追放された悪女の幸せレシピ ~辺境で見つけた本当の私と愛の味~
「毒入りだ!」
その一言が広間に響き渡った瞬間、私の世界は音を立てて崩れ始めた。
婚約パーティーの華やかな空気が一変し、貴族たちの囁き声が私を取り囲む。目の前のプディングから立ち上る甘い香り—バニラとシナモンの優しい調和が、今や毒のように私の鼻をつく。舌の上に残る砂糖の甘さが、苦味へと変わっていく錯覚。
「リリアナ・オーバーン、どういうことか説明してもらおうか」
エドガー王子の冷たい視線が私を射抜く。澄んだ碧眼に映る私は、もはや愛する人ではなく、忌むべき「悪女」でしかなかった。
「私は…違います。このお菓子に毒など…」
喉から絞り出すように言葉を紡ぐが、既に誰も耳を傾けようとはしない。王子の隣に立つセリア・ヴァンドールの唇が、かすかに勝ち誇った笑みを浮かべている。彼女の翡翠色の瞳の奥に、幼い頃から私に向けられていた羨望と憎悪が見え隠れしていた。
あの子が私の料理に何かをしたのだ。それは明らかだった。だが、証拠はない。
「リリアナ・オーバーン、聖女候補の称号を剥奪し、明日までに王都を去ることを命じる」
王子の宣告に、広間に集まった貴族たちからどよめきが起こった。肩には父の震える手が乗せられていたが、その手にも力はなかった。オーバーン伯爵家の令嬢である私の評判は、この場で地に落ちたのだ。
私は静かに膝をつき、王子に最後の別れを告げた。涙は流さなかった。少なくとも、彼らの前では。
翌朝の光は残酷なほど美しかった。朝露の香りと小鳥のさえずりが、去りゆく者への無情な餞別のようだった。小さな荷物だけを持ち、馬車に乗り込む私の姿を見送る者は、老執事ヘンリーだけだった。
「お嬢様、どうかご無事で」
彼の目には涙が浮かんでいた。長年仕えてくれた彼の手のしわを、そっと自分の手で撫でる。私は微笑みを作り、頷いただけだ。馬車が動き出し、王都の景色が徐々に遠ざかっていく。石畳の上を走る車輪の音が、私の心臓の鼓動と重なる。これが私の知る世界の終わりだった。
胸に秘めた料理への情熱も、この馬車とともに封印することにした。曾祖母から母へ、そして私へと伝わったその才能も、私の心のように、どこか遠くへ置き去りにして。
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三日目の夕暮れ、空は鉛色の雲に覆われていた。粉を吹いた唇と空腹に鳴る腹。所持金は底をつき、体力も限界だった。乾いた風が頬を撫で、やがて湿り気を帯びてきた。遠くに小さな町の明かりが見えたとき、私は安堵のため息をついた。
辺境の町ラヴェンデル。名前の通り、かすかにラベンダーの香りが漂う。祖母が暮らしていたという場所に、ようやくたどり着いたのだ。
だが、町の入り口まであと少しというところで、私の足は動かなくなった。疲労と空腹で視界が霞み、地面が揺れているような感覚に襲われる。雨粒が頬に落ち始めた。
「このままでは…」
力なく膝をつき、意識が遠のいていくのを感じていた。最後に見たのは、夕闇の中に浮かび上がる一人の男性の姿だった。琥珀色の鋭い眼差しと、その瞳に宿る何かが、暗闇の中で輝いていた。
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「目が覚めたか」
低く落ち着いた声が、私を現実に引き戻した。
天井を見上げると、見知らぬ木目の梁が広がっている。古い木の香りと、どこからともなく漂う出汁の香り。身体を起こそうとすると、鈍い痛みと共に頭がズキリと疼いた。
「無理をするな。しばらく横になっていろ」
声の主は、窓際に立つ男性だった。短く刈り込んだ褐色の髪に、鋭い琥珀色の瞳。三十代前半だろうか。腕を組んで私を見下ろす姿には、どこか威厳があった。その手には大小の火傷跡があり、料理人特有の包丁の痕もいくつか見える。
「ここは…?」
「『月光亭』だ。俺の店だ」
彼の言葉に、周囲を見回す。質素だが清潔な部屋。窓の外からは、活気ある通りの声が聞こえてくる。雨の後の鮮やかな夕焼けが、窓から差し込んでいた。
「あなたが助けてくれたのですね」
「倒れていたからな。放っておくわけにもいかなかった」
男性は淡々と答えた。感謝の言葉を言いかけたとき、腹の奥から音が鳴った。恥ずかしさで顔が熱くなる。
彼は何も言わず、部屋を出ていった。足音が遠ざかり、やがて階下から鍋を扱う音が聞こえてきた。しばらくして戻ってきた彼の手には、湯気の立つスープの入った器があった。香ばしい野菜の香りが、私の鼻腔をくすぐる。
「食え」
控えめな味付けながら、野菜の旨味が凝縮されたスープ。一口啜ると、温かな液体が喉を伝い、体の芯から温かさが広がっていく。玉ねぎの甘み、人参の優しさ、そしてわずかに感じるハーブの風味。その素朴な美味しさに、思わず涙がこぼれた。
「うまくないのか?」
「いいえ…とても美味しいです」
顔を上げると、男性は微かに困惑した表情を浮かべていた。少し不器用な優しさがそこにあった。
「エリック・ヴァルトだ。この店の主人兼料理人だ」
私は一瞬躊躇った。身分を明かすべきか迷ったが、もはや伯爵令嬢でも聖女候補でもない。今の私は、ただの追放者に過ぎなかった。
「リリアナです。リリアナ・オーバーン」
エリックは姓に聞き覚えがあるようだったが、何も言わなかった。代わりに彼が告げたのは、私の現状だった。
「宿代も払えないようだな。なら、働け」
「ここで、ですか?」
「皿洗いくらいはできるだろう」
冷たい言い方だったが、その瞳には不思議と温かさがあった。窓から差し込む夕日の光が、彼の横顔を優しく照らしていた。私は迷わず頷いた。選択肢などなかったのだから。
こうして私は、辺境の町の小さな食堂で働くことになった。追放された元婚約者の悪女が、新しい人生を始める場所として。
### 第2章
月光亭の厨房は、私が想像していたよりも広かった。調理場には大きな薪かまどがあり、壁には様々な調理器具が整然と並んでいる。銅鍋の照り返しが天井を照らし、まな板の上で野菜を切る音が心地よいリズムを刻んでいた。エリックは黙々と包丁を動かし、若い料理人のレインが野菜を刻んでいた。
