第16話 天秤の魔女
ヒグマはスルスルと小さくなっていき、そのままマントにすっぽり覆われると先ほどのおっとりとしたショートカットの高千穂絢にもどっていった。
絢はマントの前をしっかりとボタンで閉めてから、豪太を伴うと栞たちのところに戻ってきた。
「絢さん、スライムの雨きついっす。もうちょっと爆散させないようにはできないっすかね」
見ると豪太も絢もべっちょりと青い雨に頭から濡れている。口に入っちゃったけど大丈夫かな、と豪太はぺっぺっと地面に唾を吐いて文句を言っている。
「豪太くん、自分の頭の上にも壁作ればよかったのにねぇ」とおっとりと絢は返すと、丈二郎を見て意地悪そうに続ける。
「それよりさ、八雲くんは、みんな連れてくるなら私たちも一緒におくってよ。というか、見にくるくらいなら手伝ってよ」
「ごめんごめん、後で思いついてさ。クラスのみんなの外敵駆除の模範演習見学だよ。ね、参考になったでしょ」とクラスのメンバーを振り返った。
栞を含めてクラスの全員が固まっていた。
外敵の群勢の凄さに圧倒されつつも、絢の戦いぶりに完全に気押されている。
特に、普段の小柄な彼女の雰囲気から、あの巨大ヒグマの戦闘は想像が全くできなかっただけに衝撃が大きかった。
「絢、お疲れ様。豪太もありがとう。八雲、二人を先に宿舎に送ってあげてくれるか。絢は特に着替えをはやく」
藤聡明が進み出て場を仕切った。
なるほど、絢はあの巨体に変化して、再び元のサイズに戻るから身にまとう衣服なんか一切合切だめになっているのだろう。そのためのマントの装備だったのか、と栞は合点がいった。
先ほどのように八雲の瞬間移動で3名が消えると、藤聡明に伴って下の自衛隊部隊のところに全員でおりていった。
フェンスの周りで展開していた部隊の整理にあたっている小隊の隊長とおぼしき士官を見つけて聡明が話しかける。
「お疲れ様です。外来天敵特別機動中隊、特等陸佐の藤です。大丈夫でしたか?」
「3等陸尉の香川です。助かりました。今回のスタンピートは前回以上の外敵量で完全に想定を上回ってました」
「遅くなりすみませんでした。ギリギリでしたが対処できてよかったです。負傷者などの状況は?」と聡明は周りを見渡しながら心配そうにしている。
「は、すみません。数名がスライムの駆除中にやらえたようですが今事態の把握中でして」士官が言い終わらぬうちに、後方で「重症者あり!至急駐屯地医務室に!」と叫ぶ声がした。
すみません、と香川3尉が踵を返して声の上がった方へ駆け寄る。
中山と栞も慌てて香川について行った。
若い自衛隊員がフェンスの際に横たわっている。
ぱっと見でわかるほどの重症で虫の息と言っても控えめではない。胸部と腹部に大きく損傷を受けていて、呼吸がうまくできていない。
トリアージするならば問答無用に赤の「緊急」だ。
丈二郎がいない中で駐屯地への移送の間を耐えられるかもあやしい、と栞は見た瞬間に感じた。
とにかく対処をしないと、一刻を争う事態だ。
「医師です!前を開けてください!」栞は取り囲む隊員をどかし重症者の前に屈んだ。
まだ20歳になったばかりくらいだろうか、若い男性だ。
おそらくに胸腔に空気が漏れ呼吸ができてない。意識がなくなっていた。
「誰かボールペン!なんでもいいから!細くて管になっているものを!」
中山が胸ポケットから黒ボールペンを慌てて出して渡す。
栞はペンの芯を急いで抜くとそのまま胸部にボールペンを刺し胸腔内部の空気を抜いた。
そのまま急ぎあごをあげて人工呼吸をする。無事胸部が膨らむ。
栞は手のひらを合わせて力一杯胸を押す。
それを繰り返す。
(ダメだ。この状態では、とてもじゃないが助からないーー)
すると誰かが栞の横に膝をついた。
「ーー先生、伊勢崎先生。私がやります」
横を見ると、白兎木葉だった。
血の気の引いた表情で唇噛みながら栞を見ている。
どこか覚悟を決めた悲壮な表情とも感じた。
「白兎さん。あなた、やるってーー」
栞の言葉を遮るように木葉は倒れている自衛隊員の胸部に手をそっと当てた。
すると不思議な白い光が手のひらから漏れた。
栞はそこで再び『奇跡』を見た。
それは人類が古来から想像してきた神の奇跡を思わせる、文字通りの人ならざる神秘の奇跡だった。
白兎が手をかざしつづけると、先ほどまで全くなかった自衛隊員の呼吸が少しずつ浅く戻り始めた。
やがて死の手前にいた重症の若者の頬に赤みが差し、弱くだが咳き込んだ。
そして、薄く目を開けた。
意識が戻ったのだ。
まだ治療が必要な状態であることに変わりはないが、生命の危機に瀕した状態から脱却しているように見える。
ーーなんだこれは。
ーー私の目の前で何が起こったのだ。
栞は混乱した。
今の今まで自らが人工呼吸していた重症者はまさに死の縁にいた。
症状が逆行して巻き戻った?いや、加速的に生命力が高まり爆発的な自己治癒が行われた?分からない。
見当がつかない。
医師を志して医学の道に入ってから10年ちょっと、まだ若手とはいえ医療に身を捧げてきた自負がある。
目の前で起こったことへの言いようのない感情、起こったことを知りたいという欲求とこんな現実的でないことが起こるはずがないという怒りに似た何かが合わさった、言葉で表せない感情に栞は刹那に駆られた。
すぐ横の木葉を振り返って問いただそうとした時に異変に気がついた。
木葉は大粒の汗を額にかき、呼吸が浅い。
自衛隊員が快方に向かったのに対して、木葉は明らかな体調の悪化が出ている。
あたかも『重度の外傷』を負ったように胸部と腹部を押さえてうずくまっている。
「白兎さん、大丈夫ーー」
「担架だ!二人分の担架をすぐにもってこい!」中山が大きな声で指示を出し、奥に停めらた車両から簡易担架が大急ぎで運ばれてくる。
気がつくと先ほどからあたりで部隊の撤去作業をしていた隊員たちも集まってきて、何事かと取り巻いて見ている。
見せ物じゃないー、栞は猛烈な不快感に襲われた。
その時、取り巻いた隊員の何人かが悪意なく驚きの声をあげたのが栞には聞こえた。
「ーーあれ、もしかして横須賀クラスの『魔女』じゃないか?」
「あれが!まさか、ほんとにいたんだーー」
「本当だ…魔女だ」
横でうずくまる木葉にも聞こえたのだろう。
その声に反応するように木葉が顔を上げ、声のした方を見た。
言葉にならない怒りを滲ませたような、叫び出したいほどの悲しみに染まったような形容し難い激情の表情をしている。
栞が見つめているのに木葉は気は気がつき、動揺した表情を見せまた顔を突っ伏した。
涙を湛えて真っ赤に充血した木葉の瞳に栞は激しく胸を衝かれた。
お読みいただきありがとうございます!ぜひ評価ポイント、ブクマよろしくお願いいたします!




