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第38話 勇気ある者

「彼方、両手にナイフを持って構えてみて」


「こうですか?」彼方はナイフを両手に持って膝を少しかがめる。


「うん。持ち手は逆の方がいいね。リバースグリップ、逆手持ちの方がいい。ナイフは格闘技の延長みたいな感じだから。逆手にもってボクシングみたいに構えてみな」


 彼方はいわれたように逆手にナイフを持ち替えて、左右の腕を前後に構える。


「いい感じだね。それでは今から僕は君を攻撃します。彼方はたった一つの事だけに集中して欲しい。それは、絶対に目をつぶらない事。最後まで僕の攻撃モーション、具体的には僕の武器の槍の先をずっと目で追って見ていること」


「え」彼方がキョトンとした表情で飲み込めずにいる。


「世界最高レベルの本気の一撃だ。文字通り、目にも止まらない。普通の人間は恐怖で目を閉じてしまう。僕の攻撃を目で追って見切れたら、どんな外敵だろうと恐るるに足らず。いいかい。心の中で強く念じるんだ。ゼッタイに最後まで『見る』ってね」



 彼方は言われた通りに心の中で念じる。

 最後まで見る、最後まで見る、最後まで見る。

 念仏のよう唱える。

 次第に心が落ち着いてその一点のみに集中していった。

 周りの音が遠くなっていき、まるで自分自身が水中にいるように感じる。遠い所で音はするけど聞き取れない、足や手の先から感覚が消えてまるで何かに漂っているような感覚になり、ただ一つの事だけに心が研ぎ澄まされていく。

 最後まで見る、最後まで見る、最後まで見る。


 彼方の様子が次第に変化していった様子を見ると丈二郎はニヤっと笑みを浮かべた。

 そして彼方から数メートル離れると、両手を大きく前後に広げると膝を少しかがめて前傾姿勢に構えた。

 しかし、丈二郎の両手は何も持っていない。



 彼方が発する雰囲気が変わったことに木葉も気がついた。

 まるでその場に木葉や熊野の存在が消え去ったように、少し離れたところに立つ丈二郎の何も持っていない両手に意識が没入している。

 それを見て、木葉がふと声を漏らす。

「八雲副隊長、槍ないじゃない…」

「ふふふ、瞬き、厳禁だよ」


 言うや否や、丈二郎の両足が少し沈んだと小葉が思った瞬間、恐ろしい勢いで丈二郎が踏み込んだ。

 路面のアスファルトにヒビが入り、弾かれたように丈二郎が彼方にむかって凄まじい勢いでスプリントする。

 前後に構えた何も持っていない素手を空中で握るような形でその勢いのまま前方に繰り出す。

 繰り出される途中で空の手のひらの中に槍が突然現れて握り込まれる。

 彼方の眼前の直前に現れた槍の先が彼方の顔面を強襲する。


 ー最後まで見る。最後まで見る。最後まで見る。最後まで見る。最後まで見る。


 彼方は狂気的な集中力で心の中の他のすべての思考を放棄してその一点のみに全身全霊を投じた。

「ー危ない!」思わず木葉が叫んだ。

 彼方の顔面に猛烈な勢いで槍の切先が刺さるー、小葉は悲鳴に近い声が出た。



 彼方に槍の先が直撃するその寸前、彼方の首と肩を中心に上半身がぐるっと回転する。

 コンマ0秒の世界、刹那の極みのタイミングで数ミリ差で避けられた槍が空を切る。

 彼方はそのまま顔をぐるっと回したまま、体を拗らせて空を切った槍の先を見続ける。


 槍を突き出した前傾姿勢のままで丈二郎が言う。

「彼方、何が見えた?」

「か、かいてあります。は、花丸ですか?」


 丈二郎は槍をグッと持ち上げて立ち上がると「想定したより凄まじい能力向上だ、動体視力も身体能力も飛躍的に上昇している」と言って彼方たちに槍の先を見せた。

 槍の先には矛の代わりに布で括られたクッション性の球体がついていた。

 その布の上にテストの採点のように赤く花丸が描かれている。

 丈二郎が描いたのか、歪な形の花丸だ。


「大正解ー!100点なので花丸でしたー!」丈二郎は飛び切りの冗談を言った時のようにハシャギながらに言った。


「副隊長、俺らは本当に彼方がやられたと思ったぞ」熊野が驚きと怒りを滲ませたように言う。

「ごめんごめん、一応練習用の槍に変えたからさ。でも、説明なしで本気にやらないとわからないし、彼方も自信つかないでしょう。それに、僕らは特忌区域に『命のやり取り』をしにきているからね。いつだって本当に殺されることはあるよ」