「リリアナさん、こっちが皿洗い場だよ」
レインが明るく声をかけてくれた。エリックの弟子だという彼は、主人とは対照的に社交的で朗らかな青年だった。金色の髪と青い瞳が印象的で、いつも笑顔を絶やさない。
「ありがとう」
私は袖をまくり上げ、積み上げられた食器に向き合った。伯爵令嬢として育った私には、家事の経験などない。だが今はそんなことを言っている場合ではなかった。
最初の一週間は辛かった。手は荒れ、指先はシワシワになり、腕は重く、足はパンパンに腫れた。温かい湯に触れるたびに、赤くなった手が痛みを訴える。だが不思議なことに、心は次第に落ち着いていった。
毎日同じ作業、単調な日々。それでも厨房に漂う香り—小麦粉を捏ねる時の土の香り、フライパンから立ち上る肉の香ばしさ、煮込み料理の奥深い香り—や、カウンターから聞こえてくる客の笑い声は、私の心を少しずつ解きほぐしていった。
「お前、料理をしたことはあるのか?」
ある日、エリックが突然そう尋ねてきた。私は手を止め、彼を見上げた。彼の表情はいつもと変わらず無愛想だったが、その瞳には何か探るような光があった。
「…少しだけです」
それは嘘だった。料理は私の密かな情熱だった。伯爵令嬢としての教育の合間に、こっそりと城の料理人から学んでいたのだ。小さな頃から、母の形見の料理道具で遊ぶのが好きだった私。それが高じて、婚約パーティーでも自分の手作りお菓子を出した結果が…。
記憶が蘇り、思わず手が震えた。お皿が水の中でカチャリと音を立てる。
「そうか」
エリックはそれ以上何も言わず、調理に戻った。だが、彼の鋭い視線が時折私に向けられるのを感じた。まるで私の中に隠された何かを見抜こうとするかのように。
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二週間が過ぎた頃、厨房への出入りが許されるようになった。皿洗いの合間に、目の前で繰り広げられる料理の光景に、私の心は次第に騒がしくなっていった。
包丁の音、火の音、食材が変化していく様子。香辛料の香りが空気を染め、時折エリックが鍋の中身を味見する時の真剣な表情。それらは私の中の、封印したはずの情熱を呼び覚まそうとしていた。指先が疼き、包丁を握りたいという衝動に駆られる。
「ちょっと手伝ってもらえるかしら?」
昼下がり、常連客のマーサ・クラークが厨房に顔を出した。六十代の薬草師で、町では「知恵袋のマーサ」と呼ばれる人物だった。銀色の髪を一つに束ね、深いシワの刻まれた顔には慈愛が満ちている。
「何かご用ですか?」
「これを料理してほしいの」
マーサが差し出したのは、見たこともない青紫色の根菜だった。表面には星型の模様があり、切り口からはわずかに甘い香りが漂う。
「ブルームルート。山の奥地でしか採れない珍しい食材よ。これを使った料理が食べたくてね」
「でも、私は…」
「エリックもレインも出かけているでしょう?大丈夫、秘密にしておくわ」
マーサの目が意味ありげに細められた。彼女は何か知っているのだろうか。その洞察力のある瞳が、私の心を見透かしているようだった。
迷いながらも、私は頷いた。そして手を洗い、エプロンを締め直し、久しぶりに包丁を手に取った。冷たい金属の感触が、懐かしく感じられた。
あの日以来、初めての料理。
手が覚えていた。包丁の握り方、まな板の向き、火の調節。体が自ずと動き出す。心の奥から湧き上がる喜びと共に、料理への愛が再び息を吹き返した。
ブルームルートは甘い香りとほのかな苦味を持っていた。私はそれを細かく刻み、バターでソテーし、スープに加えた。鍋の中で素材が溶け合い、美しい青紫色の液体が生まれる。その色合いに、何か魔法のようなものを感じた。
「どうぞ」
完成した料理をマーサの前に置くと、彼女は目を細めて香りを楽しんだ。湯気が立ち上り、彼女の白髪に絡みつく。
「いい香りね」
一口、彼女がスープを啜る。すると彼女の瞳が大きく見開かれた。その中に、遠い記憶の光が宿る。
「懐かしい…」
「え?」
「このスープを飲むと、子供の頃、祖母が作ってくれたスープを思い出すの。小さな山小屋で、雨の日に飲んだあのスープ。もう七十年も前のことなのに、今飲むと、まるで昨日のことのように思い出すわ。不思議ね」
マーサは微笑みながら、スープを飲み干した。彼女の頬に一筋の涙が伝った。
「ありがとう、リリアナ。素敵な思い出をプレゼントしてくれたわ」
彼女が去った後、私は困惑していた。ブルームルートを料理したのは初めてのはずなのに、なぜマーサはそれを懐かしいと感じたのだろう。私は自分の手を見つめた。何か特別なことが起きたのだろうか。
「お前がやったのか」
背後から声がして、私は飛び上がった。鍋の取っ手にぶつかり、小さな音が鳴る。
振り返ると、エリックが立っていた。見つかってしまった。叱られると思ったが、彼の表情には怒りよりも好奇心が浮かんでいた。
「すみません、勝手に…」
「いや、構わない」
彼は私が作ったスープの残りを口に含み、味わった。ゆっくりと口の中で転がし、香りを鼻腔で感じ取る。料理人特有の繊細な味覚で、すべてを分析していた。
「これは…」
彼の眉が僅かに上がる。その瞳が、驚きと共に輝いた。
「君の料理には感情が込められている」
その言葉に、私は息を飲んだ。
「感情、ですか?」
「ああ。普通の料理とは違う。食べる者の記憶を呼び覚ます力がある」
エリックは渋々と言葉を続けた。彼の声には、何か秘めたような響きがあった。
「これは珍しい才能だ。『食の魔術師』と呼ばれる者たちの特徴だ」
「食の…魔術師?」
「感情を料理に込められる特殊な才能を持つ料理人だ。数百年に一人の割合でしか生まれないと言われている」
彼は窓際に歩み寄り、外の景色を見つめながら続けた。
「古来より、『食の魔術師』は人々の心を癒やす存在として敬われてきた。だが同時に、恐れられもした。その力で人の感情を操れると誤解されることもあったからだ」
私は呆然と立ち尽くした。そんな特別な才能など持っているはずがない。だがエリックの言葉は、あの日の出来事に新たな光を当てた。
