予感のする方へ
どこか、わかっていたのかもしれない。
このまま続けていくには、何かが足りなかった。
優しさも、思いやりも、確かにそこにあったのに、心は少しずつ色を失っていた。
変わることが怖くて、静かに目をそらしていた日々。
そんな自分に、ある人がこう言った。
「今の君、すっごくいい顔してる」
その一言で、心に灯った光。
それは裏切りじゃなくて、たぶん、自分を取り戻すための選択だった。
週末の昼下がり。
澄んだ空に、冬の光が静かに降り注いでいた。
花音は、霖太には「友達とランチ」とだけ伝えて、都心の小さなビストロを訪れていた。
テーブルには色とりどりの前菜と、泡立つスパークリング。目の前には、翔真。
「この店、来たことなかったけど、めっちゃオシャレ。さすが花音ちゃんだね」
「え、私? 翔真くんが見つけてくれたんじゃん」
「いやいや、君がいるから、この店も倍増しでオシャレに見えるのよ」
翔真の軽やかな言葉に、花音は思わず吹き出した。
――やっぱり、楽しい。
不思議だった。こんなに笑ってる自分、いつぶりだろう。
翔真といると、肩の力が自然と抜けて、言葉がどんどん出てくる。無理をしなくていい。沈黙すら、心地よかった。
「……なに?」
「え?」
「なんかさ、花音ちゃん、今すっごくいい顔してる」
その言葉に、花音の心がふっと震えた。
“今の自分が好きだ”と、確かに思っていた。
翔真といるこの時間を楽しんでいる。
霖太との生活を否定したいわけじゃない。
優しさも、ぬくもりも、たしかにそこにあった。けれど――今、自分が「隣にいたい」と思ってしまったのは、目の前の人だった。
その夜。
部屋に帰ってきた霖太は、ソファでスマホを見ていた。
花音は一度だけ深く息を吸い、まっすぐ彼の前に立つ。
「霖太、話があるの」
「ん? どうした?」
その穏やかな声に、胸がきゅっと締めつけられた。でも、逃げるわけにはいかなかった。
「……他に気になる人が、できたの」
沈黙が落ちる。
霖太の表情は、一瞬、何かを理解するのを拒むように硬直した。
「……え?」
「ごめん。本当に、ごめん。」
震える声を、どうにか保って伝える。
霖太はしばらく何も言わなかった。ただ、彼の瞳の奥が少しずつ揺れていくのが、花音にははっきりと見えた。
「……そうか。なんか最近の花音は、らしくないなって思ってた」
彼のその一言が、花音の涙腺を一気にゆるめた。
「本当にごめん。霖太のこと、大事に思ってた。でも……私、もう自分に嘘をつけないの」
「……もう決めたんだね?」
花音は、ゆっくりとうなずいた。
そして霖太もまた、わずかに頷き返した。
「そっか。……なら、俺が止める理由はないよね」
それは、優しさと、痛みの混ざった答えだった。
ふたりの時間は、静かに終わろうとしていた。
だけど、花音の目には、確かにひとしずくの感謝と、そして痛みが浮かんでいた。
◆登場人物◆
土井霖太:誠実で真面目な性格だが、仕事に追われるあまり大切な人への感謝の気持ちを忘れがち。花音と同棲し、将来を考えていたが、次第にギクシャクし始める。
山科花音:明るく社交的で、周囲との関係を大切にする。霖太と共に過ごす日々の中で、だんだんと違和感を感じ始め、運命の出会いをきっかけに心が揺れ動く。
羽生翔真:明るく社交的な性格で、どんな場でも自然に人を引きつける。ユーモアを交えた会話で周囲を和ませる存在。花音と出会い、彼女に心惹かれていく。