 丈二郎は改めて彼方に向き合うとじっと瞳を覗き込むように尋ねる。

「それで、彼方。どう感じた?恐怖を感じた?」


 彼方は言われた意味がわからないような表情を一瞬ポカンとする。


「え?怖い、ですか?いや、見ることしか考えてなかったので、何か感じるとかは…」



 彼方の反応を見て、小葉は心がざわつくのが感じた。

 『怖い』なんてものじゃない。

 正真正銘、目で追えないほどのスピードで彼方は槍で貫かれそうになっていた。

 熊野が言ったように小葉も彼方が『死んだ』かとさえ思ってしまった。

 横で見ていても恐ろしいなんてものでなく、間違いなく生命の危機に他ならない瞬間だった。

 恐ろしくないわけが無い。

 当事者でない小葉でさえ、心臓がいまだに暴れていて掌に嫌な汗をかいている。

 当の本人が普通でいられるわけがない。

 なのに『何も感じない』とポカンとした表情を見せた彼方を見て小葉は言葉にできない得体のしれない不気味さを感じた。



 丈二郎は彼方の答えを聞くと深くうながずいて、彼方の肩に手を乗せ彼方が理解できるようにゆっくりと言葉を繋ぐ。


「彼方、普通は『怖い』んだ。文字通り君は今死にかけたんだ。いかに体が勝手に反射して避けても、コンマ0秒の世界で君は死にかけているんだ。普通は恐怖を感じる」

「恐怖…」

「そう。だからこれは『普通』じゃない。僕が思うにこの現象は彼方の恩恵のもっとも重要な側面の1つだ。君の恩恵能力は『避ける事』が本質ではないはずだ」

「どう言う事ですか?」彼方が話の要点が見えず質問する。


 丈二郎は彼方だけでなく、小葉や熊野に対しても説明するように彼方の問いに答える。


「恩恵について、皆んなに覚えておいてほしいことがある。ある適応者が多角的な現象を恩恵で発生させたとしても、その適応者が持つ恩恵の基本原理は1つだけ。恩恵とはたった一つの特殊な原理をもとに発生させる多岐にわたる現象の事だ。逆に言うと、適応者はたった一つの『恩恵』しか発露することはできない。2つの異なる原理の恩恵を発露させる適応者は存在しない。これは僕と聡明が推測している恩恵について最も重要で基本の法則だ」

「一つだけ」

「だから、攻撃を避ける事ができる事も眼前に迫る槍から目を逸らさずにいられることも、一つの基本原理に基づいた現象であるはずだと僕は考える。ただ、今の彼方の反応には、それよりもっと大事な現象がある。彼方、君はおそらく脈拍の変化や瞳孔の拡大、発汗といった生理現象にすら反応がないほど『恐怖』を感じてないことだ」


 丈二郎は右手をピストルのようにすると自身の頭に近づける。


「人間はある程度は訓練を積んで、危機や危険が迫ってもなるべく平常心にいられるようにすることはできる。達人になれば、対外的な生理現象についてもほぼ変化が見て取れないように訓練することができる。一流のポーカープレイヤーやスパイは、どんな局面でも汗をかいたり瞳孔が拡大しないようにできたりする。ただ、それでも生命の危機に対しての生理現象としての反応を100%抑えることは不可能なんだ。脅しや揺さぶりなどの心理戦をほぼ完璧にかわすことができても、生命の危険を完全に無視できるほど人は生理現象をコントロールはできない。どんな武道の達人も銃で撃たれたら脂汗が出るもんなんだ」


「それは、なんとなくわかります」彼方は丈二郎の言わんとするところを探りながら頷く。

「でも彼方はそうじゃない。君は完全に意志の力でそういった生理現象をコントロールした、と僕は思う。恐らく、君は無意識に恐怖そのものをシャットアウトしたんだ。それは君が槍の先を『最後まで見る』ために不要、もしくは障害になると判断されて君の体から排除された感情だと僕は思う」


 丈二郎はすこし間をとる。

 かつて聡明と共に積み上げた考察が記憶に蘇る。

 渋谷の雑居ビル中で、籠城しながら一夜を明かしたあの日、二人で小さな声で語り合ったこと。『恩恵』と『ホール』への推測と理解の先にしか、人類が外敵に打ち勝ち、生き延びる未来はないー。適応者になったばかりの3人の若者たちを改めて順に見つめて、丈二郎は続ける。


「それぞれの恩恵はたった一つしかないけど、その本質を正しく認知することはとても難しい。開けられない箱の中身を外側だけを手探りで探るようなものだ。でも、答えは僕らの心の中にしかない。他の誰でもない自分の心の中を覗いて、自分の本質を見つけるんだ。僕は時々思うよ。この力を僕らに与えたのは誰かわからない。神と呼ばれる何かなのかもしれない。でも、心の中は僕らのものだ。だからその奥深く、神様さえ知らないような深い所から自分が一体何者なのかを見つけ出す。それが『恩恵』を理解する、ということなんだ」


 丈二郎は彼方の目を覗き込む。

「彼方。君の恩恵は君が見つけるんだ。今わかっていることは、君は君の目的のために恐怖を無くすことができる。それは君だけが持つ誰にも真似できない『勇気』の形だ。彼方は小っぽけなダガーナイフだけを持って、他の誰もが恐怖する領域で外敵と対峙できるはずだ。君だけの勇気が持つ君だけの戦い方、勇者の戦い方ができるはずだ」



 丈二郎は彼方に魔法の言葉をかける。


「彼方、君は勇気ある者。勇者だ。君は君のその力で自分の道を切り開くことができる。君は落ちこぼれなんかじゃない」

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