私の料理が「毒入り」と疑われたのは、もしかしたら…この才能のせいだったのかもしれない。人の感情を揺さぶる力が、誤解を招いたのか。
「明日から、皿洗いはもういい。料理を教える」
エリックの言葉に、私は目を見開いた。
「でも、私は…」
「才能を無駄にするな」
彼は背を向けると、もう一言付け加えた。窓から差し込む夕日に照らされた彼の後ろ姿が、なぜか頼もしく見えた。
「それと、明日は早い。遅れるな」
エリックが去った後、私はじっと自分の手を見つめた。この手が、特別な才能を持っているというのか。涙が頬を伝って落ちた。それは悲しみの涙ではなく、久しぶりに感じた、小さな希望の雫だった。
### 第3章
「違う!そうじゃない!」
エリックの声が厨房に響き渡る。私は思わず手を止めた。鍋の中のスープが静かに揺れる。
「感情を込めるんだ。怖がるな」
彼の指導は厳しかった。まるで魂を見透かされるようなその鋭い眼差し。だがその言葉の奥には、私の才能を引き出そうとする情熱があった。
「もう一度、やってみます」
目の前の野菜に向き合い、深呼吸をする。感情を込める。エリックの言葉を思い出し、私は自分の中に潜む記憶を探った。
「料理に魂を込めるには、まず自分自身の感情と向き合わねばならない」
彼の言葉が頭の中で反響する。
子供の頃、母が体調を崩した時。私が初めて作ったスープ。下手な味付けだったはずなのに、母は「温かい」と笑顔で飲み干してくれた。その温かさを、今ここに。
包丁を握る手に力が宿る。野菜を切り、調味料を加え、火を通す。それはもはや機械的な作業ではなく、感情を形にする行為だった。私の指先から、まるで目に見えない光が素材に流れ込むかのよう。
「できました」
エリックは黙って私の作ったスープを口にした。彼の瞳に何かが宿り、わずかに揺れる。硬い表情が、一瞬だけ柔らかくなった。
「これだ」
短い言葉だったが、それは最高の褒め言葉だった。
「リリアナさん、すごい!」
レインが目を輝かせて言った。彼もスープを飲み、歓声を上げる。
「まるで子供の頃、母さんと釣りに行って帰ってきた夜に飲んだスープみたいだ!あの時の喜びと安心感が、そのまま蘇ってくる!」
私は不思議な感覚に包まれていた。私の料理が、食べる人の記憶と結びつく。それは私が思っていた以上に特別なことだった。
その夜、エリックは珍しく私を屋上のテラスに招いた。満月の光が、町を銀色に染めている。
「これが『食の魔術師』の力だ」
彼は静かに語り始めた。月の光に照らされた彼の横顔には、いつもの厳しさの中にも何か柔らかなものが宿っていた。
「感情を料理に込められる才能は非常に稀だ。古い文献によれば、その力は人々の心を癒やし、時に失われた記憶を呼び戻すこともあるという」
「でも、どうして私が…」
「血筋かもしれないな。この才能は時に親から子へと受け継がれる。母親は料理が得意だったか?」
私は頷いた。
「ええ。母はいつも私のために、特別なスープを作ってくれました。それを飲むと、どんな悲しいことも忘れられたんです」
「それが答えだ」
満月の光の下、私たちは静かに語り合った。エリックが教えてくれた『食の魔術師』の歴史と伝説。かつて宮廷で活躍した料理人たちのこと。そして、その力が時に誤解を招き、迫害された歴史も。
「お前が追放された理由を知っている」
彼の言葉に、私は息を飲んだ。
「オーバーン伯爵家の令嬢が、王子の婚約パーティーで毒入りの料理を出したという噂は、辺境の地にも届いている」
「それは違います!私は毒なんて…」
「わかっている」
エリックは静かに言った。月の光が、彼の瞳に深い光を宿らせていた。
「お前の料理には毒など入っていない。ただ、食べた人の感情を強く揺さぶる力がある。それが誤解を招いたのだろう」
彼の言葉に、私の目から涙があふれ出た。誰かに信じてもらえる、理解してもらえる。それは私が失っていた大切なものだった。
「泣くな」
彼はそっと私の頭に手を置いた。その手には料理人特有の火傷の跡が幾つもあった。粗い手のひらが、しかし優しく私の髪を撫でる。
「これからは、その才能を正しく使うんだ」
月明かりの下、彼の手のぬくもりに導かれるように、私は小さく頷いた。
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そこから私の新しい日々が始まった。
エリックの指導の下、私は「感情を込める料理」の技術を磨いていった。感情の種類によって、素材の選び方や切り方、火加減や調味料の使い方が変わってくる。「勇気」には赤い色の野菜を。「安らぎ」にはゆっくりと煮込んだ根菜を。「喜び」には明るい香りのハーブを。
失敗も多かったが、彼は決して諦めなかった。時に厳しく、時に優しく、私の才能を導いてくれた。
そんなある日、月光亭の給仕を務める少年ティモシーが熱を出して倒れた。彼は町の孤児で、エリックが拾った子だという。
「姉さん、喉が痛いよ…」
ティモシーは私を「姉さん」と呼んでいた。王都では経験したことのない親密さに、心が温かくなる。彼の額に手を当てると、熱い。生姜色の髪が汗で貼り付き、普段は輝いている茶色の瞳も力なく閉じられていた。
「大丈夫、良くなるスープを作ってあげるね」
私は市場で買い集めた新鮮なハーブと野菜を使い、特別なスープを作った。セージとタイムの香り、玉ねぎと人参の甘み、そしてそこに込めたのは、「勇気」という感情。
料理の最中、私は自分の体から何かが流れ出し、素材に宿るような感覚を覚えた。青い光が指先から溢れるような幻覚。それは確かに、魔法のようだった。
「ティモシー、飲める?」
彼は弱々しく頷き、私が差し出したスープを啜った。琥珀色の液体が、彼の唇を潤す。すると、彼の顔にわずかに色が戻り始めた。
「おいしい…体が温かくなるよ」
それから二日後、ティモシーは元気に跳ね回るまでに回復した。彼は皆に言いふらした。
「姉さんの勇気のスープのおかげだよ!飲んだ瞬間、強くなれる気がしたんだ!」
それから「勇気のスープ」を求めて、月光亭には多くの客が訪れるようになった。落ち込んでいる人、病気の家族を抱える人、心に傷を持つ人たち。
