫌になって、予定を放棄して宿舎で膝を抱えていたりするかもしれない。と中山に話そうとした瞬間、前方から現れた人影を見て栞は絶句をした。
戸隠彼方がグラウンドの裏の道から現れた。
彼方はまだ分厚い重りをつけたランニングトレーニングをしていた。午前中からはじめているのでゆうに6時間以上走っている。
忘れていた。いかに適応者といえ、あの重量を身にまとい70キロ以上である。
他の生徒たちが軽々と2時間前後でクリアしていたのでつい感覚がずれてしまったが、常人であれば完走はおろか数キロも困難だ。
まだ遠目ながらも彼方が限界を迎えているのは誰が見ても明らかだった。
しかしながら、満身創痍の彼方は足を引き摺りながら半ば倒れながらもなんとか完走させようともがいている。
「ネズミ少年はやっと20周らしいよ。あんなボロボロで笑っちゃうよね。やっぱり彼方は適応者じゃないんじゃないの、先生」
いつの間にかニヤニヤとした表情の伏見が栞たちの横に立っている。他にも数人の横須賀クラスの生徒が周りで見ている。
皆が手を貸すわけではなく、じっと彼方を見ている。
栞は心配になった。明らかにオーバーワークだ。辞めさせないと何かが起きてからでは遅い。
「中山さん、止めたほうがいいです。すぐに医務室に」
駆け出そうとした栞を中山が制する。
「まだ…まだ、だめです。限界を自らで突破していくことで恩恵の能力が開花することがあります」と自分に言い聞かせるよう中山は唇をかみながら栞に告げた。
「もう、とうに限界だと思います」
「栞ちゃん、そんなことないよ。見てて」突然、伏見が先ほどの閉鎖空間で見せたグレープフルーツ大の火球を作ると彼方に向かって投げた。
彼方は小石につまづいたか、ちょうど突っ伏して倒れ込んだところだった。
まっすぐに放たれた火球がまさに彼方の後頭部にあたろうとした瞬間、コンマのタイミングで彼方が横にへばりながらも跳躍した。
驚くべきはまるで機械で判定したプログラムのように火球があたる直前に彼方は視線を向けることなく跳躍して躱したことだ。躱された火球はグラウンドの土に衝突して、消えた。
「ほら、まだ動ける。ネズミ野郎の真骨頂だ。あいつは目に見えるような恩恵が一切現れてない落ちこぼれのくせに、ギリギリでなぜか攻撃をかわすんだ。まさに臆病なネズミ野郎。能力を全て回避に全振りしているようなダセェやつだ」
伏見はいつの間にか嗜虐的な表情を浮かべて彼方をなじる。「伏見くん!あぶない、辞めなさい!」栞の言葉を無視して、二発、三発と伏見は火球を投げる。
その度によろけながらも間一髪のところで彼方が避ける。本人の意思というより、自動制御された体が不自然に回避を続ける、ロボットのような奇妙なグロテクスさを伴う回避。見かねた中山が「やめろ」と伏見の腕を抑えた。
「中山だって恩恵のないアイツが外敵をぶっ殺せるわけないってわかってるだろう。そんなのは適応者でもなんでもねぇ。あんなお荷物はこの横須賀クラスにはいらない」腕を掴まれた伏見は栞がたじろぐほどの怒りを瞬間的に沸かせる。
「それでも仲間を攻撃していい理由にはならない」
「は、どうせあいつには当たらないから別にいいだろ。せめてこの俺の恩恵の練習台になればいい。それに恩恵がないやつは適応者でも仲間でもない」
彼方はこちらの喧騒を気にするそぶりを見せずに、よろよろと起き上がるとゆっくりとまた走り始めた。
なお、言い争いをしようとする伏見と中山の間に突然、生徒が割って入った。
栞は教室での自己紹介を思い出す。
白兎 木葉という栗色の長い髪をした女子生徒だ。正統派美少女といえるだろう整った容姿の子だが、華奢で可憐な外見に似つかぬ強い意志を大きな瞳に宿し、小ぶりな唇と通った鼻筋を義憤の怒りで歪めて、伏見にくってかかった。
「伏見さん。いい加減にしてください。適応者、適応者って馬鹿みたい。単に理由をつけて彼方をいじめたいだけじゃない」
「白兎。先輩への口の聞き方がなってないな。お前でも容赦しないぞ」伏見が凄む。
「やってみなさいよ。あんたこそ、そのオモチャみたいな花火で、私の恩恵と勝負ができるとおもっているの」白兎も負けじと言い返す。
伏見は白兎の恩恵が脳裏に浮かんだのか、少し気圧されるような表情をした。
しかし、怒りがそれを上回り白兎に向けて「なら、やってやるよ」と手を掲げて能力を発露させようとした。
「はい。そこまでー。せっかく感動的なゴールシーンなんだから彼方くんをみんなで応援しちゃおうよー」
歪み合う伏見と白兎の間に、突如として男が座り込んでいた。
扇子を片手に持った、作務衣を着た浅黒く彫りの深い顔立ちの男だ。
男は扇子を手のひらに叩いて「がんばれー、か・な・た」と、険悪な雰囲気を意に介さず一人で楽しそうに囃し立てている。
伏見と白兎は間に座り込んだ男を見るなり、ハッとした表情をして言葉を飲み込んで姿勢をただした。
栞ははっきりと目にした。
瞬間移動だ。
何もないところから突然作務衣の男が現れたところを栞は目撃した。