これからもひたむきに
別れは痛くて、寂しくて、心の奥に小さな空白を残していく。
けれどその空白は、いつしか新しい光で満たされていくこともある。
あの頃、確かに愛した人との記憶を否定せず、受け止めて、前に進むこと。
それができるようになったとき、人はきっともう一度、誰かと心を重ねていけるのだと思う。
それから数週間後。
花音は新しい街で、新しい生活を始めていた。
「いらっしゃいませー! 焼きたてのバゲット、どうぞー!」
朝の光が射し込むパン屋で、花音は明るく声を上げていた。
この店を選んだのは、ふと立ち寄ったときに香った焼きたてのパンの匂いがあまりにも温かかったから。
昔から好きだった「人と関わる仕事」。
気づけばここで、毎朝の会話が日課になり、小さな常連さんたちの顔を覚え、誰かの日常の一部になれている喜びを感じていた。
翔真との時間も、少しずつだけど確かなものになっていた。
前みたいな“ビビッ”というときめきだけじゃない。
パン屋の終わる時間に迎えに来てくれて、コーヒーを飲みながら「今日はどうだった?」と聞いてくれる翔真。
冗談を言いながらも、花音の言葉ひとつひとつをちゃんと受け止めてくれる。
一緒にスーパーで晩ごはんの買い物をして、帰り道に寄った公園で子どもが転んだのを見て、さっと駆け寄って助ける翔真の姿に――花音は思った。
ああ、この人となら、大丈夫かもしれない。
霖太との日々は嘘ではなかった。
あの頃の花音にとって、霖太は間違いなく一番大切な人だった。
でも、あの頃と今とでは、もう「見ている未来」が違っていた。
「今日もパン、よく売れたよ」
「そりゃ花音が焼いたら、売れ残るわけないよ」
「いや、焼いてるのは店長だから」
「細かいことは気にしない」
クスクスと笑い合いながら、ふたりは家路を歩く。
街の灯りが、冬の夜空にぽつりぽつりと浮かんでいた。
花音は、肩にかかるぬくもりを少しだけ近く感じながら、心の中でそっとつぶやいた。
「ありがとう、霖太。
あの頃の私を、大切にしてくれて、本当にありがとう。
今の私は、あの時間があったから、ここにいるよ」
そして、前だけを見て歩き続けた。
◆登場人物◆
山科花音
羽生翔真