私の料理は、少しずつだが確実に人々の心に届き始めていた。
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「リリアナ」
ある静かな夜、閉店後の厨房で片付けをしていると、エリックが声をかけてきた。いつもより柔らかな声色に、思わず手を止める。
「はい?」
「特訓の成果が出てきたな」
彼は珍しく穏やかな表情を浮かべていた。燭台の光が、彼の顔に温かな影を作る。
「エリックさんのおかげです」
「いや、お前の才能だ」
彼が近づいてきて、私の肩に手を置いた。その温もりが、不思議と心地良かった。
「今度の収穫祭で、お前の料理を出そう」
「収穫祭?」
「ああ。町の一大イベントだ。腕のいい料理人たちが集まる」
私は嬉しさと不安が入り混じる感情に襲われた。多くの人の前で料理をする。かつての失敗が頭をよぎる。喉が乾き、手が震える。
「私には…無理かもしれません」
エリックは黙って私を見つめていたが、やがて静かに言った。
「逃げるな」
その言葉は厳しかったが、どこか優しさを含んでいた。彼の手が、私の肩から手へと移り、そっと握る。粗い手のひらが、私の冷たい指を温めた。
「お前は強い。もう一度、料理で人々を幸せにする勇気を持て」
彼の言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。
「…やってみます」
その夜、月が明るく照らす空を見上げながら、私は自分の中に少しずつ芽生える新しい感情に気づいていた。それは「エリックへの想い」という名のものだった。
彼の傷ついた過去と、それでも料理への情熱を失わなかった強さ。厳しい言葉の奥に秘められた優しさ。それらすべてが、私の心を少しずつ捉えていった。
だが同時に、不安も感じていた。厳格な彼と、追放された「悪女」である私。そんな二人が一緒になれるはずがない。彼は私をただの弟子として見ているだけなのかもしれない。
私は月に向かって小さく願った。「少しだけでいいから、このままの日々が続きますように」
だが運命は、私たちにもっと大きな試練を用意していた。
### 第4章
「聞いたか?王都からの視察団が来るらしいぞ」
市場での噂話が、町中に広がっていた。爽やかな秋風が、人々の会話を運んでくる。
「王子の婚約者も来るんだって。ラヴェンデルの視察だなんて、珍しいねぇ」
その言葉に、私の体は凍りついた。婚約者。それはつまり…セリア・ヴァンドール。私を追放に追いやった張本人だ。
私の頭の中に、彼女の残酷な微笑みが浮かぶ。彼女は幼い頃から、周囲の寵愛を一身に受けて育った令嬢だった。いつも完璧で、いつも注目を集め、そして、いつも私を見下していた。その彼女が、私の料理に毒を盛り、その罪を私になすりつけたのだ。
「どうした?顔色が悪いぞ」
エリックが心配そうに声をかけてきた。私の変化を敏感に察知する彼の目が、私を見つめていた。
「大丈夫…です」
だが、私の声は震えていた。彼は鋭い眼差しで私を見つめ、何かを察したようだった。
「店に戻るぞ」
彼の言葉は、いつもより優しかった。彼の背中を追って歩きながら、私は自分の内に湧き上がる恐怖と向き合っていた。
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視察団の到着は、町全体を興奮で包んだ。華やかな馬車の列が、ラヴェンデルの石畳を進んでいく。光沢のある馬の嘶きと、車輪の軋む音。貴族たちの鮮やかな衣装が、町の普段の風景とは不釣り合いに見えた。
私は月光亭の窓から、そっとその様子を眺めていた。カーテンの隙間から覗く、私の過去の世界。そこに彼女の姿を見つけた時、胸が締め付けられる思いがした。
セリア・ヴァンドール。彼女は相変わらず美しく、高貴な雰囲気を纏っていた。緑色のドレスが、彼女の翡翠色の瞳を引き立てている。彼女の隣には、私の元婚約者エドガー王子の姿もあった。彼の金色の髪と碧眼は、昔と変わらない気高さを放っていた。
「リリアナ、手伝ってくれ」
エリックの声で我に返り、厨房に戻る。だが、私の落ち着かない様子は、彼の目を逃れることはできなかった。
「何かあるのか?」
「いいえ、何も…」
彼はそれ以上追及せず、ただ黙って私を見守るだけだった。だが、彼の瞳の奥には、私の不安を理解しているかのような光があった。
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視察団の町内巡回は三日間続いた。私はなるべく外に出ないようにし、店の中での仕事に専念した。だが、運命は残酷だった。
「こちらが評判の食堂『月光亭』です」
町長の声が店の入り口から聞こえた。続いて、セリアとエドガー王子を含む一行が店内に入ってきた。彼らの香水の強い香りが、料理の香りを押しのける。
私は慌てて厨房に隠れた。だが、あまりに唐突だったその行動に、エリックは怪訝な表情を浮かべた。
「ようこそ、月光亭へ」
レインが明るく応対する声が聞こえる。
「こちらの料理人が最近評判のエリック・ヴァルトさんです」
エリックは淡々と挨拶をした。私は厨房の隅で、息を殺していた。心臓の鼓動が、耳元で大きく響く。
「それと、もう一人の料理人は…?」
町長の言葉に、私の心臓が高鳴った。汗が背中を伝う。
「あ、彼女は…」
レインが私のことを言おうとした瞬間、ドアが開き、セリアの視線と私の目が合った。
彼女の目が大きく見開かれ、次いで薄笑いを浮かべる。その目に宿る勝利の色に、私は身震いした。
「まぁ、リリアナ・オーバーン!こんなところにいたのね」
場の空気が凍りついた。
「久しぶりね、『悪女』さん」
彼女の言葉は蜜のように甘く、毒のように冷たかった。その声は、私の記憶の中のものと全く同じだった。
エリックは困惑した様子で私たちを見ていた。彼の瞳に、怒りの炎が灯り始める。
「どういうことだ?」
「知らないの?彼女は王都で追放された伯爵令嬢よ。婚約者に毒入りの料理を出した『悪女』として有名なの」
セリアの言葉に、店内にいた地元の人々がざわめいた。不安と疑惑の視線が、私に向けられる。
私は震える足で一歩前に出た。
