第29話 先生
聡明と丈二郎はそのまま官舎の奥にある陸上トラックの脇にあるベンチに腰掛けた。
先ほどの会議室の空気とは真逆の、5月の暖かな陽気が差し込み付近の植え込みには小な蝶が飛んでいて、都会にぽっかり空いた青空の下柔らかな風が二人を包んだ。
しばらくすると足音がしてきて二人の正面で止まった。
「聡明。まだ、これ好きか」
梶ヶ谷陸佐が手にふたつ珈琲牛乳のパックを持って立っていた。
「先生、ありがとうございます。それ、嫌いな人いるんですか。毎日飲みたいくらいですよ」聡明が和やかに笑みを浮かべる。
梶ヶ谷は二人に珈琲牛乳のパックを手渡しながら隣のベンチに腰掛けた。
「しかし、相変わらず丈二郎は食えん男だな。お前、最終的に儂に仲裁させるつもりで宮山にふっかけただろ」
「いやぁ、なんかあの感じだと早川のおっさんが無駄に宮山に反論して激化する局面は良くないかなと。あと、宮山が情報漏洩がらみに持って行こうとしていたから、特に今は先生的にも話をまとめざるえないでしょ。お願いしている件、最悪宮山のせいだってクサビも打てるし」
梶ヶ谷は横目で丈二郎を見ると、ふっと軽く笑って「流石だな。米軍の対敵諜報部隊、CICの期待のホープだっただけある。あの場はあれで正解だな」と嬉しそうに言った。
「嬉しいなぁ。別班のレジェンドに褒められる日がくるとは。先生、それで例の件はわかったの?」丈二郎が愉快そうに答える。
「あぁ、わかったよ。それを教えようと思ってな。予想通り大陸側の差金で確定だ。聡明、お前が進めた『保健の先生』は狙い通りクロだったぞ。本当にそのルート使うつもりなのか」
「はい、先生。現行の組織運営だといずれ限界がきます。おそらくそのような思考を持つ適応者が他国でも同時多発してくると思います。今のホールの状態が最悪である保証はないので、むしろ大災害の初期であると考えて僕たちはもっと連携をすべきです。そのために『外交』を挟んでいる猶予がいずれ無くなる可能性があるので、そのための布石です。今はまだ使いませんが」
梶ヶ谷は聡明を見つめた後「わかった。あとで部下達に命じて、ターゲットに接触の動きが出たらお前らに知らせるようにしておこう。やるときは上や他の奴らに勘付かれるなよ」と言った。
「大丈夫。僕、それに関しては一番得意」丈二郎がまるで得意料理の話をするように朗らかに言った。
「先生、大丈夫ですか。こんなに僕たちの味方して」
「立場上の直属ではないが、儂が外特機動隊と接触していることはなんの不思議もない。職務の範疇といえるよ。儂には儂なりの正義がある。その理念のもとにこの国の情報戦に身を投じてきた。しかし、これほどの脅威の敵を前にしながらもいまだに諸外国とのパワーバランスや自国の組織権力闘争に興じるのは思考停止に近しい。新たな時代の扉に手をかけるのは若者であるべきだ。新たな世界を前に旧来の統治システムにしがらむ必要はないだろう」
梶ヶ谷はベンチから立ち上がると二人を見下ろして柔らかな笑みを浮かべる。
気持ちのいい風が梶ヶ谷の綺麗な白髪を揺らす。
「間違っていたり危険だと思ったら責任を持って止めてやるから、好きにやってみろ。それが『先生』ってもんだろう」
またな、と言って梶ヶ谷は来た時と同じよう歩調で散歩するようにゆっくりと官舎に戻って行った。
後ろ姿を見て、丈二郎は初めて梶ヶ谷にあった日を思い出した。




