表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/41

第30話 先生②

 あれは寒い冬の夜だった。

 丈二郎は指定された浅草の居酒屋に入った。

 通りに簡易のテーブルと席が迫り出し、軒先にテント屋根が迫り出す飲み屋が通りを埋め尽くし、オレンジ色の灯りがいたるところで漏れている。


 テント屋根をくぐると一番通りに面した端の二人がけの席で初老の男性が一人ジョッキを煽っている。

 梶ヶ谷本人だった。


 あたりは飲み屋特有の喧騒に包まれていて騒がしい。

 丈二郎は面食らったが、素直に梶ヶ谷の前に座った。


「これ、飲んだことないだろ。頼んであるから飲んでみろ。美味いぞ」梶ヶ谷は丈二郎が座ると突然言った。


 丈二郎は目の前の初老の男性が今日の密会相手であるか一瞬不安になったが、ペースを握るための話法かと思うと腑に落ちた。


「日本の諜報員はこう言うところで情報交換するのか」

「アメリカ人は公園でやりたがるけど、この時期寒いだろ。美味い酒と美味しいメシがあったほうがいい」


 梶ヶ谷はいたずらに「どうあれ、やろうと思えば会話の内容なんざ、いくらでも漏れるし抜けるしな」と付け加えた。

 店員がお通しと一緒に茶色い瓶と濃い焼酎が入った氷グラスを乱暴に丈二郎の前に置いた。


 丈二郎は見よう見まねで梶ヶ谷と同じように杯を作ると勢いよく飲んだ。炭酸とアルコールが心地よく喉を通って、不思議と寒空の下でも美味しく感じた。


「それで、日本に移りたいんだって?」


 梶ヶ谷は枝豆を突っつきながら天気の話をするように言った。

 丈二郎はコクリと頷いた。


「聞いたって意味ないから理由は聞かないけど、一つ聞きたいことがある。君の能力、瞬間移動じゃないだろ。あれ、なに?」


 丈二郎は予想外の発言に思わず反応をしかけたが、瞳孔や発汗、鼓動に至るまで完璧に制御して変化を抑えた。

 そして、沈黙した。

 しばらくの間、梶ヶ谷はじっと丈二郎を見ながら、杯を傾けて枝豆を食べ続けた。

 丈二郎には永遠に思える長さの間だった。


 やがて梶ヶ谷は口を開いた。


「分かった。私が君を日本に移籍させよう。今のは「沈黙」が正解だ。若いのによくわかっているじゃないか」


 丈二郎は突然の申し出に狼狽をした。

 まさに『その』交渉に来たのだが、話の展開が読めない。


「どうやって、僕を日本に帰化させるの?合衆国と軍は許可を出さない。僕を他国に奪われることを許さないよ」

「ローレンス中将が欲しがっているのがあるだろう」

「まさか、中国とロシアの情報網を彼に渡すの?あれは、あなたの諜報員としての生命線だったはず」


 梶ヶ谷は美味しそうに喉を鳴らしてジョッキの残りをあおって、机に置いた。


「八雲くん。情報は『価値』があって初めて『情報』になるんだよ。今もこれからも『国』に縛られ続けるローレンスにはあの情報網は価値があるだろう。でもね、諜報員に本当に必要なのは『情報』でも『情報網』でもない。時代や物事の流れを読む力だよ。私はね、渋谷合同作戦の後の藤聡明くんを見ていて思うところがあるんだ。私は君と会ってからの聡明に未来の可能性を感じる。君たちがあの日、あそこで何を見て何を感じたかはわからないが、私は君たちに賭けたくなったんだよ。新しい時代はいつだって若者たちが作るべきだ」


「なんで会ったこともなかった僕を信じる?」

「聡明が儂に、たってのお願いをしてきたからな。それに、今こうして会っている。思った通り、君らはいいコンビになるよ」


 梶ヶ谷はおもむろに立ち上がると帽子をかぶった。


「さて、儂は行くとしよう。しばらく米国にもどっていつも通りの生活をしていろ。連絡をよこす。あと、ここは牛すじ煮込みってのが名物だ。日本の伝統的な居酒屋メシで、その酒との相性は抜群だ。会計はしてあるから食ってから帰りな。いずれ横須賀で会おう」


 そう丈二郎の告げると梶ヶ谷は散歩の途中だったかのようにふらっと道に歩いていった。

 急に存在感が希薄になり梶ヶ谷の後ろ姿が景色のように見え、通りの往来に紛れて見えなくなった。


 丈二郎は幼い頃母親が読み聞かせてくれた狐や狸の妖怪の話を不思議と思い出した。

 どこか現実ではないような、終わった瞬間から消えていく、煙のようなひと時だった。


 店員が再び現れて、丈二郎の目の前に熱々の湯気をたてる牛すじ煮込みが置かれた。

 手元の割り箸を割って丈二郎は一口食べて、ジョッキを煽った。


 初めて食べてが梶ヶ谷のいう通りの美味しさだった。


 母もかつて同じものを食べただろうか。

 母の故郷の味か、と思うと胸に沁みた。


 生きているうちに一緒に食べにきたかった、と。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