「私は毒など入れていません」
「まだそんな嘘を?証拠はあるのかしら?」
「…ありません」
「ほら、見なさい。彼女は危険人物です。こんな人が料理を作るなんて、恐ろしいことです」
セリアの言葉に、客たちの視線が次第に冷たいものに変わっていく。後ろで子供を庇う母親の姿。身を引く老人たち。私の世界がまた一度、崩れていくようだった。
そのとき。
「出ていけ」
低く、しかし力強い声がした。エリックだった。彼の声には、抑えきれない怒りが込められていた。
「何ですって?」
「言った通りだ。出ていけ。私の店で客を侮辱するような真似は許さん」
「私たちは王都からの視察団ですよ?」
「どこの誰だろうと構わん。この店で決めるのは私だ」
エリックの毅然とした態度に、セリアは言葉を失った。彼女の翡翠色の瞳が、一瞬怯んだように見えた。
「行こう、セリア」
エドガー王子が彼女の腕を取り、一行は店を後にした。だが去り際、セリアは意味ありげな笑みを私に向けた。
「また会いましょう、リリアナ」
その言葉には、明らかな脅しが含まれていた。彼女が去った後、店内は静まり返った。私は皆の前で頭を下げた。
「皆さん、本当にすみません。私は…」
「いいんだよ、リリアナさん」
意外にも、常連客のルイーザ夫人が立ち上がって言った。彼女の丸い顔に、優しい微笑みが浮かんでいた。
「あなたの料理が毒なんてことないわ。むしろ、私たちを元気にしてくれる」
「そうだよ!」
ティモシーも声を上げた。彼の元気な声が、私の心を温めた。
「姉さんのスープで、僕の熱も治ったんだ!」
次々と客たちが私を支持する言葉を口にした。それは温かく、心を包み込むような言葉だった。
私は、涙を堪えることができなかった。この町で、初めて本当の居場所を見つけた気がした。
---
店が閉まった後、エリックは私を呼び出した。彼は窓際に立ち、黙って外の夜空を見つめていた。
「すべて知っていたのか?」
私は申し訳なさそうに頷いた。
「隠してごめんなさい。話せば、あなたも私を疑うと思って…」
「バカだな」
エリックは窓の外を見つめながら言った。その横顔に、月の光が優しく当たっていた。
「俺はお前の料理を食べて、その才能を見てきた。そんな簡単に疑うと思うか?」
彼の言葉に、私は胸が熱くなった。彼は私の料理を信じてくれている。私自身を信じてくれている。
「収穫祭は予定通り出るんだろうな」
「え?」
「あの女が何を言おうと、お前の料理は人を幸せにする。それを皆に見せるんだ」
エリックは珍しく私の手を取った。その手のぬくもりが、私の冷えた指先から心へと染み渡る。
「あの女に負けるつもりはないだろう?」
彼の瞳に宿る炎が、私の中の何かを呼び覚ました。料理への情熱、自分の才能への誇り、そして…彼への思い。
「…負けません」
私の答えに、彼はわずかに微笑んだ。それは稲妻のように一瞬で消えたが、確かにそこにあった笑顔だった。彼の指が、そっと私の指を絡めた。
「明日から特訓だ」
そう言って彼は私の手を離した。けれど、その温もりはまだ私の手に残っていた。心臓が高鳴り、頬が熱くなる。この感情は、確かに恋だった。
### 第5章
収穫祭まであと一週間。
朝日が昇る前から、月光亭の厨房には明かりが灯っていた。エリックの特訓は、想像以上に厳しいものだった。
「もっと自分の感情に正直になれ」
「大事なのは技術じゃない。心だ」
「恐れるな。料理に向き合え」
彼の言葉は時に厳しく、時に優しく、私の心を揺さぶった。その声に導かれ、私は少しずつ自分の料理に自信を持ち始めていた。
「もう一度」
何度も何度も同じ料理を作り直す。汗で前髪が貼りつく。指先には小さな傷が増えていく。火の熱で肌が赤くなり、肩は疲れで重い。それでも、私は諦めなかった。
「リリアナさん、休憩しなよ」
レインが心配そうに声をかけてくれた。彼の優しさに感謝しつつも、私は首を振った。
「大丈夫。もう少し、練習させてください」
自分を信じる。自分の料理を信じる。自分の感情を、恐れずに料理に込める。
次第に、私の料理は変わっていった。以前は「懐かしさ」や「温かさ」という漠然とした感情だったものが、より具体的で力強い感情へと変化していった。
「勇気」「希望」「喜び」「安らぎ」
それぞれの感情には、色があり、香りがあり、味があった。それらを料理という形に変えていく作業は、自分自身と向き合う旅のようだった。
「勇気」は赤い根菜と香辛料を使い、力強い風味とほのかな辛さを持つ。「希望」は明るい色の野菜を中心に、爽やかな香りのハーブを加え、口当たりは軽やかに。「喜び」は甘みを帯びた素材と、色とりどりの彩りで、食べた瞬間に笑顔がこぼれる味わいに。「安らぎ」はじっくりと煮込んだ優しい味わいで、体の芯から温まる仕上がりに。
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「エリックさん、私の家族のことを話してもいいですか?」
特訓の合間、二人きりになった時、私は勇気を出して尋ねた。彼は少し驚いた様子だったが、静かに頷いた。
夕暮れの厨房に二人だけ。窓から差し込む夕日が、カウンターに長い影を落とす。
「伯爵家の令嬢だったんですね」
「ええ。でも、その肩書きは今はありません」
「親はどうした?」
「父は…私の追放後、病に伏せってしまったと聞いています。母は幼い頃に亡くなりました」
一瞬、母の笑顔が脳裏に浮かぶ。彼女がいつも作ってくれた温かいスープの味。その記憶が、私の料理の原点なのかもしれない。
「兄弟は?」
「いません。一人っ子です」
彼は黙って私の言葉を聞いていた。そして、意外な言葉を口にした。
「俺にも家族はいない」
私は息を飲んだ。彼が自分のことを話すのは初めてだった。エリックは窓際に歩み寄り、夕日に染まる町を見つめながら続けた。
「両親は早くに亡くなり、師匠に拾われた。料理を教わったのはその人だ」
「その師匠の方は…?」
エリックの表情が暗くなる。その瞳に、古い痛みの影が宿った。
「冤罪で処刑された。王室の料理人だったが、『毒を入れた』と罪に問われ…」
彼の言葉に、私は胸が痛んだ。彼もまた、理不尽な罪によって大切な人を失っていたのだ。
