それでも好きだ
朝が来る前の静寂の中で、霖太は一人、眠れぬ夜を過ごしていた。
彼の心は花音に対する愛情と、自分のエゴに引き裂かれた。
ずっと気づけなかった。花音がどれだけ寂しくて、どれだけ我慢していたのか。
それを知らないまま、ただ一緒にいることが「当たり前」と思っていた自分に、深い後悔が押し寄せてきた。
その日、まだ薄暗い午前4時、霖太は眠れていなかった。
寝室では寝れず、リビングのソファに移動して横になっていた。
何がいけなかった?どうするべきだった?という思考がフル回転していた。今伝えなきゃという気持ちが脳内を支配していた。霖太は静かに起き上がり、無意識に寝室のドアノブに手をかける。
中では花音が静かに眠っていた。
そっと近づき、彼女の手に触れる。
「……こんな時間にごめん、花音……」
声が、震える。
「俺、何もわかってなかった。気づけなかった。
君がどれだけ我慢してたか……どれだけ、孤独だったか……」
静かな寝息が、微かに乱れる。花音のまぶたが動いた。
「……霖太……?」
その声に、霖太の目から堰を切ったように涙がこぼれ落ちる。
「別れたくない……やり直したい……何も考えずに眠ろうとしたんだけど、どうしようもなく花音が好きなみたいで、今伝えなきゃと思ってしまった……」
「……霖太………」
「遅いよね、わかってる。でも、ずっと考えてた。どうすればよかったのか。何をすれば良かったのか……考えた。だけど答えが出なくて……でも、これだけは伝えようと思って」
花音は眠たげな目で霖太を見つめていたが、やがて、そっと手を握り返した。
「霖太……泣かないで。私こそ、ごめんね……」
「……じゃあ……もう一度、やり直せる……?」
花音は、しばらく黙ってから小さく頷いた。
「……私がバカだった…ごめん霖太………」
霖太は、胸の奥から何かが崩れ落ちるような安堵を感じて、彼女の手を離さずにいた。花音の優しさに包まれ、心の底から安心した。
翌日の夜。
二人はソファに並んでいた。
テレビではコメディ番組が流れていたが、どちらもほとんど見ていない。
霖太がふと横を見ると、花音は笑っていなかった。
どこか上の空で、目は画面ではない場所を見つめていた。
「花音……昨日はありがとう」
「……うん」
「正直、すごく嬉しかった。君が手を握り返してくれて」
花音は小さく笑った。けれど、その笑みはどこか寂しげだった。
「霖太の、あんな取り乱した姿初めて見たから……びっくりした。
それだけ、私のこと……ちゃんと想ってくれてたんだって、わかったよ」
「……想ってたよ。ずっと、ちゃんと、想ってたつもりだった。でも……届いてなかったんだよな」
花音がゆっくりと顔を上げる。目が赤くなっていた。
「ううん。届いてたよ。ただ……気持ちとタイミングが、ずれてたのかもね」
「……俺さ、昨日“やり直したい”って言ったけど……」
「……うん」
霖太は一瞬、言葉を詰まらせた。
深く息を吸い込んで、吐き出す。
「今日、君と並んで過ごして、思ったんだ。
昨日の“やり直したい”は……俺のエゴだったのかもしれないって」
「霖太……」
「“君のために”って言いながら、俺が欲しかったのは、自分の安心だった。
君の気持ちを見ないフリして、ただそばにいてほしかっただけかもって……」
花音は言葉を返せず、視線を落とす。
霖太の声が、震えていた。
「でも……本当は、君には、もっと前を向いてほしいんだ。
俺じゃなくても、君をちゃんと笑顔にできる人が……」
「待って、それって……」
「……花音、俺らはやっぱり距離を置いた方がいいと思う」
その言葉に、花音の肩がビクリと揺れる。
「またそれ言うの……? 昨日は“離れたくない”って泣いたのに、今度は“離れよう”って……」
「ごめん。でも、昨日の俺は……自分のことしか考えてなかった」
沈黙。
霖太は両手で顔を覆ったまま、ゆっくりと言葉を搾り出す。
「……こんな俺が、君を幸せにできる自信が……ないんだ」
「……霖太」
花音がそっと手を伸ばし、霖太の手に触れる。
その指先は優しくて、けれど悲しみに濡れていた。
「私、霖太が“足りなかった”なんて思ってない。
私だって、たくさん間違えた。たくさん幸せをもらった。ただ、向き合うのが怖かっただけ……」
「でも、怖いまま一緒にいても……お互い、壊れるだけだよな……」
「……そうだね」
霖太が、顔を上げる。目の奥に浮かんだ涙は、まだこらえられていた。
「……本当に、花音のことが好きだった。今も、ずっと、好き。愛してる。
でも……その“好き”が君を縛るなら、俺が手を離すしかない」
花音の目から、ひとすじの涙が落ちる。
「それ、すごく、残酷だよ」
「うん。俺にとっても、地獄みたいな決断だよ」
二人は、しばらく黙って見つめ合った。
そして霖太は、小さく、でも確かに言った。
「ありがとう、今まで。君といた日々、全部……大切だった」
花音は何も言えず、ただ、霖太の手を握っていた。
◆登場人物◆
土井霖太:誠実で真面目な性格だが、仕事に追われるあまり大切な人への感謝の気持ちを忘れがち。花音と同棲し、将来を考えていたが、次第にギクシャクし始める。
山科花音:明るく社交的で、周囲との関係を大切にする。霖太と共に過ごす日々の中で、だんだんと違和感を感じ始め、運命の出会いをきっかけに心が揺れ動く。