スピンオフ:見つけた確かな灯り
仕事も日々も順調だけど、どこか満たされない――そんな羽生翔真の前に現れたのは、静かにカウンターで飲む一人の女性・花音。偶然の出会いが、やがて運命を感じさせる特別な関係へと変わっていく。心を通わせていく中で知ったのは、彼女にはすでに誰かとの日常があるということ。それでも惹かれ合うふたりは、自分たちの気持ちにどう向き合うのか。揺れる心の中で、本当の「灯り」を探し続ける、優しくも切ないラブストーリー。
毎日が同じように流れていく。仕事は順調だが、どこか物足りない気がしていた。いつの間にかクリスマスのシーズンになっていた。そんな日々の中で、久しぶりに飲み会に参加することにした。特に目的があったわけではない。ただ、何となく人と会って、少しでも気分転換ができればと思っただけだった。
一次会が終わり二次会会場のカフェバーに着くと、すでに何人かが集まっていて、賑やかな雰囲気が広がっていた。賑やかな声に混ざって、ふと目を引く存在があった。
カウンターに座って、ひとり静かに飲んでいる女性がいる。周りの喧騒をよそに、彼女はまるで自分だけの世界にいるかのようだった。その姿に、何か引き寄せられるような感覚を覚える。
そして、気づけば足が自然とその席に向かっていた。どんなに周りが騒がしくても、彼女の静けさが、今の自分にはどうしても必要な気がした。心の中で、運命のようなものを感じた瞬間だった。
「…楽しんでる?」
その声に、彼女がゆっくりと顔を上げる。
一瞬、見覚えがあるような錯覚に陥った。
いや、違う。きっと初めて会う人なのに、心がざわついたのだ。
「あ…うん、まぁ…ぼちぼち?」
その返事に少し戸惑いながらも、彼女の表情から何かが伝わってきた。まるで、普段は人と話すことが少ないような、少し内向的な雰囲気が感じられる。だけど、同時に、その奥にある強さも感じた。
「ぼちぼちか〜、もったいない!」
思わず口にした言葉だったが、どうしても気になった。彼女は一人で飲んでいるのが自然なことのように見えたけど、ふと感じたのは、少しだけその孤独を解きほぐしてあげたいという気持ちだった。
「翔真っていいます。羽生翔真。で、あなたは?」
「山科花音…です」
「花音ちゃんか。名前まで可愛いじゃん」
カフェバーの一角で、ふたりはゆっくりと話し始めた。最初から自然と会話が弾んだ。彼女が話す内容、声、表情、すべてが魅力的だった。どこか素朴で、それでいてどこか謎めいたところもあった。
会話を続けるうちに、心がだんだんと近づいていくのを感じた。彼女ともっと話していたい、と思った。でも、時間はあっという間に過ぎてしまう。
「じゃあ、今度ランチでも行こうよ。」
その言葉を口にする瞬間、まるで運命の流れに乗っているかのような気がした。彼女の瞳が少し驚いたように見開かれ、そしてすぐに優しく笑った。その笑顔を見た瞬間、心がはっきりと確信を持った。
——この出会いは、偶然じゃない。
運命が、ちゃんと連れてきてくれた。
都心の小さなビストロで、俺たちは向かい合ってランチをしていた。
初めて会った夜から数日。気づけば自然に連絡を取り合って、こうして再会できていることが、すでに特別なことのように思えた。
花音は明るくてよく笑う人だった。
でもふとした瞬間、表情の奥に影のようなものが見える。それが何なのか、気になっていた。
「翔真くんって、ほんとに話しやすいね」
「そう? 花音ちゃんの方がよく話してくれるから、だと思うけどな」
笑い合ったあと、ふと、彼女の笑顔が少しだけ曇った気がした。
そして、そのままの流れで、彼女は言った。
「……私、実はね。長く付き合ってる人がいるの。それも一緒に住んでるの」
その瞬間、時間が止まったような気がした。
フォークを持つ手が、空中で止まる。心臓が一瞬、痛いほど跳ねた。
同棲。
つまり、彼氏がいて、それも長く続いているってこと。
言葉がうまく出なかった。
でも、目の前の花音は、まっすぐに俺を見ていた。隠すつもりはない、という覚悟を込めた目だった。
「……そっか」
やっとのことで声を絞り出す。でも、そのあとが続かない。
頭の中では「やめとけ」「迷惑だ」「もう引いた方がいい」って、理性ががなり立ててる。
だけど、それ以上に強い感情が、胸の奥からこみ上げてきた。
俺は、花音に出会ったあの夜のことを思い出していた。
人混みの中で、彼女だけが、光を放って見えた。
それが偶然なわけがない、って思ったんだ。
花音が彼氏と住んでいようと、関係ない。
この気持ちは、偽りじゃない。
会計を済ませ、店の外へ出る。冬の風がツンと冷たかった。駅へ向かう花音の隣を歩きながら、言うべきかどうか、ずっと迷っていた。
でも、別れ際。信号が青になる前に、言葉が口をついて出た。
