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第35話 赤い絵の具

ーコンコン


 ドアがノックされて聡明が宿舎の扉を開けると絢が立っていた。私服の薄い黄色のワンピースにストローハットをかぶっている。


「ごめん。お待たせ」

 絢が手に持ったトートバックを掲げる。中には画材道具が入っている。

 聡明は、大丈夫だよ、ちょっと待って、と告げるとドアを開けたままにして机の上に置いたヘルメットを取りに室内にもどどる。


「そういえば、先生にあったの?」玄関から絢が問いかける。

「うん。会議に来てたから」

「変わりない?」

「何にも変わらない。白髪も相変わらず」

 あれがないと先生じゃないもんねー、と間延びした声が玄関からかえってくる。

 聡明がヘルメットを手に戻ると絢は玄関に置いた鏡を覗き込んでいて、帽子の被り具合を鏡を見て何度も直している。


「メット被るから意味ないんじゃない」

 聡明が絢に片方のヘルメットを手渡しながら靴を履いて出る。絢はヘルメットを受け取りながら頬を膨らせて少し笑う。

「ちょっとの間でも可愛い方がいいんですっ」と言って、聡ちゃんのバカ、とメットで聡明のお尻を叩いた。

 聡明はそんな絢の表情を見て、あの日高速で見た絢の表情を思い出す。

(ーーあの頃より、よく笑うようになってくれた)


 先に宿舎の外廊下を進んでいた絢が振り返って朗らかに聡明に言う。

「早く行こ」


  聡明と絢は逗子の仙元山の麓にバイクを停めると二人でゆっくりとハイキングコースを登って行く。

 春を終えようとしてる草木はむせるほどの緑を山肌に抱えて瑞々しい。

 程なくして山頂のテーブルなどが置かれた湘南の海が一望できる展望台についた。絢は到着すると早速画材を広げて眼下の景色を楽しげに写生している。

 聡明はテーブルに座りしばらく持ってきた文庫本を読んでいた。


 夏が近づき少し暑く感じる日も増えていたが、今日は風が涼しく心地よい天気だった。

 聡明は読書がひと段落すると軽く伸びをして文庫本を置くと絢が絵を描いてる様子を静かに見ていた。

 絢は聡明の知らない曲を機嫌良さそうに鼻歌で歌いながら筆を動かしている。ストローハットがゆっくりリズムをとるように左右に揺れている。

 優しい風が頭上の木の葉を揺らす。ほんのわずかに潮の香りが伝わる。

 今この瞬間、世界は二人だけでできている、と聡明は感じた。静かに、とても静かに心が満たされる。

 他に何もいらない、今だけが永遠に続いてほしい、そう思わずにいられない時間だった。



 絢の画材の絵の具には赤が入ってない。

 いつも新しい絵の具のセットを買っては赤だけを絢が捨てているのを聡明は知っている。その理由も聡明は知っている。

 絢はあの日、絢の父親の鮮血を浴びて、父の血に染まったシャツを見て赤い色を塗るのがダメになった。

 何度かパレットに赤色の絵の具を出しては唇を震わせてながらパレットを洗い流すのを聡明はそっと見ていた。

 いつしか絢は赤い絵の具そのものを画材に入れるのを諦めた。

 それ以来、青い海と緑の山々が綺麗に映えるこの季節は絢のお気に入りのタイミングとなった。

 聡明は今日も「赤」が入ってない絵の具入れを眺めて、このままではやっぱり「ダメ」だと思う。こ

 のまま永遠に過去を抱えたままでは本当の意味での幸せに絢はなれない。


 聡明は横に置いたバイクのヘルメットを見る。聡明自身もそうだ。

 北海道を出て何年かして免許を取ろうとして聡明は自分が車を運転できないことに気がついた。

 運転席に座ると否が応でもあの日のことを思い出した。心が自分のものでないように何かが中で暴れ出してとてもじゃ無いが、運転ができると思えなかった。

 ここはもうあの日の千歳ではないと頭でわかっていても、まともに運転席に座っていられない。

 普段は意識をしていないが何かが心の中につっかえている。この気持ちは誰かに説明してわかってもらえると思えなかった。絢以外には。

 きっと絢も同じだろう。心に刺さった棘をいつの日かなんとかしないといけない。


(ーーそしたら、いっぱい笑おう。心から)


 あの日、千歳から逃げ出した日の自分の言葉を思い出す。

 絢も自分もきっとこの棘を抜けるようにならないと心から笑えない。あの日からずっと自分たちは囚われ続けている。


 絢の後ろ姿を改めて見る。

 気持ちよさそうに揺れる横顔を見ながら心の底から愛おしいと聡明は思った。

 だからこそ、今はこの気持ちを絢には言えない。

 いつの日か、彼女の心の棘を抜いて、再び故郷に二人で帰れたらその時は自分のこの気持ちを伝えられると思った。きっとそれは絢も同じだろう。

 運命を超えた別ち難い二人だと思えるが故、自分たちはあの日の過去を切り離せずにいる。全部無かったことにして自分だけ幸せになることはできない。 


 聡明の視線を感じたのだろうか、絢がキャンパスから顔をあげる。聡明と目が合うと優しく笑った。

「どうしたの?お腹すいちゃった?」


 聡明は絢のその笑顔をいつまでも見ていたいと思いながら、そうだね。と答える。


 そして改めてあの日の誓いを強く心に刻みなす。

(ーー僕が、必ず、あいつらを全ての殺し尽くす。絢。僕が全部倒して、あの街を、僕らの家を取り戻すよ。そしたら一緒に帰ろう)

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