「だから、お前の話を聞いたとき、すぐに理解できた。同じことが、俺の目の前で起きたからな」
私たちは似た運命を辿っていたのだ。それは不思議な絆のように感じられた。
「師匠の弟子として、王都の料理学校で学んでいたが、あの事件の後、俺も疑いの目で見られるようになった」
彼は静かに右腕の袖をまくり上げた。そこには、私が火傷だと思っていた跡が複数あった。赤黒く変色した皮膚が、不規則な模様を描いていた。
「これは拷問の跡だ。何も知らないと証言するまで、何日も尋問を受けた」
その傷痕に、思わず手を伸ばしかけて、我に返った。すると、彼は意外にも私の手を取り、自分の傷に触れさせた。
「もう痛くはない」
彼の声は静かだったが、その瞳には深い傷の名残が宿っていた。私は彼の腕に優しく触れ、何も言わなかった。言葉よりも、この沈黙の方が二人の理解を深めていた。
指先が感じる彼の痛みの記憶。粗い皮膚の下に隠された過去。彼もまた、私と同じだった。世界に裏切られ、それでも料理への情熱を失わなかった人。
「だから、あの女にも、王子にも、絶対に負けるな」
彼の言葉には、私だけでなく彼自身の想いも込められていた。それは復讐ではなく、真実を示すための戦いだった。
「はい」
その夜、私たちは静かにお茶を飲みながら、もっと多くを語り合った。彼の子供時代の話。私の母の思い出。料理を通じて見つけた小さな喜び。
言葉を交わすたびに、私たちの間の距離は少しずつ縮まっていった。この人となら、本当の自分でいられる。そんな安心感が、私の中に芽生えていた。
その日から、私の料理にはさらに強い感情が込められるようになった。それは「正義」という名の感情だった。
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「なあ、リリアナ」
収穫祭前夜、準備をしていると、エリックが声をかけてきた。厨房には二人きり。夜の静けさの中、彼の声だけが響く。
「はい?」
「お前は収穫祭の後、どうするつもりだ?」
突然の質問に、私は戸惑った。
「どうするって…」
「王都に戻るのか?ここに残るのか?」
彼の視線が真っ直ぐに私を捉える。その瞳には、どこか不安のような感情が見え隠れしていた。
「わかりません。でも…」
心の奥に浮かぶ答えを、私は飲み込んだ。この町が好きだ。月光亭が好きだ。そして、あなたが…。言葉にするには、あまりに重い気持ち。
「俺は…お前にここに残ってほしい」
エリックの言葉に、私の心臓が跳ねた。彼の目には、これまで見たことのない感情が宿っていた。彼の頬が赤く染まり、手が微かに震える。いつもの毅然とした姿からは想像もつかない、心許ない表情。
「私も、残りたいです」
勇気を出して言った瞬間、彼の表情が和らいだ。そして、彼は一歩私に近づき—
その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「大変だよ!」
息を切らせたレインが飛び込んできた。彼は私たちの距離の近さに一瞬目を丸くしたが、すぐに重要な情報を伝えた。
「聞いてよ!収穫祭のコンテストの審査員、王子と新婚約者が務めるんだって!」
その言葉に、私とエリックは言葉を失った。窓の外では、夕暮れの空が赤く染まり、明日の試練を予感させていた。私たちの指先は、どちらからともなく絡み合っていた。
### 第6章
収穫祭の朝は、澄み切った青空から始まった。
町は早朝から人々の熱気で溢れ、広場には色とりどりのテントが立ち並んでいた。花と焼き物の香りが入り混じり、楽器の音色が空気を震わせる。月光亭の屋台も、通りの一等地に場所を確保していた。
「緊張してる?」
レインが私の肩を叩いた。彼の笑顔が、少し私の緊張を和らげる。
「少し…いえ、かなり」
正直に答えると、彼は明るく笑った。
「大丈夫だよ。リリアナさんの料理なら、絶対に勝てる」
彼の無邪気な信頼が、わずかに私の緊張を解きほぐした。
「ありがとう、レイン」
私たちが準備をしていると、エリックが戻ってきた。彼の顔には珍しく緊張の色が浮かんでいた。普段は揺るがない彼の表情が、曇っている。
「どうしました?」
「…少し問題が」
彼は私たちをテント裏に呼び、小声で説明した。彼の息遣いが、私の頬に当たる。
「コンテストのルールが変更された。各店から一人だけが参加できる」
「一人?」
「ああ。そして…」
彼の表情が暗くなる。彼の拳が握られ、腕の筋肉が緊張で固くなっている。
「セリアが参加者のリストを見て、月光亭からの参加者を私に限定するよう主張したらしい」
私の胸に冷たいものが広がった。彼女の狙いは明らかだった。私の出場を阻止することで、料理の腕を披露する機会を奪い、「悪女」のレッテルを貼り続けようとしている。
「私は出られない…のですね」
エリックは拳を握りしめていた。その手が、怒りで震えている。
「あの女、俺の料理に毒が入っていないか検査すると言い出したそうだ。師匠の件を知っていて、俺を追い詰めようとしている」
セリアは徹底的に調べてきたのだ。エリックの過去も。そして、彼の弱点も。
レインが憤慨した。
「ひどすぎる!町長に訴えよう!」
だが、エリックは冷静さを取り戻していた。彼の瞳に、危険な光が宿る。
「いや、これはチャンスだ」
「え?」
「リリアナ、お前が出場するんだ」
「でも、ルールでは…」
「俺は降りる。お前が月光亭を代表して出場する」
彼の目には強い決意が宿っていた。
「でも、それはセリアの狙い通りでは…」
「いいや、違う」
エリックは私の肩をしっかりと掴んだ。彼の指先の力強さに、彼の決意を感じる。
「彼女は俺を出して、お前を閉じ込めておきたいんだ。それを逆手に取る」
彼の作戦に、私は息を飲んだ。確かに思い切った策だった。だが、それは私にとって大きなリスクでもあった。
「私の正体がばれたら、また追放されるかもしれません」
「信じろ。お前の料理を、そしてお前自身を」
彼の言葉に、勇気が湧いてきた。その瞳に映る私は、弱く震える追放者ではなく、力強い「食の魔術師」の姿だった。そうだ、もう逃げない。自分の料理に、自分自身に誇りを持つ。
