第43話 デウカリオン
聡明はその足で廃ビルからほど近い、東京大学旧駒場キャンバスの図書館の書庫に向かった。丈二郎からデウカリオンについては大まかな説明を受けたものの、原書にあたった方がいいと言われたのだ。
「聡明も自分で読んでみるといい。奴は人間の事を『神話を好む』と言ったんだ。『デウカリオン』についてはどこかで聞いたことがあった話だったと思ったんだが、改めて読んでみたけど原典に書いてあるニュアンスはなんていうか、少し気味が悪い。なんでわざわざ『デウカリオン』という言葉を選んだのか。そこに奴らを知るヒントがある気がするよ」
丈二郎は何か重大なヒントを見逃してしまっているようで気持ちが悪いんだ、と苦々しく言うと一旦横須賀に様子を見に帰るよと能力を発動させて聡明の目の前から消えた。
聡明は今は使われなくなった大学の図書館に入ると、目的の神話を集めた書庫を一つ一つ書架を周って探した。
松濤ホールの影響はすぐ横にあった東京大学駒場キャンパスにも影響があった。特別忌避区域にほぼ隣接する距離感となった駒場キャンパスはホール拡大リスクに備えて渋谷周辺の他地区の企業や施設と同じく機能移転を余儀なくされた。
学生たちがいなくなったキャンパスは静かで聡明の足音しか聞こえない。
不思議な現象だが忌避区域の外に出ると植物の異常発達はなくなることが知られており、駒場キャンパスの各建物は大きな損壊もなく静かに佇んでいた。そのためキャンパスの図書館は放棄されてから久しかったが、ほこりが山積するほか内部は以前のままを保っていた。
聡明はもし外敵やホールが自分の人生に現れなければ、絢と一緒に東京の大学に受験してこのようなキャンパスで共に学んでいただろうか、と書架の間をを歩きながら想像した。
大学での講義、図書館での自習、サークル活動、上京の一人暮らし、アルバイトだってしただろう。
聡明と絢が手にいれることができなかった未来たち。高校一年生だった聡明は将来は医学部に進学したいと夢を抱いていた。
あの頃も大学生は想像し難い遠い未来だったが、今はまた違った意味でその存在は遠く、想像がうまくできない。いつの間にか大学生の年齢もすでに追い抜いていて、聡明と絢の札幌の同級生達は社会人として働いていると聞く。
自分たちもいつかこの外敵との戦いに終止符を打つことができたら、だいぶ歳をとってしまっているかもしれないけど絢と一緒に大学で学ぶことができるかな、と聡明は想像した。
それはとても尊く、得難い日々になるはずだ。そして、その日が来るまで、その日を掴み取るまで聡明たちは戦い抜かなくてはならない。
聡明は本を探しながら先ほど丈二郎から聞いたデウカリオンについての説明を思い出す。
デウカリオンはギリシア神話の登場人物で、全知全能の神であるゼウスの反対を押し切り天界の火を盗み人類に与えた神として有名なプロメテウスの子供だ。
プロメテウスは火を持たない人類を憐れみ、寒さや自然の脅威に立ち向かえるよう人類に火を渡した。人類はその火を基に文明や社会を発展させたが、他方武器を作り戦争を互いにするようになる。
プロメテウスはゼウスの怒りを買い、岩山に鎖で磔にされ、不死の体で大鷲に毎日肝臓をついばままれるという苦行の罰を受ける。
そしてその子供であるでデウカリオンも数奇な運命を背負う。
ゼウスの怒りは人類を絶命させようと地上に大洪水を起こす。デウカリオンは父プロメテウスから警告を事前に受けたため、方舟を作って乗り込み妻とともにその洪水を生き延びる。
世界中の神話や伝説でたびたび登場する大洪水伝説の一つとされ、旧約聖書のノアの方舟や人類最古の物語である古代メソポタミアのギルガメシュ叙事詩にも同型のエピソードが存在することで知られる。
聡明は目的の書架の前で歩みを止める。並ぶ本の背表紙をゆっくり指でなぞり目的の本を探す。
汚れた窓の隙間から差し込む光に、空中に舞う埃がキラキラと輝く。
「これか」聡明はつぶやくと一冊の本を引き抜いた。
ローマ時代の大詩人オウィディウスが記した一冊だ。
オウィディウスはこの大作でギリシア・ローマ神話の集大成を行ったとされ、名を馳せた恋愛詩作を含めてラテン文学の黄金期で活躍し後の西洋文学に多大な影響を与えた文学史上の重要な詩人だ。
