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第33話 熊のぬいぐるみ

 震え出しそうになる体を力一杯、自分自身で抱き込み握りしめ、絢はクローゼットに隠れ続けた。

 次第に時間の感覚がなくなる。


 絢はどれだけそうしていただろうか。

 やがて極度の緊張と心身の磨耗のため朦朧としてくる。それでも無心で音を出さないように身じろぎをせず息を潜めていた。


 するとゆっくりと音がしないように、本当に少しづつクローゼットの扉が開いた。満月の月明かりに照らされたぼんやりとした暗い部屋の中、藤聡明が開かれた扉の前にいた。


 絢はくずれるように聡明の胸元に飛び込む。

 心が極度の恐怖と悲しみで乾き切ったみたいに、絢の両目からは涙はもう出ない。2人は硬く抱きしめ合うと、やがて起き上がる。


 聡明はじっと絢を見つめる。

 必ず生き残るんだ、今は悲しむ時じゃない。

 聡明の目がそう言っているのが絢にはわかった。


 聡明がそばにあった紙とペンで筆談する。

 ーこのそばに今はヤツらはいない。でも2つ隣の通りに一匹いた。だから声は出さないで。

 ーわかった。

 ーおじさんの車がまだ外にある。あれをつかう。しばらく、もしくは二度と、ここには帰ってこれないかもしれない。必要なもの、なくちゃダメなものをリュックに入れて。すぐ出る。

 ーわかった。


 絢は部屋の中にあったものをリュックにそっと入れていく。

 両親との思い出の写真。

 スマホと充電器。初めて聡明にもらったプレゼントのアクセサリー。両親にお願いして買ってもらった旅先の思い出の品。中学の仲良しグループで卒業の時に送り合った手紙が入った手帳。母親が誕生日にくれた画筆セット。いくつかの着替えの服も詰める。


 最後に、枕元においてある小さい頃から離さずもっているヒグマのぬいぐるみをリュックに入れた。このぬいぐるみはまだ幼かった頃、家族で熊がたくさん飼われた牧場に行った際に買ってもらった。

 それから小さい頃はどこにいくのも連れて行ったぬいぐるみだった。ぬいぐるみを持ち歩く年頃ではなくなった今でも、ベッドの枕元にずっと置いてあった。

 絢にとってのお守りのようなぬいぐるみだ。


 ヒグマの母グマを模したぬいぐるみで、その牧場ではクマの生態を展示してあり、巨大な母熊のヒグマの剥製があった。絢はその迫力に最初恐れ慄いたが、施設の解説員の話を聞いて印象が変わったことを覚えている。

 森で小熊を見つけたら近づいてはいけない、そばに母熊がいて小熊を守る防衛本能で非常に攻撃的になる。

 そんな話だったと思う。

 母熊の恐ろしさは家族を守るための力なんだ、と思ったら不思議と絢は怖くなくなった。

 むしろ家族を守るその力強さに憧れに似た感情を抱いた。


 帰り際にお土産コーナーでこのぬいぐるみを見つけてたときには、絢はずっとこのぬいぐるみを探していたような運命めいたものを感じて泣いて無理を言って父親に買ってもらったのだった。

 その母熊を模したぬいぐるみはそれから何か怖いことや勇気が出ないときに絢はぎゅっと抱いて力をもらう、そんな存在になった。


 絢はリュックを静かに閉めると聡明に目線で合図を送る。

 二人はゆっくりと階段を降りていく。

 聡明は下の階に降りるとすぐに玄関に向かわずに室内を警戒しながらリビングに静かに向かう。

 携帯のメモ欄に文字を打ち込むと絢に見せる。


 ーキッチンの油を、オーリブオイルとかなんでもいいのであるだけ集めて欲しい。あと、おじさんのタバコのライターとかオイルってどこ?


 絢はこくりと頷くと父親の喫煙道具がある棚を指差し、自分はキッチンの流しの下のストックから食用油のボトルを探す。オリーブオイルやサラダ油のボトルなどを4本ほどみつけてそばにあった袋に入れる。

 リビングの机の上ではどこからか見つけてきたガラスの小瓶にライターの補充用オイルを入れてハンカチを割いて瓶口に詰めていた。

 聡明は二つほど小瓶を作ると絢から食用油の袋を受け取ってその中に小瓶を入れた。


 二人はゆっくりとドアを回して戸外に出た。

 周囲が停電で一切の明かりがない中で、満月のみに照らされた家の前の道は不気味に明るく感じた。

 まるで見たことがない街だと絢は思った。


 絢は乱雑に家の前の車道に停めらたオフロード車に向かう。

 ゆっくりとドアハンドルに力をくわえると、鍵はかかってなく小さな音を立てて開いた。後部座席にはすでに聡明の大ぶりのボストンバックが置いてあった。その横に一振りの日本刀が立てかけられている。

 ー聡ちゃんのお父さんの刀だ。


 小さい頃家に遊びに行ったときに一度ふざけて二人で触ろうとしてひどく怒られたことがあった事を不意に思い出した。聡明の父親は剣道の高段者で、趣味で日本刀の真剣を保有していた。

 一度聡明も自宅に帰ったのだろう。

 いったいそこで彼は何を見たのだろうか、彼の両親はどのような姿だったのだろうかと絢は想像をしてしまう。

 絢は車に荷物を置くとゆっくりと自分の部屋の窓の下に向かう。


 路面に倒れた人影を見て、覚悟をしていたが絶句する。

 つい先ほど胸を埋めたシャツが血に染まっていて、月明かりのせいか嫌に黒い。

 落下してからまだ息があっただろうか。

 一緒に落下したモンスターの姿は見当たらない。

 私を助けにこなければお父さんは生き残っていたのだろうか。答えのない疑問が黒い影を絢の心に落とす。

 絢は上着を脱ぐと父の頭部にかける。

 ズボンのポケットに手を入れて探すと、小さい頃自分が作ったペラペラのプラスチック板のキーホルダーがついた車のキーを見つけた。

 キーホルダーを渡した時の父の表情と喜んでもらえて嬉しかった時の自分の感情を思い出して枯れていた涙が再びあふれそうになった。


 絢は急いで踵を返して車に戻った。

 聡明が車のボンネットや屋根に食用油をありったけふりかけていた。

 絢は聡明に車の鍵を渡す。

 二人は車に乗り込んでエンジンをかけた。

 小さくない音が住宅街に響き、二人は顔を見合わせる。


 もう後には引けない。行くしかない。

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