第1話 発見
Deucalion
[名]《ギリシャ神話》デウカリオン
(◇プロメテウスの息子;ゼウスの起こした大洪水に妻ピュラと共に生き残り,新しい人類の祖先となった)
ー小学館 プログレッシブ英和中辞典より
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
中へ入ると、あたりの空気が一段と冷えた気がした。
藤聡明は後ろ手にゆっくりと扉を閉めながら、これまでと違う気配を感じていた。
中は天井が高く、半円すり鉢状に階段座席が配置されている。元は大学の研究機関だった施設だ。
大きな講義や学会用の大教室だったのだろう。国内で4番目に発生した小規模ホールによって遺棄された土地、神岡。
古くは鉱山で栄えたが、その跡地に造られた研究施設を中心とした山あいの集落。現在は国内4番目の特別警戒忌避区域、通称、神岡特忌区域となっている。
この地域が遺棄されて丸3年が経過しているが、他の特忌区域同様に周りの植物の成長速度が異常に速く、建物内部の所々に蔦や雑草が早くも入り込んで生い茂っている。
まるで人間の世界を侵食するように。そして文字通り人間だけがこの地域から駆逐されてしまった。
聡明は故郷の千歳市を思い出す。国内最初のホール。最初の特忌区域。懐かしさと諦めに似た怒りを感じる。
耳を澄ますが、生き物の気配を感じない。
だが、聡明の中の何かが囁く。いつでも繰り出せるようにと右手の日本刀に力を込める。
なにか、これまでに感じたことのない嫌な予感がする。そもそも、静かすぎる。
4月に米軍と合同で潜入した渋谷作戦での騒がしさほどではないが、普通の特忌区域は人間がいなくなった場所を動物たちや虫たちが我が世の春とばかりに往来を闊歩し、飛び交う。
神岡に入ってから、虫や鳥の類が騒ぎ立てるのを聞いてないな、と聡明は思い当たる。
なにか、この時間は野生動物たちも身を潜めるべきと本能的に理解している、そんな危険な存在を想像してしまう。おまけにまだ一度も特忌区域にはいってから「奴ら」に出くわしていない。こんなことはこれまで一度もなかった。
(相当、まずい外敵かーー)
ゆっくりと足を滑らせながら階段教室を慎重におりていく。
足元で小さな砂利が無機質の音をわずかにたてる。聡明は渋谷合同作戦以来、単独での特忌区域の作戦を増やしていた。
本来は数名の部隊編成で掃討作戦を実施するが、聡明は司令部に無理を通して単独作戦を敢行した。
渋谷で感じた己の力不足と、故に気がついた伸び代、自分の本当の力。自身の力量を伸ばしていくにあたっては誰にも見られずに外敵との戦闘を試行錯誤に繰り返す必要があった。
とはいえ、巨大ホールでは圧倒的な力量差がある外敵との戦闘となる可能性がある。単身で挑んで命取りにならないように国内でも小規模と言われるホールの特忌区域を選んで単独潜入を行っていた。
もう少しで体得できる、そうすれば世界でもまだ数件の例しかないホールの内部へも潜入ができるはずだーー。
聡明は得体の知れない焦りと高揚感を覚えて司令部に単独作戦を申請していた。
国内最初の適応者であり、数少ない「恩恵」を発露した適応者でもあった聡明はすでに国内では並ぶ者のいない戦力となっており、外敵の掃討数も抜きんでいたため司令部も聡明の単独作戦の希望を無視できなくなっていた。
ゆっくりと階段状の教室を降り切る、教室の汚れたガラス窓から冬の弱い日差しが線のように教室の奥に差し込んでいる。
細かな埃が舞い、銀色に輝いている。あたりの机にも雪のような埃が積もっている。
階段教室を降り切ったところには大きな教壇となっていて、広い天板を持つ頑丈な作りの黒色の教卓が輝いていた。ふと、聡明は周りの埃の多さに反して、その教壇の大きな机の上には埃が一つもないことに気が付く。
その机だけ「誰かがいまも使っているのだ」と聡明は気がついた。
刹那、視線を感じて聡明は左を振りかぶった。
教室の反対側、一段目の机の上に巨大な鳥のようなモノがいた。大きな頭部に全身を大きく覆う灰色の羽毛、異常な程発達した巨大な鉤爪、そして特徴的な巨大な双眼。
あたかもこの世界の梟とよく似た外見ながらも、この世界のどこにもいない異形な姿。
(外敵かーー)
聡明は、息を小さく吸うと攻撃のために日本刀を身構えた。
動かない。いや、聡明は動けなかった。
フクロウの姿をしたそれは、身じろぎもせず全くの無音で聡明を見つめた。
まるで彫刻のようだ。ただそれが生物であることは本能的に分かる。
何か、様子がいつもの外敵たちのそれと違う。
通常、外敵は人間を異常な程の執念で襲う。見かけたら即条件反射のように人間を襲ってくる謎の生命体だ。一方で人間以外には見向きもしない、人間専門の捕食者だ。
そこに理性は存在するようには思えないほど、あたかもプログラムのように執拗に人間だけを襲う。
食欲ではなく、ただの殺戮のために。しかし、目の前の異形なフクロウは何かを見定めるように聡明を見つめている。
なにかの意図、いやこれまで外敵には「ない」とされていた「知性」をこの目の前の外敵からは感じる。
聡明は動けなかった。先に動けばなにか決定的なことが起こる、そんな予感が聡明の刀を止めさせた。
ふと、何の前触れもなく突然、音を立てずに大きくフクロウは羽を広げるとゆったりと羽ばたいた。
巨躯に似つかわしくない柔らかな風が舞った。ゆっくりと空中を移動すると飛び上がった時と同じく優しく目の前の教壇に降り立った。
やはり音がしない。現実なんだろうか、この目の前の異形のフクロウは。
その瞬間、教壇の中で衣擦れの音がした。続いて、驚くべきことが起きた。
「…誰、誰かいるの」
人間。小さな、男の子の声だった。
まさか、こんなところに民間人、いや、子供が迷い込んでいるなんて。外敵に襲われてしまうーー。
聡明は反射的に刀を振り翳して異形のフクロウの外敵を掃討しようとした。
が、いない。
フクロウはいつの間にか消えていた。忽然と。
目の前に確かに今の今まで存在していたはずだが、瞬きすらしていない間に影も形もなくなっていた。
階段教室を見回しても存在はおろか、片鱗も、残り香も、存在そのものが突然消えたのか、認知できなくなったのか、フクロウはすでに教室のどこにも存在していなかった。
聡明は混乱する脳を必死に無視し、兎にも角にも民間人の安否を確認するために教卓の中を覗き込んだ。
少年だった。
小学生の中頃くらいだろうか。怯えた目で聡明を見つめている。
聡明は中を覗き込んで少年を見つけたことよりも、その「机の中の様子」に更なる衝撃を受けた。思わず言葉が出る。
「ここに…君はここに住んでいるのか」
机の中はまるでテントのようだった。非常食の包みが積まれて、ペットボトルの残骸がいくつも並んでいる。
カーテンか何かの布が布団のように積まれて寝床のようになっていた。よく見ると少年の服はところどころ破れほつれている。
髪も伸び放題で後ろに束ねられていた。
まさか、そんなことがあり得るはずがないが、聡明は確信するように少年に尋ねた。
「ずっと、3年間。ずっと、ここに居たのか」
少年は声もなく頷いた。
少年、戸隠 彼方が犠牲者3,456名を出した神岡特忌区域より3年ぶりの生存者として見つかった瞬間だった。
その時、彼方はわずか10歳だった。
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