「花音ちゃん。…彼氏がいるって聞いて、正直びっくりしたし、戸惑った。けど――それでも、また会いたいって思ってる」
花音が驚いたように目を見開く。
「自分でも、何でこんなに惹かれてるのか、まだちゃんと言えないけどさ。出会ったときから、ずっと…特別だったんだ。だから、俺に時間をくれない?」
花音は少し黙って、それから、ほんの少し照れたように笑った。
「……うん」
その笑顔に救われた気がした。
俺はまた彼女に会える。その事実だけで、胸が熱くなった。
――この感情は、恋だ。
誰かがいるからって、諦める理由にはならない。
運命があるなら、俺はそれを信じてみたい。
その日、花音からのLINEは突然だった。
「彼と、別れたよ。」
最初は、目を疑った。
間違いじゃないかって、何度も読み返した。
スマホを持つ手がじんわり汗ばんでくる。
あの花音が、長年付き合っていた彼氏と別れた。
それは、俺にとってただの“ニュース”じゃない。
心の奥で静かに温め続けていた願いが、現実として目の前に現れた瞬間だった。
心臓の音がドクンと跳ねる。
嬉しい。信じられないほど、嬉しい。
でも、同時に、胸の奥にぐっと重い何かも感じていた。
花音は、きっと簡単には語らない。
長く一緒にいた誰かとの別れが、どれほど苦しくて、痛くて、勇気のいることだったか。
だからこそ、浮かれてばかりいられなかった。
それでも——
俺の中で何かが、確実に動いた。
「よし……」
ひとりきりの部屋で、小さくつぶやいた。
その声が、自分の本気を確かめるように響いた。
花音にふさわしい男になりたい。
笑ってほしい。安心してほしい。
過去の傷を、そっと包み込めるような存在になりたい。
今のままじゃ、まだ足りない。
この気持ちに、ちゃんと形を与えたい。
翌日から、俺は変わり始めた。
朝のコーヒーを飲みながら、ぼんやりしていた時間を、英語の勉強に使った。
仕事のスキルアップにも前より貪欲になった。
トレーニングも、少しずつだけど再開した。
ただ“いい人”で終わりたくなかった。
“頼れる人”に、本気でなりたかった。
そして何より、花音の隣に立つ自分を、誇れるようになりたかった。
運命を信じた。
なら、その運命に恥じない自分でいたい。
——これはただの恋じゃない。
俺の人生を、まるごと変えてくれる出会いだった。
「ねぇ、これ美味しそうじゃない?」
テーブルに並ぶ料理の写真を見せてくる花音に、「いいね、それ行こうよ」と返す。
そんなやりとりが当たり前になってきた。
花音と付き合い始めて、もう数ヶ月。
一緒に過ごす時間が増えるたびに、日常が彩られていくのを感じていた。
何気ない休日のランチも、花音と一緒だと特別になる。
彼女の笑い声はいつだって明るくて、隣にいるだけで、自分の世界まで明るくなる気がした。
「ほんと、最近楽しいことばっかだなー。俺、運気上がってんのかな」
そう言うと、花音は笑いながら「それ、私のおかげでしょ」と冗談めかして肩を小突いてきた。
その仕草が可愛くて、思わず見とれる。
……でも、そんな幸せの中に、ふっと影のように現れる気配がある。
スマホを見つめる花音の表情が、どこか遠くを見ているように見えた日。
部屋に置かれた写真立ての奥に、しまいきれていなかった“誰かとの思い出”。
そして、ある日何気なく聞いた——「元彼って、まだ連絡取ってる?」
花音は、ほんの一瞬だけ黙った。
そして、少しだけ目を伏せて、「偶然ね、この前、ちょっとだけ会ったの」と答えた。
翔真の心は大きく波打つことはなかった。
けれど、底のほうで小さな波紋がじわりと広がっていくような、そんな感覚があった。
「そっか、話せてよかったじゃん」
そう笑って言えた自分は、少し大人になったと思う。
でもその夜、布団の中で花音の寝息を聞きながら、スマホの中の“彼との写真”がまだ残ってることを思い出すと、胸の奥がちりちりとした。
一度だけ、「元彼との写真、もう消してもよくない?」と軽く聞いてみた。
花音は「うーん……今はまだ、消したくない」と答えた。
その言葉が、頭の中で何度もリピートされる。
嫉妬とか、疑いとかじゃない。ただ——
“まだ彼のこと、どこかで想ってるのかな”
そんな不安がふと胸をかすめる。
だけど、それでも俺は信じている。
花音が、今、俺の隣にいること。
そのぬくもりと、言葉と、目線のすべてが嘘じゃないってことを。
だって、花音が好きだから。
不安なんて、恋してる証拠でしょ。
俺は彼女にとって、過去じゃなくて、“これから”の男になりたい。
——そしてきっと、なれる。
そう思えるようになったことが、俺自身の変化なんだと思う。
「……また返信遅いな」
帰り道、スマホを握りしめながら小さくつぶやいた。
花音からの既読はある。でも、返事が来ない。
仕事が忙しいのかもしれない。疲れているのかもしれない。
