ありがとう
不思議とふたりの時間は穏やかに続いていた。もう恋人ではないけれど、どこか昔よりも丁寧に、優しく、相手を想って過ごす日々。
きっと、言葉にしなかった想いがたくさんあって、それでもその沈黙すら大切にできるほどには、お互いを大切にしていた。
そして迎えた引っ越しの日。恋が終わっても、想いが残ることを、ふたりはきっと知っていた。
離れる決断をした後も暫く一緒に暮らしていた。むしろ前より恋人のように時を過ごしていたかもしれない。付き合っているという言葉があるなら、"別れている"という表現がぴったりだった。
霖太と花音は、かつてふたりで選んだその部屋の玄関に立ち、並んで周りを見渡していた。
引っ越し業者が持って行ったダンボールのあとには、空っぽになったリビングと、ちょっとだけホコリの匂い。
白い壁に映る西日の影が、なんだか懐かしく見えた。
「……全部、出したね」
花音の声に、霖太は小さくうなずく。
「うん。これで、ほんとに終わりか」
無言のまま、ふたりはゆっくり玄関の外へ出た。
そしてポストの前。
花音が取り出した鍵を、霖太が受け取り、それをふたりで一緒に投函する。
チャリン、と小さな音がして、鍵がポストの底に落ちた。
しんと静まる夕暮れの空気の中、ふたりはゆっくりと向き合った。
「……お疲れ様でした」
花音が微笑みながら言うと、霖太もふっと笑った。
「うん。いろいろ、ありがとう」
そのまま、ふたりは自然に手を伸ばし合い、そっと握手を交わした。
言葉よりもずっと多くのことを伝える、静かなぬくもり。
もう恋人ではないけれど、確かに過ごした時間への感謝と敬意がそこにあった。
◆登場人物◆
土井霖太
山科花音