第7話 恩恵②
伏見がゆっくりと右手を体のまえに差し出す。
すると、突如手のひらの周囲の空気が不意に揺らいで見えた。
蜃気楼のような揺らぎのその直後、火炎が舞った。円柱状の太さ1メートルはあろうかという巨大な火柱が手のひらから前方にくりだされた。
10メートルほど前方まで火柱は到達すると消えた。
栞は目の前の光景が信じられなかった。何もない空間から、手をかざして生まれた火炎。
それもライターとかのガスバーナーの火ではない。
見たこともない、恐れを抱くほどの量の炎。何かのマジックだろうかとさえ思えてしまう。
伏見はその後、両方の手のひらを上に向けると次々とグレープフルーツ大ほどの火炎の球を生じさせて、それを野球のように壁に投げつけた。20メートルほど離れた壁に伏見の投げた火炎球が次々と当たっては燃え上がり消える。
小さな太陽がいくつも生まれて消えているようで、白い空間がまばゆく赤く輝く。眼前の光景は美しく、そして理解を超えていた。
栞は驚きのあまり声も出せなかった。
中山はそんな栞を静かに見ていたがやがて口を開いた。
「彼の恩恵は『炎』です。何もないところに彼の意のままに、彼自身で炎を発生させることができる。国内でもこれほど攻撃的で、出力の高い恩恵は稀です。その他の恩恵にも共通することですが、何よりも驚きなのが『この能力の現象には質量保存の法則やエネルギー保存の法則があてはまらない』ということです」
「え?」栞は小さく声をだした。
「まぁ、言ってしまえば手のひらから炎がでる理屈もわからないので、無理もないというか逆に順当な話なのですが。あの炎は「何を」燃やしているものか分からないのです。何かの燃料があるわけではなく、生み出した彼自身の身体からも何かが減っているわけではないんです。まさに、観測できる範囲において『無』から生じた炎、『無』から生じたエネルギーです」
無から、何もないところから生まれる炎。
栞は目の前で行われていることの重要さを理解する。
これは奇跡だ。まごうことなき奇跡だ。人類が長い間夢見たエネルギーだ。
それを17歳の青年が手のひらから出している。キリストが水を葡萄酒に変えたかのように。
(字の如く、まさに『恩恵』なのです。降って沸いたかのような天からの恵みですーー)
先ほどの中山の言葉が栞の脳裏に浮かんだ。栞は完全に理解した。
たしかにこれは常識を超えた何かだ。人類が天から授かった新たな恵みだ。
この超常をもってして、人類を蝕む捕食者を倒せ、と神に近い何かのメッセージであると無神論者の栞も直感をしてしまう。
外敵が出現してこれまでの人類の常識が通用しない世界に生きていいると理解をしていたが、栞は改めて自らがまだ世界のすべてを理解してないことを理解した。そして、少し落ち着いてくると疑問が浮かんだ。
「さきほど、その他の恩恵にも共通する、とおっしゃいましたが、もしかして炎以外にも能力の種類があるのですか?」
「はい。逆に、先ほど申し上げたように炎の恩恵は伏見だけです。現状、適応者が発露した能力で同一のものは確認が取れていません。まさに千差万別。伏見のように攻撃的な能力もあれば、防御的な能力も、一見すると戦闘には無関係な能力もある。恩恵は適応者それぞれの個性であり、我々に同じ人間がいないように同じ能力もないのです。私は恩恵の能力はその個人の心や精神が発露したものだと考えています。」
少し間を空けて、眼下で引き続き巨大な火球を頭上に形成しようとしている伏見を見ながら「伏見は、渋谷の出身なんです。私も作戦に参加してました。あれは本当に酷かった。だからあいつが、あのような外敵を焼きつくような能力を発露させても不思議じゃない。私は、そんなふうに思います。」と吐き出すように言った。
渋谷松濤ホール。
今から5年ほど前に発生した世界でも有数の大規模ホール。言わずと知れた世界的な繁華街のすぐそばの高級住宅地松濤で発生した巨大ホールは渋谷の中心地を含む一円を特忌区域に変えてしまった。
被害はまさに凄惨を極めた。栞は研修医時代だったが、勤務する病院が隣接する目黒にあったため病院はまさに野戦病院のようだった。
大量の被害者が運び込まれ栞も研修医として治療に駆り出された。
今も忘れられない、まさに地獄だった。
渋谷松濤ホールでは、米軍と自衛隊の合同の渋谷作戦が行われ両国の適応者も多数参加したと聞いていた。休日の渋谷で発生したホールは被害者数をみても歴史上類を見ない大災害と言える。
伏見は甚大な数の被害者を出した渋谷特忌区域を生き延びた適応者なのか、と栞は驚きを禁じ得なかった。