何度もそう言い聞かせてみるけど、胸の奥がざわつく。
最近、なんとなくすれ違っている気がする。
会っているときは普通なのに、どこか心が上の空に感じる瞬間がある。
笑ってくれるし、ちゃんと手もつないでくれる。だけど、その笑顔の奥を、掴みきれない。
──俺の気にしすぎだろう。
そう思う自分と、何かを察している自分が、心の中でせめぎ合っていた。
週末、久しぶりに花音の家で一緒に夕飯を食べることになった。
「これ、好きだったよね?」
そう言って作ってくれた煮込みハンバーグに、翔真は嬉しくて思わず顔がほころんだ。
こんなふうに、ちゃんと自分のことを考えてくれている。
その想いが伝わってくるのに——なのに。
「……ねえ、前に言ってた写真のことだけど、まだ消せない?」
ふと、会話の途中で、それが口をついて出てしまった。
言うつもりはなかった。せっかくの楽しい時間を壊すことになるって、わかってたのに。
花音は手を止めて、少しだけ眉を寄せた。
「……その話、また?」
「うん。だって、まだ消してないんでしょ? なんでそんなに残しておきたいのか、正直わからないんだよ」
言葉にすると、思っていた以上にトゲがあった。
「……思い出は、簡単に消せないものだよ。翔真くんには、わからないかもしれないけど」
花音の声には、少しだけ怒りと、少しだけ寂しさが混じっていた。
「じゃあ、俺はさ、いつまで“前の人”と並べられるの? 俺と一緒にいるのに、気持ちはまだ半分くらい、その彼に残ってるんじゃないの?」
言ってから、後悔した。
花音はしばらく黙ったまま、そして小さくため息をついた。
「……そんなふうに思われてたんだ」
その一言が、何よりも胸に突き刺さった。
その夜、ふたりはぎこちないまま、ほとんど言葉を交わさずに別れた。
家に帰っても、部屋の静けさがやけに堪えた。
テレビの音も、スマホの通知も、すべてが遠くに感じた。
次の日、翔真はふと、花音にLINEを送った。
『ごめん。言いすぎた。
でも、俺なりに不安だった。
花音ちゃんのこと、ちゃんと信じたくて——信じたくて、余計に。』
しばらくして、ぽつんと返ってきた返事。
『私も、ごめんね。ちゃんと話せばよかったのに、逃げてたのかも。会って、話さない?』
カフェで向かい合った花音は、少しだけ泣きそうな顔をしていた。
「私、翔真くんにちゃんと向き合えてなかった。彼とのこと、思い出としてちゃんと整理してるから。今の私には、翔真くんしかいないって、言いたいのに……伝えるのが怖かったんだと思う」
翔真は、そっと手を差し出す。
「……じゃあ、これからは一緒に進もうよ。ちゃんと、ふたりで」
花音がそっとその手を取った。
温かさが、心にしみ込んでいく。
——好きだから、ぶつかってしまう。
でも、好きだからこそ、ちゃんと向き合おうと思える。
この先もきっと、いろんなことがある。
けど、ふたりなら大丈夫だ。そう信じられるようになった。
あの喧嘩から、少しずつ、けれど確実に俺たちは変わった。
不安も、嫉妬も、過去も——
話し合って、ぶつかって、笑い合って。
それでも隣にいたのは、いつも花音だった。
休日の午後、ベランダで並んでアイスを食べていた。
気づけば夏が近づいていて、陽射しはどこかまぶしい。
「ほら、口、ついてる」
花音が笑いながら、俺の口元をぬぐってくれる。
その何気ない仕草が、こんなにも愛おしいなんて思わなかった。
「なに笑ってるの?」
「ううん。幸せだな、って思っただけ」
「……そっか。じゃあ、よかった」
俺の方が照れて視線を逸らすと、花音が少し意地悪そうに笑った。
その笑顔が、俺の一番好きな表情だ。
ほんの数秒の沈黙のあと、俺はゆっくりと口を開いた。
「花音ちゃん。……俺さ、ずっと思ってたんだ」
「うん?」
「初めて会ったときから、なんか“運命”っぽいなって感じて。
ランチしたときも、付き合ってからも、喧嘩して、仲直りして……
全部がちゃんと繋がってる感じがするんだよね。
……だから、これからも一緒にいたい。
未来のことも、花音ちゃんと考えていきたいって、思ってる」
言葉を選びながら、でも真っすぐに。
ちゃんと、目を見て伝えた。
花音は驚いた顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「……うん。私も、そう思ってた。
翔真くんとなら、どんな未来でも、怖くない」
小さく頷いたあと、花音は俺の手をぎゅっと握る。
その温もりが、心の奥まで染みわたっていく。
「じゃあ、決まりだな」
俺は彼女の手を握り返し、空を見上げた。
真っ青な空に、いくつもの雲が流れていく。
これから先、何があってもきっと大丈夫。
だって、隣には花音がいるから。
——そう思えたこの瞬間が、
人生の中で、いちばん幸せな「今」だった。
◆登場人物◆
羽生翔真
山科花音