「やります」
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コンテスト会場は、町の中央広場に設けられていた。十数店の有名食堂が参加し、それぞれが自慢の一品を提供する。審査員席には、エドガー王子とセリアの姿があった。セリアの緑のドレスは、周囲の装飾よりも鮮やかに輝いている。
私は月光亭の制服に身を包み、エプロンを締め直した。後ろではエリックとレインが、静かに見守っていた。エリックの目には、絶対的な信頼の色があった。
「リリアナ・オーバーン!」
セリアの声が場内に響き渡る。彼女は審査員席から立ち上がり、私を指さした。彼女の指先に嵌められた宝石が、陽光に煌めく。
「あの女は追放された悪女よ!コンテストに参加させてはダメ!」
会場がざわめく。王子も困惑した表情を浮かべていた。町長が慌てて駆け寄ってきた。
「これはどういうことだ?エリック」
エリックは毅然と答えた。
「彼女は私の店の料理人です。私は彼女の料理に命を預けられる」
「だが、噂によると…」
「噂など関係ない。彼女の料理が語るべきだ」
エリックの強い意思に、町長もひるんだ。そして、思いがけない助け舟が現れた。
「私はリリアナさんの料理で病気が治りました!」
ティモシーが声を上げた。彼の元気な姿が、何よりの証拠だった。続いて、マーサも立ち上がる。
「彼女の料理には、人を幸せにする力があります」
次々と町の人々が私を擁護してくれた。それは心強い援軍だった。知らず知らずのうちに、私は多くの人との絆を育んでいたのだ。
結局、町長は深く息を吐いて言った。
「コンテストは予定通り行う。リリアナ・オーバーンの参加も認める」
セリアは激怒していたが、もはや止めることはできなかった。彼女は憎しみの籠った視線を私に向けた。その目に宿るのは、純粋な敵意だけでなく、何か別の感情—羨望、あるいは恐れ—が混ざっているようにも見えた。
「必ず後悔させてやるわ」
その言葉に、過去の私なら怯んでいただろう。だが今の私は違った。エリックの教えを思い出す。「料理に感情を込める」
そう、今の私の料理に込めるのは「希望」だ。
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コンテストは熱狂の中で始まった。各店が趣向を凝らした一品を出す中、セリアは自らも特別参加者として料理を披露すると宣言した。
「私も王都で学んだ技術を皆さんにお見せします」
彼女は最高級の食材を揃え、技巧を凝らした美しい料理を作り上げた。トリュフの香りと、高級ワインの芳醇な香り。確かに見事な技術だった。
「素晴らしい!」
王子は感嘆の声を上げ、審査員たちも絶賛した。セリアの顔には、勝利を確信したような表情が浮かんでいた。
私の番が来た。シンプルな食材。地元の季節の野菜と、ラヴェンデルの名産のハーブ。それだけだ。華美な飾りもなく、高級食材もない。だが、私はそれを気にしなかった。
私が作るのは特別なスープだった。「希望のスープ」
包丁を握る手には、もう迷いはなかった。エリックから学んだすべてを注ぎ込み、そして自分自身の感情を、思い切り料理に込めた。
まな板の上で野菜を切る時、私の指先から青い光が漏れ出しているかのような錯覚。鍋の中で素材が溶け合うとき、微かな旋律が聞こえてくるような感覚。それは確かに魔法だった。「食の魔術師」の力が、今、最大限に発揮されている。
過去の苦しみ、現在の喜び、そして未来への希望。すべてを調和させた一つの料理。すべてのひとかけらずつを、このスープの中に。
「できました」
私が差し出したスープは、見た目はシンプルだった。琥珀色の液体に、色とりどりの野菜が浮かぶ。セリアの華やかな料理と比べれば、地味ですらある。
だが、その香りが会場に広がると、不思議な静けさが訪れた。すべての人々が、この香りに心を奪われたように動きを止めた。それは明るい未来を予感させる、温かく希望に満ちた香り。
一口、王子がスープを口にした。彼の目が見開かれ、何かを思い出したような表情になる。
「これは…」
続いて他の審査員たちも口にする。彼らの表情が、次々と変わっていった。懐かしさ、温かさ、そして何より、希望の光が宿る。
「私の幼い頃、母が作ってくれたスープを思い出す」
「故郷の風景が蘇る」
「明日も頑張ろうと思える、不思議な力がある」
審査員たちの言葉に、会場は静まり返った。一人また一人と、スープを求める人々の列ができていく。
そして、最後にセリアがスープを口にした。彼女の表情が変わる。唇が震え、目に涙が浮かぶ。それは怒りの涙ではなく、どこか懐かしさに浸るような、切ない表情だった。
「あなた…私の料理に何をしたの?」
彼女の声には、怒りよりも混乱が滲んでいた。
「何もしていません。ただ、私の感情を込めただけです」
私は静かに答えた。
「感情?」
「はい。希望です」
彼女は理解できないという表情を浮かべたが、王子が立ち上がった。
「審査の結果を発表します」
場内が息を呑む。
「優勝は…月光亭のリリアナ・オーバーンさんです!」
歓声が沸き起こる。町の人々が私を囲み、祝福の言葉を掛けてくれる。
その中でセリアが激しく抗議する声が聞こえた。
「あの女の料理には何か入っている!検査すべきです!」
彼女は私のスープの残りを手に取り、「証拠」として見せようとした。だがその時、彼女の袖から小瓶が落ちた。ガラスが床に当たる鈍い音。
「これは…」
王子が拾い上げたのは、毒薬の小瓶だった。暗緑色の液体が、内側に貼られたラベルの骸骨の絵を際立たせている。
「セリア、これは何だ?」
「そ、それは…」
彼女の動揺した表情に、真実が明らかになった。
「セリア・ヴァンドール、お前は…」
王子の声には怒りが滲んでいた。
「お前が前回の婚約パーティーでリリアナの料理に毒を入れたのか?」
「違います!私は…」
だが彼女の弁解は空しかった。周囲の人々の証言もあり、彼女の企みは明らかになった。王子の護衛が彼女を取り押さえる。
「リリアナ・オーバーン」
王子が私に向き直り、静かに言った。
「すまなかった。誤解していたようだ」