聡明はその場でパラパラと本を捲る。しばらく読み飛ばしていくと目的の章を見つけて、その場で立ったまま読んだ。
聡明は丈二郎の言わんとすることを理解した。
特有の表現の不可思議さを差し引いても、何故か説明のできない気味の悪さを感じる。なぜ、わざわざ「奴」はこの神話を選んで、彼方をデウカリオンと呼んだのか。奴らの計画への不気味な気配を感じざるえない。
心の中がざわつくのを聡明は抑えられれなかった。
ーいったい、「奴ら」は自分たちに何をさせようとしているのか。
聡明は本を閉じてもしばらく動けなかった。そこにはこのような太古の物語が書かれていた。
ーー
かつて見たこともない巨大な波濤は、高山の嶺までおしよせた。生物の大部分は、波にのまれ、かろうじて助かった者も、食物がないためにながい飢餓の犠牲となって死んでいった。(中略)
山の名は、パルナッススといい、その頂上は、雲の上に突き出ていた。さて、ほかのものはみな海に呑まれてしまって、人間たちの中でただ一人生き残ったデウカリオンが妻とともにみすぼらしい小舟でこの山に漂着したとき、ふたりは、まずコリュクスの妖精たちやその他の山の神々、また、そのころ神託をさずけていた占いの女神テミスに、敬虔な祈りをささげた。
(中略)
あわれを感じた女神は、つぎのような神託をくだした。
「この社より出ていけ。そして、なんじらの頭をおおい、衣服の帯をとき、なんじらの大いなる母の骨を背後に投げよ!」
ながいあいだ、ふたりは、おどろきのあまり呆然としていたが、やがてピュラが最初に沈黙をやぶって、女神の命令にしたがうことをこばんだ。そして、ふるえる声で、女神さま、どうかおゆるしください、わたしは自分の母の骨を投げたりして、母の霊をけがすことはとてもできません、と切願した。そうしながらも、ふたりは、ふかい神秘につつまれた謎めいた神託の文句をなんどもこころのなかでくりかえし、その意味を考えた。やがて、プロメテウスの息子は、エピメテウスの娘をやさしくなぐさめて、こういった。「わたしの考えがまちがっていなければ、神託というものは、神聖なものであって、けっしてわたしたちに罪をすすめるものではない。わたしが思うのに、大いなる母とは、大地のことで、女神が骨とおっしゃったのは、大地の胎内にある石のことなのだ。つまり、石をわたしたちの背後に投げよということなのだよ」ティタンの娘は、良人のこうした解釈をみとめはしたが、それで望みがかなえられるとはおもえなかった。それほど、ふたりには神託が信じられないのであった。しかし、いちどためしてみたところで、なんの害があろうか。そこでかれらは、神殿を出て、布で頭をおおい、着物の帯をとき、命じられたとおり石をうしろに投げた。すると、それらの石は――もし昔の伝承がそれを証言しなかったら、だれにも信じられないことだが――石に固有の強情な固さをうしなって、徐々にやわらかになり、やわらかいままなにかの形をとりはじめた。やがてしだいに大きくなり、柔和さをくわえると、まだ明確ではないが、ちょうど粗けずりの大理石からうみだされる未完成の彫像にも似た人間のすがたが、なんとか見てとれるようになった。そして、水気をふくんだ、土でできた部分は、肉となり、かたくて、こちこちの部分は、骨にかわり、石目は、そのまま血管となった。こうして、神のご意思によってたちまちにして、男の手によって投げられた石は、男の人間のすがたになり、女の手が投げた石からは、女人の姿がうまれてきた。このようにしてつくられたからこそ、われわれは、まことに頑丈な、労苦をいとわぬ種族であって、自分たちがどんな根源からうまれてきたかを、いまも証明しているのである。
—『転身物語(上)』「あたらしい人間の祖デウカリオンとピュラ」他より
オウィディウス著
お読みいただきありがとうございます!
第1章の最終話です。第2章もすぐ公開ですのでぜひお読みください。
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