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第32話 クローゼット

 絢は一気に脱力してヘナヘナと床に座り込んだ。


ーーホールだ。ホールが出来たんだ。


 アメリカや中国と同じように日本でも、この千歳でも正体不明の謎の大穴が突如できたのだ、絢は直感的に理解した。

 そして先ほどの緑の生き物が、あのモンスターが、大穴から出てきたのだ。

 アメリカの穴から出てきたモンスターは巨大な蟻のような形だったとネットで見た。

 いろんなタイプがでてくるのか、それとも千歳があのタイプなのか、いずれにせよここの街に正体不明のモンスターが発生していると絢はさとった。


ーとりあえず、俺も千歳もどる。どっかかくれてろ。

 聡明からのメッセージがふと頭によぎる。

 そうだ。まずは隠れないといけない。

 警察か、自衛隊か、そのうちきっと大人たちが救出してくれる。

 絢はちょっと思案して机の上のカッターを取り出すと、スマホを握りしめて観音開きのクローゼットを静かに開けて中に入ろうとした。


 と、その時家の前で車が止まる音がした。

 絢の心臓が期待で高鳴るが、恐ろしさで足がすくみクローゼットの前で立ち尽くした。

 ゆっくり鍵が開く音がして、ひっそりとした足音が家の中で聞こえる。

 やがて階段を上がって絢の部屋の前で押し殺した声がした。

「ー絢、いるか、絢」

「ーーお父さん!」


 絢は待ち焦がれた声に掠れた声で応じた。

 絢の父が汗だくでドアをゆっくり開けて入ってきて、絢を見つけると抱きしめた。

 二人はしばらく声もなく抱きしめあった。

 やがて絢は落ち着くと声をひそめて尋ねた。

「ーお母さんは?」

 絢の父は首を左右に振る。

「ーわからない。連絡が取れない。通信がダメになっているんだ。駅の方も大変な感じらしいから無事かわからない。父さんは道央道からまっすぐこっちきたから」

 いつもどっしりと頼りになる父親が初めて見せる動揺した表情で改めて大変なことが起きているのだと絢は実感した。

「表の車でここから離れよう。札幌か苫小牧の方に行けば大丈夫らしい」

 絢は助かった、もう大丈夫だ、と心底安心した。

 父親の運転するオフロード車で混乱する市街地を走り抜け高速で千歳を脱出するビジョンが頭に浮かんだ。


ーガッシャーン!

 その瞬間、ガラスを破る大きな音が家中に響き渡った。

 二人は顔を合わせる。

 やがて獰猛な生き物を想起させる荒い息が聞こえてくる。

 間違いない。

 下の階にあのモンスターが窓を破って侵入したのだ。


 絢は自分の体が恐怖で勝手に震え始めたのがわかった。

 唇がガクガクと意思と関係なく動き、心臓が制御できないほど暴れる。絢の父はそんな絢を見てもう一度大きく力強く抱きしめた。

 父親の汗ばむシャツ越しに心臓の鼓動を感じる。

 耳元に聞こえるか聞こえないかの声で絢の父がつぶやく。

「ーー大丈夫だ。この中で隠れてなさい。何があっても絶対に音を出しちゃダメだよ。何があっても絶対に出ちゃだめだ」


 絢は父親がそっと開けたクローゼットの奥に入る。

 父がゆっくり扉を閉めようとするの手を必死に絢は掴んで縋る。

 だめ、それだけはだめ。

 必死に声にならない声で訴える。

 そんな絢を見つめて、絢の父は優しく微笑む。


 一瞬時間が止まったかのような静寂の中で、優しく微笑んだ口元が音もなく言葉をつむぐ。

 きっかり5文字。

 父が声には出さなかったその言葉が絢には聞こえてしまったことで涙がとめどなく溢れる。

 そして静かにクローゼットが閉じられた。


(あ、い、し、て、る)

 絢は父親がしようとしている事を理解した。

 恐ろしさに涙が止まらない。

 今飛び出せば何か変わるだろうか。


 クローゼットの合わせ扉にうっすらと隙間ができて外の光がスリットのように漏れて入ってきている。絢は隙間に目を当てる。

 薄い線の視界の先に父の背中がみえる。

 ゆっくり移動して部屋から出ようとしている。

 突如乱暴にドアが蹴破られる。小柄で緑色のアイツが入ってきた。

 手に大ぶりの棍棒のようなものを持ち、獰猛そうな大きな黄色い目をぎょろつかせている。


 絢は声を上げないようにきつく自分の口を両手で塞ぐ。

 強く、ありったけの力を込めて。


 父親がうなり声を上げてモンスターに飛びかかる。

 モンスターが右手に持った棍棒を大きく振りかぶり、まともに父の肩にあたる。

 父の顔が大きく苦痛で歪む。

 さらに逆の手で払われて父親が床に倒れ込む。

 払われたモンスターの手で父の血の飛沫が大量に部屋中に飛びちり、クローゼットの扉のスリットに入り込む。


 覗きこんでいた絢の顔に父のまだ暖かい血が線を描く。

 叫びそうになる口をより強く、より硬く手で抑える。

 爪が頬に食い込み鮮血を滲ませる。


 何かを感じ取ったのだろうか緑のモンスターが父を跨いでゆっくりとクローゼットに近づてくる。

 醜悪な表情で隙間を覗き込もうとした瞬間、父親の怒号が響き渡る。


「この野郎ー!!テメェの相手は俺だろうが!」


 父親はありったけの力を込めて立ち上がると、壊れた肩でモンスターを担ぎ上げるようにして窓際に押し込んだ。

 不意をつかれたモンスターは体勢を崩して窓のそばでよろける。

「ぬおぉぉおぉぉぉ!」父親はそのまま勢いをつけて突撃をする。


 ガッシャーン、とガラスが割れる音がして父がモンスターもろとも窓の外に飛び込むのが絢には見えた。

 部屋に静寂が訪れ、絢は震える体を抑えるためもっと強く口元を手で押さえる。


 絢は父の安否を確かめに、いや助けに行きたい気持ちを必死におさえる。

 今出てはダメだ。

 今出たら全部無駄になる。

 お父さんが犠牲になって助けてくれたことが全部無駄になる。

 絶対だめだ。

 ここで隠れてないとダメだ。


 音を立てないように、強く強く口元を抑える。

 力を弱めると叫び出してしまいそうになるのを必死で押さえつける。


 私は生き残るんだ。生き抜くんだ。

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