彼の言葉に、私は静かに頷いた。過去の恨みを言葉にする必要はなかった。
「あなたの料理には、不思議な力がある。それは確かだ」
王子の目には敬意の色が浮かんでいた。
「王都に戻る気はないか?王室料理人として迎えたい」
思いがけない申し出に、私は一瞬言葉を失った。かつての地位、名誉、すべてが戻ってくる。これは夢にも思わなかった逆転だった。
だが、私の目はエリックを探していた。彼は少し離れたところから、静かに私を見つめていた。その瞳に映る想いが、私の決断を導いた。
「ありがとうございます、王子様。でも…」
私の答えは、既に決まっていた。
### 第7章
「お嬢様、本当にいいのですか?」
王都からやってきた老執事ヘンリーは、困惑した様子で私に問いかけた。彼のしわの刻まれた手が、心配そうに震えている。収穫祭から一週間が経ち、私の身の潔白は完全に証明された。父も病から回復し、伯爵家の名誉も回復したという知らせが届いていた。
「ええ、私はここに残ります」
窓の外では、ラヴェンデルの町に初雪が舞い始めていた。白い結晶が、日の光を受けて輝きながら舞い落ちる。あれからセリアは王都に連れ戻され、エドガー王子との婚約も破棄されたと聞く。
あの時、セリアの身柄が確保された後、彼女は涙ながらに告白した。彼女もまた「食の魔術師」の血を引きながら、その才能が開花しなかったことへの嫉妬から、私を陥れようとしたのだと。彼女のスープを飲んだとき、私はそれを感じた—彼女の羨望と絶望の感情を。
「でも、お父様が待っておられます。王都での地位も…」
「伝えてください。私は幸せだと」
窓から差し込む冬の光が、部屋を優しく照らしている。
ヘンリーは深いため息をついたが、やがて優しく微笑んだ。彼の目には理解の色があった。
「お母様も、きっと喜んでおられることでしょう」
彼は懐から一枚の紙を取り出した。時間で黄ばみ、端が丸まった古い紙切れ。
「これを、お母様から預かっていたのです。お嬢様が本当に幸せになった時に渡すようにと」
震える手で紙を開くと、そこには料理のレシピが書かれていた。「希望のスープ」—それは私が収穫祭で作ったものとほぼ同じだった。
「お母様の特製スープです。彼女もまた、『食の魔術師』の血を引いておられたのです」
私は涙で言葉が出なかった。母からの最後の贈り物。そして、私の中に流れる血の真実。母の優しい顔が、記憶の中で微笑みかける。
「リリアナ」
振り返ると、エリックが立っていた。彼はヘンリーに頭を下げ、私のそばに来た。窓から差し込む光に照らされた彼の顔は、いつもより柔らかく見えた。
「決心はついたか?」
「ええ」
私は微笑みながら答えた。手に握られた母のレシピが、勇気を与えてくれる。
「私はここに残り、月光亭で料理を作り続けます。それが…私の幸せです」
エリックの顔に、珍しい笑顔が浮かんだ。普段の厳しい表情からは想像できない、温かな微笑み。
「それを聞いて安心した」
彼は私の手を取り、そっと握った。
「実は、店を拡張しようと思っている。もっと多くの人に、お前の料理を味わってもらいたい」
「拡張?」
「ああ。『食の魔術師』の店として、もっと大きくしたい」
彼の言葉には、未来への確かな希望が込められていた。
「そして…」
彼はわずかに言葉を詰まらせた。エリックらしくない仕草だった。強い人の弱さを見せる瞬間が、なぜかとても愛おしい。
「…一緒に店を守っていきたい。ずっと」
彼の頬が赤く染まる。琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
それは遠回しなプロポーズだった。私は言葉を失い、ただ頷くことしかできなかった。彼の手の中で、私の手が温かくなる。
「リリアナの『幸せレシピ』で、この町を、そして多くの人を幸せにしよう」
エリックのその言葉に、私は心から微笑んだ。
窓の外では、雪が大きなひらひらと舞い始めていた。私は母のレシピを胸に抱きしめ、小さな声で言った。
「これから作るスープは、『愛のスープ』です」
エリックは照れたように咳ばらいをしたが、その手は私の手をしっかりと握ったままだった。
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雪の舞う広場に、月光亭の灯りが温かく光を投げかけていた。店内は満席で、人々の笑い声で溢れている。料理の香りと人々の笑顔が、この場所を一層温かいものにしていた。
「姉さん、この『希望のスープ』、本当に美味しいよ!」
ティモシーが嬉しそうに言う。マーサも隣で頷いている。彼女の深いしわの中に、幸せな笑顔が隠れている。
「あら、エリックとリリアナのおかげで、この町も賑やかになったわね」
レインは配膳しながら冗談を飛ばす。彼の青い目が、茶目っ気たっぷりに輝いている。
「ボクが二人をくっつけたようなものだよね」
エリックは相変わらず真面目な表情で厨房に立っていたが、私が近づくと、その目は柔らかな光を宿した。
「また新しいレシピを考えたぞ」
「見せてください」
私たちは肩を並べて、新しい料理について語り合った。彼の厳しい指導と、私の感覚が組み合わさると、いつも素晴らしい一品が生まれる。
外では雪が積もり始め、町は白く染まっていく。かつては「悪女」と呼ばれた私が見つけた、本当の居場所。
月光亭の看板が風にわずかに揺れる。その下に書かれた小さな文字。
「幸せを味わう場所」
それは、私とエリックの誓いでもあった。
雪の結晶が窓ガラスに付着し、燭台の光に照らされて七色に輝く。エリックの手が、そっと私の腰に回される。
辺境の小さな町で見つけた、本当の私と愛の味。それは、どんな王都の豪華な料理よりも、心を満たすものだった。
私の料理に込められた感情は、もはや「恐れ」や「悲しみ」ではなく、「希望」と「愛」。この手で作る料理が、これからも多くの人々の心を温め続けることを願って。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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